利用
朝からの孤独感を抱きながら放課後を迎えてしまった。僕はまた職員室へ行き、柏原先生を訪ねたが今しがた講堂へ行ったと聞かされ、重たい足を引きずるように向かった。
より一層、重たく感じる扉を開け、例の如く寄りかかる柏原先生に声を掛けた。視界の端では多くの部員が稽古しているのが確認できた。柏原先生が指さす席へ座り、
「今朝はありがとうございました。鍵も落としたみたいで届けられていませんか?」
ステージまで届くはずはないと思いながらも小声で聞いた。
「鍵ですか?もしかして緑色のキーケースですか?それなら文芸部の顧問が預かっていましたよ」
目が慣れてきたのか、薄暗い講堂に訳知り顔で話す柏原先生が浮いて見えた。
暗転したステージが明転すると十人以上が中央に集まり、反省会のようなものを始めていた。
「僕たち以外にも新入部員が多く入ったんですか?」
「いいえ。鵜鷹高校の演劇部の人達ですよ。時間があるなら鵜鷹さんの新入部員に挨拶でもしたらどうですか?」
「今は止めときます。まだ演劇部でもありませんし」
「きっと、そういう事だと思いますよ。文芸部は三年三組の教室で活動してますよ。顧問の宇佐美先生に尋ねてみてください」
「ありがとうございます。二か月後にお願いします」
もう一度、暗転した頃を見計らって講堂を後にした。
柏原先生の含みを持たせた言い方や浮いて見えた訳知り顔が、尾を引くように頭の中を蝕んでいる。かてて加えて、言い得て妙だと言い放った原稿用紙の落書きも。一つ一つを摘み上げても、柏原先生が見通しているであろうものが僕は見通すことができない。全体何を伝えようとしているのだろうか。
定めし、文芸部に行けば何かわかることだろう。
逸る気持ちが鼓動、足取りの拍車をかけるように、文芸部の部室である三年三組の教室まで向かわせていた。
物音ひとつしない教室に物音を立てた僕へ視線が集まり、
「宇佐美先生はいらっしゃいますか?」僕が言うと、集まっていた視線が教壇に置かれたパイプ椅子に座る人に向けられた。教卓に栞を挟んだ文庫本を置き、立ち上がったその人は、
「入部希望者ではなさそうね。ご用件は?」
教卓に軽く背を預けて言った。
「宇佐美先生がキーケースの落とし物を預かっていると柏原先生に聞いて」
「おかしいわね。君は昨日、文芸部に来たかしら?」
首を横に振る生徒を一瞥した宇佐美先生は続けて、
「職員室に置いてあるから行きましょうか」
腑に落ちないでいる僕の横を通り過ぎて行く宇佐美先生の後を急いで追いかけた。
職員室から持ち出してきたキーケースは確かに僕のであった。宇佐美先生と首を横に振った生徒のやり取りを見るからに、キーケースが落ちていたのはあの教室で間違いなかった。
「僕ので間違いありません。ありがとうございます。どなたが届けてくれたのか教えてくれませんか」
「私が拾ったのよ。でも文芸部の子たちのじゃないって言うから困ってたの」
「もしかしてこれを持った人が来ませんでした?」
僕の頭を蝕んでいた訳知り顔を思い出し、紙袋を掲げて言った。
何かを思い出した様子で職員室へと踵を返し、戻ってきた宇佐美先生の手にはプリントが持たれていた。そのプリントを渡され、
「さっきはいなかったけど、昨日その子が入部届を持ってきたわ」
入部届に視線を落とし、宇佐美先生の言うその子の名前を確認した。
「藤堂亜紀」
一つの隙間を残して組み込まれていた、今までの様々な形をした疑問は、藤堂亜紀という名前を最後にテトリスのように全て消え去った。
宇佐美先生に入部届を返し、改めて感謝の言葉を言い帰途に就いた。
家々が類焼しているような往来を自転車に乗って進んでいると、八百屋のお七を思い出し、演劇部へ正式に入部できれば上演してみたいなと思った。
電車で原稿用紙に書かれていた数々の指摘を読んでいるとき、スマホに母親からメールが届き、夕食がないと言うことなので近くのコンビニに寄り、弁当を買ってまた類焼する往来を進んだ。
電子レンジの高い音が僕をウェイターの気分にさせ、一人気取って自分の弁当を取り出した。部屋は空虚と馥郁たる香りが充満していた。
空になった弁当箱の横に原稿用紙を広げ、電車での続きを始めた。
「案山子のお遊戯会」
「答案用紙のような物語」
「一人綾取り」
一ページを繰るごとに、憤懣やるかたない思いになり、空になった弁当箱と一緒に原稿用紙もゴミ袋に入れ、ついたけちを洗い流すためにお風呂に入ることにした。
アイスを片手にテレビを見ていると玄関の方から「ただいま」と聞こえ、父親と顔を合わせないように二階の自室へと行った。母親は反抗期と言う一言で済ましていたが、僕が父親に抱いているのは対抗心に近いのかもしれない。
今日は原稿用紙の件もあって、尚のこと父親には会いたくなかった。脚本も演出も手掛け、全国津々浦々を上演して回っている父親に原稿用紙に書かれていた指摘のこと、演劇部に入部するために一人舞台を作らなくてはいけないこと、それらを相談すれば、容易に解決するかもしれない。だがしかし、僕自身が抱えている問題の解決にはならないのではないか。
