第12話
銀色に輝く砕け散った鏡の破片が地面には落ちず、空中でピタリと止まっているではないか。しかも、その前に立つキルの姿は、割れた鏡のようにバラバラになっている。もちろん鏡の中のキルも同じ状態だ。
ピタ・・・ピタ・・・ピタッ・・・・
そんな中、素足で冷たい床を歩く音が聞えてきた。相変わらずの無表情で女が割れた鏡の前でその歩みを止めると、両腕を前に出し、左右の人差し指をクイクイと動かし始めたのだ。
すると、その人差し指の動きに合わせて割れた鏡の破片が元の場所へと、まるでパズルのピースを組み合わせるように次から次へと元の位置に戻ってゆく。しかし、まだキルの体はバラバラのままだ。
そんな中、作業することおよそ五分、残りのピースはあと三枚。
それは、慎重に、そして確実に一枚・・・二枚・・・と、女の指の動きに合わせてピタピタと張り付いてゆく。残すはラスト一枚。数ある破片の中でもかなり大きめのものだった。
そいつに焦点と指先を合わせ、そのラストピースが僅かに動き出した瞬間、なんと女の首に巻いてある黒いバンドが切れてしまったのだ。フワフワと、ゆっくり落ちる黒いバンドは青い炎に包まれ、地面に落ちる頃には跡形もなく燃え尽きてしまっていた。
やはり髪の毛一本分のエーテルではこれが限界だったのだろうか。もちろんキルの力を失ってしまった今、空中で止まっていた最後の鏡の破片は地面に叩きつけられ粉々に砕け散ってしまった。更にそれと同時に大量の黒い羽が空中に舞い散り、女の姿はなくなっていた。
時の流れを取り戻したこの空間。果たして割れてしまった鏡の破片は一体、どの部分で、どこを映し出していたのだろうか。もし、そこにキルが映っていたのならば・・・・・・。
「な・・・・なんてこった・・・・。」
時が流れ始めたこの空間に、最初に響いたこの声は鏡の中のキルのその一言だった。
まさか・・・・・・
鏡の中のキルが目にしたその光景はなんと、キルのすぐ真横にある全ての物が、鏡の破片と同じ面積、つまり、そこに映っていた風景全てが消滅していたのだ。
「い、いやはや何とも恐ろしい・・・。」
そこにあったはずの手術用のライトや人体模型の一部分、壁などが黒く切り取られているその様を横目でチラリと窺い、一言だけそう呟くと、さすがのキルも固まったまましばらく動けずにいた。
「と、とりあえず成功で、い、いいのかな・・・?」
キルが鏡の中の自分に訊ねる。
「そ、そうだね・・・。しかし、まだこれで終わったわけじゃない。いつまでも僕をこの鏡の世界に閉じ込めておくわけにはいかないだろ?」
少し寂しげな声とは裏腹に、鏡の中のキルは笑顔でそう答えた。
「永遠という存在の中で、こんな感情が芽生えるとは思ってもいなかったよ・・・。きっと人間は短い生ある時の中でこんな気持ちに幾度となく苛まされるんだろうね・・・・。死と別れを見続けてきた僕がまさかだよ。しかも、自分で自分を創っておきながらそれを自分で殺す・・・。」
鏡の中のキルとは目を合わせず、下を向きながらそう話すと、それを割って入るように突然鏡の中のキルが少し強い口調で語り始めた。
「キル・・・やめてくれないか?。その時間が長ければ長いほど君に嫉妬してしまう。それに、出会いもあれば別れもある。創られたものは必ず壊れる。それが摂理というものだろ?単に君はそのきっかけを作ったに過ぎない。同一人物だといえ、もし立場が逆だとしたら僕は何の迷いもなく君を殺す。死神に情など必要ない。いや寧ろ僕と同じ思考、能力を持った君を恥じるよ・・・。」
「フッ・・・・。まさか自分に説教を受けるとはね・・・。そう、僕は死神だ。情など必要ないし、同業者は二人と要らない。」
ようやく目が覚め、いつもの死神のキルに戻ったのか、果ては、感情を押し殺したのか、そう言い切ったキルだが、やはりその目は最後まで鏡の中のキルを見ることはなかった。
「さようなら・・・・・。」
鏡に背を向け、最後に一言だけそう言うと、いつも通り指をパチンッと弾いた。
すると、この空間に創造された、点滅を繰り返している蛍光灯を含め、全ての明かりが一瞬にして消え、暗闇の世界に一変したのだ。が、鏡の中の世界には今までと同様、点滅を繰り返している物も幾つかあるが、蛍光灯が明かりを放ち続けている。しかも、不思議なことに、鏡の中の空間からの光は一切こちらの世界に漏れることはなく、その中から覗いたこの世界は何も見えない漆黒の闇なのだ。
