4.自分の成すべきこと
『良いですか、リルハ。リオドニアに行く前にひとつだけしっかり胸に刻みなさい。女には女にしか出来ぬ役目があります。常にそれを考え実行しなさい』
『女にしか出来ない、役目……ですか?』
『そう。民を救うのは武や頭脳だけではないのです。誰とてその時その者にしか出来ぬことがきっとあります。人の上に立つ以上、己が役目を問い続けなさい。それはいつか貴女を支える剣と盾になってくれるはず』
『……難しくてよく分かりません』
『いつか分かる日が来るでしょう。だから、この言葉を忘れてはなりませんよリルハ』
お母様は公家の中で唯一の女児であった私にとても厳しい人だった。
1人歳のかなり離れた私はお父様にもお兄様方にも随分甘やかされて育った自覚がある。
そんな私のことを一切甘やかさず何度も何度も難しい言葉を言い聞かせてきた方。
私はお母様の笑みを公式の場で以外あまり見たことがない。
それはお母様自身もきっとずっと自らにその役目を問い続けてきた表れだったのだろう思う。
そして、その厳しさこそが私に対するお母様の最大の愛情だったのかもしれない。
だって、現にこうして今お母様の言葉が私の導となってくれたのだから。
私の役目が何なのかは分からない。
けれど、今の自分が考えうる限りのことを私はやりたい。
お城で私に仕えてくれる人達、城下からいつも手を振ってくれる住民達。
皆が私に求めることは何なのか。
思いついたのは、ただひとつだけだった。
「こんにちは、お花見せてもらっても良いですか?」
「何だい、こんな時に花を求めるなんて随分のん気な……って、ひ、姫さん!?」
「えへへ、こんにちは。今日もこのお店のお花は綺麗な色だなあ」
「あ、ああ、ありがとう。って、そうじゃなくて!」
「はい?」
「ご領主様が南へ行ったって本当かい!?近所にいる陸軍の兄ちゃんも呼び出されたっきり帰ってこないって言うし」
「うん、ライル様ならちょっとお仕事でしばらく留守です。念のために陸軍の皆にも待機してもらってるけど、大丈夫だよ」
「でもリシュルドが攻めてきてるって私は噂で聞いたよ?姫さん、頑張って隠さなくていいから本当のこと教えとくれ」
「落ちついて。ライル様は大丈夫って言ってました。何かあったら連絡するって言ってたし、連絡があったら私すぐに皆の元に知らせに来るよ?」
「そう、なのかい?けど今までこんなに軍の連中が警戒しているところなんて見たことないよ」
「リシュルド相手だもん、どんな状況でも手抜いたら駄目だってライル様言ってたよ」
「……本当に大丈夫なんだね?」
「はい」
ライル様がチオへと向かった翌日、私は城下に足を運んでいた。
治安が良く開放的な人達の多いカタ。
城下に行くことは護衛を付けさえすれば比較的すんなりと許してもらえる。
むしろ人々や食べ物、建物なんかを良く見てカタのことを知ってくれとライル様に推奨されるくらいだった。
だから城下に住む人々に知り合いは多いし、道もある程度分かる。
いつも通り街に出て歩いてみると、やはりそこの空気はいつもと違う感じがした。
チオから応援要請が入ったこと、ライル様が急いでこのカタを去ったこと、軍が臨時警戒態勢に入ったことはすでに住民達にも広まっているようだ。
リオドニアは軍事力の高い大国だから、世界の様々な国に警戒されている。
攻撃をしかけられたり、逆にこちらからしかけたり、とにかく戦の多い国ではあった。
けれど軍の集中した本国にまで侵攻する国はさすがに少ない。
特に山に囲まれた南部はここ20年以上戦闘が無いリオドニア内でもかなり安全な地だった。
この国はどちらかというと平地続きになっている北側か帝都に近く人の出入りの多い東側が狙われやすい。
だからここに住む人達は私同様、戦に慣れてなんていない。
チオは馬で急げば5日かからないほど近い。
不安に思うのも当然の話だった。
だからなのか、私の姿を認めた人々はこぞって情報を知りたがる。
