第18話
そして、傷を癒し終えたサラがルシファーを睨め付け、口を開こうとした瞬間、それよりも早くルシファーが口を開いた。
「待て・・・・。そう安易に言葉を選ぶものではないぞ。その選んだ言葉によっては宣戦布告とみなし、少しばかり面倒な事になってしまうからな・・・。そうなる前に、一つ私の話を聞いてくれないか・・・・?神が善というなら私は悪。そんな概念を抱くお前達に是非知ってもらいたい話なのだが、まず私はこう訪ねたい。なぜ神は善であり、それに敵対する全ての者を悪と想うのか?我々を含め、この世に蔓延る悪は元々神が創ったもの。いや・・・創ったと言うより神の中にも悪が存在していたと言ったほうが正しいだろう。その悪という名の根源は何だか解るか?その答えは・・・・欲だよ。
そう・・・神の中にも欲は存在していた。いや、寧ろ神は強欲そのもので、それこそ欲の塊と言っても過言ではない。そんな神が我々を創り、人間を創った。つまり簡単に言ってしまえば親から子へ遺伝してしまったんだよ・・・欲が。無論、試作品として最初に創った品は失敗だった。欲に支配され、まるで動物を見ているかのようだった。それから神は試作品を創り続け、ようやく完成したのが今の我々、そして人間だ。だが、自分からどうしても遺伝してしまうそれを隠す為に神は理性を与えた。つまり、取る事の出来ない悪を植えつけといて、それを制御するシステムを与えた。分かるか?この意味が。傲慢や欺瞞はヤツの為にある言葉だ。自分で欲という知恵を与え、それを制御出来ない者は地獄へ叩き落す・・・・。惨い話だとは思わないか・・・?だが私は違う。全ての者を平等に扱い偏見などもしない。さぁ、娘よ・・・それを踏まえて自ら答えを出せ。いずれにせよ結果は同じ事だが、どうせなら同意されたほうが気持ちがいいからな・・・・。」
ルシファーがそう言い放つと、キルがテレパシーの様なものでサラの頭の中に話しかけた。
「騙されちゃダメだ。あれはただの作り話だ。いいかいサラ?僕が合図をしたら・・・・・」
無表情のままキルがサラへと語りかける中、この異様な沈黙を切り裂く様にガブリエルの声が何処からともなく響いた。
「なかなかいい事言うじゃねぇか・・・。そいつに関しては俺も同感だ。てめぇは単なるサディストかと思っていたが、それは間違いだったようだ。貴様はエゴイストだよ・・・それは神とて同じ事。
俺にとっては似た者同士って事だ。つまり、お前が神に取って代わり世界を操ろうが俺には関係ねぇ。ただ・・・・お前のそのエゴをへし折ったらどうなるかと思って・・・。」
姿は見えないが、そうガブリエルの声が響き渡ると突然、凄まじい衝撃音が地面を揺るがした。
それは、ルシファーの目の前に空間の裂け目が現れると、そこから怪奇な腕がルシファーの顔面目掛けて飛び出してきたのだ。だが、その拳は目標を捕らえる事が出来ず、その一歩手前でピタリと止まっていた。
空間の裂け目から飛び出してきた太い腕。そしてその先にはゴツゴツとした大きな拳。だが、ルシファーの顔面とその間には白く華奢な手がスルリと伸びていた。
アスタロトだ。ルシファーの後ろで片膝を着き、俯いたままピクリとも動かなかったアスタロトがいつの間にかルシファーの隣に。
しかも、その今にも折れてしまいそうな手を伸ばし、大きな拳を掌で受け止めているではないか・・・。後ろに居る七人の魔術師が吹っ飛ぶほどの威力にも拘らず、軽々と・・・。
そのアスタロトの表情は深く被った銀のフードで窺う事は出来ないが、微かに見える紫色の唇の両端がつりあがった瞬間、アスタロトの掌に防がれた怪奇な腕はあっという間に凍り付いてしまい、それを細長い指で包み込む様に軽く握ると、粉々に砕け散ってしまったのだ。