「キル・・・・こちらからは何も見えないが、きっと君は僕に背を向けているだろうね。もし立場が逆だったら僕もそうしているだろう・・・。死神の君に適当な別れの言葉を選ぶのは難しいが、最後に・・・・君に不吉な幸運を・・・・。」
鏡の中のキルがそう言い終えると同時に、腹の底にまで響きそうなゴォォォッという地響きが鏡の中の世界だけに鳴ると、手術台や延命装置、人体模型に棚、その部屋にある全ての物が歪にねじれ始め、やがては、その空間自体が歪み始めてきた。そして、一定の物質はその何らかの力に耐え切れず次々に破壊されてゆく。
壁面を覆い尽くす規則正しく並べられた白いタイルは一気に剥がれ落ち、粉々に砕け、更にその白いタイルが張り付いていた壁面は何もない無限に広がる暗闇の世界が延々と広がっていた。
この術を始めて使ったキルだが、この後に何が起きるか、そして最終的にはどのような形で終焉を迎えるのかは分かっていた。なぜなら、この技は元々ルシファーのもので、彼がこれをキルに習得させる意を込めてのデモンストレーションを実演し、それを目の前で見せられたからである。
天井と地面以外、四方八方暗闇に覆われたなんとも異様な空間に佇むキルの表情はこれから起こる出来事を知っておきながらも、無表情のまま目の前に広がる暗闇のどこか一点を見つめたままだ。
そして、終焉という名のカウントダウンが始まった・・・・。
それまで鳴り響いていた地鳴りがピタリと止み、静寂に包まれた。
嵐の前の静けさか、それとも滅び行く者の為に与えられた僅かな安らぎの時間か、何にせよ、全てのルールはルシファーが決め、創り出したもの。
ギリギリ・・・・ギリ・・・ギリ・・・
すると、何処からともなく発条を巻くような音が聞えてきた。
止むことなく続くその音にも動じず、キルは一点を見つめたままその表情は変わらない。
発条を巻くような音が鳴り始めてからしばらくすると、今度は目に見える変化が現れた。
ふと、上を見上げてみれば蛍光灯が設置されている天井がゆっくりと回転し始めたのだ。しかも、それと連動するように床も回転し始めた。
天井が右回転。床が左回転。
だが、床が回転しているにもかかわらず、なぜかキルは動かない。
ギリギリと異様な音を立てながら暗闇に浮かぶ二枚上下のパネルが徐々にそのスピードを増し、回転し続ける。
ガコンッ・・・
それからどれくらい経った頃だろう・・・。突然大きな音が鳴り響き、それぞれ逆方向に回転していた天井と地面の二枚のパネルの動きが止まった。
それまで無表情のまま一人佇んでいた鏡の中のキルだが、ここでなぜか不思議そうな顔で周りを見回し始めた。
「君の仕業かい?・・・・キル。」
周りを見回しながら鏡の中のキルが言う。
「その通り。フーッ、間に合って良かった。」
「一体どういうことだい?」
鏡の中のキルがそう言ったすぐ後に、パチンッと指を弾く音が響くと、鏡の外の空間に明かりが戻った。
「少し前からラファエルとウリエルにテレパシーで連絡を取っていたんだ。ガブリエルのことでね。それでまず、天界で医学に関して彼の右に出るものは居ないという大天使の一人ラファエルに力を借りようと思って、一応ガブリエルの今の状態の映像を送ってみたんだ。」
「そうしたら・・・・?」
「即答ってヤツだね・・・。僅かとはいえ、神の力が宿るエーテルをここまでボロボロにさせるウィルスが存在し、更にそれを創り出せる悪魔が居たことにただ驚愕していたよ。とにかくラファエルの知識を持ちえても救うことは出来ないって。」
「・・・・で、ウリエルは?」
「新たな生命を吹き込むことが出来る大天使の一人ウリエル。しかし彼の生命の息吹は、生命を吹き込むことは出来ても、破壊されたエーテルを修復させるものではない。と、言うか、そうらしい。ちなみにイチかバチかで生命の息吹を吹き込んだビンをそちらに送らせましょうか?って言われたんだけど断ったよ。」
「そうか・・・。まぁ、それもそうだよね。ウリエルが新たなエーテルを創り出したり、修復できたら、こんな技は必要ないもんね。やはりそれは神のみに許された行為。そして、この技はそれに反する行為。ちなみに、このクリエイティブ・ワールドの中は、あのミカエルでさえも覗けない。しかしそれは、こちら側から交信をしない限りね。と、言うことは、この禁術を使ってしまった今、ミカエルはカンカンに怒っているだろうね。」
