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覗き、覗かせ、覗かれて  作者: てんてこ
1/19

始まり

 観客を恍惚とさせ、万雷の拍手を浴びている出演者たちを舞台の袖で目の当たりにした時、僕の夢は決まった。いや、目に溜まる涙を隠すように破顔一笑し、僕の隣で一緒に拍手を送る父親を見たときだったかもしれない。

 どこか余所余所しい教室は、初めて見る顔ばかりだった。それも当然であろう。僕が通っていた中学からこの天坂高校へ入学したのは、教室の入口に近い席に座り、喧噪を気にせず読書をしている藤堂亜希だけである。彼女とは取り分けて仲が良いわけでなく、言うなれば顔見知り程度だ。

 チャイムが鳴り教室に先生が入ってくると、新しい友達が増えたスマホをポケットに仕舞う人、隣同士で談笑していた人、耽読していた本を閉じる人、各々が指定の席に座り見慣れない鼻眼鏡を掛けた中年の先生を見据え、先程までの喧噪は水を打ったように静かになった。

「入学おめでとう。入学式でも紹介されたように担任の柏原欣也です。柏原先生、欣ちゃん先生どちらで呼んでも構いません。今日はこれから部活動紹介があるので、体育館に集合してください」

柏原先生が諧謔を交えながら話し、教室に少しの笑い声が響いた。

 右腕の腕時計を確認した柏原先生は徐に僕たちに背中を見せ、

「経験とは、私たちが失敗につける名前のことだ」

黒板に大きく書いて、振り向き「せーの」と言ったが、僕も含め誰も反応せずに教室は打って変わって沈黙が続き、その場を取り繕うように、

「この言葉はわたしが好きな言葉です。ぜひ皆さんと共有したいと思いまして、書いてみましたが、皆で読むのは少し小学生みたいだったかな」

柏原先生は後頭部に手を当て、恥ずかしそうに言った。

 またも笑い声が響き、何人もの生徒が顔を見合わせ目顔で示し合わせると、その内の一人がやおら立ち上がり、

「先生。もう一回言ってください」

よく通る声で言い、辺りを見渡した。それに呼応するように一人また一人と立ち上がり、気が付けば半数以上が立ち上がっていた。言うまでもなく、僕もその半数の一人だ。立ち上がろうとしない生徒も冷たい視線に耐えかねたのか不承不承とだが、遅れて立ち上がった。

 全員が立ち上がったことを確認してから、

「こんなことは初めてです。きっと良いクラスになるでしょう。ではもう一度」

僕たちに賞賛を送り、大きく息を吸った。

「せーの」

「経験とは、私たちが失敗につける名前のことだ」

様々な声音が重なり一つの声になった時、早くもクラスが団結したのだと感じた

 オスカー・ワイルドの言葉が教室に木霊した。柏原先生は満面に笑みを浮かべ、

「失敗を恐れずに沢山のことに挑戦して視野を広げてください」

一言付け加え、チャイムを合図に教室を後にした。

 教室から生徒が三々五々、体育館に移動していた。僕も取り残されないように、筆記用具を持って足早に教室を出ようとすると、

「おーい。そこの一人ぼっちのきみ。もし一人なら僕に付き合わない?」

後ろからナンパのセリフとでも言うべきなのか、高校生には似つかわしくない声が僕の耳に届いた。しかし、耳に届いたところでそれは僕に向けられた言葉だと言い難いのも確かで、振り向くべきか逡巡した。

