最愛
バタン、と大きな音を上げて、ドアが開いてはその反動で跳ね返る。それを押し退けて、リューンは自室へと飛び込んだ。書斎はしんと静かで、その静寂を破りながら、リューンは奥のドアへと向かう。
書斎から寝室に入るドアはムイがよく、控えめにノックしていた。
そのムイの残像を散らすようにして、リューンはドアを勢いよく開け放った。
「ムイっ、ムイっ‼︎」
どんっと胸を押されたような衝撃があった。
ベッドに横たわっているのは、紛れもないムイの身体。
「……ム、ムイ……なんてことだ」
震える手はもう、だらりとそのまま下へと降ろすしかない。
リューンはそろ、とベッドに近づいた。
すると、リューンの瞳から涙が溢れた。
「ムイ、この怪我はどうしたのだ……一体、何が、何があったのだ」
眠るムイの頭には、白い包帯が巻かれている。毛布から出ている首から細い肩にかけて、白い布が当てがってあり、それは所々血が滲んでいた。
「……バルコニーから落ちて、大怪我をしたのです。頭を打っていて……」
振り返ると、ローウェンが背中を上下させながら、息を整えている。
ぼろっと、落ちる涙はそのままに、リューンは力なく言った。
「ムイは、大丈夫なのか?」
「それが……いまだに目を覚ましておりません。事故からずっと、意識が戻らないのです」
「事故だと、」
震える声。
「事故などではないだろう……やったのは誰だ。ハイドか? そうでなければユリアスが?」
「ハイド氏は死亡し、ユリアス神父は兵師団によって拘束されています。そのうち国王陛下の元へ連行され、裁判を受けることとなりましょう」
「殺してやる、俺がこの手で殺してやるっ」
「リューン様‼︎ ……ムイの、ムイの様子を見舞ってあげてください」
リューンの身体が動きを止める。少しの間があったかと思うと、リューンはムイに近づいていった。
「ムイ、」
震えの止まらない手で、そっとムイの頬を撫ぜた。
跪く。
ムイの肩口に、顔を横に向けて、そのまま頭をそっと預けた。
「……ムイ、帰ってきたぞ」
頭を預けたまま、涙が頬を流れ落ちていくのを感じていた。
「ムイ、会いたかった。ずっと、ずっとお前だけ……」
それ以上は言葉にならず、リューンはただ泣いた。
✳︎✳︎✳︎
「シバがムイを庇って……それで二人一緒にバルコニーから落ちたのです」
ムイがユリアス神父に押されてバルコニーから落ちる瞬間、シバが飛び出してムイの肩口の洋服を掴んだ。身軽なシバがムイを掴んだものの、人一人の体重には逆らえず、その拍子にシバの身体も宙に舞った。
けれど、シバはそのままムイを抱き締めると、ムイの下敷きになる格好で、地面に落ちていった。
一瞬の出来事で、誰の悲鳴も上がらなかった。しかも観衆は皆、ユリアスに視線が集まっていた。いや、ムイがそのように仕向けていたからだ。
城のバルコニーの高さは、半端なく高くあり、先に落ちたシバは全身を打って死に、そしてシバに庇われる形となったムイも、背中や頭を打ち、意識を失くした。
ムイの意識が失われると、次第に皆が正気に戻った。
息絶えて転がっているハイドの亡骸、覆いかぶさっているその亡骸を押し退けようと必死にもがくユリアス神父。その状況を見て、いち早く事の顛末を理解したローウェンが階下に降り、ムイへと駆けつけた。
「なんて事だ、ムイ、しっかりしろ‼︎ ムイっっ‼︎」
「ムイ、大丈夫か、」
次々に駆けつけた庭師のライアンやシノとキノの双子の父親、カイトに抱きかかえられ、ムイはリューンの寝室へと運ばれた。
城の侍医であるルアーニの懸命な手当てで、一命を取り留めたが、意識は戻らず、ムイは深い眠りについた。
「どうして……こんなことになってしまった、のだろうな」
眠りにつくムイの横顔を見つめながら、リューンは側に置いた椅子に腰掛けると、そっとムイの手を探した。
「どうして、こんなことに……」
リューンが呟くこの言葉はすでに数十回を超えるほどで、リューンはその度に苦く笑った。
「ムイ、お前と結婚して、ずっと側で、」
探し当てた手を、そっと握る。
薄暗がりに、浮かび上がるムイの横顔。白い肌。
「こうしてずっと側にいて、そのうち子どもを授かり、一緒に歳を重ねて、幸せのうちに死ねるだろうと……思っていたの、に、」
喉が鳴る。
「なぜ、こうも誰彼構わずに邪魔をするのだ。俺はただ、お前と一緒にいたいだけなのに」
少し冷えたムイの手を、優しく指で撫でた。
「やはり、俺は呪われているのだろうか」
名を握る領主と呼ばれていた頃。城内の人々全てをその名前を使って、命令に従わせていた頃。
ムイに出会う前、リューンは非情なほどの孤独を強いられていた。
(あのまま独りで……孤独のまま生きていくのだとばかり思っていた)
そして、ムイに出会った。
養父に連れられリンデンバウムのこの城に預けられた頃のムイは、話すこともできず、そして何らの教育も受けていなく、字すらまともに書けず、そして文章を読むこともできなかった。
(……最初、お前は俺を怖がって、逃げてばかりいたな)
涙が、ほろと落ちた。
(お前が、俺の側にいたいと言ってくれた時には、俺は、……)
「愛してる、ムイ。もうお前から二度と離れないから安心して良い。だから、ムイ、」
再度、喉が鳴った。
(……どうか、目を覚ましてくれ)
嗚咽が言葉を掻き消していく。
流れる涙を拭うためにでも、リューンはムイの手を離しはしなかった。