「それがお前達の答えか・・・。後悔しても知らんぞ。」
不敵な笑みを浮かべながらルシファーがそう言うと、アスタロトがキルの方へとゆっくりと歩み寄って来た。
さすがのキルも苦笑いで後ずさり。
「そいつは頼んだぜ・・・・キル。」
そんなキルの頭上から突然そう声が聞えると、翼を広げたガブリエルが物凄い勢いで大空から急降下し、キルのすぐ後ろに居たサラを抱きかかえると再び上昇したのだ。
だが、二十メートルほど上昇したその先には、いつの間にか七人の魔術師達が・・・・・。
「ここは私に任せて・・・。」
周りを取り囲む魔術師を見渡しながら、意外にも冷静にサラが小さな声で言った。
それに答えるかのよう、抱きかかえる腕をスルリと外すガブリエル。
無言のまま二人は顔を見合わせると、サラが小さく頷き、ガブリエルは静かに地面へと降り立った。
その頃、微妙な距離を置いてアスタロトがその歩みを止めた。覚悟を決めたのか、キルの表情はキリリと引き締まっている。そして、そんな両者から五十メートルほど離れた後方にはルシファーが腕を組み、悠々閑々と佇んでいるのだが、なんと、その目の前にガブリエルは降り立ったのだ。
上空では魔術師がサラを捕らえようと七人が印を結びながら呪文を唱え始め、そのほぼ真下にはキルとアスタロトの無言の睨み合いが続き、その後ろ側ではルシファーとガブリエルが向かい合い、互いに不敵な笑みを浮かべている。
異様な沈黙の中、最初に聞えた音はキルのパチンッという指を弾いた音だった。
恐らくキルがクリエイティブ・ワールドを使ったのだろう。その証拠にキルが指を弾いた瞬間、この空間のすぐ裏側に存在する異空間へと二人は移動し、消えてしまったのだから。今頃、キルがそこに創った創造の世界で戦いが始まっているのだろう・・・。
そんな最中、上空でも動きが見え始めた。
印を結び、呪文を唱え続けていた七人の魔術師の口がピタリと一斉に止むと、中央に居るサラへと全員が手をかざしたのだ。
それと同時に、サラは薄っすらと浮かび上がる緑色の線で囲われた立方体の中に閉じ込められてしまった。
だが、そんなサラの表情からは焦りや不安といったものは何等見受けられない。そして、サラはゆっくり目を閉じると、再びその目を開けた。
「あなた達にはこれで十分よ・・・。」
囚われの身でありながらも、そう豪語するサラの左側の瞳は朱色に染まっていた。
「七人でこの程度の結界?情けないわね・・・・。」
内側からコンッコンッと軽く叩きながらボソリと呟くと、穏やかな表情から一変、鋭い眼つきで眉間にシワを寄せるサラ。・・・・と、その瞬間、一瞬ではあるが左側の朱色に染まる瞳が更に赤みを増し、それと同時に右手の掌をドンッと結界に当てたのだ。
すると、当てた掌を中心に蜘蛛の巣のような細かい亀裂が広がると、それはガラスが砕け散るように粉々に割れて消滅してしまった。が、まだサラのその険しい表情は変わらない。
後ろ側に何かを感じたサラは、瞬時にその体を反転させると、一人の魔術師が一枚の呪符を投げつけてきた。そして、その呪符は術者の「フレア」の言葉で炎の矢へと変化しサラの方へと物凄いスピードで飛んで来たのだ。
間一髪でそれをかわしたサラは、懐から素早く二枚の呪符を取り出し、それを左右に一枚ずつ指で挟むと、先程の魔術師に向けてそれを投げつけたのだが、途中、二枚の呪符はまるで意思を持つかの様に空中でピタリと重なり合うと、お返しと言わんばかりにサラは「フレア」と唱えた。