「聞こえてるでしょ。ツンツン頭の毬栗さん」

続けて聞こえた声に迷いは払拭され、いささか腹を立て勢いよく振り向いた。

 僕の前に立っていた声の主を見て思わず失笑した。

「なに笑ってんねん」

「いやいや。だって毬栗頭は誰が見ても君の方じゃん」

笑うのも当然である。毬栗と呼んだ彼は長い時間、日に曝されたのがよく分かる典型的な野球少年であったのだから。

「いいツッコミや。俺は羽柴簾って言うねん。仲良うしてな」

「関西の人なんだね」

「いいや。違うよ」

「なんやねん」

我知らず関西の言葉が口から飛び出し、それを聞いた羽柴は僕の肩を叩きながらその手を肩に回した。

 身振り手振りが大仰で、なんて剽軽な人だろう。羽柴に抱いた第一印象は悪いものではなかった。

「毬栗くんの名前は?」

「嵯峨天馬。だから毬栗って呼ぶな」

「おお。ペガサスか」

隔意なく話す羽柴に引っ張られるように会話は進み、気が付けば歩も進み体育館に辿り着いていた。

 出席番号順に並ぶと言うことで体育館の入口で羽柴とは別れ、またも一人となった。室内は黒いカーテンで覆われている窓が陽光を通さず薄暗く、ステージの上に吊るされている大きなスクリーンの文字を克明に浮き出させていた。咳払いがマイクを通して、スピーカーを通じ、体育館中に反響して生徒たちはステージの上に立つ生徒会長を見上げた。

「今から部活動紹介を始めます」

生徒会長の一言で事前に用意されていたであろう映像が次々にスクリーンへ投影された。

 派手なパフォーマンスで魅せた運動部が終わり、漸く文化部の紹介が始まった。

「私たち演劇部は三年生が抜け、新三年が二人、新二年が三人の合計五人で活動をしています。今なら新入生も主役を演じられるチャンスです。興味があれば放課後に講堂へ来てください」

ミサンガをした手で前髪を何度も触る部長の紹介を聞いて、僕は何か違和感を抱いた。その正体を突き止めている間に遮光カーテンは開かれ、入部届のプリントが前から配られていた。

 考えるまでもなく、筆箱からボールペンを取り出して「演劇部」と記入した。違和感の正体は今日の放課後に講堂へ行けば自ずと分かると思い。

 プリントが全生徒の手に届いたことを確認して、生徒会長が再びマイクを使って何や彼やと話していたが誰の耳にも届いてはいなかった。解散の言葉だけは皆の耳に届き、これから新しい環境を共に過ごすであろう友達に駆け寄ったり、どこに身を置くのかと相談したり、追求する人と追究する人で二分されていた。

 渡り廊下は人で溢れ、進む気配がないのでその場に留まり人の流れを見ていた。背後から軽快な足音と快活な声が聞こえた。

「ペーガーサース」

その声で多くの視線が僕に集まり、いたたまれない気持ちになりながら俯いた。だが、僕がペガサスであることは羽柴が肩を組んだことで周知の事実となってしまった。

「その妙にリアリティがあるあだ名は止めてくれ」

「ごめんごめん」

顔の前に手を合わせて謝っていたが、手の後ろに隠された表情は如何にも楽しそうだった。

「それより天馬ってきょろきょろしすぎじゃない?挙動不審みたいに」

心安立ての質問に丁寧な口調で嫌味を含ませ、

「癖なんだよね。僕が見たところ羽柴はある物語に出てくる宿屋の主ってとこかな」

演劇部と記入した入部届を掲げながら言った。

 彼は怪訝そうな表情をして、教室まで歩いていた。僕たちが教室に戻った頃には生徒は僅かしか残っておらず、黒板に「ホームルームはなし」と書かれていたのを見て、異様に感じた光景に納得した。

