7.覚悟を決める時
帰って来てからもライル様は多忙だった。
不在の間にたまった書類の数は、私から見ても異常な量に見える。
チオから引き上げてきた陸軍も同様で、そしてまだ日常に戻り切れていない人達のサポートにまで気を回しているのだから忙しくないわけがない。
カタにライル様が戻ってくれば、やっぱり物事はライル様を中心として動く。
様々な問題を抱えている上に多忙なライル様。
それでもカタのお城にいるというだけで、心なしか皆活気に溢れているような気がした。
その場にいるだけでそれだけの空気を引っ張りだせるライル様はやっぱり偉大だ。
ライル様があまりに多忙なため、顔を合わせる機会はまだほとんどなく私は遠くから見守ることしかできない。
こんな状況で話かけて邪魔になるのも嫌だった。
だから体調は大丈夫だろうかと内心ひやひやしながら今日も私はライル様を見つめる。
そうして眺めていくうちに、私はライル様の表情にどことなく違和感を覚えた。
「……やっぱり、無理してるよね」
「奥方様?」
「ううん、何でもない」
城下の様子を見にやってきても、気になってしまう。
ライル様は何もかもいつも通りに見える。
膨大な書類を面倒そうに片付け、帰ってきた部下達をねぎらい、空いた時間に城下に顔を出しては人々の中心で笑っている。
周りの人達も「やっぱり領主様がいると違うな」なんて安堵したように笑っていて、その空気に淀みは一切見られない。
けれど、やっぱりライル様の様子はどこか変に見えた。
あの太陽のような笑みにはどうしても見えない。
皆を安心させるような笑顔ではあるけれど、どこか苦しそうに見えてしまう。
5年間何度もその笑顔を近くで見てきたからか、どこかいつもと違うのを感じた。
「そうかい、気付かれたか奥方様」
「……え」
その声が届いたのは突然のことだった。
城下を歩きながら今しがた話していた女性と別れた直後のこと。
パッと声の方を向けば、古びたベンチに座るご老人が私を見つめている。
昔靴職人だったというエヌマだ。
カタの城下にいる住民達では数少ない、私を「奥方様」と呼んでくれる人。
「エヌマ、こんにちは。体の具合はどうですか?」
「なあに、大したことはないよ。今日はむしろ良いくらいだ」
「そうですか良かった」
エヌマはいつでも穏やかに笑う優しいお爺さんだった。
何があっても動じず笑える彼をどこかライル様と重ねることもあったくらいで。
今日も変わらず彼は笑っている。
「その若さでよくぞ領主様の異変を見抜かれた、奥方様。カタは良い嫁さんをもらったね」
そうして何でもないように告げられた言葉に、私は目を見開いた。
エヌマは「お座りなさい」と、隣のスペースを軽く払ってくれる。
お礼を言って腰かければ、彼は空を仰いだ。
「エヌマ。やっぱり貴方もライル様の様子が変だと思う?」
耐えきれず問えば、エヌマはやっぱり笑ったままゆっくり頷く。
「ああ、そうさね。カタに帰ってこられてからの領主様はどうも昔の領主様と重なって仕方ない」
「……昔?」
「ああ。ご両親と歳の離れた弟君を戦で亡くされた後の彼さ」
その言葉に、私は固まった。
ライル様に他に家族がいないのは私も知っている。
ご両親を早くに亡くされたことも、弟がいらっしゃったことも。
けれどその理由を聞いたことはなかった。
家族の話をすると、決まってお城の人達は暗い顔をしていたから聞けずにここまできたのだ。
「もう今から20年以上も前のことかね。領主様はまだ“坊っちゃん”で、ゆくゆく先代の跡を継ぐのに必要な学と武を身につけるため王都の特別士官学校へ通われていた」
そう初めてエヌマはゆっくりと話し始める。
どこか寂しげに。
「知っての通りここ南部は戦火から最も遠い土地柄ではあるがね、それでもリオドニアという国である以上全く無いというわけでもない。今回のチオの騒動が起こる前に騒ぎになったのは、イリネの村だった」
「イリネ……、採掘場で有名な」
「ああ、そうさ。領主様のお父上とお母上、そして5歳にも満たなかった弟君のお3方で採掘場の見学も兼ねた小旅行にいかれていたんだがね。その時に限ってソンガの国が暴れるとは、運がなかった」
「そ、れは」
「私達も“南は狙われない”と油断していたんだろうね、イリネは国の玄関口のひとつだというのに十分な兵も持ち合わせていなかった。風の噂では、それでも最後まで国や家族を守ろうと奮闘されていたらしい。が、まあ結果はね」