ニヤリと笑うサラの視線の先には、重なり合った二枚の呪符が突然燃え上がり、そこから炎を纏った鳥が現れると、凄まじい勢いで標的へと突っ込んでいったのだ。
慌てて両手の掌をかざし、淡い緑色のバリアーを張る魔術師だが、真っ赤に燃え盛る火の鳥はそれをいとも簡単に突き破り、魔術師は巨大な炎に包まれ、墜落してしまった。
「レベルが違うのよね・・・・レベルが。」
墜落してゆくそれを見ながら自慢げにそう言うサラ。
残すところはあと六人・・・・。
余裕の笑みを浮かべ、少々乱れた髪を整えながら後ろに居る残りの六人へと視線を移すサラだったが、そこに彼等の姿は無かった。
個々の能力では格段にサラが上。だが、彼等は腐ってもエリート魔術師。最早、それに気付いた時には遅かった。
初めて見せた焦り・・・・。そんなサラの頭上には六人の魔術師達が既にそれを実行していた。
ふと上を見上げたサラの頭上にはビー玉大の黒く小さな球が浮いていた。とっさに身をかわそうとしたが、なぜか身動きが取れず、頭上に浮く小さな黒い球は一気に膨れ上がりサラの体を包み込んでしまったのだ。
「マ・・・マジ?これって悪魔の瞳・・・?って事は私ここから出られないじゃん。ど・・・どうしよぉぉぉっ・・・。」
大きく膨れ上がった黒い球体の中に閉じ込められたサラ。しかし、このサラが言う悪魔の瞳とは一体・・・・?
それは、代々ラズバクト家に伝わる「黒と魔の書」にも記されている究極の技の一つらしい。幾つか有る結界術の内の最高位に位置するもので、どんな衝撃を与えてもそれを砕くことは出来ず、術者の意思、または術者がそれを維持する魔力を無くした場合のみに解除される高等結界術。己に使えば絶対防御。他人に使えば脱出不可能な束縛術。
それを知っての事か、なんの抵抗を見せず、黒い球体の中でただ呆然と座り込むサラ。
そんな高等術を使う魔術師達を見てみると、六人全員が印を組んだままピクリとも動かない。やはり、絶大な魔力を要するこの技は一人では到底無理。従って、六人全員の魔力を合わせてこの技を維持しているのだ。
だが、一人でも欠けてしまえば解除されるはず・・・・。
そう・・・ガブリエルが衝撃波の一発でも放てば魔術師の気が逸れて解除されるかもしれない。そう思い、サラは下に居るはずのガブリエルへと視線を移した。・・・・が、そこにはガブリエルはおろか、ルシファーの姿さえもなかったのだ。一体彼等は何処へ・・・・?
それは、ガブリエルが創ったアブソルート・ワールド(絶対的な世界)の中に居た。
しかし、どうも様子がおかしい。ここはガブリエルが創造した世界のはずなのに、その本人が薄暗い牢獄の中で手足を鎖で縛られ、壁に固定されているではないか。そして、ルシファーはというと、小さな部屋でソファーに座りながら目の前にあるテレビを見つめている。だが、その画面には何も映ってはいない。
そんなテレビの前にはガラス製の洒落たテーブルがあるのだが、その上に置かれたリモコンへと徐に手を伸ばし、電源のボタンを押すルシファー。
そして、テレビの画面に映し出されたのは、鎖で手足を縛られたガブリエルの姿だった。
「驚いたかね・・・?まぁ、無理も無いだろう。立場が逆転しているのだからな・・・。それにしても少し甘いぞ・・・これ。」
テーブルの上にはリモコンのほか、ティーカップに注がれたコーヒーが用意されていて、それを上品に啜りながらルシファーが言った。
ガブリエルがそこに座り、自分好みに作ったコーヒーを嗜みながら、ルシファーを創造通りに痛めつける様をテレビに映して観賞する。
