青く、どこまでも
「お離しくださいっ、ユリアス様っ」
「こちらへ、ムイ様。皆の前で手を振ってやってください。それにしてもよくご決断くださいました」
「……これでお父さんは、」
「大丈夫です。ハイドめが教会の懺悔室に監禁しておりましたが、私が助け出しますので、ご安心を」
隣に並ばれ、ムイの身体がどんどんと熱を失っていく。
「あなたと結婚できるなんて、リューン様が羨ましくて仕方がありませんでしたが……ああ、ついにあなたを手に入れることができました」
腕を掴まれ、バルコニーの手すりに身体を押しつけられる。
「……どうして、」
ユリアスが、眉根を寄せる。
「どうして、私にあなたの力が効かないか、ということを聞きたいのですか?」
ムイが唇を真一文字に引き結んだのを見ると、ユリアスは弱々しく笑った。
「ムイ様とハイド様がお話ししている所を見ていたのです。ムイ様、お可哀想に。あのように下賎な使いに強請られ、脅されるなどと」
すると、ユリアスはポケットに手を入れ、ぐいっと引き出した。握られたこぶしをムイの前に出す。
手を開けると、そこには真っ白な綿の塊が二つ。
「あまりに古典的過ぎて笑い話にもなりませんが、これで耳栓を。ムイ様のご命令を耳に入れないようにと、これをつけました」
そして、それを足元に捨て去った。
「ハイドなどという、あれほど酷い輩はおりません。私はムイ様を脅すなどと卑劣な行為は致しませんから、どうか安心してください、私はムイ様の味方です」
「ユリアス様、」
ユリアスは手すりに押しつけているムイの身体を、全身を使ってさらに力を掛けた。
「ん、んん」
くの字に折ったムイの身体。
「さあ、もう一度声を上げてください。この腐った国をこのリンデンバウムの地から変えていこう、と‼︎」
何度も繰り返し言わされた言葉。ムイはひりひりと痛む喉で、叫んだ。
「リンデンバウムの地より、国王陛下に申し上げるのです。教会の一つ一つに目を配り、神の住処として敬うことを、」
首の後ろをぐいっと掴まれ、痛みに顔をしかめる。
ムイは、観衆の一人一人を見回した。
城の近くに構える店を、一人で切り盛りするミリア。木こりの仕事で双子シノとキノを育てているカイト、城の侍女や料理人、マリアやソルベ、城の近所の住人たち。
その知った顔が揃って、生気のない表情をそれぞれに浮かべている。
ムイに怒涛の悲しみや苦しみが襲ってきた。涙が流れ落ちて、止める術がわからない。
ムイは知らず知らずのうちに目を瞑っていた。皆の顔を見ることができなかったのだ。
(ごめんなさい、ごめんなさい、)
嗚咽を抑えると、背中が小刻みに波打ち始める。
「……国王のあ、悪政を、このリンデンバウ、ムより、正していくので、す」
自分がしでかしている事の大きさがムイの内側へと浸透していく。ムイの身体はさらに嗚咽を伴い、大きく震えた。
(こんなこと、どうして、こんなことに……)
「う、うう、」
吐き気を感じながら、ムイは泣いた。身体の中から何かが出そうになり、口を手で押さえた。
「う、うふう、」
そんなムイの様子を見て、隣にいるユリアスが観客に手を振りながらも、そっと反対の腕をムイの身体に回してきた。
その時。
「よ、よく、も、……よくもおおお」
二人の背後から断末魔のような恐ろしさを含んだ声がして、ムイとユリアスはその声の発せられた方向を見た。
口から血を吐きながら。
ハイドが心臓の辺りを右手で押さえて、よろ、と立っていた。そして、わっと近づいてくると、両腕を伸ばしてユリアスへと掴みかかってきた。
「お前の、せい、でえええ」
ハイドが食らいついてくる。そしてユリアスはそれに必死で抵抗した。
「や、やめろっ、離せっ‼︎」
ユリアスが身体を左右に振って、ハイドの腕から逃れようと必死に暴れた。
「くそっ、私に触るなっ」
ばしっと、ハイドの頬を手で張り倒した。
「私は神の使いだぞっ‼︎ 汚い手で触るんじゃないっ」
「きさまあああ、」
横っ面を張られたハイドは、苦しそうに歪む顔をさらに歪めると、おおおおと叫びながら、ユリアスに掴みかかった。
ユリアスの身体が後ろに押される。
背後にいたムイが、その身体をどんっと正面に受けた。
その拍子にムイの背中が、背後にあった手すりに打ち付けられた。手すりはその力で、ガシャンと大きな音を立てて外れ、そしてムイの身体は宙に投げ出された。
「あああっ」
あっという間の出来事だった。
倒れていくムイの視界に、青く、どこまでも青い空が広がった。
一瞬、リューンの顔が浮かんだような気がしたが、実際は白い雲だったのかも知れない。
ふわっと身体が浮いて、ムイはその愛しさから、リューンの名を呼んだ。