ライル様が慌てて向かうほど切迫した状態なのか。
陸軍が武装しているということは、かなり危ない状況なのではないか。
ライル様と近いところで生活している私から情報を引き出したがる。
私はそんな人達の前で出来る限り混乱を引き起こす単語を避けながら、ある程度の事実を知らせるようにしていた。
きっと皆が欲しいのは安心と、そして縋れるだけの何かだ。
私はそう思う。
だから私は会う人会う人に大丈夫だと告げて、あとは普段通り生活するよう心がけた。
私が普段と違う行動を起こせば、やっぱり異常事態なのかと住民たちは動揺する。
深刻な顔をしても勿論そうだし、変に明るすぎても不要な詮索を生んでしまう。
ライル様はそういうのをよく分かっている人なんだと、私はこうなって尚更実感していた。
ライル様がいつも飄々としていたのだって、副将さんが慌てて報告に来た時にあんなに冷静だったのだって、そうすることが一番刺激が少なく統制が効きやすいと分かっていたからだ。
……どこまで私に真似出来るか分からない。
けれどライル様の傍にいる私が率先していつも通りにしていれば、少しは動揺も治まるかもしれない。
本当は万が一に備えて皆にも警戒してもらうべきなのかもしれないけれど、ライル様は何かあるまではいつも通りにするよう言っていた。
ならばきっとそれを一番に実行するべきは私だ。
それがない頭を振り絞って出した私の答え。
とは言え、やっぱりライル様のように周りの人を落ちつかせるのは至難の業だった。
「リルハ様は大丈夫だって言ってるぞ」
「いや、でもあのお嬢さんもどこまで知ってるか……まさかライル様はそんな機密事項教えたりしないだろうよ」
「姫様落ち着かせようと周りが言いくるめてる可能性あるよな、やっぱり」
そんな感じの声は私の耳にも届いている。
中々思ったようにいかなくて、歯がゆい。
今まで周りに甘やかされたまま来た弊害がこんなところでも表れる。
やっぱり猫なんて被り続けるんじゃなかったと今更後悔したって遅い。
カタの住民達で私を奥方様と呼ぶ人はとても少ない。
一応既婚の身である私を、大半の人は姫様、姫さんと呼ぶ。
裏ではお嬢ちゃん、小娘と揶揄されているのも分かっていた。
そんな何とも頼り気のない私の言葉だけでは信じられないのは仕方のない話だ。
素直に言うと、私自身本当にこんなことをやって意味があるのか不安になってしまうことが大半だったりする。
けれど他に自分が出来ることが思いつかない以上続けるしかない。
そう思って気力を振り絞る。
「あー、姫姉ちゃん!こっち来てたんだ」
「ラル。こんにちは、元気だねえ」
「姫姉ちゃんは相変わらずのん気だな、本当にそれでご領主サマの奥方サマなわけ?」
「こら、ラル!申し訳ありません、奥方様」
「イリアもこんにちは。元気そうで良かった」
あちこちで色んな人に挨拶しながら回ってそろそろ帰ろうかと思った頃、最後に声をかけてきたのは2年前までお城で侍女をやってくれていたイリアとその息子のラルだった。
ラルはまだ8歳だというのに、イリアに似てとても賢い子だ。
「なあ、姫姉ちゃん。父ちゃんが軍部に行ったっきり帰って来ねえんだけど何か知らない?皆ライル様が慌ててどっか行ったって言ってんだけど、何かあったの」
「ラル!」
「良いよ、イリア。ラル、今ね南の方でちょっと問題が起こっててライル様は解決するために行ったの。ちょっと大きな問題だからね、ラルのお父さん達も何かあった時いつでも動けるように準備してもらっているんだよ」
街で大人達にも聞かれた質問をするラル。
私はまだまだ背の低い彼に視線を合わせるようにしゃがみこんで説明した。
ラルは何も言わないけれどその目の色は不安そうだ。
ラルもラルなりに色々考えているのは私にも分かった。
私の言葉を聞いて「ふーん」と適当に話を流すあたり、きっとそれくらいのことはイリアか周りの大人達に聞いたんだろう。