 講堂へ向かうため机の横に掛けていた紙袋と鞄を持ち、教室を出る前に友達になれたであろう羽柴に一声かけた。

「羽柴。また明日」

「ちょいとお待ちを」

彼は可笑しな口吻で僕を呼び止めた。僕は扉の前で立ち止まり、椅子には座らずに腰を曲げ机の上で何かを書いている彼を待った。

 書き終わった彼の表情はあの怪訝そうな表情は消えており、どこか清々しい表情をしているのに小首を傾げ、

「なに書いてたの?」

僕の質問に彼は右手に持っていた紙を差し出してきた。それは入部届であった。加えて、演劇部と記入されているではないか。

 僕はプリントを受け取ろうとする彼の手を握った。彼は目を瞠りながらも、手を握り返して、

「これからよろしく」と微笑を浮かべながら言った。

「そこの仲良し二人組」

少し掠れた声にいち早く反応した羽柴は手を解き、振り返った。彼の表情を窺うことはできなかったが、彼を見る彼女の表情は綻んでいたので、顔見知りだと思えた。

 あみだくじを目で追うように、机の隙間を歩いてくる彼女を眺めていた。羽柴の目の前で止まり、肩越しに会釈をされ、釣られるように僕も会釈をした。彼は彼女の会釈で僕に振り向き、僕の会釈で彼女に振り向き、それからも何度か首を振り、何かを思い立ったのか僕の腕を掴み、

「嵯峨天馬。こいつと一緒に演劇部に入ることにした」

彼女に僕を紹介した。続けて彼は、僕の腕を離し、彼女の腕を掴むと、

「幼馴染の島津葉菜。もしかしたら天馬とは気が合うかも」

彼の紹介が終わり、改めて自己紹介をした。

 互いに自己紹介を終え、掛け時計を一瞥した。僕の視線に目敏く気付いた彼女は、

「演劇部は講堂だっけ?もう行かないとね」

手の甲を見て話した。僕はよもやと思い、

「もしかして島津さんも演劇部に入るの?」

彼女に尋ねてみた。しかし、予想に反して首肯の素振りはなく、首を横に振った。

 仔細らしい顔をしている彼女に羽柴も気付いていたようで、

「わざわざメモしとるのに行かんって、何かあったん?」

事情を引き出すように聞いていた。彼女はようやく頷き、短く息を吐いて訥々と語りだした。

「さっきたまたま演劇部の部長に会ったんだけど、部活紹介で気になることがあったから聞いてみたんだ。演劇部は演出家として入部することができますか?って。それを聞いた部長さんは顔を顰めて、経験が浅い一人に任せるより、演劇部みんなで苦心惨憺した方がいいものができると思わない?だって。でも諦められなくて、演出の勉強のために入部できませんか?って聞いたけど、役者だけしか入れないって言われたから諦めたの」

これだったのだ。僕が抱いた違和感の正体は。彼女の話を聞いた限りでは、僕も演劇部に入部することは許されない。

 いつの間にか島津のことでなく、僕自身のことについて思いを巡らせていた。

「天馬、お前もか」

閉口する僕に羽柴が意図的にか、ジュリアス・シーザーを思い出させる言葉を掛けてきた。今しがたまで意気消沈、茫然自失となっていたが、彼の言葉で哄笑した。明るさをもたらした張本人は僕と彼女に取り残され、訳も分からぬと言った様子で不服そうな面持ちをしていた。

 羽柴にお礼を言ってから、島津に向き直り、

「僕も戯曲を書いていて劇作家志望なんだ。もう一回、お願いをしに行ってみようよ。それでもだめなら顧問に話してみるとか」

自身をも鼓舞するように彼女に言った。

 友達の友達だった島津とは講堂までの道すがら、たわい無い会話のなかで羽柴の言葉通り意気投合して、友達になるにはあまり時間を要さなかった。

「体育館で俺のことを宿屋の主って言ったけど、葉菜の第一印象は?」

彼の言葉を早くも理解したように、

「気になる気になる。廉はピッタリじゃん」

彼の横からひょいと顔を出して僕の言葉を待っていた。当惑した僕は少し悩んでから、

「ジョー」

零すように呟いた。しかし、彼女の耳には届いておらず、

「ジョー?だってよ」羽柴が改めて彼女に言うと、

「ジョーって若草物語のジョセフィーン・マーチのこと?」

「うん。ファンティーヌでもいいけど」僕は付け加えた。

「それって私の髪が長いからってだけの理由でしょ」

その通りであった。頷いた僕を見て彼女は笑い、隣の羽柴はまたも取り残されていた。

 講堂の扉を前に僕たちは顔を見合わせ、覚悟を決めてから重たい扉を開けた。真っ直ぐで包み込むような、大きな団扇で扇がれたような、何本もの糸が張り巡らされたような、名状し難い声音が響いていた。要するに圧倒されたわけだ。施錠されていた片方の扉に寄りかかっていた先生が僕たちに気付いて、マイクを使いステージの上で行われていた演技を止めた。

