友達
誰かが僕を遠くから呼んでいる。その声は少しずつ近づいてきている。
頬に冷たさを感じ、続けざまに冷笑を全身に浴びた。どうやら僕は居眠りをしていたようだ。僕を呼んでいた声が近づいてきた訳ではなく、僕が柏原先生の声に歩み寄ったのだと気付いた。
「夜更かしでもしてたんですか?それとも、わたしの授業が面白くありませんか?」
「前者です。すみません」
言い訳が許されるなら、昨日買ったパンフレットを読んだ僕は観劇したような気分になり、目が冴え冴えとして眠れなかったと言いたい。
柏原先生は丸いシミができた教科書をどうしようかと考えあぐねている僕に一言残してから教室を出ていった。
放課後になり、事情を知る二人に送り出されて職員室へと足を運んだ。応対してくれた先生は、パーテーションに仕切られたあの空間に案内してくれ、ソファに腰を掛けて待った。
テーブルの中央に置かれた煎餅を手に取り、栄養成分表を眺め中学生の家庭科の授業を思い出していると、
「待たせてすみません。小早川さんが突然に来たもので」
忽然と姿を現した先生に驚き、煎餅をポケットに隠した。
僕は図らずも盗人になり、柏原先生は気付いているのか、いないのか、善良な生徒を見る目と口吻で話を続ける。
「部活の方はどうですか?」
「あっ、えっと、そうですね。はい。ぼちぼちです」
言葉が詰まり、ぎこちない返事になってしまった。僕は居眠りのことを注意されるとばかり思っていたのだ。
浅く座り直した柏原先生は煎餅を手に取り、ばりばりと袋の中で一口サイズに砕き、ぼりぼりと食べ始めた。
「わたしも合同の稽古でばたばたしてて、顧問らしいことができなくてすみません」
謝った柏原先生はお詫びにと言わんばかりに僕にも煎餅を勧めてきた。
パーテーションの向こうを指さし、その指を口元に立てた。他の先生には内緒にしろと言うことだろう。僕は会釈をして、内緒にするために二枚目をポケットに入れた。
「先ほど知ったんですが、わたしと同じ気持ちの人がいるんですよ。きっと、きみたちが使っている教室に顔を出してると思います」
最後の一欠けらを口に運ぶ柏原先生に、誰なんですかと聞こうとして思いとどまった。
前後の文脈で殊勝な人物が小早川先輩だとわかったのだ。煎餅の袋を三角に畳み、
「最後に顧問として一言だけ。他人に何かを求める時は必ずと言っていいほど、自分の能力、もしくは以上のものを求めようとします。求めるよりも引き出すことを心がけてください」
柏原先生の言葉を覚えるための抽斗に仕舞い、席を立った。
急がねば。善意だとしても小早川先輩の介入は嵐となり凪いだ海を時化させる。
嵐は去っていった。嘲笑うようにゆったりと。
扉の向こうから金切り声が聞こえ、扉に掛けていた手を離して回れ右をした。長い廊下を悠然と歩き、階段に差し掛かった小早川先輩の許へ。下りたのか、上ったのか分からない。僕は一先ず講堂までの道を辿ることにした。
階段を下りてすぐにある自動販売機の前で悩む小早川先輩の姿を確認した。踊り場で呼吸を整え、一段ずつ心情を悟られないように余裕を持って下りて行き、
「期間限定って私たちみたいよね」
声かけようとした僕より、先輩の意味深な言葉が機先を制した。
出端から躓いた僕は何も言えず、痺れを切らした小早川先輩は取り出し口からペットボトルを取り出して差し出している。ペットボトルを見つめる僕に痺れを切らし、顎をしゃくって、
「ほら、奢り」と短く言った。
期間限定のシールが貼られている、枇杷味の炭酸ジュースを受け取る。
「ありがとうございます」
「うん。ねー、私たちって期間限定だと思わない?」
点灯しているボタンを眺めながら、先輩は物憂い様子で続けた。
先輩は悩んだ末、僕にくれた枇杷味の炭酸ジュースのボタンを押し、炭酸の弾ける清涼な音を立てベンチに腰を掛けた。左手を何度かベンチに叩きつけ、座るように促してき、真ん中に一人が座れる空席を作るように同じベンチに僕も腰を掛けた。
金切り声の原因を問い質そうと意気込んでいたのに、先輩の言おうする期間限定が気になって、僕の優先順位をあやふやにした。
「さっきのって、どういう意味ですか?」
「今の人間関係って、高校生活の三年間の期間だけに限定されてるんじゃないかなって」
