名前
委員会で遅れたと言った三好と連れ立って歩き、教室の扉を開けた。果たして反省会は終わっており、何かを中心に取り囲むように座っていた。覗き見ると、中心に据えられていたのは、小さく折りたたみ僕のポケットに入っているポスターと同じものだった。
「今週の日曜日だってよ。見に行ってみる?」
輪の中に入り座れば、島津は待っていましたと言わんばかりに、瞳の奥に輝きを湛え言うのであった。
賛同の波に飲み込まれるように僕は頷いた。ポスターを手に取り、しげしげと見つめ、
「俺たちは何をするか決まった?」
形になった世界に急かされるように羽柴は言う。
「やっぱりこれにするよ」
図書室から借りてきた一冊の本をポスターの上へ置いた。
ギリシア神話と書かれた本を見て、皆一様に説明を求めている表情を浮かべる。僕はページ数を思い出しながら、モイライについての描写があるページを提示し、
「前にも言ったけど、確か二つ目のかな?運命についての話を書くことにした」
簡単な概略を説明し終え、モイライについての文章を代表して音読した。
最後の句点に辿り着き、語気を強めて読み終えると可笑しなことにまばらな拍手が僕に向けられた。小早川先輩が言ったように役者も悪くないのではと思う。家庭科室で一つ目が面白そうだと言っていただけに、求めてはいないが三好は拍手をせず、眉間に皺を寄せて不服な表情を浮かべている。事なかれ主義だと感じていた彼の感情の発露に狼狽えてしまう。
縦しんば一人の意見を無視して事を進めたとしても、さして問題はないかもしれない。決定権は僕に委ねられていたことは事実なのだから。
然りとて、一人の意見を無視することが最善と言えるのであろうか。否、悪手であることに間違いない。軋轢が生じることを恐れ、
「多分だけど、この話が分かりやすくて映像として描くことが可能だと思う。って言うのが建前でして、一つ目に提示したのは実を言うと微細な説明が難しくて諦めました。すみません」
皆に説明をするように彼が納得できる言葉を選び言った。
言葉足らずであったのだろうか、内に秘めた感情を表へと出して待ったを掛けた三好に変面を見るが如く視線が向けられていた。
「微細ってなんですか?」と言った彼だけに向けて、
「極端な話をすれば、よくある究極な質問があるでしょ?誰かと誰かが溺れたらどちらを助けますかとか。あの質問はどちらを助けるか考えさせて、無意識に助けることを刷り込んでると思うんだ。手近な話をしたら、今日のエチュードで羽柴が砂糖を取ってもらおうと無言でキッチンを指さしたシーンがあったけど、三好くんはこのシーンの無意識にあるものは何だと思う?」
「見てないんで分かりませんけど、僕は自分のことは自分でやるように母親に言われています」
「正にその母親だよね。母親が親切に何かをやってくれる、それが派生していくうちに母親から女性へとなって、無意識に意思を汲み取ってもらい、動いてもらうことを強要してるかもしれない。そして無意識は意識に変わると思うんだ」
「無意識が意識にですか?逆はどうです?」
気が付けば、井伊と島津は前のめりになり、今にも話に加わろうとしていた。
決まりが悪そうにしていたと思っていた羽柴はどうやら三好の言葉について考えていたらしく、マイクを奪うように話を始めた。
「わかった。俺って喧嘩とかになったら、馬鹿とか阿保とかドジとか間抜けとかあんぽんたんとか無意識に言ってしまうことがある。言っちゃ駄目だって意識してるのに」
これでどうだと言葉を叩きつけ、マイクを僕にもう一度渡すのであった。
「羽柴の言う通り、意識が無意識に、無意識が意識にすり替わることを文字にはできるけど、存在しない意識と無意識を登場させるには難しい」
この先は僕の言葉でなく、島津の言葉が必要だと思い、