「そんなの関係ないさ。天界のルールなんてものはどうでもいい。いや、今回だけは特別と言っていいかもね・・・・。」
鏡の中のキルに対し何やら意味深なことを言うキル。しかし、その後に何か言いたげな表情なのだが、一旦ここで間が空いた。
もちろんそれを見逃すはずがない鏡の中のキル。自分の事は自分でよく知っている。なにせ同一人物なのだから。
「僕にもう一仕事しろって・・・?」
鏡の中のキルが沈黙を切り裂いた。
「ん・・・?ま、まぁ・・・。その・・・。」
少し上目遣いでゴニョゴニョと答えるキル。
「どうせミカエルの差し金だろ?僕は滅びる運命。だったら使えるときに使ってしまえってね・・・。みえみえだよ。」
鏡の中のキルがそう言うと、外に居るキルがまたも指をパチンッと弾いた。
すると、そんなキルの目の前に、縦、幅共に人一人がギリギリ映る程度の別の鏡が現れた。
「すまない。その通りだよキル。やはり、先程ウリエル達と交信していた時にミカエルに知られてしまったんだ。この禁術を使ってしまったことを。別にミカエルを嫌悪している訳じゃないけど、どちらかと言うと僕はルシフェル派だったじゃない?この禁術もそうだけど、クリエイティブ・ワールドやその他の技のほとんどを彼に教えてもらったわけだからさ・・・。かと言って、ミカエルから教わるものなんて何もないわけじゃない。ルシフェルが天才ならばミカエルは秀才。僕がルシフェルにベッタリとくっついていた時も、それを横目に自己流で技を編み出し、ルシフェルとはまた違った技を幾つも創り出していた。そして、そんなミカエルに幾つか教えてもらった技の一つに・・・・・。」
すると、突然鏡の中のキルが口を開いた。
「話が途中で逸れてしまっていたが言いたい事は分かったよ。ガブリエルの意識の中に入れってことだろ?」
鏡の中のキルがそう言い終えると、キルは一度、「ゴホンッ」と咳払いをし、苦笑いの表情。
「そんな事は君がこの細長い鏡を出した瞬間に分かっていたよ。さぁ、やるなら、ちゃっちゃと片付けちゃおうよ。うまくいけばいいけどね・・・・。」
「本当にすまない・・・。しかし、問題があるんだよね。高等なエーテルが高等なエーテルの意識に入り込むのはまさに至難の技。微弱なエーテル、つまり人間の霊が人間に取り憑くのとはわけが違う。だがそれは、ミカエルが創った術で容易なものになる。しかし、問題はここから。果たして、君がその鏡の中の世界から抜け出すことが出来るのかだよね。」
眉間にシワを寄せながらキルが言った。
すると、鏡の中のキルはなぜか薄気味の悪い笑みを浮かべながら歩き出し、その中の世界と、こちら側の世界の境、つまり鏡の前でその歩みを止めると、左手で鏡をコツコツと軽く叩き、こう言ったのだ。
「これは、この世界に居る僕にしか分からない。そちら側からは、ただの鏡にしか見えないだろうけど、こちら側からは透明なアクリル板でただ仕切られているようなものだ。そして、ここで質問。僕たちが居る世界を仕切る一方は鏡、もう一方は透明な板。さて、この物質はなんでしょう?」
「鏡でもないしアクリル板でもないし、その他の何ものでもない。」
キルがそう答えると、鏡の中のキルがまた語りだす。
「そう、その通り。この物質はどこにも存在しない。いや、正確に言うとこの空間に存在する物全に言えることだ。例えば、そちら側にあるメスやハサミなどの器具。照明に、壁。とにかく全ての物が本物のようで偽物。逆に言えば偽物のようで本物。果たして本物とは何か・・・・・?全ての物質は原子からなる。更に、その原子を構成させているのは原子核や電子によって構成され、様々な粒子から成り立っているが、我々が創り出すこの世界や、あらゆる物質はそれとは異なる。そして、このルシフェルが創った世界もそう。神は単に原子や電子などの粒子を創り、それらを用いただけ。だが、我々はイメージした物をエーテルによって具現化する。つまり、我々が創り出したもの全てに微弱なエーテルが流れており、それらを創造するにあたって、形や色、機能の他に、ある法則も創り出さなければいけない。そして、それを今回に当てはめてみると、この鏡の中の世界に居る者、つまり僕はこの中で、クリエイティブ・ワールドやその他の技が使えても、そちら側まで応用する事が出来ない。それがルシフェルの創った今回の法則の中の一つだ。従って、僕一人の力ではここから脱出することは不可能。しかし、術者の考え方一つでその可能性は僅かといえども広がる。そして、更にもう一つ。そちら側からは鏡、こちら側から見ると透明な板。この物質に流れるルシフェルのエーテルをよく観察してみると、ある一定の間隔で常に流れているエーテルの動きが一瞬止まる。ルシフェルの考えでわざとこうしたのか、それとも見落としたのか理由は分からないが、そのタイミングと我々の力がピタリと合えば脱出することも可能になるはずだ・・・・・。」