「多くは小早川先輩の言う通りかもしれないですけど、一人や二人は長い付き合いになるんじゃないですか?」
「もう、遅いんだよ」
まだ、間に合いますよ。と、定型で軽忽な言葉を言えば、先輩を鬱怏としている曇天に雲間を作れるかもしれない。しかし、射し込む光は一時的であることに変わりはないのだ。
人の心にインターホンがあれば、おじゃましますの一言で上がり框に座り、話し込むことが容易になるだろうと、取り留めのない考えが浮かんでいた。
会話がキャッチボールであれば、ボールは僕のグローブに収まっているままだ。それ故なのか、先輩は泡沫が弾けるペットボトルを漫然と見つめ、押し黙っている。僕は振りかぶってボールを投げた。半ばやけくそに。
ボールはふわふわと先輩に飛んで行き、遥か上空を過ぎ去った。一つの会話は終わりを告げ、僕はこの場に相応しくない自儘になってしまったボールを投げた。
「教室で稽古する皆に変なことを吹き込みましたか?」
うんともすんとも、左右にも上下にも先輩の返事は表れない。
黙する先輩に痺れを切らし、僕はベンチから立ち上がった。例え嵐が先輩ではなくとも、教室では天変地異が起きていることに変わりはない。最も時間を費やさなければいけないのは、薄暗く自動販売機の心許ない灯りだけの隅で鬱怏とする先輩なのか。若しくは、短くはない時間を使って築き上げた劇団のぞき窓なのか。
明白だと思っていたはずなのに、思い悩んだ。手を取り合った時間で先番を決めようとしていることに疑問を感じたからだ。時間だけが育む友情は空疎であり、時間だけが築き上げた信頼関係は見せかけに過ぎない。
従って、時間だけの理由で優先順位を決めることは間違っているのだ。とは言え、僕たちは時間だけではなく、労力や感情や言葉も友情を育み、信頼関係も築いているはずだ。やはり、時間を費やすべきはのぞき窓で違いない。
にも拘わらず、二の足を踏む。僕たちは正に先輩の言う限定的な人間関係であるのだ。三年間を過ごした先輩が憂うその理由が僕の足を引き留めている。
然有らぬ体でペットボトルを空にして、ごみ箱に捨ててからベンチに座り直した。
「教室に行くんじゃなかったの?」
気付かれていたことよりも、漸く口を開いた先輩に詳しく聞けることを嬉しく思った。
「僕たちは大丈夫です。それより、僕思うんですけど、限定的な人間関係って楽じゃないですか?」
「ふふ。確かに楽ね。でもそれってなんか寂しくない?思い出になればそれでいいの?」
訥々と話す先輩の言わんとすることがわからない。
人と人の関係に延長線を引きながら接することが間違いではないのか。僕たちは勘合符のように何かが合わさるときに、自ずと延長線が引かれるのではと思う。この思いをどう言葉にして伝えたらいいのだろうか。伝えたところで先輩を否定することになってしまう。
僕は悪習を改善するよう心掛けた末に時と場合があると学んでおり、この場はどちらも相応しくないと思い、先輩に寄り添える言葉を探すことにした。
「的外れなこと言いますけど、その考えなら人間関係も思い出も尽きること、ちょっとすみません」
僕の目の前を湿った風が外へ逃げて行った。その後を飛ばされた何かを追うように三好が過ぎ去って行った。
「いいよ、行ってきて」
先輩に肩を押され僕はポケットから煎餅を取り出し、それを渡してから走り出した。
台風の日、傘に引っ張られる人のように、骨細の腕を掴んでいる三好に追いついた。背後からの声は届かなかったのか、言い合う声が止むことはなく、彼の肩を掴んでようやく止んだ。と思ったが、井伊は言い足りないように続ける。
「もう辞めるだから離してよお願いだからじゃないとよっくんのことも嫌いになるよ」
嫌われることを恐れた彼は手から力が抜けたようだ。
休憩中とは言え、彼女はあろうことか砂埃を立てながらグラウンドを突っ切った。追いかけなければいけないはずの三好はやはり嫌われることを恐れて、その場に立ち竦んでいる。
「何があった?」
感動詞を続ける彼はどうやら混乱しているのだろうと思い、既に嫌われているはずの島津がいる教室に行くことにした。
振り解こうと髪を怒り毛の如くしていた井伊とは対照的に、島津は悲しげな欷歔する声を聞かれまいと机に顔を伏せていた。
