再出発
息も絶え絶えになりながら、自動販売機を探した。十字路を右に曲がった所に小さな喫茶店があり、その隣に救いの自動販売機があった。僕はスマホを取り出し、島津から届いた羽柴の家の住所が記してあるメールと自動販売機に表示されている住所とを見比べた。一字一句違わない住所を見て、迷子になっていないと安堵するにはまだ早く、教えられた住所のはずが周りの家に羽柴の表札は見当たらないのだ。
雨足が強くなり、ハーミアと看板が掲げられている喫茶店で雨宿りをすることにした。ほうじ茶ラテを頼み、遅くなる旨を一斉送信して新たにメールを打つことにした。ここまで来たので羽柴の感情に訴えることができるであろうと思い、近所に住んでいることに確信を持ち、「ハーミアに来て」と送信した。
紳士然としたマスターがほうじ茶ラテをテーブルの上に置き、耳の奥で木霊するような渋い声を一声かけ、カウンターへと戻っていった。
何度目だろうか。カップから口を離しては、進んでいない時計を見るのは。長針は同じ数字を指し続けているに、カップの中身は全て僕の身体に移動していた。手持無沙汰になった僕は、店内に流れるクラシック音楽に耳を傾けた。
古いレコードなのであろうか針飛びを何度か起こし、音楽が途切れることが多かった。マスターは新たなレコードをかけようと、カウンターの奥にある棚を眺めており、その間に針は所定の位置に帰り音楽は止んだ。
カップとソーサーが奏でる高い音だけが店内に響いていたが、ややともすると静寂が店内を支配していた。静寂を振り払うように、湿った風が吹き抜けた。
玄関マットに靴を擦り付け、辺りを見回しているのは羽柴であった。僕はソファから腰を浮かせ、中途半端に手を上げてみせた。僕に気付いた羽柴も手を上げる素振りだけをして、整然と並べてある椅子を一つ引き座った。
トーストとコーヒーを頼み終わり、彼はメニューから目を逸らして、
「来たよ」にべもなく言うのであった。目の前に座っているのは羽柴簾なのだろうか。坊主頭に陰影がはっきりとしている彫の深い顔は彼であるはずだが、僕の知る羽柴とは重ならない。彼が纏う雰囲気が違うのだ。
伝えたい言葉と伝えるための言葉が一致しない僕は艱難をしのぐように、当たり障りのない話をした。
「こんな所にこんないい雰囲気な喫茶店があるなんて知らなかったな。ケーキもお持ち帰りできるみたいだし、何か買って帰ろうかな」
話しながら初対面と錯覚させる雰囲気に気圧され、彼からメニューへと視線を逸らした。
「ありがとうございます」
彼は僕の話を無視して、お盆に乗せたコーヒーとトーストを並べたマスターに言い、小瓶から少量の砂糖を入れ一口飲んだ。
重々しい空気に似つかわしくない新たな音楽が流れ始めた。それは僕も知っている曲であり、今を作り上げた原因である藤堂と協力関係を結んだ日にも流れていた曲だ。その音楽は藤堂との会話を思い出させた。
彼女が僕に言った言葉の数々が、トーストにバターを塗っている彼を僕の知っている羽柴簾へと変化させた。換言すれば、僕が作り上げた羽柴簾ではなくなったのだ。加えて、一致しなかった言葉は一つの言葉に集約された。
「ごめん」
集約された言葉を僕が言うと、バターナイフを置いた彼も鸚鵡返しのように呟いた。
一致した言葉が僕と彼の感情も一致させ、僕は堰を切ったように話し始めた。
「羽柴には申し訳ないけど島津さんからいろいろ聞かしてもらった。人の過去を話したのは彼女の思いやりだと思う。今の羽柴が過去の羽柴の轍を踏まないようにしてくれたと思うんだ。だから責めないであげてほしい」
彼は口に入れたトーストをコーヒーで流し込み、
「天馬が近所まで来てるから葉菜に何か聞いただろうなと思ったよ。別に責めたりしないよ。でも話すことは許せても、話す相手を見定められてないなら許せないけど」
陰にある目を向け、僕を見定めるように言った。
「きっと大丈夫だよ。羽柴の言葉を借りるけど、みんなと世界を共有したいと思ってる。でもね、自分の言葉は間違ってないと思う。けど、考え方が間違ってた。ごめん」
「それなら今はどういう考えなん?」
「簡単なことだよ。一人じゃなくて皆で。神様ですら世界を作り上げるのに七日間も費やしたことを考えると、一人だけじゃたかが知れてるとでも言うのか。それにその世界は与えられたものだからまた別に各々の世界が作り出されて、世の中は問題だらけになってると思う。正に僕と羽柴みたいに。だから僕たちは大きな世界に僕たちだけの世界を共有しよう。どんなに日数がかかっても、より良い世界を。そして僕たちは世界を与えるんじゃなくて感動を与えよう」
