○○1-1 未来の候補生へのお断り○○
文章を詰めすぎていたので、行間開けました。
鉄のきしむ音のする古いドアを開けると、外は清清しいぐらいの晴天だった。
眩し過ぎる午後の日光に目を細めながら、ため息一つ吐いて気持ちを切り替える。
今日はいい事がある筈だ、と。
今じゃ早々ない古いタイプの鍵を閉め、ドアを背に歩き出そうとすると声をかけられた。
「こんにちは」
声の方向を見る。1つ部屋を挟んで今帰ってきたらしい制服姿の、中学生になったばかりの湖華音ちゃんがいた。
「こんにちは。今、帰ってきたの?」
俺は自身の厳つい風貌を理解しているので、笑顔で優しく返答した。
昔からの付き合いである友人に言わせれば、私服を着ていればチンピラ。スーツを着ていれば、ヤの付く商売の方々に見えるそう。
その為、色々と誤解を受けてきた28年の人生で自然と身についた処世術だったりする。
「うん。今日はテスト前の短縮授業だから。お兄ちゃんはこれからお出かけ?」
俺はこんな風貌だというのに、湖華音ちゃんは笑顔で、トテテと効果音が付きそうな小走りで近づいてくる。
初めて会った5年前は怯えられて泣かれたと言うのに、うれしい限りである。
でも、整った顔つきの湖華音ちゃんを連れて買い物なんかに行くと、必ず通報されるのは勘弁してほしい。
何度も警察にご厄介になっている内に、すっかり顔か名前だけで「……ああ、あの」と慣れた反応をされるのも便利なんだけど、悲しくなる。
「ちょっと、ね。これからハローワークに」
あははと、から笑いをしながら素直に告げれば、湖華音ちゃんもすっかりわかっていて「大変だね……がんばって!」と、言ってくれる。
理解してくれる悲しみ……それは人生に何個あるのだろうか。陰る感情に蓋をする。
「ありがとう。行ってくるよ。湖華音ちゃんは家に入ったらしっかり戸締りをする事。じゃあ、またね」
「……あ、お兄ちゃん」
片手を上げ上げ、歩き出そうとすると、弱々しい声で湖華音ちゃんに呼ばれた。
「どうした?」と聞くと、「今日は何時に帰って来るかなぁ?」だって。
少し考えて、余裕を持った時間を答える。
「大体6時ぐらい、かな。どうかしたの?」
「……んーっと。テスト勉強教えてほしい、かなぁ……なんて」
と言われて、ハッと気がついた。最近、勉強教える時間がなかった事に。
求職中のフリーターである俺が好きな時間に、望む給料での形で求めることはなかなかできない。
少し前までのバイトであれば、湖華音ちゃんと勉強する時間ぐらい取れたものだが、それはクビになった。
……正社員に採用があり、押し出されたのだ。
またまた、黒い感情がニョキりと芽生え始めそうだったが、押さえつける。
「あー……うん。ごめんね。時間が取れなくて。今日は大丈夫。6時には帰って来るようにするよ」
「ほんとう? じゃあ、待ってるから」
最初、断りの言葉に聞こえたか、暗い表情をみせた湖華音だったが、それに気がついてあわてて大丈夫と付け加えるとそれはもう、満面の笑顔になった。
それで思いついたのだが、あやめさんはいつ帰ってくるのだろう。
この彼方 湖華音ちゃん一家は母子家庭だ。
母親であるあやめさんは俺の3つ年上の31歳。18歳の高校生の時、湖華音ちゃんを生んだ。
しかも、両家両親の反対を押し切って。
あやめさんの旦那さんはここへ引越ししてくる数年前に亡くなったらしい。
……とても良い人だったのに残念で仕方がない。
実は、彼方夫婦は大学生時代、大変お世話になったのだ。
子育てをしながら大学に家庭にと、その大変な姿を見てきたので旦那さんの無念を感じ入る。
そんな頼るところがない彼方親子は、少しでも安いこのボロアパートへと引越ししてきた。