「難しいと思う。きっと。体現するには」
彼女のぜんまいを巻くような言葉をつぎ足し、発言を促した。
暫くの沈黙の後、話し始めたのは井伊であった。彼女が前のめりになっていた理由は、話を聞いている間に意識と無意識のテーマに惹きつけられたらしい。懇々と説明したことが意に反して逆風となってしまった。
風に煽られ、ドミノは倒れ続けた。
「面白そうじゃん」
「あたしも面白いと思った」
「きっと嵯峨くんは私の心配をしてると思うけど、そんなことはなしにしよ。私だって今の話を聞いてやってみたいと思ったもん」
倒れだしたドミノを止めることは難しく、僕はあんぐりと口を開けて同調を眺める事しか出来ない。
結果的に一笑に付された多数決の提案が無意識裡に行われた。十二月二十五日の早朝を彷彿とさせる燦然と輝く目を見ると、少数派になった僕は机に置かれたギリシア神話に関する本を鞄へと隠す他なかった。
昨日が引き続いているのだろうか、ギリシア神話の本を返却して教室へ行けば談論が始まっていた。敬語で話すことに隔意があるのか、ないのか。敬称をつけることに隔意があるのか、ないのか。
稽古を二の次とした火付け役は意外な人物であった。僕は羽柴とばかり思っていたのだが、
「芳樹って他人から自分を隠そうとして、その他人と距離を置こうとするよね」
矢を放つのは井伊であり、矢面に立たされた三好は閉口していた。二の矢が放たれる前に盾を持って立ちはだかったのは羽柴であった。
「親しき中にも礼儀ありって言うじゃん」
「それは的外れだよ、廉」
攻めに転じようと矢を放ったが明後日の方向へと流れたのであった。皆の一連のやり取りを耳にして、僕はと言うと二つの穴を塞ぎたい気分になった。
井伊の話し方に既視感を覚えたのだ。昨日の自分を演じられているような、恥ずかしさが込み上げてくる。彼女も逸れ矢が刺さることを願っているに違いない。誰に?三好の陰に隠れる僕に。
考えが辿り着いた僕は既に逸れ矢が刺さっているのであろう。然らば、進んで矢面に立つしかないではないか。エチュードで感じた、普段と重ならない井伊愛子の前に。
懇親会と称したものも僕と羽柴の一悶着があり、行われていないに等しい。よもや、僕が枷となってはいないだろうか。臍を固めて話を遮る。
「昨日も色々話したし少しずつでも近づいてるんじゃないのかな?」
腕を交差させ二の腕をさすり始め、
「ほらほらほら。芳樹と同じこと言ってる」
気味が悪い正体を見つけたように、僕と三好を交互に指さした。
目だけを動かし辺りを見渡した。三好はともかく、羽柴と島津は普段と同じだ。僕が見ている彼女と、皆が見ている彼女は同一人物なのか。あるなしクイズを解くように、僕にないものを考えてみる。
講堂で島津が啖呵を切ってから今に至るまでを回顧すると、喫茶店での羽柴との会話で躓いた。石なのか段差なのかを見極めるために、その日のことだけを思い出してみた。懇親会を台無しにし、ケーキを食べて家に帰った。人生の一ページにも満たないであろう一日は習い性となっている、言葉の意味を調べて句点を打った。
共有。僕たちの中を取り持ったと言っても過言ではない言葉を調べた。結果、その日を境にその言葉を使うことは憚られていた。
躓いたものを取り上げ、回顧を終えた。
僕が見ている井伊と、皆が見ている井伊は同一人物で違いない。しかし、僕が見てきた井伊と、皆が見てきた井伊は違ったのだ。皆と比べて僕は彼女と共有した時間が少ない。皆と比べて僕は彼女と共有した感情が少ない。
あるなしクイズの答えを導き出し、漸く彼女をピンスポットで抜くことができた。
傍白と化していた井伊のセリフがまたぞろ届き始めた。
「聞いてるの?昨日を思い出してみてよ。気味が悪いから」
彼女の言う気味が悪いことなど何も思いつくことがない。三好を盗み見ても小首を傾げているだけである。僕たちを見兼ねて、
