第3話 イグノーランス
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ーー翌日。
深斗は頭を抱えていた。なぜ、『行く』なんて言ってしまったのかと。
実に面倒くさいことになったとーー。
元々、朝起きた時から面倒くさいと感じていたというのに、朝一発目の数学の授業でドッサリと宿題を出されたもんで、放課後に幅を利かせる憂鬱な約束に嫌悪感を抱いていた。
「ついてないなぁ…」
窓際の座席に座る深斗は、窓の外へ向かってボソッと呟いた。
今は六時間目の英語の授業。時計の長針は既に12を周り、短針が3を指している。
あと3分で授業が終わる。
教室には、『リピート・アフター・ミー』なんていう、如何にもな言葉が響いている。
「つまんねー、授業しやがって」と心の中で毒づいた深斗は、疲れ顔で頭を小刻みに横に振った。
自分が、予備校で講師として授業をする様子が頭をよぎったからだ。そして、ふと『俺が授業やったって、きっとこんな感じでつまらない授業になるんだろうな…』なんて考えてしまった。
「何言ってるんだ俺は。どうせ俺はやらないんだからどうでもいいじゃないか」と心の中で呟いた深斗がふと目線を上げると同時にチャイムがなった。
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帰り支度を済ませ、掃除当番だった幸一に『今日も用事があるから』と一言添えて別れの言葉を告げた深斗は、さっさと靴を履き替えて校門への銀杏並木を急ぎ足で歩いていた。
南杉並高校の敷地は他の学校と比べても中々に広い。敷地の端に位置する正門から正反対の場所に位置する本校舎まで、大人の男でもゆっくり歩けば3分はかかる。
並木道を歩いていた深斗は、ポケットから音楽プレーヤーを出そうとしたその時に初めて、『そういえば、予備校の場所を知らなかった』ということに気づいた。
さてどうしたものか。『予備校の場所を知らない』ということを言い訳に行かなくてもいいんだが、後々面倒くさいことになりそうな気もする。
『さぁ、どうしましょうか』の議題を掲げ、脳内会議を開こうとしていたその時、後方から自分を呼ぶ声が深斗に聞こえた。
「深斗〜!待って〜」
とても聞きなれた声だ。
落ち着きはなった透明感のある声。
ーー間違いなく、雪だ。
後ろを振り返ると、やはり雪が右手を振りながらこちらに向かって必死に走ってきていた。
黒い髪を風に靡かせながら、天真爛漫な笑顔を振りまいて走ってくる雪は、いつものように紺のセーターを袖で腰に巻いている。
ーーしかしまぁ、よかったな雪。時期が時期なら、走ってくる途中で踏み荒らした道端の銀杏の強烈な悪臭がローファーからしていたところだーー
立ち止まって待っていた深斗の横へようやく着いた雪は、両手を膝に当てて息を切らしている。
「大丈夫か?雪」
淡々とした顔で言葉をかける深斗とは反対に、雪は満面の笑みで「大丈夫だよ、ありがとう」と言った。
いつも通りの雪の姿を見た深斗も、思わず微笑んでしまっていた。
「何か用か?」
「深斗、これからお父さんのところへ行くんでしょ?」
「えっ?いや、えっと…」
「隠さなくても大丈夫だよ。私もう知ってるから」
「…なんで、知ってるんだ?」
言葉通り、深斗は疑問を抱いていた。
寛二から『会ったことを雪には内緒にしておいてくれ』と言われていたからだ。
たとえ相手が寛二だろうと、約束は守るのが深斗の主義だ。雪はもちろん、誰にも言っていない。
ーーでも、じゃあ誰が言ったんだ?まさか、寛二じゃないだろう。…まさか幸一がーー
「お父さんに聞いたから」
「え?嘘でしょ?」
「ホントだよ!昨日家に帰ってくるなり突然…」
ーーいったいあの人なんなんだーー
「まぁ、会いに行くってのはその通りなんだけど。それで?」
「場所知らないんだろうから、一緒に行こうと思って」
「お前、場所まで知ってるのか?!」
「うん。深斗を連れて来るようにお父さんに頼まれたし」
「なんだ、そういうことか」
雪に先日の会談のことを話した理由に納得した深斗は、同時に沸き起こった『俺に内緒にさせた理由はなんだったのか』という疑問に混乱しながら校門をくぐった。
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ここは、都内某所の開講を目前に控えた高校受験用の予備校。
いや正しく言うと、開講を目前に控えているにも関わらず『講師が不足している』だの『不足分の講師を高校生で補おうとしている』だのという、恐らく最低最悪の予備校 ーー 『イグノーランス』だ。
果たして、親が血迷ったか、子供が自ら望んだのか。
深斗は、ここへ来ることを決めている80人の生徒候補生達にかける言葉に「ご愁傷様です」の一言ほど相応しいものはないだろうと確信していた。
雪と共に、イグノーランスの関係者用裏口の前に立った深斗は、ボソッと呟いた。
「イグノーランス…。意味は確か『無知』…だったな。ここへ来る生徒を『無知な奴ら』と嘲笑しているのか何なのか、ふざけた名前だ。センスもない。中二病のやつが頑張ってカッコをつける時に必死に頭から捻り出しそうな言葉だな」
「こんな名前でもね。お父さん、2日も考えてようやく思いついた名前なんだよ」
「…ほんと、あの人が日本最高峰の大学を出てるなんて考えたくないな」
「なんか、ゴメンね」
特筆するほどの大した感情をものせずに、2人の会話はペタッと口調で交わされた。
静寂の中で、関係者用裏口の扉に付けられた電子錠のモーター音がやけに大きく聞こえる。
雪が、ICカードをポケットから取り出した。
「あ、そうそう。ちなみに、深斗の分のICカードは、まだ作ってないそうだから」
「講師をやって貰おうと思ってるなら、あらかじめ作っておいてもいいのにね。まぁ、どうせ俺はやらないからいいけどね」
雪がかざしたICカードに反応して、鍵が開いた。
「さっ、入ろう!」
ノブに手をかけて扉を開けた深斗は、雪を先に入れてから中へと入って行った。
「やぁ!やっぱり来てくれたね」
寛二がニヤニヤとした顔で近づいてきた。
なんだかニヤケ顔が『満員電車で痴漢中のオヤジ』みたいで気持ち悪い。
「断わりにきただけですよ」
「まぁまぁ、そう言わずにとりあえず奥へどうぞ」
寛二の言葉に誘われ、雪と深斗は受付奥の会議室へと入って行った。
会議室の扉の先にいたのはーー
三人の男達だった。
3話は、いかがでしたでしょうか。
『あんまり話進んでねえな、おい』と言われると返す言葉もありませんが。
元々遅筆なことに加え、しばらくの間いろいろと多忙なこともありまして、しばらくの間更新の速度がさらに落ちることが予想されますが、なにとぞご了承ください。