そう創造したはずのアブソルート・ワールド。しかし、なぜかその立場が逆転している。
彼にしては甘すぎるそれを半分ほど飲むと、更にこう続けた。
「ここは紛れもなくお前が創ったアブソルート・ワールド。しかも大きな欠点も無く、ほぼ完璧に近い。まぁ、そうでないと絶対的な権力は得られないがな・・・。しかし、私はその絶対を覆すことが出来る。なぜだか解るか?それは私がこの技を考案し創ったからだよ。ただ単に教えてもらったものを使うお前やキルとは違い、これが成り立つプロセスを私は知っている。具体的に言えば、この世界を創造するにあたって、まず頭の中で考える。しかしそれは、こればかりに当てはまるものではなく、一般的に言える物事の始まりだ。
そう、全ては頭の中から始まる。・・・と言う事は、私がお前の頭の中を覗いた・・・・・・と、解釈されてもおかしくはないが、答えはノーだ。さっきも言ったが、物事の始まりは頭の中で始まり次に行動、そしてそれが成り立つプロセスを経てようやく完成となる。つまりは、お前が創ったこのティーカップ・・・・まずこれを頭の中で大きさやデザインを創造し、それを具現化する。これが行動だ。
しかし、これにはある法則に基づき決まったプロセスを通らないと正しくイメージした通りに具現化されない・・・・・。」
ソファーに座り、ティーカップを眺めながら長々と話を続けるルシファー。しかし、途中でその口を止めると、コーヒーが半分ほど入ったそれを床に落としたのだ。
もちろんその衝撃で床に叩きつけられたカップは割れてしまった。
「今の出来事をお前の頭の中に映像として送ったのだが見えたか?
この割れたカップはお前が創造した物であるが故に、いや、根本から言えば、この世界を支配するお前にしか復元することは出来ない。
ましてや部外者の私にそんな事をするのはまず不可能。」
床に散らばった破片を見つめながらそう言うと、その視線をテーブルの上へと移すルシファー。そして、ほんの数秒ほど一点を見つめていると、元々あったカップの位置に新たなデザインのティーカップが現れた。しかもコーヒーがなみなみと注がれている状態で。
「やはりコーヒーはブラックに限る・・・。まぁ、余談はそこまでにして、そろそろ答えを出すとするか。要するに書き換えだ。お前も知っての通り、ここを創造するにあたって、膨大な量の情報を一度暗号化し、圧縮する。その作業はまだ頭の中だが、それを自らのエーテルに乗せて居空間へと一気に放出する。その瞬間に我々もそこへ移動するのだが、気付いたその時には暗号化し圧縮されたデータは既にデコードされ具現化されている。しかし、その作業の中にはある法則が存在する。とはいってもその規則も私が考えたんだがな・・・・・。ちなみにその法則に則ったお前の情報を見てみると、暗号化した全てのものにGという文字が入っている。そして、お前自身をGの一文字で表し、私はZの一文字で現されている。もちろん解るよな?お前が創ったプログラムなのだから・・・。そしてここが要だ。頭の中で組み立てた圧縮データをエーテルに乗せて放出する際、具現化されるのはほんの一瞬で終わってしまう。だが、私にはそれがゆっくりはっきりと見えてしまう。そして、具現化されるその前に、お前のGと私のZを入れ替えただけだ。そう、互いの識別を表すたった一文字だけ・・・。つまり、今は私がGでお前がZ。だから、全てのものにGという記号が入っているこの世界は私の思いのまま・・・。さきほど創造したこのティーカップも私なりのイメージを暗号化し、それにGを加えただけの話だ。単純だろ?