 僕たちの前を歩く先生が柏原先生だとわかったのは、ステージ上を照らすライトに入ってからだった。先輩たちの胸元には名札がつけられており、部活動紹介で話していた部長はキャサリンと書かれていた。

 ばつが悪そうに僕たちに隠れるよう、俯いていた島津に気付いたキャサリン部長は、

「演劇部へようこそ。役者として頑張ろうね」

島津に念を押すかのような挨拶をしたが、僕は背中に彼女を隠して委細構わずに、

「僕は劇作家志望なんですけど入部はできますか?」

素知らぬふりをして尋ねた。

「戯曲が書きたいなら文芸部だね」

「文芸部で書いたら演劇部は演じてくれるんですか?」

「それは私じゃなくて皆で決めることだもの」

「それに戯曲を脚本とするのは僕として演出してくれる人は?」

破裂音が講堂内に響いた。柏原先生がマイクを切らずに手を叩いたらしい。

 皆の視線を一身に集めて、その場に座らせて徐に口を開いた。

「両者の言いたいことはよく分かりました。小早川さんは皆で納得していいものを作りたいと。そして君は各々が役職に専念していいものを作りたいと。それでは問題です。黒田くん、私が言いたいことが分かりますか?」

黒田くんであろう人物が立ち上がった。カチューシャを使って、長い前髪をオールバックにしているその風貌はどこか近寄り難いと感じた。例の如く、黒田さんの胸元には名札がつけられていた。リントンと書かれた名札が。

「お互い目指しているものは一緒で、いいものを作りたいと思っている」

黒田さんの答えに柏原先生は拍手を送り、人差し指を立て、

「一つだけ違うことがあるとすれば、なんだと思いますか?ではそこの君」

立てていた人差し指を僕に向けた。

 間違い探しでも残り物の方が難しい。僕は柏原先生の話を反芻しても、違いが浮いてこない。沈黙が続き、その沈黙が時々刻々と僕に圧し掛かり、身体中の血液が滾るように熱くなった。

「納得してもらえればいいんですか?」

あの掠れた声が沈黙を吹き飛ばした。

「その通りです」

「分かりました。この三人で二か月後にまた来ます」

島津は座り続けていた羽柴の襟首を掴み、半ば強引に立たせてから言った。

「分かりました。楽しみにしています」

僕は柏原先生の言葉で彼女の思惑が分かり、一段と身体が熱くなっていた。


 果たせるかな羽柴は気遣わし気な様子をしており、彼の言葉は幾度も喧噪にかき消された。誰がファーストフード店に立ち寄ろうと言ったのだろうか。否、誰も立ち寄ろうとは言っていないではないか。これが阿吽の呼吸なのだと思った。しかし、僕たちの考えは銘々違うだろうとも思っていた。

 ストローから口を離した島津は伏し目がちになり、講堂での宣戦布告とも言える発言を悔悟しているようだった。事の顛末が見えていない羽柴はそんな彼女を斟酌することなく、

「入部届も提出しないで帰るってどういうこと?二か月後に何をしようとしてるのか全く分からん」

彼女を後悔の深淵に引きずり込むように言った。彼女は羽柴に負い目を感じていることは分かっていた。巻き込んでしまったと。彼は巻き込まれたことを知らずにいるから、きっと謝りたいと思っているのだと。僕は項垂れた島津の代わりに彼の疑問に答えることにした。

 羽柴の協力なくしては島津の考える入部までの道筋は途絶えてしまうから。それは僕も同じなのだ。

「羽柴には協力してほしい」

彼の視線を島津から離そうと、最も伝えたいことを始めに言った。視線も意識も僕に向けられてから更に続けた。

「二か月後に羽柴を主演に一人舞台を作ろうと思う。それは俺と島津さんが演劇部に入部するためであって、正直に言えば羽柴は何の利益もない。だって羽柴は役者として入部しようとしていた訳だし。それでも、演劇部の先輩たちに納得してもらうために協力してほしい」