「あたしも帰ってから気付いたけど、二人だけ意見を言ってなかったんだよ。それなのに話したとか、距離が縮まったとか怖すぎるよ。だって、一度もギリシア神話の話を書きたいって言わなかったもん」
彼女が言う通り、言葉では言ってなかったのかもしれない。僕は成長していないのだ。感情は湧水していたはずなのに言葉にはしなかった。羽柴の感情を揺らぐことができたときのように。
核心に矢を射られ言葉を失う。察するに三好も核心を射られたのだろう。再び話は僕が教室に入ってきたときに戻り、
「このまま遠慮してても成功しないし、言ったところで距離を縮める事ができないと思うから、形から入ろうと思うの」
彼女はそう言って黒板へと向かった。
チョークを手に取ってこちらに振り向き、
「あたしたちの劇団名を考えよう」
一人一つずつと言われた僕たちは唸り始める。黒板とチョークが触れ合う快活な音に目を遣れば「スノードーム」と井伊は書いていた。
「こんなのは心理テストと同じで直感が大事だよ。ほら、そっちから順に」
刻一刻と白のチョークが近づいてき、考える時間が欲しいと意味もなく時計を見た。
いつの日かのように、時計の秒針は遅く見えた。その時、ギリシア神話の本を借りて帰った夜を思い出し、記憶が一直線に重なった。ゼウスの父親であるクロノスと時間の神であるクロノスはどうやら別人であるとインターネットは教えてくれた。
黒板には三つ目の案が加わっていた。等間隔に刻まれるリズムは井伊が苛立っていることを暗に伝えようとしているのだろうか、或いは僕を急かしているのだろうか。そのどちらでもあるのだろう。
「クロノスタシス」
漸く僕が言うと黒板へ向き直り、彼女の背中に三好も劇団名を告げて全てが出揃った。
スノードームを始めに、羽柴、島津、僕、三好の順番に劇団名は書かれていた。
「スノードーム」
「指人形」
「月輪」
「クロノスタシス」
「のぞき窓」
一人一票を与えられ、自分の出した劇団名を除いて直感で選ぶことになった。
井伊の話に腹を据えかねていたのか、直感に異議を唱えた三好はそれぞれの理由を求めた。理由などあるはずがない。直感と言われたまま、思い浮かんだ言葉を声にしただけにすぎない。
「キラキラしてて、いつでも見ていられるでしょ?だから」
「ただの指でも人形を被せるだけで物語が語れる。俺たちも役を被って物語を語れるように」
発起者は言えて当たり前として、同朋だと思っていた羽柴が理由を述べ、僕は狼狽した。
後付けでも、考えなければ。島津が言い終わるまでに。
「えっと、私は、大した理由じゃないんだけど、語感と言うか字の見た目と言うか」
そういうのも大事だよね、と井伊が言えば首を縦に振る人たちを見て、僕は考えることをやめた。
「時間を忘れていつまでも続いてほしいと思われるように」
世に溢れるありきたりな言葉を繋ぎ合わせて言った。
やはり、今日の談論で自身を変えようとしての発言だったのだろうか。三好が満を持して口を開いた。
「思い出に焼き付けたくなって、思わずファインダーを覗きたくなるような演劇をしたい。それに、見た人たちの感じ方を大事にしてもらえるように。同じ被写体でも撮る人によって、絞りを開けたり、絞ったりしてそれぞれ違う写真になるようなそんな風に」
こぼれる笑みを隠さず、井伊は仕切り直した。
直感でなく、想いを踏まえてした多数決は満場一致でのぞき窓となった。今を以って劇団のぞき窓が旗揚げされることになったのだ。肩に降りかかった粉を払いのけながら席へと戻ってくる井伊の表情は、どことなく春の陽気に似て柔らかく見えた。彼女の言う形が出来上がり、容器に入れられた僕たちは本当に距離が縮むことができるのだろうか。