ちなみに神が創ったあらゆる世界もこれと似た様な仕組みになっているが、こんな単純なものではない。もっと複雑に暗号化し、こことは逆に自分だけが孤立するコードを持っていて、その他のプログラムには存在しないたった一つのコードを持つ者が支配出来る様になっている。まぁ、そんなところだが、なにか質問はあるかね?」
テレビの画面を見つめながら、そう言い終えると、自分好みに作ったコーヒーを一口啜り、不気味な笑みを浮かべるルシファー。
そんな中、画面の中のガブリエルは終始、俯いたままピクリとも動かなかったのだが、ここで急に笑い始めたのだ。
「はっはっはっはっはっ・・・・・こいつは笑えるぜ・・・。そんな事を言っておいて神に破れたのは誰だ?それによ・・・そこは俺が座る椅子なんだよ・・・その汚いケツを退けてくんねぇか?」
俯いたままそう言うガブリエル。だが、戯れ言だと思われるその言葉を聞いたルシファーの顔からは笑みが消えていた。
カップを口に運ぶその手を止め、静かにそれをテーブルの上に置くと、ガブリエルがもう一言だけこう言い放った。
「早く退けよ・・・。」
その言葉はテレビのスピーカーからではなく、なんと足を組みソファーに座るルシファーのすぐ後ろから聞えたのだった。
その頃、キルとアスタロトはというと・・・・・・
白を基調とした大きな神殿の様な建物の中に居た。
「ようこそ、我がクリエイティブ・ワールドへ。」
白く巨大な円柱の柱が何本も聳える大広間にキルの声が響き渡る。
だが、そこには俯くアスタロトだけでキルの姿は見受けられない。
「足を踏み入れる事はおろか、永遠に見る事さえ出来ないパルテオン神殿を再現してやったんだ。僕に敬意を示さなければね・・・・アスタロト君。なんたってここは神や神族が住まう場所。」
更にそうキルが続けるが、アスタロトは何の反応も見せない。姿の見えないキルへと集中しているのだろうか・・・?
しばらく何の攻防も見られないそんな状況が続くと、俯いたままのアスタロトの紫色に染まった唇が微かに動いた。
「俺を愚弄しているのか?アブソルート・ワールドを使えよ。」
それはとても小さな声だった。だが、そんな声はかき消されるどころか、この静寂を呑み込んでしまうかの様に不気味に響き渡ると、広い大広間の向こう側から冷たく低い唸り声が波のように押し寄せてきた。
やがてそれは、アスタロトの耳元でピタリと止まると、そのすぐ後ろ側に黒いボロを纏った何者かが静かに佇んでいた。
顔中に大量の蛆が這い、悪臭を放つその腐敗した体からは腸の様な臓物が飛び出ているなんともおぞましいその姿。
「死神に喧嘩を売ったお前には、恐怖と死の裁きをくれてやろう。」
ガブリエルと最初に出会ったその姿でキルはそう言うと、目の前で背を向けるアスタロトへ負ぶさる様に覆い被さった。
すると、腐敗したキルの体は粘りけのあるドロドロとしたドス黒い液体へと変化し、アスタロトが纏う銀色の衣がほぼ黒色に染まると、突然、重油の様なその液体から紫色の炎が上がりアスタロトはあっという間に巨大な炎の包まれてしまったのだ。
なす術も無かったのか、抵抗する間も無く巨大な炎に包まれてしまったアスタロト。だが、今尚も激しく燃え続けているにも拘らず、もがくどころかピクリとも動かない。いや・・・キルの凄まじい力で動けないのであろうか?