「そんなことが。私何も知らなくて」
「仕方ないさね。イリネの悲劇は国にとって隠しておきたい事実だった。軍事強国であるリオドニアが簡単に侵攻されたとは知られたくないものさ」
悲しいことだねと目を伏せエヌマは呟く。
そして少しの沈黙の後、続いた。
「領主様がね、今のような何があっても動じず皆を落ち着ける存在になられたのはそれからさ。あの後ライル様の祖父にあたるスジン様がしばらくの間はカタを預かった。その間、ライル様は3年の予定だった王都の留学期間を延ばし、本格的に武を学び始めたと聞く」
「武を」
「家族を守れなかった南部の武力を憎んだのか、南に武が必要だと思ったのか、私には分からないことさ。しかしライル様が軍に入隊し、数年間他国との戦に加わっていたのは事実だよ」
「戦、ライル様が、ですか?」
「そうだ。そしてカタへと帰ってきたライル様は随分と頼もしいお顔になって領主の後を継がれた。その時にはもうご家族を喪った時のような無理をした仮面ではなくなっていたよ、あの方は。スジン様が亡くなられた時も若造だと他地区から侮られた時も、一度だって動じなかった」
エヌマの話を聞いて、胸が張り裂けそうになった。
最初からライル様がああだったわけではないのだ。
そんな当たり前のことすら私は気付けなかったのだと、今になって知る。
「あれから時間が経って領主様もきっと心のどこかで整理できたのだと私は密かに安堵すらしていたんだがね。どうやら、そうでもなかったらしい。皆の為と全て無理矢理飲みこんで蓋をしていたんだろうね」
エヌマはその変わらない顔色のまま少しだけ眉を歪めると、そっと私の方を見つめた。
「あの方にとってあの動じた姿を見せようとしない仮面は剣であり盾なのだと私は思うよ。そうすることで自分を何とか奮い立たせ生きている。けどそんな生き方は虚しいだけだ」
「エヌマ」
「奥方様、あんたが領主様の心を守っておやりなさい。その仮面を外せる場所を、与えてやってほしい」
その言葉にハッとした。
剣と盾、お母様も言っていた。
エヌマの言うとおりあの動じなさがライル様のそれなのだとすれば、ライル様は今までどれだけの気持ちを抑え込んできたのだろう。
20年以上もそうやって生きてきたライル様を思うと、たまらない気持になる。
私に、守ることができるのだろうか。
こうなってなお不安になる情けない自分。
苦しいのにそれを見せることなく立ち続けたライル様に見合えるだけのものを、私は持てていない。
それはどうしようもない事実に思えた。
けれど、そんな私を見透かすかのようにエヌマは目を細め笑う。
「あんたなら大丈夫さ。領主様の変化を見落とさず案じられるようなあんたなら」
「で、でも私」
「この数週間、私はずっとあんたを見てきたよ。あんたが何を思いどう動いたのか、その結果もたらされたものが何か、私は見てきた。だから私はこんな話をしたんだからさ、自信を持ちなさい」
「……実になったことなどなかったよ。私は守られるばかりで、支えられてばかりで。動揺を隠すこともできなかった」
「良いんだよ、それで。支えられても動揺したって、あんたの心は真っ直ぐだった。一番大事なのはそれさね。奥方様、あんたの心はどこにある?どうありたいと、願うんだい?」
問われて私は目を閉ざす。
そうして全てを無にした時、思い浮かんだのはやっぱりただ1人の笑顔だった。
……お役に立ちたい。頼りにされたい。いつだって、笑っていて欲しい。
そんな気持ちが体中に溢れてくる。
「ありがとう、エヌマ。私は本当に皆に支えられてばかりね」
「はは、良いさね。年若く必死なお嬢さんを見れば誰だって手を差し出したくなるものさ」
「……うん、私はそれを返せるだけの存在になるわ。きっと」
「その意気だよ、奥方様」
「ありがとう、ございました」
大事なことを気付かせてくれたエヌマに頭を下げると、ギュッと手を握り締めて前を向いた。
……お母様、見てて下さい。
私にしか出来ない役目をきっと見つけて、ライル様を守るから。
今までより強い決意を持って、お城に戻る私。
「リル、帰って来たのか」
「ライル様!」
「あー……、なんだ、その。少し時間が空いてな、俺の部屋で話さないか?」
そうライル様からお声がかかったのはすぐのことだった。
真っ直ぐライル様を見上げればほんのわずかにそらされる目線。
その仕草に苦しみを感じて、私は手を強く握る。
「はい、勿論」
しっかりと頷いて、私はライル様の後に続いた。