傍らに突っ立ってるいるだけの羽柴に聞けていない事情を聞こうと、口を開きかけた僕を彼は手で制し、彼女を慮るように廊下を指さした。
彼は声を遮るために前後にある扉を閉め、練習を再開しているサッカー部の雄々しい声を遮っていた窓を開けた。
「マノンマノン」
歌劇を彷彿させる言葉が開け放された窓から聞こえてくる。
彼は窓に乗り出すようにして風を受けている。言わんこっちゃない。彼は目を瞬かせながら振り返り、話し始めた。
「違うんだよ。何が?って思うかもしれないけど、これしか言いようがない。違うな、変わったとでも言うべきなのかもしれん。何かに憑かれた、何かに憑依したようなそんな感じ。
昨日、藤堂さんが書いてきた蠱惑乱を葉菜が早くも脚本にしてきたそのコピーを渡してきたから、各々が読みよったら、愛子が脚本に対して何か提案?意見?まあ、葉菜に言ったら、それはそれは、壁打ちみたいな言い合いが始まって。
愛子がこれはこうしたらいいんじゃないかなって言ったら、葉菜はそんなことはないって。
愛子がここではこんな風にしてみるのもいいよねって言ったら、余計なことを言わないでって。そんなことを繰り返すうちに両者は声を荒らげて、言い合いから大喧嘩になって今に至る」
彼は話し始めると次々に現れてくる言葉を紡ぐようにして、事の顛末を話した。
良かった。と、危惧よりも安堵した。島津と井伊の衝突の間に演劇があり、僕が思うに、演劇が緩衝材になっているはずだ。となれば、否定のない話し合いをすれば容易に和解するだろう。
話し合いの場が用意できるのならば、だ。幸いに慰撫係兼連絡係の二人はそれぞれに分かれている。
「取り敢えず、羽柴は島津さんが頑なだった理由を探り出して」
きっと彼はどうすればいいのか分からなかったのだろう、何も聞かずに言われるがまま教室へ戻った。
残るは三好だ。開けられた窓を閉めようと外を見遣れば、一悶着を起こした場で三好はスマホを耳に当て電話をしているようだった。全ての錠を下ろし終え、彼の許へ急いだ。
スリッポンに買い替えようかと本気で悩んだ。急いでいるとは言え、安くはないスニーカーを半履きすることはできず、手間取っている間に、そこにいたはずの三好の姿は見当たらなかった。
文字だけでお願いすることも考えた。考えたが取り出したスマホをポケットに戻した。僕は道術に掛けられたように、深い霧に覆われた。
僕一人が闇雲に進めても意味を持たず、受動的にならざるを得ない。
不意に誰かから背中を叩かれ、背骨が伸びたように感じた僕は、肩の重みで猫背になっていたことに気付いた。
「ほらっ、何があったか知らないけどあなたが迷子になったらお終いよ」
僕のことを「あなた」と呼ぶのは一人しかいない。
向き直った僕は先輩に頭を下げた。扉の向こうから聞こえた金切り声の原因が先輩だと疑ったことに対して。先輩は何もなかったように頷くだけで、話の内容は僕たちが起こしている悶着から変わらなかった。
「きっと、意見の衝突でしょ?私たちもよくあったよ、そんなこと。いるんだよたまに。一人で作品を完成させる奴って。あっ、そろそろバスが来るから」
腕に巻かれた小さな時計を見て、駆けて行った。最後に謝罪の言葉を残して。
花一匁の遊びを思い出す緊張感が教室に漂っている。羽柴に呼ばれた僕は、二人と手を繋ごうとしている。小学生の時は必ず一人残っていた僕が。昼休みのサッカーのチーム分けをするときにも、いる、いらんのじゃんけんではいらないと言われ続けてきた僕が。
昔に惑わされ、僕は今を等閑にしようとしていた。どちらともと手を繋いではいけないのだ。ありきたりな表現を参考にすれば、僕は懸け橋とならなければいけない。それが正しいのか分からないとしても。
目を充血させた島津が教室に入ってき、これまでの緊張感を含んでいた沈黙に静電気が流れ出したように感じた。
僕たちは初めて出会った頃よりも、話ができなくなっている。僕たちは自分を曝け出し、知られ、知ることで初めて出会った頃よりも、話ができなくなっている。僕たちは時間とその他で積み重ねたものを崩さんとしようとして、初めて出会った頃よりも、話ができなくなっている。