「あの方はお前をさぞ気に入っていたようだが、死神のキルとはこの程度のものなのか・・・・・?」
燃え盛る紫色の炎の中から不気味な声が聞えてきた。・・・と同時にその炎を中心に物凄い爆風が一瞬、辺り一面に広がるとアスタロトを包み込んでいた炎は消え去り、白を基調とした壁面や床には所々に氷が張っていた。
身に纏う銀色の衣には焦げ跡すら残っておらず、何事も無かったかの様に最初と何等変わらない状態で薄っすらと笑みを浮かべ、首を微かに動かし辺りを窺うアスタロトの視線は自分が立つ少し前の床で止まった。
「出て来いよ・・・・。」
視線を床に当てたまま静かに口を開くアスタロト。
すると、その床の中からキルがゆっくりと現れると、その表情は動揺を隠せない微妙な面持ちだった。
「邪眼を知っているか?この眼から逃れることは出来ない。しかもあの方と同じで数秒先までの出来事が見える。よってこのままではお前に勝ち目は無い・・・。」
目元まで深く被ったフードをめくり、そう言うアスタロトの眼は漆黒の黒玉の様な瞳で、不気味な光を放っていた。
「邪眼か・・・・初耳だね。っていうか、自慢げに言っちゃってるけど、どうせルシフェルに創ってもらったんでしょ?」
不安げな表情とは裏腹に、そう吐き捨てるキルだが、何かいい策でも思いついたのだろうか。と・・・、その時、目の前に居るアスタロトの姿が一瞬で消えると、いきなり真横に現れ、アスタロトの小さな拳がキルの顔面を捉えた。
その小さな体から放たれた打撃とは思えないほどの衝撃音と共に吹っ飛んだキルの左頬はガチガチに凍りついていた。
慌ててその身を起こしたキルは右手の掌に真紅の炎を出現させると、それを凍りついた左頬へ当て、
「なるほどね・・・・。確かにこのままじゃまずいかも。このままじゃね・・・。ちなみに、本気で怒った時の僕の恐ろしさをルシフェルに聞いていたかい?自分で言うのもなんだけど、メチャクチャ怖いからね・・・・・。ウフフフ・・・。」
アスタロトから十メートルほど離れた場所でキルがそう言い終えた頃、既に頬の氷は完全に融けていて、輪郭をなぞる様に滴り落ちる水滴を拭うと、先程のアスタロトの様にフッと消えてしまった。
そして、それと同時にアスタロトの目の前にその姿を現すと、右拳を顔面に叩き込んだのだ。
歪む顔面を追うように小さな体が吹っ飛ぶと、いつの間にかに出現した青い扉へと吸い込まれ、バタンッと扉が閉まったかと思えば、床に新たに現れた赤い扉が開き、その中から天井へ向けて物凄い勢いで飛び出してきたアスタロト。
その頃、既に空中で待機していたキルは打ち上げられてきたそれの顔面へと更にもう一発。
聞いた事の無い様な凄まじい打撃音と共に地面へと叩きつけられるアスタロト。そして、その衝撃を物語るかのように小さな体を受け止めた白一色の床は大きく陥没し、大蛇の如く長い亀裂が地面を走り抜けた。
「邪眼とやらは使わないのかい?まぁ・・・使っていたとは思うが
役に立ったかね?次に起こる出来事が見えていても、その対応が遅ければ何の意味も持たない。つまり、宝の持ち腐れってやつだ。言っておくが・・・・スピードだけならルシフェルにも負けない自信はあるんだよね。」
乱れたマントの襟を立て直しながらキルが独り言のようにそう言うと、陥没した地面の中からその声は聞えてきた。
「スピードだけなら褒めてやるよ・・・・。だが、それだけじゃ俺には勝てないぜ。言い忘れていたが、この邪眼にはもう一つの能力があるんだよ・・・。」
姿はまだ見えないが、その放たれた言葉からは何等ダメージを受けていないようにも窺えた。
その後、数秒の沈黙を挟むと何処からともなくピシッ・・・ピシッという異音が響き渡り、それが止むと同時に一瞬で分厚い氷が床一面を覆ったのだ。
膝から下まで分厚い氷が張り巡らされ、身動きの取れないキルの前に現れたのは紫色の唇がニタリと笑うアスタロトだ。透ける氷の中からゆっくりとその姿を現すと、目元まで被さる銀のフードをもう一度めくり上げ、細い指先を左目に突っ込み、黒玉の様な真っ黒い目玉を取り出して見せた。