けれど少しして「あ」と声を上げる。
「でもさ、南って確か姫姉ちゃんが生まれた場所だよな?良いわけ、こんなとこで花抱えて買い物なんて」
あまりに率直な言葉にイリアはぎょっとして「こら!」と大きめの声を上げた。
ジッと見つめてくるラルに、私は咄嗟に上手く言葉が返せない。
「大丈夫だよ」と笑顔で即答するべきだった。
それなのに悪気なく無邪気に発せられた言葉にすら詰まる。
どうやらまだまだ私の中は不安で埋め尽くされていて、打ち勝ててもいないらしい。
ライル様と同じようにするのはとても難しくて、そして簡単に動揺してしまう自分がやっぱり情けない。
「ライル様大丈夫って言ったよ?普段通りしろって」
何とか言葉を返そうと試みるけれど、どうしても声が震えてしまった。
ああ、こんなの大丈夫じゃないと言っているようなものだ。
これじゃお役に立つどころか足手まといになるというのに。
必死に顔色を出さないようしていたけれど、イリアが心配そうに私を見つめてきたあたり成功はしていないんだと思う。
駄目だ、ちゃんと持ち直さなきゃ。
そう思って息を吸い込む私。
ラルはそれでもなお真っ直ぐで嘘も隠しごともしない子だった。
「でも強い敵が攻撃してきてんだろ?ライル様も慌てて行ったんだろ?本当の本当に大丈夫なのかよ!」
「大丈夫だよ!!」
「……っ奥方、様?」
真っ直ぐに対等にぶつかってきてくれる貴重な存在だったのに、思わず私は感情を隠し切れず怒鳴るように声を荒げてしまう。
私のそんなところを見たことなんてないイリアが驚いたように目を見開いている。
近くにいた人達の視線も感じた。
……やってしまったと、泣きたくなる。
本当に私は何もできない。
こんな役立たずな子供じゃ、ライル様が私のことを妻と思えないのも当然だ。
そう思う心が強くなる。
『誰とてその時その者にしか出来ぬことがきっとあります。人の上に立つ以上、己が役目を問い続けなさい』
けれどそんな時頭に響いてきたのは、お母様のその言葉だった。
何度も何度も言われ続けた言葉。
かろうじてそれで自制して、グッと歯を強く噛んでから私はラルに向き合う。
もうやってしまったのは仕方がない。
本心の会話が少なかった中で、ラルは私を信じ真っ直ぐに言ってきてくれた。
ならば、せめてラルには真っ直ぐ返さなければいけない。
理不尽に怒鳴りつけてしまったなら尚更そうだ。
そう思って、私は両手に抱えていた花を左手で持って右手をラルの左手に沿えた。
「……不安がないわけではないよ、勿論。でもね、ライル様は大丈夫だって言った。ちゃんと必要なことは教えるから待っててくれって言ったの。だから、私はライル様を待つよ」
「で、でも、本当に大丈夫なのかよ?だってリシュルドって1年で国3つ奪っちゃうようなところなんだろ!?父ちゃんやライル様、ちゃんと帰ってくんのか!?」
「それを信じて待つのが私の役目です」
「役目?待つだけが?」
「そうだよ。ラル、変わらないものほど尊いものはない。変わらずここで待ってる人だって必要なんだよ。私はそう信じている」
「奥方様……」
ライル様がいつだってその変わらぬ笑みで私に安心を届けてくれたように、少しでもライル様に安らぎを与えられるのならば。
私にしかできない役目ではないかもしれない。
けれど、それが私に思いつく限りの答えで、それしか思いつけないのならば真っ直ぐに貫くしかないのだ。
まだ8歳のラルには難しい話かもしれない。
それでも心をこめて言い聞かせれば、その気持ちはちゃんと届いてくれるはずだと願う。
実際どこまで伝わってくれたかは分からない。
けれどラルは少し考えた後「……分かった」と強く頷いてくれた。
ラルに頷き返して、今度こそお城へと帰る。
自分の考える役目が正しいのかなんて分からない。
けれど、ふとした瞬間に思い返すのはやっぱりライル様のあの笑顔で。
……今度は私の番。
南の空を眺めながら私は強く自分に言い聞かせた。