しかし、物理的に近づいたような気がすることも事実だ。精神的なものは個々の努力が必要であるのかもしれない。彼女の機転は無駄ではなく様々なことを気付かせてくれた。極論であると思ったが、あながち敬語と敬称の廃止は間違いではないのでは。
決然として、名前を呼ぼうとした。廉、葉菜、愛子、芳樹、誰でもよかった。
「天馬ってラウスピやってないの?」
虫が這うような感覚を誰かに与えなくて良かった。井伊の質問に、
「やってない。それにラウスピってのが初耳」
背中を押され砕けた口調で答えた。彼女も虫が這っているだろうかと心配しながら。
「ラウスピを知らないとは驚いた。ラウドスピーカー、通称ラウスピ。今流行りのSNSなんだけど。ほら今も星名聖が声を大にしたよ」
「いつか倅の相談にのる日がくるだろうか」
「こうやって有名な人もやってるんだよ。聞き耳を立てれば声を大にした時にすぐに見ることができるんだ。天馬もラウスピやってみなよ。みんなやってるし」
言われるがままスマホを取り出し、ラウスピのアカウントを取得する。耳のマークを押せば聞き耳を立て、耳栓のマークを押せば表示されなくなり、拡声器のマークを押せば声を大にすることができると教えてもらった。
教室にいる全員に聞き耳を立て、同じように全員から聞き耳を立てられる。
井伊は満足したのか稽古を再開させるために、島津と話をしている。僕は、日曜日まで放課後は家で脚本を書くことを伝え、机と椅子を並び替える皆を置いて一足先に帰路についた。
洛陽がもたらす冷気は肌に張り付き、手に持つ上衣を急いで羽織り、見上げるよりも見下ろしてしまう桜並木の道を寂寥な気持ちで駅まで歩いた。
様々な制服を着た人が蠢くなか、ガムが張り付いている訳もなく、予約表がある訳もなく、不自然に空いているベンチに身体を縮めて座った。隣に座るスーツを身に纏った男性のイヤホンからは、流暢な英会話が音漏れしていた。
読み返すことなく送信ボタンを押し、僕はベンチから立ち上がり列の最後尾に並んだ。電車の口が開けば鬼のげっぷのような、生暖かい風が押し寄せてき、不快感を覚えた。
満員とは呼べないにしても座席は早くから並んでいた人たちが全てを埋め、つり革を片手にスマホを取り出した。藤堂からの返信はなく、手持ち無沙汰を感じて井伊から教えてもらったラウスピを開いて、初めて声を大にすることにした。
「桜はスタートラインにまた立ったのかな。僕はどうだろうか」
つり革を持つ手に力が入り、ゆっくりと電車は停車した。
サラリーマンは新聞を置いた網棚を一瞥して降車した。僕はそのサラリーマンが座っていた座席へ腰を下ろし、またしても不快な温かさが臀部から伝わった。
臀部から右手へと意識が切り替わり、振動するスマホに視線を落とす。新着メールの表示を押してみると、藤堂からであった。
「邪魔にならないなら行く。あと土曜日空いてる?」
「部活には行かないから、うん」
日曜日の約束を取り付け、僕は安堵した。翻案を頼み、後は知らん振りと言う訳にはいかない。忘れてはいけない。僕たちは何かを頼めば、何かを返さなければいけない関係なのだ。彼女の小説のことは何一つ知らないが、演劇が関わる話を書くことに間違いないだろうと考えた僕は、小説に活かすことができるのではと思い、誘ったのだ。
改めて、日時と場所が記されたメールを確認してスマホをポケットへ入れた。向かい合う長い座席に座る僕たちは、図らずもギンガムチェックの柄を作っており、臀部も心地よい温度となり、終点が近いことを知らせた。
窓が見せていた流れる風景はテレビの電源を切ったように僕の顔を映していた。見飽きたものから目を背けるために、スマホを取り出した。一瞬、僕の顔を映し、見慣れた画面へ切り替わる。ラウスピのアイコンを人差し指で押せば、声を大にした人たちが画面を支配した。
