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正しき道


「シバの客人だからとお通ししたつもりでしたが」


ローウェンが、目の前にいる男の横柄な態度に向かって、ぴしゃりと言う。


けれど、その男には、届いていない。ローウェンの嫌味を微塵も気にせず、どかっと客間のソファに座る。そんな男を見て、ローウェンは直ぐにもぴんときて言った。


「リアン宰相の使いのハイド様ですね」


「リューン殿から聞いているようだな。それなら話は早い。それならこの男が誰かもわかってるな?」


ローウェンはハイドの傍に立つ、もう一人の男を見た。


どこか、おどおどと落ち着きのない男。すでにハイドに首根っこを押さえられているのが読み取れて、ローウェンは心底、ハイドという男を忌み嫌った。


(虫唾が走るな)


「それで? その男が、ムイの父親だという証拠は?」


「ムイが見れば一目瞭然だろう。これは親切と思って教えてやるが、確認するにはそれが一番手っ取り早いぞ」


ふん、と小さく鼻で笑う。


ローウェンは自分のこめかみに青筋が立っているのではないかと思うくらい、奥歯を噛み締めた。


「リューン殿が居ないことはわかっている。リューン殿が何処にいるか、もな」


「国王陛下の宰相様が、このような卑怯な手をお使いとは、ただただ驚くばかりでございます」


「お前の嫌味は聞き飽きた。ムイを連れてこい。父親に会わせてやると言っている」


「主人が不在のため、私では判断致しかねます……と言いたいところですが、わかりました、ムイに会わせましょう。けれど、一つだけ条件があります」


ローウェンが客間のドアへと向かい、ノブに手を当てる。


「父君のみ、ムイに会わせます。ハイド様はどうぞここでおくつろぎください」


「なんだと、」


「今、お茶の用意をお持ちします。どうぞ、おくつろぎください」


二度目を強く言って、手を伸ばす。ムイの父親だという男を促すと、ドアを開けた。


「リーアム、わかっているな」


ドアから出ようとする背中に、ハイドが声を掛ける。


その言い方もいたく気に入らなく、一層ローウェンの逆鱗に触れた。


✳︎✳︎✳︎


「まさか、」


リューンの書斎に呼ばれて見た光景は、ムイには到底信じがたいものだった。ソファから立ち上がる姿が、まるでスローモーションのように見えるほど、ムイは自分の目を何度も疑った。


「リン、リン、」


一瞬、誰が呼ばれたのかわからなかった。それ程に、今のムイにはムイという名前がしっくりときていたのだろう。


少しすると、懐かしい名前がじわっと脳裏に浮かび上がり、それと同時に父の顔も浮かんできた。その顔が今、目の前にあり、そして弱々しい笑顔を浮かべている。その微量の微笑みが、マニ湖のさざ波のように、すうっと引いていった。


「……リン、父さんを覚えていないのか?」


「ううん、……お父さん、覚えてる」


ムイが走り出して、リーアムの元へと駆け寄った。


「お父さんっっっ」


リーアムの首に腕を回し、抱きつく。リーアムの腕もムイの背中に回されているのだろう、その背中に温かみと力強さを感じた。


「リン、お前には苦労を掛けてしまったな。すまない、リン、本当にすまない」


「お父さん、また会えるなんてっ」


「信じられないな」


「うん、信じられない」


ムイの目に涙が光った。


ローウェンが部屋から出ていったのか、ドアの開閉の音が響いた。


「お父さん、お父さん、」


頬に自分の頬をすり寄せる。髭を剃ったあとのざらりとした肌。その肌からは懐かしい匂いがして、ムイはさらに涙を増やした。


「お父さん、今までどうしていたの? 兄さんたちは?」


くっつけ合っていた身体を離すと、二人はどちらからともなくソファにゆっくりと腰を下ろす。


「話せば長くなるが……それよりリン、なんて立派になったんだ。大体の話は聞いている。リンデンバウムの領主様と結婚をしたんだってな」


「うん、そうなの」


「幸せなのか?」


「うん、幸せよ」


リーアムはにこっと笑い、ほっと胸を撫で下ろす仕草をした。けれど、直ぐに表情を暗くした。


「……兄さんたちとは離れてから連絡が取れないんだ。唯一、有名人のお前だけに連絡が取れたというだけで……リン、すまなかった。お前には苦労を掛けたね。けれど、あの時はお前たちを手離すしかなかった。あのままでは生きていけなかったんだ。本当に、すまない」


「ううん、お父さんのせいじゃないわ。それは、わかってる。あの時は本当に貧しくて、仕方がなかったから」


「満足に食べさせてやることも出来ずに母さんも死なせてしまった……情けない父親だ」


リーアムの目に涙が滲む。そんな父親の姿を見て、ムイは思い出した。


母親が病気で死んでからは、貧しさに拍車が掛かり、その日の食事もろくに取れなかった日々が続いたことを。兄たちが倒れ、そしてムイが栄養失調で声を失った時、リーアムはついに子供達を手離すことを決めたのだ。


共倒れになるよりはと、労働力として、よその家へと預けた。


ムイはその養父と養母の元で子守りや家事など働きに働いて、そしてこのリンデンバウム城へと押しやられたのだ。養父はムイを売りつけると、僅かな金をせびってから、家へと戻っていった。


後になってふと、思ったことがあった。


どうして父親はそんなギリギリの貧しさの中で、ムイの真の名前を使わなかったのか、と。


ムイの真の名を使って人々に何とでも命令すれば、食べるくらいは出来たのでは、と思ったのだ。


けれど、父親はそれを決してやらなかった。曲がった道を無理矢理押し通すのには、父は正直者過ぎたのだろうと、ムイは思う。


そしてそのリーアムを父親として、人間として、ムイは尊敬してきたのだ。


だから、そんな父親が驚くべきことに、思いも寄らぬこのような行動に出るとは、これっぽっちも思わなかった。


リーアムは腕をムイの肩から首の後ろに回すと、もう一度ムイを抱きしめた。


「苦労を掛けて、本当にすまなかった」


何度も謝罪を繰り返すリーアムの背中に回した腕に、ムイも力を込めた。


「お父さん、」


そして。


耳元で。


「リリー=ラングレー、」


どっ、と脈が跳ねた。


「お前の名前だよ、これからは大切にするんだ」


ムイが慌てて身体を離そうとすると、リーアムはそれを許さず抱きしめ続けた。そして、こうも言った。


「リリー、この名を捨てるなどという愚かな行為を、二度としてはいけないよ。お前はたくさんの人々の前で、歌を歌うんだ……」


首の後ろに手が回って、ぐっと掴まれた。髪を引っ張られたのか、それとも首根っこを掴まれたのか、それともその両方だったのか。


「これからも、ずっと。歌を歌い続けるんだ」


ぞ、と全身が冷えた。なぜか、耳に残る父親の声。


ムイは、真の名前の持つ恐ろしさを、それ程までに知っていた。


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