部屋には新しいノートが広げられたままで、優先すべき問題を提示しているかのようだった。日がな一日、原稿用紙に関わる問題に気を取られ、羽柴達に一週間と約束した戯曲は何一つ進んではいない。
ボールペンを持ちプロットを書き出そうとしても、原稿用紙に書かれていた指摘の真意が分からなければ書き出すことができない。同じ過ちを続けてしまうのではないだろうかと考えてしまうのだ。
僕はいつから原稿用紙の指摘が正しいと思うようになっているのか。思い当たる節があったとでも言うのだろうか。自分の感情の変化に今になって気付いた。
「話の筋は面白いかもしらんが、人間が面白くない」
中学生の頃に言われた、父親の言葉を思い出した。
父親の言葉と藤堂亜紀の指摘が重なっているように感じるのだ。彼女からの直接的な言葉を聞かなければ、プロットも書き出せない。諦念するようにノートを閉じ、眠ることにした。
朝から藤堂亜紀を見つめていた。見つめていただけだ。話しかけることなく、ホームルームも終わり、放課後を迎えてしまった。僕が怯懦であることは認めるが、何かきっかけがない限り話すことができない。荷物を持って教室を出ようとする藤堂を見ながら、僕は立ち上がった。
藤堂を見送り、僕を呼んだ島津の席へ行った。近くに羽柴は見当たらない。気を利かせているのだろうか。申し訳ない気持ちになり、
「どうかしましたか?」
負い目からか敬語になっていた。
「廉とは喧嘩じゃないよね?」
僕は顔を背けた。それは、質問に対する答えではなく、彼女に見据えられたことによる照れであった。
「今から廉を呼んでくるから仲直りして。お願いだから」
しかし、彼女は質問に対する答えだと受け取ってしまったようだ。
今にも飛び出そうとする彼女に、
「喧嘩じゃないから大丈夫。用事があるからまたね」
宥めるように言い、その場を立ち去った。
有り体に言えば、僕も分かっていないのだ。それ故、ありもしない用事を作り上げ、羽柴と顔を合わせないために、逃げるようにその場を立ち去ったのだ。僕が原因で関係のない心配をかけ、かてて加えて嘘をついてしまったことに間違いはなかった。
自戒するように僕は文芸部の部室へ向かった。僕の中にある怯懦を押し殺し、観念の臍を固めて扉をノックする。
「昨日の今日で何か御用かしら?」
後ろ手に扉を閉めながら、宇佐美先生は言った。
「藤堂亜紀さんにお礼を言いたくて。いますか?」
「律儀な子ね。呼んでくるわ」
取り残された僕は言葉を探し続けた。
言葉を見つけられないまま、目の前の扉が開いた。宇佐美先生の呼ぶ声は音漏れのように微かに聞こえており、僕の名前を知らないのかお客さんとだけ伝えられた藤堂は、お客が僕だと分かって澄んだ双眸が軽く閉ざされた。
彼女は閉ざされていない教室に顔を覗かせ、言葉を残して扉を閉めた。
沈黙を引き連れ歩みを進める彼女の後をついて歩き、中庭まで出ると空いているベンチに座った彼女は、
「私に用事ってどれに対して?」
沈黙を切り離すように言った。僕は彼女を見下ろし、
「原稿用紙について。って言えば何のことか分かるよね?」
「そんな怖い顔してないで取り敢えず隣に座ったら?」
どうやら無意識に顔が強張っていたのだろうか、促されたよう意識的に顔を綻ばせながら隣に座った。
質問をかわされ会話の接ぎ穂を失い、周章狼狽する僕を横目に、
「君の落とし物は私にとって天からの賜物だと思ったよ」
雲間から一筋の光が射し込む空を見上げながら言い、身体を僕の方に向け続けた。
「最初に言っとくけど君の話は面白かったよ。でも、終わりまで一直線って感じ。言いたいことがわかるかな?えっと確か、王女が他国の王子と結婚を拒んでたのに、何の前触れもなく結婚の意思を固めるシーンがあったよね?」
頷いた僕を見て、
「前触れがないって言えば嘘になるけど、感情の揺れがない。誰かの言葉で揺れたりするはずなのに、全て自己完結しているように感じたの。他人によって起こされる喜怒哀楽が少ないのかな。でもね、でもね、さっきも言ったけど、設定とかは本当に良かった」
滔々と語った彼女は両手を天高く上げ、伸びをするように大きく息を吸っていた。
彼女は原稿用紙に指摘を書き、正体を隠した理由は何も話さなかった。尤も彼女の話には気になることもあり、
「賜物だと感じたって言ってたけど、どういうこと?」
答えが隠されているであろう言葉を摘み上げ言った。彼女は天高く上げていた両手を膝の上に置き、
「どういうことって言われても困るな。言葉通りだよ」
「それなら質問を変えるけど、柏原先生に届けたのが藤堂さんって口止めしたのは?」
「君がどこまで本気で書いてるか気になって。でも、今日来てくれたおかげで本気だって分かったよ。だって私の書いたことに怒りを覚えてか、納得したかで来たんでしょ?自分の作品に本気じゃない人はわざわざ来ないよ」
「それなら、鍵もわざと文芸部に置いたってこと?」
彼女は何度も首を縦に振り、跳ねるように立ち上がった。
「私は君を成長のために利用させてもらう。君も私を成長のために利用して」
差し伸ばされた手を僕は凝然と見つめる事しかできなかった。僕にとって彼女の手は一筋の光なのだろうか。