左下に井伊の説明にはなかったアイコンがあることに気付いた。看板にもプラカードにも見えるアイコンが。押せばキーボードが表示され、文字の入力を点滅する線が待ち構えている。
「星名聖」
父親がラウスピを使っていることを井伊の話で知っていた僕は名前を入力してみたのだ。画面が切り替わると、父親のアカウントではなく「星名聖」が主語となっている大人数の声が溢れていた。
父親からすれば手放しで喜べるものは少ない。僕の知らない父親の下積み時代を知っている誰かは、荒んでいた私生活が今も続いているが如く声を大にしている。他にも、目を覆いたくなるものばかりであった。
スクロールを続けて漸く父親のアカウントに辿り着いた。主に舞台の告知が多く、得られるものはなかった。ページを一つ戻し、星名聖が主語となっている声を読んだ。五人に一人は面白かった、世界観が好き、ダンディーなど褒め言葉もあった。しかしだ。本当に届けたい声は罵詈雑言に埋もれていた。
蛇口が捻られたように悔しさが込み上げてくる。僕の憧れであり、目標の人物である父親の否定は僕が否定されるのと同じであるように感じたからだ。見なければよかった。ラウスピなど始めなければよかった。父親に憧れを抱かなければよかった。父親を目標にしなければよかった。演劇などしなければよかった。
陰鬱になった電車は、僕と新聞を降ろした。自転車に跨りペダルを漕ぐが重い。街灯に照らされた変速ギアは一であるのに。
普段より時間をかけて家に着いた。嬉しいことに話したいことを纏めることができた僕は、靴も揃えず、ただいまも言わず、手洗いうがいもせず、リビングのソファに座りテレビを見る父親の眼前に聳え立った。身体を左右に揺らしテレビを覗こうとする父親は、僕の後ろでアウトのコールが聞こえ視線を上げた。その先にいた僕を見て、
「おいで」
目敏い父親は二階の書斎へと向かった。
堆く積まれた本が足場を奪う。踵を浮かしつま先で体重を支え、部屋の中央まで歩いた。
「そこら辺の本をどかして座りなさい」
古くからあるのだろう、黄ばんだ本をずらし、長方形に窪むカーペットの上にお尻を乗せた。
煙草を燻らせ、目に見える長い息を吐いた父親に、
「他人の声って、でかく聞こえることない?」
立ち上る煙を目で追いながら切り出した。灰皿に煙草を擦り付け、床を蹴り上げた父親は椅子を回転させ、こちらを凝と見つめてきた。
あっけらかんとした様子を不思議に思い、父親の言葉を待った。
「何が聞きたいの?」
なるほど、そうか。直接的に言わなければ伝わらないか。
「ラウスピって知ってる?新しいSNSなんだけど、父さんのことについての声をいろいろ見てしまって」
一つだけ嘘を交え、改めて尋ねた。父親からあの表情は消え、机に向き直った。
背中で語る父親は散らかった机を整頓し始めた。
「万人が喜ぶものを書こうとしたらどうなると思う?駄作になってしまうんだよ。皆に受け入れてもらえるものを書いてるのに、ほらこれ、昔のアンケート」
ダブルクリップで綴じられている何十枚のアンケートに目を落とす。
「その時の脚本」
アンケートの上に放り投げられ、タイトルが目に入る。幸福な時間と書かれていた。
何かの紙を持って振り向いた父親は話を続けた。
「誰かを傷つけてるかもしれないっていつも考えて、考えて書いても傷つけてしまうことはある。皆の過去は知れないから。でもな、楽しみにしてくれる人もこんなに居るんだぞ」
次回公演のチケットは既に完売だと、掲げる紙に書かれていた。
「面白くないものを書いたら、楽しみにしてくれている人たちも傷つけることになってしまう」
喋ることを止めるように、また煙草に火を点け背中を見せた。僕は背中にお礼の言葉を掛け、書斎を出た。
父親から襷を受け取り、僕はリスタートすることにした。