あやめさんは昼夜問わず、親子で食べていくためパートへバイトへと頑張っている。
最近、正社員になれたと喜びの報告があった。
今は忙しいが、しばらくすればゆっくりできるだろうとのこと。
湖華音ちゃんには秘密だが、旦那さんの生命保険が結構な額であるらしい。
それを使えば生活は楽になるが、娘の湖華音ちゃんの為に少しでも残してあげたいと、働いているのだ。
娘の為に一生懸命働く母親と、その帰りを寂しいながらも待つ娘。
こんな健気な親子に、心が動かされない訳がない。
幸い、小さな頃から面識のある湖華音ちゃんは俺を怖がらないでいてくれた。
それまで俺の容姿で誤解されない為に、周りの人たちに親切にしてきたつもりだが、この彼方一家にはことさら協力してあげようと思った。
これは自分でもびっくりする程、綺麗な心の行動だった。
あやめさんもやはり整った容姿であるのにもかかわらず、少しの下心も沸かなかった。
焼けぼっくいに火、どころか煙も立たなかった。
純粋に、協力してあげたかったのだ。
今はフリーターではあるが、俺はそこそこ良い大学出である。
中学生の勉強ぐらい見て上げれるだろう。多分……。という事で、暇な時は湖華音ちゃんの勉強を見てあげている。
「うん。わかったよ。それで、あやめさんいつ帰って来るの?」
場合によっては夕飯の用意もして上げたほうがいいかもしれない。
やはり、中学生になったとは言え、火なんかを扱わせる事にまだ抵抗がある。
帰りに買う食材を考えながら聞いた。
「えーっと。確か、夜中過ぎるかも、って」
やはり。
「晩御飯はどうするの?」
あやめさんが晩御飯を作り置きしている事も考え聞いてみる。
母親の料理は偉大である。
食えるのならそっちのがいい。
「適当に冷蔵庫にあるもので作って、って」
ああ、なら決定だわ。
「そっか。じゃぁ、俺ん家で晩ご飯一緒に食べようか。作ってあげる。何食べたい?」
「やった!」と湖華音ちゃんは笑顔で飛び跳ねた。
あやめさん料理はあんまり得意じゃないから……。
「えーっと、えーっとね」
一生懸命に、食べたいものを考える湖華音ちゃん。
今時、飯程度でこんなに悩む娘がいるだろうか。
俺も人生がうまく行っていればこんな娘が欲しいかったなぁ、なんて諦めながら微笑ましく見ていると答えが決まったようだ。
「パスタ! パスタ食べたい!」
「そっか。パスタか……」
パスタのレシピを幾つか思い浮かべ、「何パスタが食べたいの?」と聞く。
「えーっ? ……わかんない。友達が食べたって言いってたから。おいしいっていってたから」
どうやら、パスタの種類がわからないようだ。
普段外食もあまりしていないようだし、あやめさんの作るレシピの中にパスタはなかったようだ。
ここは28歳のオッサン、頑張ります。
この年代の娘が喜んで食べそうな、見た目綺麗なやつ。
友達の話題についていけるような、そんなヤツだ。
残念ながら、若い子が行くような店に入れるような容姿ではない俺には、連れてゆくと言う方法は取れない。
また通報される。
「わかった。考えておくね」
帰りがけ、本屋で料理本でも立ち読みして参考にしよう。帰りの行動をあれこれ考えながら答える。
「ありがとうっ!」
本当に可愛い子だよ。まったく。この子の幸せを願わずにはいられないね。
思わず頭をなでると、「お兄ちゃんのパートナー、私がなってあげようか?」なんて、上目使いではにかみながら言うんだから。
気持ちはありがたいが、喉から手が出るほどありがたい提案ではあったが、学生の本分は学業である。
「駄目だよ。そんな事簡単に言っちゃ。湖華音ちゃんはもっと頑張る所があるでしょ?」
「えー……。うん」
なにやら、不服そうな表情ではあったが、聞いてもらえたみたいだ。