話し終えると笑い声が喧噪に混じり、項垂れていた島津も顔を上げた。

「なんだ。そういうことなのね。なるほど。そういうことか。ほうほう。なるほどなるほど。なんて水臭い。君たちは水臭い連中だな。是非とも。是非とも協力させてほしい。だって天馬が戯曲ってやつを書いて、葉菜が演出するのに、俺がおらんとかそっちの方が嫌ですよ」

真面目な話を一笑に付して言った。

 長い息を吐いた島津はどうやら安堵したようだった。初めて教室で見たときと同じ表情をしていた。

 残るは僕だけである。二人の懸念が払拭されたことは嬉しいのだが、大きな問題は僕が抱えてしまっているのだった。それを言ってしまえば水を差すことになってしまう。目標を共有した今だからこそ、胸の内に隠す必要があるような気がした。そんなことは露知らず、

「演技の為にいろいろ見てみよ。映画とか舞台とかあんまり見たことないし」

「ずっと気になってたんだけど、なんでサッカー部に入らなかったの?」

「ちょっと待って、羽柴って野球少年じゃ」

前途多難である事態を憂慮していた僕は二人の会話を聞くともなく聞いており、知らぬ間に口走っていた。

 素っ頓狂な声に二人は呵々大笑しながら、「ほらね」「やっぱりか」と言い合い、羽柴が言葉を引き継いだ。

「まず始めに、よく勘違いされるけど、野球はやったことありません。次に、今日欣ちゃんがいったろ?視野を広げろって。天馬に運命感じちゃった」

質問に答えているようで答えていない、はぐらかしているように聞こえたのは僕の気のせいだろうか。

 斯くして、懸案事項は告げることができずに、明日からの活動についての計画を立ててからファーストフード店を後にしたのだった。

 言えなかったのは虚栄からなのだろうか。或いは、矜持であろうか。はたまた、島津と羽柴の二人を信用していないからだろうか。どれも違うのではないか。僕は、二人に心配をかけたくないのだ。光明、曙光を僕が立ちふさがることで、かき消してはいけない。では、明日からどうすればいいのだ。

 喟然として深い息を吐き、終点で電車を降りた。手探りで鞄から自転車の鍵を取り出そうとしたが、一向に見つけることができない。街灯の下に移動し探しても、尚見つけることができない。落としてしまったのだろうと肩を落として帰路についた。

 インターホンから母親だが母親でない声が聞こえ、カメラに映る僕を確認したのか、聞き慣れた母親の声で、

「どうしたの?」

「どっかで鍵を落とした」

「あんた、どこで落としたんかね」

「明日もう一回、学校探してみる」

「先生にも聞きなさいよ」

「それより、家の中でお話ししませんか?」

鍵が開けられる音が聞こえ、漸く我が家へ足を踏み入れることができた。

 母親の話を背中で聞きながら、二階の自室へと向かった。制服を脱ぎ捨て、ベッドに置かれたファッション誌をゴミ箱に捨てた僕はベッドに横たわり、引き続き明日からのことを考えた。天井を眺めながら、横になる時間があるのか?自問自答をする暇があるのか?机に向かわなければ。早く早く。その前に腹ごしらえだ。

 階下から母親の夕食の準備ができたと呼ぶ声が聞こえ、脱ぎ捨てた制服をハンガーに掛けて階段を下りた。

 汚れた食器をキッチンへ持って行き、食休み旁々ソファに座った。テーブルを布巾で拭いていた母親が、

「もう一回、鞄の中を確認しときよ」

ソファに横になった僕に言った。空返事を見破った母親はリモコンを使い、テレビの電源を消して続けた。

「明日はお父さんが帰ってくるから、今日みたいに鍵は開けてあげれんよ」

「オッケー。鵜の目鷹の目俺の目で探してきますよ。まあ、久々ゆっくりしてきたら?」

やおら起き上がり、背もたれに顎を乗せて言った。

 音楽が流れ始めた時計に目を遣り、ゆっくり動く秒針を見つめた。キッチンからお風呂を促す声が聞こえたが、秒針が遅く見える現象の名前を思い出せずにいる僕は生返事をしていた。