鏡の中のキルがそう言い終えると、外にいるキルは腕を組み、首をかしげながら何か言いたげな表情でしばらく鏡を見つめていた。
「何か問題でも・・・?」
そんなキルを見ながら鏡の中のキルが問う。が、キルは鏡を見つめたまま眉間にしわを寄せ険しい表情のままだ。
そして、そんな無言の時がしばし続くと、ようやくキルが口を開いた。
「ん・・・・・。君は言ったよね?その中はその中に居る君しか分からないって。逆に言わせてもらうと君はこちら側の状況が分からない訳だよね?さっきからこの鏡に流れるルシフェルのエーテルをずっと観察していたんだが、君が言うようにこのエーテルの流れが一瞬でも止まるってことが無いんだよね。こちら側は・・・・。まぁ、これは勘ではあるが、そちら側に流れるエーテルが一瞬止まるってのは敢えてそうしたのかもしれないな。それに、こちら側からは、そちら側の世界に体の一部を入れることが可能。そして、そちら側からは、こちら側に入り込むのは一切不可能という法則を創っておきながら、なぜかその重要なほうに欠陥を創った。これは何かあるよね・・・・きっと。何なら一度試してみるかい?」
「時間も無いことだしそうしてみるか・・・・。」
双方の結論が一致したところで、鏡の中のキルがパチンッと指を弾いた。
すると、少し前にキルが出した細長い鏡とまったく同じ鏡が、鏡の中の世界に出現した。
更に、そのミカエルが創ったといわれる鏡の中を覗いてみると、石製の下り階段が延々と続いている。もちろん最初に出したキルのほうの鏡も同じく、石製の下り階段が延々と続いていた。
「このミカエルが創った誘いの鏡・・・・。強く想う所へと誘ってくれる優れもの。が、しかし僕がそちら側の世界に行きたいと強く想い、例えばそうだな・・・・君の隣を想うとする。断言は出来ないが、それは多分失敗するだろう。君の隣に僕が行けたとしても、僕の体はバラバラになっているような気がするんだよね・・・。腕や頭の位置が違うところに付いていたり。それはここから出ようとした罰というかそんな気がするんだよね。なんとなく・・・・。だからこの誘いの鏡からそちらの誘いの鏡へと出たほうが安全のような気がする。そうすればミカエルの創った異空間の中のままだから僕の体には何の影響も無いはず。」
鏡の中のキルはそう言いい、長い黒髪の中をゴソゴソと左手で探ると、指針が一本しかない時計のような物を取り出し、それとルシフェルの流れるエーテルを見比べながら、なにやらその時計のような物の上に出ているボタンをカチッ、カチッと一定の間隔で押している。一瞬ではあるが流れるエーテルの動きが止まるというタイミングを計っているのだろうか?
そして、それを数回繰り返すと、その時計のような物を口の中に入れゴクリと飲み込み、腹部をポンポンと叩くと
「腹時計の準備完了。これでタイミングはバッチリ。じゃ、行くとしますか・・・。」
鏡の中の右腕の無いキルはそう言い残し、石製の下り階段が続く誘いの鏡の中へと足を踏み入れたのだ。
その中は無限に広がる真っ白な世界。そして、そこに浮かび上がるように続く石製の階段をカツッ・・・カツッ・・・と音を響かせながら進んで行くキル。
しばらく歩き続けると、うっすらではあるが前方に何かが見え始めてきた。
扉だ・・・・。真っ赤な扉がポツンと設置されているではないか。
ふと、後ろを振り返れば、入り口となる鏡が見えなくなった頃、ようやくキルの足はその扉の前で止まった。
真っ赤な扉に手を伸ばし、金色のドアノブにその手を掛けるとゆっくり目を閉じるキル。
この扉の場所が、ルシファーが創った鏡の中の世界と、外の世界を仕切る境界線で、流れ続けるエーテルが一瞬止まるというそのタイミングを計っているのだろうか?