「なんとなくだけど言いたいことは分かった気がする。要は、切磋琢磨していこうね。でいいよね?」
「まあ、そういう事かな」
喫茶店に似つかわしくない笑い声が響き、陰の奥にある目には光が帯びているように感じた。
僕の言葉で彼を怒らせてしまい開いた幕は、僕の言葉で彼は笑顔になり閉じようとしていた。やはり僕と藤堂は勘違いをしていた。
感情から湧水した言葉を言えば、彼の感情は揺らいだのだ。
僕の書く人間が面白くない所以は、他人の一顰一笑を窺い勝手に不確かな感情を作り上げ、斟酌するように求めているであろう言葉を探し続けることにあったのだ。
言葉を受け取る側に問題があるとばかり思っていたのだが、言葉を発した人間に問題があったのだ。言葉が一致しなかった訳も、僕の気持ち、感情を無視して探していたからだった。
笑い声は彼の手の中へと消え入り、レコードからノイズの音までも聞こえるようになった。僕は答え合わせをするようにまた話し始めた。
「島津さんが待ってるから学校に戻ろうか。羽柴のことすごい心配してたし。それに比べて僕はすごく怒られるし。別に、怒られたから来たわけじゃないよ?」
「わかってるよ。葉菜が待ってくれてるなら戻るか。天馬の奢りでケーキでも買ってさ」
彼と僕を天秤にかけ、意識的に求めているであろう言葉を掛け、彼の弾んだ声に確信を持つことができた。
モンブラン、ティラミス、ショートケーキ、モンブラン。羽柴に言われた通りの注文を済ませ、彼に少し遅れて喫茶店を出た。どちらかが雨男なのだろうか、小糠雨が次第に大粒へと変わり、雨足に呼応するように僕たちの歩は自然と速くなった。
ひとりでに上がろうとする口角を無理に下げようと引っ張っている彼と昇降口で別れ、僕は先ずトイレへと向かった。なで肩である右肩と同じように左肩も下げ、胸椎を一つ失ったように背中を丸め、鹿爪らしい顔を作ってトイレを出た。
扉を開け入ってきた僕を見た皆は話を止め、何かを悟ったように黙りこくった。僕たちが作り上げた物々しい雰囲気に失笑しまいと、項垂れて椅子に座った。
「どうだったの?態度じゃなくて言葉で何か言ったら?」
「亜紀ちゃんの言う通りだよ。廉とは会って話せたの?」
「うん。一応話せたけど」
活人画のような悪戯だと考えていたのだが、二人の剣幕が背景にある物々しい雰囲気に引きずり込んだのだった。
頻りに扉を見る僕を怪訝そうな目で二人は見てきた。打ち合わせではケーキを持った羽柴が来てもいい頃だったのだ。しかし、羽柴がくる気配はない。詰問はより激化する一方だ。
「曖昧な態度って私たちにも迷惑なんだけど」
「きちんと説明してくれないと」
「私に対してのあてつけか何かなの?」
「これ以上、嵯峨くん一人で皆を振り回さないで」
意図していない罵詈雑言に耐えられず、僕たちの計画の全てを打ち明けようかと考え、思い止まった。
島津からは言われて当然であると思い、本心でもあるのだと思ったからで、藤堂が言うのは腑に落ちないでいた。何に対して怒っているのかが分からない。兎にも角にも羽柴は全体何をしているのだろうか。
「島津さん、藤堂さん、井伊さん、三好さん、嵯峨さん、家庭科室まで来てください」
聞き覚えのある穏やかな声が頭上から降りかかり、恵みの雨とでも言うべきなのか、僕を責め立てた二人は互いに目配せをして教室を出たのであった。
律儀に閉められた扉を開け、残された三好と二人の後ろを歩いた。
「大変ですね。僕なら平謝りしますよ」
気を遣い明るい声で言う彼に同調し、
「自分で蒔いた種ですからね。仕様がないです。巻き込んでしまって申し訳ないです」
自分でも可笑しいほどの丁寧な口吻で、後ろ向きな言葉を前向きの言葉のように言った。
「そう言えば、井伊さんがいなかったけど?」
家庭科室までに敬語で話すことを止めたいと思い、間をつくることを恐れて会話を続けようとした。
「井伊さんなら習い事をしているらしく、少し前に帰りましたよ」
「習い事は何をしているのか知ってるの?」
「習い事をしているのは僕も今日が初耳なんです」
「そうなんだ」
鋭い刃で斬られたように違和感もなく会話は終わった。
律儀に閉められた扉を開け、二人に続いて家庭科室へと入った。
「どっきり大成功」
ホワイトボードに書いた大きな文字の下に羽柴は立っていた。微かに揺れる二人の後頭部を見て可笑しさが込み上げてき、彼を見ると既に可笑しさを放出していた。