昔、テレビで見たことがある。何だっただろう。最初の文字さえわかれば思い出せるはずなのに。母親は知っているのだろうか。よし、聞いてみよう。

キッチンを振り返ると、眼前に聳え立っていた。

「あんたさっきから、はいはいはいはい言ってばっかりで話を聞いてないでしょ」

母親の言葉を聞くが早いか立ち上がり風呂へ逃げ込んだ。

 上気した顔を手で扇ぎながら、ソファに座ってテレビを見ている母親に「おやすみ」と言って自室へ戻った。ベッドに飛び込みたい気持ちを堪え、紙袋からノートを取り出そうとしたが、ない。なかった。紙袋がないのだ。

 いつ、僕が、どこで、何を、なぜ、どのようにした時に紙袋を手放したのだろうか。講堂へ向かう前に鞄と一緒に持った記憶がある。然らば、講堂に置いてきたのか。結論から言えば、忘れそうになったが、紙袋に気付いた先輩が教えてくれたので忘れてはいない。確か、その先輩の名札にはロックウッドと書かれていた。ロックウッド先輩が教えてくれたので、紙袋は持って、講堂を出たのだった。三人で立ち寄ったファーストフード店を思い出してみる。ない。なかった。紙袋はなかった。

 講堂を出てからを思い出す。三人で並んで歩き、他の教室には立ち寄らず昇降口へと向かった。スリッパを下駄箱に入れ、スニーカーを出した。その時、靴紐が解けていたことに気付き、鞄が邪魔なので肩に掛け紙袋は傍に置いた。靴紐を結び終わると、昇降口を出ていた羽柴が僕を呼んだ。島津だったかもしれないが、どちらでもいいだろう。呼ばれた僕は二人の許へ走って行った。

 学校を出ようとしたとき、昇降口で、僕が、解けた靴紐を、危ないと思い、結んだときに忘れたのだ。

 親切な人が届けているだろう。自身に言い聞かせながら新しいノートを取り出し、机に向かった。やはり、前途多難だ。一人舞台など考えたこともない。羽柴に二役、三役、四役とさせるのか。素人の羽柴にできるはずがない。少なくともあと一人。二人になれば僕にも光明、曙光が見えるはずだ。

 都合の良い光を見つけた僕はボールペンを置き、ベッドへ潜り込んだ。新入部員は僕たち三人だけではないのかもしれない。早計は駄目だ。この指とまれと歌えば仲間が増えるかもしれない。かもしれないはいい言葉だ。だろう運転より、かもしれない運転を心がけるようにとニュースで言っていたような。

 けたたましい音が耳を聾する。枕元に横たわる目覚まし時計を止め、半身を起こして伸びをした。朝は嫌いだ。昨日までの僕ではないような気がするからだ。一から昨日までの僕になる為に準備を始めた。

 洗面台で顔を洗い、歯を磨き、ヘアワックスを手に取り、戸棚へと仕舞った。昨日の僕とは少し違ってしまうが。突然、鏡の向こうに現れた母親が、

「昨日と違ってゆっくりしてる時間はないよ?」

背後に立ちながらも僕の顔を見て言った。言ったが意味が分からない。僕が寝惚けているのだろうか。

「え?なんで?」

振り向きはしないで、虚像である母親を見ながら聞いた。

「自転車は駅の駐輪場でしょ?」

そうだった。忘れていた。何故もっと早くに言ってくれないのだ。お門違いに母親を責めながら、自室へ駆け込んだ。

 いつになく慌ただしい朝を終え、肩で息をしながら電車へ乗り込み、空いている席へ座った。流れる景色を茫然と見つめ、僕の流れ行く先も見つめようとしていた。流れに身を任していいのだろうかと。結句、僕だけの懸案事項を抱えたまま演劇部の先輩たちを納得させるものが作れるとは思えないのだ。然りとて、それを告げたところで問題は僕であることに変わりはない。だからこそ僕たちの問題にする必要はないはずだ。