「お前の言う通り、これがあの方に頂いた邪眼だ。当初は二つあったが今はこれが最後の一つ。右目は地獄にある魔黒石を磨いてはめ込んでいるだけだ。つまりはただの飾り。そう・・・右目の邪眼は過去に使ってしまった。使いたくはなかったがなにせ命には代えられないんでね・・・・。ちなみにこいつを使うという事はどういう事か・・・・・?喰うんだよ。こいつを体内に取り込めば俺の魔力は今の倍になる。しかもその時から永遠にな。」
そう言い終えると、先程取り出した邪眼を口の中へ放り込むアスタロト。まるで飴玉を噛み砕く様なガリガリッという異様な音がキルの表情を曇らせた。
だが、そんなキルも黙って見ているわけではない。懐から小さなビンを取り出すと、蓋を親指でポンッと弾き飛ばし中に入っている赤い液体を分厚い氷の上に垂らしたのだ。
ちなみに、この赤い液体の正体はあらゆる炎を支配していた元精霊イフリートの涙。今ではいたずらの度が過ぎて魔神へと堕とされたらしいのだが、時々ミカエルに内緒で、そんなイフリートの元へ遊びに行っていたキル。
その後、どの様にして手に入れたのかは不明だが、その威力と美しさに惚れ込んで手にしたこの一品はキルの数あるコレクションの中でも上位に位置するという。
そんなイフリートの赤い涙を分厚い氷の上に少量ほど垂らすと、七色の炎が瞬く間に広がったのだ。しかし、その幻想的な美しさに見とれている暇は無い。その威力は凄まじく、床一面を覆う分厚い氷はあっという間に融けてしまい、自慢のスピードで脱出したキルだが黒いブーツとマントの先端が焼け爛れてしまっていた。
「ひゅぅぅぅっ・・・・危ない危ない・・・。それにしても、もったいない事しちゃったなぁ。まぁ、またイフリートに貰えばいいか。」
上空へ逃げ込んだキルの眼下には未だに七色の炎が広がっていた。
その光景はまるで七色の雲が広がっている様にも見えた。そして、焼け爛れた黒いブーツとマントに視線を止めたキルは空中でクルリと一回転すると、ブーツとマントが新品に換わっていた。
「それにしても、君は羨ましい限りだよ・・・アスタロト君。こんなに美しい処で死ねるなんてね。ウフフッ。さてと・・・・・。」
眼下に広がる七色の炎を見つめながらキルはそう言い、元の褐色の大地へと戻すべく、指を弾こうとしたその瞬間、凄まじい衝撃音と爆風が辺り一面に轟いた。
一瞬のその出来事に驚いたキルはとっさに黒いマントで顔を覆うが、その後に訪れた異様な静寂さに何かを覚えたのだろうか、顔を覆うマントからそろりと眼下を覗いた。
「な・・・・なに・・・?」
唖然とするキルの眼に飛び込んできたのは、辺り一面に広がっていた七色の炎が全て消えていて、視界を濁す様に白い霧が立ち込めていたのだ。
「う・・・嘘だろ?イフリートの炎が一瞬で・・・。」
「・・・・誰が死んだって・・・?」
驚愕の表情を隠せず、固まったままのキルの背後から不気味な声が聞えてきた。
だが、ここはさすがのキル。先程の凄まじい衝撃と爆風の後に訪れた数秒ほどの、いわゆる嵐の前の静けさの中でこうなる事を予想したのだろうか、霧の中に紛れ、いつの間にかに背後に現れたアスタロトの更にその背後から目の前に居るキルとは別のキルの声が聞えてきた。
「ちょっとしつこくない?君・・・。」
そのキルの声と共に突風が吹き荒れると、視界を濁していた霧は消え去り、更にアスタロトの前に居るキルは砂のように崩れ、吹き荒れる風に乗り消えてしまったのだ。
体は熱く、頭は冷静に・・・・まるでキルの為にあるようなその言葉。一体、キルの頭の中では何手先まで読んでいるのだろうか?そして、そのキルの頭の中のコンピューターがはじき出した結果は既に出ているのだろうか、アスタロトの背後で薄気味の悪い笑みを浮かべているキル。だが、そんなキルに背を向けたままピクリとも動かないアスタロトはというと、驚くどころか彼の顔からも笑みが零れていたのだ。