ガチャッ・・・・
金色のドアノブに掛けた左手を回す・・・・。だが、まだその扉を開けようとはしない。
あとはキルの腹時計に合わせて、その手を押して扉を開けるだけ。いや、開けたと同時に扉の向こう側に行かなければならない。
もし、そのタイミングが少しでもズレたとしたら、異空間に永遠に取り残されるか、それともバラバラになってしまうか、それはルシファーが創った法則によって罰せられることになる。
「今だ・・・・・。」
ギィィッ・・・バタンッ・・・
その頃、外で待つキルの耳にカツッ・・・カツッ・・・と、誘いの鏡の中から足音が聞えてきた。
それは、キルが誘いの鏡に入ってから時間にして、一、二秒後くらいの出来事だった。
どうやら、誘いの鏡の中と、この世界では時間の流れが違うようだ。
カツッ・・・カツッ・・・カツッ・・・
足音が近づいてきた。
ニヤリと笑い、誘いの鏡の中を覗き込むキル。
成功と思われたその瞬間、鏡の中を覗き込んだキルは後退りをし、固まってしまったのだ。
カツッ、カツッ、と足音に合わせて石製の階段を上り、徐々にその姿が見え始めてきたのだが、その姿は何とも異様な光景だった。
全ての階段を上りきり、誘いの鏡の中に佇むキルの姿は、黒いマントがボロボロに千切れ、上半身が逆を向いており、つまり背中が正面で、首から上が無く、その顔は右足の太もも辺りに接合されており、そして、その足も左右が逆になっていたのだ。
更に、太ももの辺りに接合されている顔の口から左腕が伸びていた。
「ま、まさか・・・。君とあろう者が・・・失敗したのか・・・・?」
驚愕と戸惑いのせいか、その姿から目を逸らし、違う方角を見ながら小さな声でそう言うと、誘いの鏡の中のキルがこう言った。
「誤算だったよ・・・。このミカエルの誘いの鏡は、その時の適応性に応じて変化するらしい。今まで何度か使ったことはあるが、全て扉は一枚だった。しかし、今回に関してはその一枚の扉を開けると、更にもう一枚の扉が存在していたのだ。そして、その扉と扉の間こそが、君の居る世界と僕が居た世界の狭間、つまり、あの僕達を仕切っていた鏡の場所だったんだよ。」
口から伸びる左手の掌に現れた、もう一つの口がそう言うと、しばらくの間が空き、その掌にある口が再び開くと、今度は大きな声で笑い始めたのだ。
「クックックックッ・・・。ユーモラスにも長けているようだね、君は。いや、死神たる者そうでなくてはいけない。そうだろ・・・・キル?」
クスクスと笑い、キルがそう言うと大きな笑い声がピタリと止み、誘いの鏡の中のキルがパチンッと指を弾いた。
すると、バラバラに接合されていたキルの体が元通りに戻り、
「はっはっはっ・・・いや、すまない。ちょっとしたジョークさ。こんなに笑うのは何百年ぶりか・・・。君のあの驚いた顔を思い出すとつい・・・クックックッ。まぁ、それはさて置き、さっきも言ったが、確かにいつもとは違い、本当に扉が二枚存在していたんだ。しかし、それは扉の前に立つまで気付かなかった。だが、左手をドアノブに掛けた瞬間、これは何かが違うと感じたんだ。恐らくこの扉の向こうにもう一枚扉があるんじゃないかってね。でも、扉が二枚存在するって核心はあったんだけど、その扉と扉の距離感がわからない。扉を開けてすぐ扉があるのか、それともある程度の間隔を置いて設置されているのか・・・・。しかし、そんな事はこの僕には何の問題も無い。ただ一枚目の扉を早めに開き、例え二枚目の扉が一キロメートル先にあろうが更にその先にあろうが残りの時間に合わせて開くだけ。だが、驚いたのが一枚目の扉を開けたその瞬間だった・・・。足を一歩踏み入れると、以外にも二枚目の扉はすぐそこにあった。と、言っても手を伸ばせばすぐ届く距離でもないけどね・・・。距離にしてそうだね・・・・・三メートル弱くらいかな?だけどこの距離が途轍も無く長く感じたよ。そこには辺り一面に理性や道徳に反した人間達の愚行が映し出されていたよ。しかも、その中には人間だった頃のガブリエルの姿も一瞬ではあったが見受けられたしね・・・。恐らく、これはルシフェルのエーテルに染み付いた彼自身の記憶だよ。こんな人間達を自分達より愛した神への怒りがそうさせたのか、それとも、そんな人間達がそうさせたのか、とにかく凄まじい怒りを感じたよ。」