「いつから?」
島津の言葉に鼻白む彼の姿を見て、彼女の表情がありありと浮かんだ。
正にこの表情だ。振り向いた藤堂の表情を見て思う。互いに詰め寄られ、銘々が事の始終を説明し、宥める努力をした。三好はと言うと、教室から逃げ出したときとは違い、自身を抱きしめるように右手を左肩へと回し、腕に顔を埋め笑い声が漏れないように堪えていた。
左の口角に表れていた軽蔑は消え去り、両目に表れている怒りだけとなった所で、二人は鼻持ちならないと言った様子で羽柴が用意していた席に座った。僕たちの計画は失敗に終わったのだ。
鬱々とした家庭科室には晴れ渡るような甘い匂いが充満してきた。羽柴が冷蔵庫からケーキを取り出したのだ。文字通り小鼻をうごめかす彼を見て、その餌は羽柴が思っているほど釣り上げることはできないのだぞ、と言いたい気持であった。そんな僕の心の忠告を無視して、テーブルにお皿に乗せられたケーキを横に並べ、両手を広げた。
「これで機嫌でも取ろうとしてるわけ?」
やはりだ。並べられたケーキには目もくれず島津はいやに落ち着いた口調で言った。
僕たちの第一幕第四場は、お詫びであり、第二幕第一場を皆で見据えて幕が閉じる契機であったケーキは歓心を買う為のものになったのだ。
「そんなつもりはないけど」
時すでに遅く何を言っても羽柴の言葉は言い訳に聞こえる。僕がそんな風に聞こえたのだから、二人も同じように聞こえているはずだ。
「そこまでにして、ケーキは美味しくいただこうよ」
最終的に藤堂に宥められ島津はモンブランが乗ったお皿を引き寄せた。
ボタンを押し、落下してきたコーヒーの缶を取り出す。
「島津さんはなんだっけ?」
「紅茶じゃなかった?」
「レモンティーしかないけど?」
「紅茶の仲間だからいいんじゃないの?」
「羽柴が言うなら大丈夫か」
「てか、あのタイミングでケーキ出すのは間違いでしょ」
「どうやらその通りらしいね。俺はケーキさえ出せば丸く収まるかと思ったけど」
「そもそも、僕たちはあんなことできる立場じゃなかったしね」
「おふざけが過ぎたのかな」
「戻ったらまた謝ろうか」
僕は飲み物を抱えながら、財布を後ろポケットに仕舞う彼ととぼとぼ歩いた。
上に下にと首を動かす。ホワイトボードの下には島津と藤堂がしたり顔をして立っている。二人の頭上にあるホワイトボードの文字は羽柴が書いたものとは違っているではないか。僕は三好へと目を転じた。視線がぶつかり合うとテーブルへ顔を伏せ、素知らぬ風にしたつもりであろうが、ホワイトボードに書かれた、
「逆どっきり大成功」の成功のために一端を担っていることがわかった。
したり顔の二人はハイタッチを交わした。一連の行動を見届けてから、羽柴は目顔で訴えている。
「何か知ってるのか?」と。
僕は右に左にと首を動かす。
「何も知らない」と。
却って宥められながら、不承不承と椅子に座った。
全て見透かされていたとは。
「天馬の演技が大根だったからだよ」
「それもあるけど、二人が一緒に歩いて校舎に入ってくるのを三好くんが見てたんだよ」
羽柴の憶測であった言葉は、島津に肯定されてしまった。しかし、振り返ってみても、不自然に口数は少なく、大根役者であったことに間違いはなかった。それに比べ、片棒を担いだ三好の演技は自然であった。
これで何度目だろうか。僕は謝り続けていた。最後の一口を食べ終えた藤堂は、
「教室で言った事は嘘ではないからね」
くぎを刺すように、隣に座る島津に同意を求めるように言った。
「廉のことも言ってるんだよ」
頬かぶりを引きはがそうと島津も付け加えた。
蟠りがマスクのように口を覆い、気ぶっせいな話し合いが続いていた。主に論点となったのは、僕の戯曲についてであった。当の僕はと言うと、積み重ねられたお皿を洗い、話し合いの中心から離れていた。
「最初に言ってたやつは難しそうだよね」
「でも、それを言ったら他の二つも弊害は多くないか?」
「僕は一つ目が楽しそうだと思いました」
「私は三つ目の読んだことあるけど少しは楽しめたよ」
「それなら、三つ目は完成してるし、早く取り組めるってことだよね?」
「いや多分書き直すと思うよ」
「話しても決まりそうにないし、本人に決めてもらおうぜ」
最後の一枚を急いで洗い流し、話し合いの中心へと戻り、
「多数決はどう?」
濡れた手をズボンで拭きながら言うと、皆が一斉に首を傾げた。同じ動作をしていることに気付いた島津が笑いだし、蟠りは何処かへと消え去った。