 僕が無人島に漂着してから少し遅れ、流れていた景色も止まった。同じ制服の知らない人たちが一斉に降りた光景を見るだけで、意識せずとも僕も一緒に降りていた。

 扉を一枚隔てていたが、昨日とは教室の雰囲気が違うように感じられた。躊躇いつつ教室に入り、勘違いでないことを確信した。昨日の余所余所しい教室ではないのだ。言うなれば、打ち解けている。この一言に尽きる。少しの間、疎外感、と言うよりは孤独感を抱いたが、羽柴の姿を確認して孤独感は消え去った。

 安心感を求めるように羽柴を求めた。それは孤独感ではなく、疎外感を抱かないようにするためだ。しかし、彼は僕の知らない友達と話していた。孤独感と疎外感が同時に押し寄せてき、机に突っ伏して四方八方に飛び交う会話に耳をそばだてた。

 校内放送が流れ始め、一瞬間教室は静かになったが自分とは関係ないと知るや否やまた騒がしくなった。関係者は一人立ち上がり教室を出ていった。

 職員室の扉をノックして室内を窺いながら、

「一年二組の嵯峨です。柏原先生はいらっしゃいますか?」

近くにいた先生に伺うと職員室の端に設えられた、用途が分からない空間に案内され、吸い込まれるようなソファに座った。

 パーテーションの陰から紙袋を持った柏原先生が現れ、僕と先生を隔てるテーブルの上に紙袋を置いた。

「落とし物です。届けてくれた人にお礼を言いたいと思いますが、なぜか言わないでほしいと言われまして。恥ずかしがり屋さんですかね。ははは。それで、持ち主が分からないので中を見させてもらいました。ちょっと気になることがありまして、確認してもらっていいですか?」

悠然としてお茶を啜る柏原先生とは対照的に、僕は瞋恚の炎に包まれていた。

 原稿用紙を紙袋に戻し、口元を湯呑で隠している柏原先生に、

「誰なんですか?」

隠されていた口元に微笑を浮かべていた柏原先生は質問を無視して言った。

「やはりそうでしたか。どう思いますか?」

「どうもこうも、届けた人が誰なのか気になります」

「言い得て妙だと思いませんか?」

言葉を失い言い返せることができない。へどもどする自分に嫌気が差し、紙袋を手に持ち職員室を飛び出した。

 飛び出した先には羽柴が立っていた。その隣には島津も。

「あの声って柏原先生だよね?もしかして演劇部について?」

きっと放送を聞いた彼女が友達と談笑していた羽柴を連れたって来たのだろう。教室で待っていても良いことなのに職員室の前で待っていたと言うことは、余程気になり焦慮しているに違いない。

「ただの忘れものだよ。親切な人が届けてくれてたみたい」

感情は言葉に隠し、真実を言った。

 彼女はどこか憮然としていた。それに気づいた羽柴が、

「俺たちだけで頑張ろう。きっと成功するよ」

前向きな言葉に勇気づけられたのか、笑顔を取り戻した彼女を先頭に教室へ引き返そうとした。

 前向きな言葉は時に苦しめるのだと知った。今のままでは成功できるはずがない。

「一週間、一人で考えたい」

後ろから聞こえた僕の言葉を突飛だと思ったのだろうか、

「なんで?三人で協力したらいいじゃん」

羽柴が振り向き、語気を強めて言ったのを聞いて、僕も我にもなく語気を強めていた。

「成功させるためだよ。一の集団より、十の集団の方が成功の確率は高いだろ?せめて俺だけでも十にならないと成功しないんだよ」

「わかった。もういいよ、好きにして」

島津の手を曳いて教室へ戻る彼をただ眺める事しか出来なかった。


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