誘いの鏡の中のキルがそう言い終えた頃、それまでなんの変化も見受けられなかったガブリエルだったが、ここで、ある変化が見られた。
全身が枯れ木の様に干からび、一回り小さくなったその体、それはまるでミイラの様に横たわるガブリエルの口から一匹、二匹、と黒い蟲が現れたのだ。
そして、その二匹の蟲がガブリエルの体を這い、三匹目が口の中から羽を広げ、飛び立とうとした瞬間、それに気付いたキルは慌てて指を弾くと、その蟲達諸共ガブリエルの体は分厚い氷に覆われたのだ。
「まずいね・・・・。ちょっと話が長すぎたかな・・・?」
誘いの鏡の中のキルが苦笑いでそう言うと、キルも苦笑いで
「ん・・・そ、そんなこと・・・ないよ。」
と、ボソリと呟いた。
「君のその表情からすると、早く仕事してくれ・・・そんなところだろ?分かってるよ。じゃ、これで本当にお別れだね。」
「そう悪く取らないでくれよ。それより、くれぐれも油断はしないでくれよ。」
「・・・・・僕を誰だと思っているんだい?」
「泣く子も黙る死神の・・・キル。」
「その通り。君こそ僕の右腕、大切に頼むよ。じゃ・・・・・。」
誘いの鏡の中のキルはそう言い残すと、こちらに背を向け、石製の階段を下り始めたのだ。
細く長い階段を下り始めてからしばらくすると、やはり前方に一枚の扉が見え始めてきた。
だが、先程とは違い、今度は赤い扉ではなく、黒い扉に変化していた。これはキルの言った通り、その時の適応性に応じて変化したのだろう。
なにせ今回は異空間を挟んだ場所移動ではなく、高等なエーテルの意識内に入り込もうとしているのだから・・・・。
黒く分厚い、物々しいその扉を開け中に入るとそこは薄暗く、小さな洞窟の様な所で、暗闇のその向こう側から生暖かい風が一瞬吹き抜けると、キルの長い髪と、身に纏う黒いマントが靡いた。
そして、その腐臭が染み付く一瞬の風が止み、靡く髪とマントが静かに垂れ下がると、キルの耳元で何かが聞えた。
それは風に紛れ、いつの間にか現れた化け物が、潰れた鼻でキルの髪の匂いを嗅いでいたのだ。
全身に体毛と呼ばれるものは一切無く、青白い体に紫色の血管があちらこちらに浮かび上がっていて、両目は無く、鼻がグチャリと潰れている奇妙な生き物は無言のまま、キルの匂いを嗅ぎ続けている。
さすがのキルもムッとした表情。
「君・・・・失礼だね。ノックをしないで入った僕も悪いが、それはあまりにも不躾だよ。」
静かな声でキルがそう言うと、匂いを嗅ぎ続けていた化け物の動きがピタリと止まった。と、その瞬間、顔全体を振るわせながら、聞いた事も無いような甲高い声を発する化け物。
「やれやれ・・・・・。」
目の前で叫び続ける化け物から一歩後ろへ下がり、小さくそう呟くと、左手の掌を化け物の顔の前に翳した。
「息・・・臭いよ。」
その言葉と同時にキルの掌から自身の髪が舞い上がるほどの衝撃波が放たれた。
ドォォォォン・・・という衝撃音が鳴ると同時に化け物の顔面が吹っ飛び、肉片が飛び散った。
ん・・・?いや・・・よく見てみると無数に飛び散ったのは肉片ではなく、何百という黒い蟲だ。しかも、それと同時に頭部を失った化け物の体が一気に崩れ落ちたかと思うと、何千という黒い蟲達が地面を這い、凄まじいスピードでキルの体をあっという間に包み込んでしまったのだ。
さすがの死神も右手一本分のエーテルを失ってしまうと、こんなに違うものなのだろうか・・・?