振り出しに戻ることを恐れて、賽を投げることを躊躇っているのだ。呼び出した羽柴も、喧嘩を起こした当人も、懸け橋となるように意気込んだ僕も、誰も口を開こうとはせず、不毛な時間だけが過ぎている。
時間が過ぎれば過ぎるほど、張り付けられた糊のように唇は固く閉ざされていく。
この雰囲気を変えようと、僕は閉ざされた窓を開け換気した。砂埃と花粉を乗せた風は、いとも簡単に羽柴の口を開かせることができた。
「はっく」
我慢しようとしたのか、可笑しな声は掌に吸収されていた。
彼のはにかんで零れた笑みは、僕たちの笑い声を誘った。正解のない感情を行き交っていた僕たちは、彼のくしゃみで遂に終着点へと辿り着いた。
権力を持った大人が居れば、必ず僕たちに言うだろう。
「笑って誤魔化すな」と。僕たちは、喧嘩を遠い過去にして、思い出を語るように話し始めた。
「あの時、なんであんな頑固一徹になったん?」
彼のジェスチャーに従い窓を閉じていた僕は、呼ばれた理由が分かった。
定めし、一人では聞き出すことができなかったのであろう。僕は彼の想像と違う、微力な助力をしたことになる。結果オーライだ。
彼女は目の充血を隠すように俯き、彼の質問に上半身を前後に揺らして言葉を探している。
「もしかしてだけど、自分だけで作品を完成させて、映像にもしてたとか?」
小早川先輩の経験を当てはめて聞いてみると、彼女の揺れが止まった。
図星であるのか、ないのか、彼女の言葉を待たずして、脚本となって置かれてある蠱惑乱を手にした。玉手箱を開ける爺さんの気持ちを答えろとテストに出題されたなら、捲ろうとする今の僕の気持ちを書けば花丸が貰えることは間違いない。
好奇心を駆り立てる文脈がなくとも、その厚さは僕の好奇心を駆り立てるに十分であった。目に飛び込ませた一ページ目に息を呑んだ。事細かに書かれた柱とト書きは、文字だけでも世界を作り、登場人物に命と感情を宿らせていた。
この脚本は、彼女をも完成させたのだろうか。そんなはずはない、僕たちは大海を知らない蛙なのだ。
入部をしようと初めて講堂に赴いたとき、柏原先生に出された質問の答えを思い出した。
「納得」
未完成の僕たちが作り上げるには、皆の納得がない限り完成しないのではないか。
やはり、島津と井伊の間には言葉が足らなかったのだ。そう考えると、僕は懸け橋になることを辞めようと思った。どちらかに寄り添う納得は、どちらかが譲歩したに過ぎない。
未完成の脚本を置くと、ルビーのように目を輝かせた彼女が僕を見据えていた。
「どうだった?」
「よくできてると思う。けど」
「でしょ。けど、なに?」
「井伊が何て言ったかは知らないけど、取り入れたらもしかすると更に良くなるかもよ」
「そんなことはない。これは今が完璧なの」
「それは島津の経験がもたらしたものであって、井伊には井伊の経験がもたらした考えからの発言だと思うけど」
「うざっ。いつも上から目線で知った風に口を利いて、正しさで人を抑圧してる割には、今だって私の考えは聞いてくれようとしない。正しいのは自分だけ、そんなの皆だって思ってるよ」
「ちっ。呼ぶんじゃなかった」
羽柴は教室を飛び出して行った島津を追いかけて飛び出して行った。
毀した。僕が毀してしまったのか。僕がまた煩雑にしたのか。僕が独善的だったのか。結果的に僕が掣肘を加えたことになるのか。
今頃は島津と羽柴の仲は更に深まっているであろう。共通の悪者が現れれば、人はより一層絆を深めるものだと思っている。そんなことを思っている僕を、偏屈だとか陰気だとか言う人とは仲良くなれそうもない。
僕の理屈に沿えば、二人の仲介をすることで絆は深まることになる。話し合いなどいらなかったのだ。僕は正義の必要悪になるのだ。
一昔前、中学生の多感な時期に流行った少女漫画のように。名付けて、ヒロインの好きな人の親友作戦だ。両者の気持ちを決めつけ、無視して、ヒロインに勇気を授けるために嫌われる事をする親友に。美徳に見せかけた自傷行為をするしかない。
狡兎死して走狗烹らる、と言った具合に。
職員室に教室の鍵を返却に行く間も、駅までの道すがらも、電車に揺られ続ける間も、ペダルを漕ぐ足に力を入れる間も、飯時も入浴の間も、考え続けた。井伊たちに嫌われる方法を。