思う
美月が時任理事と会った日から、一週間が過ぎた。相変わらず送られてくるメールの件数が凄いことは、美月も知らされていたし、電話も相当掛かって来ているらしく、新貝寮監が電話に向かって何か叫んでいるのが聞こえることがあった。新貝寮監は付き合わされて気の毒だとは思いつつ、質の良くない冗談を言われた身として同情はしなかった。美月自身は電話もメールも取り合わないことに決めていたし、何より周囲が決して関わらせまいと団結して挑んでいるので、影響はなかった。坊坂や八重樫、藤沢といった好意で美月の味方をしてくれている友人たちと、まだ悪乗りに飽きていない生徒たち何人かは、この一週間、それはもういろいろな内容のメール送り付けていたが『運命のぼく』はどう感じているのか、攻勢は少しも衰えない。数学の補習が終わった今日、夕食後には美月も『はなひなた・ゆかり』ちゃん宛のメールを一通か二通、書いてみるつもりだった。未だ一部の生徒に続いている盛り上がりを見ていて参加したくなったのだ。
その予定が変更されたのは、授業終了後に合田の呼び出しを受けた結果である。教員室ではなく、書道室で、後で美月は考え付いたが、他の教師に聞かれたくなかったらしい。毎日見ている筈なのに、改めて合田の顔を見た美月は、目の下に隈が出来ていることに気付いた。
「その…おかしなメールと電話の件なのだが」
「はい」
合田は以前と同じく歯切れが悪かった。
「学院側から、止めるように言っているのだが、聞き入れてもらえていない」
美月が許可していることもあり、合田を含む関係者はメールを管理者権限で見ている。メールが一向に減らない、どころか日々増えていること、内容が悪化していることは百も承知だった。美月は黙ってうなずいた。表情の変わらない、その顔を見、合田は溜め息を吐いた。
合田が一組の担任なのは、坊坂が在籍している関係である。このいわば『除霊ビジネス』業界最大手の御曹司相手に、その業界とのつながりが深い教師が担任では、贔屓や不公平が生まれるのではないかとの懸念から、しがらみのない合田が選抜された。ただ合田個人としては坊坂よりも、学年に二人だけの一般家庭出身の生徒である美月と藤沢の方が気に掛かっていた。美月は自分の能力を熟知していて行使にもためらいがないし、藤沢はたまたま学院の学校見学に来なければ、自身が受けている地の神からの庇護にも気が付かなかったような生徒なので、合田が経験したような、一般人から不当な扱いを受けたことがないのは分かっていた。他の生徒たちと軋轢があるかもしれないと思っていたが、それも今のところ特にない。このまま、嫌な思いはせずにいられるかと思っていたのに、今回の件である。学院側の失策で、美月は標的にされた。その上、当事者の美月は一貫して、学院が手立てを講じて状況を改善させることなど期待していない様子である。自分の無力具合を突きつけられているようで、もどかしかった。
「済まない。本来、生徒の安全が脅かされているのだから、もっと厳しくのぞむべきなのだろうが、相手が学校の関係者ということで、強く出られないんだ」
何より、合田自身が今回の学院の生温い対応に納得していない。八重樫の推測の通り、今回の件の実行者が、時任理事の娘の関係者だということを合田は知らされている。しかし時任理事は対処すると言いはしたが、実行者の行動を全く止められていない。メールも問題だが、一日に何十件も電話を掛けてきていて、明らかに寮監の仕事、自らが理事を務める学校の業務が妨害されているにも関わらず、である。
「学院まで押し掛けてくるようなことは、距離の問題もあるから、ないだろうし、そこは学院も気をつける。ただ、須賀も充分気をつけてくれ。なんというか、危険な雰囲気なんだ」
「分かりました」
美月は素直にうなずいた。なんだか深刻そうな合田の表情を見ていると、もはや美月を含めた生徒たちの間で、メールの送信者を『運命のぼく』と名付けて、娯楽の一種扱いしていることが悪い気がして来た。対処が甘いのは合田のせいではないのに、辛い立場だなと思った。とりあえず目の周りの血行が良くなるように軽く治癒を掛けておいた。
合田の態度から、自分まで悪ふざけに乗るのは悪い気がして、美月はメールの作成を止めた。どちらにせよ坊坂か藤沢に断固反対されて、止めさせられただろうということは後で気が付いた。食事をし、課題を済ませ、お湯を浴びて、就寝時間がくる。いつも通りの一日が終わろうとしていた寮の消灯時間直前、突然、美月たちの部屋、10106号室の扉が開かれた。寝支度も終わっている美月も藤沢も、跳び上がるほどに驚いた。
「須賀、おい」
驚きの余り、開けられた扉をただ眺める美月と藤沢の目に、コードレス電話の灰色の受話器を、赤子かなにかのように、両手で押し抱いた新貝寮監が入った。一瞬、美月はそれが新貝寮監だと分からなかった。談話室での新貝寮監流の冗談を聞かされて以降、視界に入れることすら避けていたので、頬が痩けて顔色がどす黒く、瞳を潤ませているその変貌具合に、理解が追いつかなかったのだ。
「頼む、なんとか」
掠れた、声になってないような哀願である。受話器を掲げて差し出してきた。その動作で、受話部に押し付けていた手が外れ、電話の相手の声が聞こえた。『運命のぼく』のあの声である。そう気付くやいなや、藤沢は大股で新貝寮監に近づくと、その手から受話器を奪い取り、ボタンを操作して電話を切った。藤沢にされるがままだった新貝は、更に一言、なんとかしてくれ、というようなことをもごもごと言っていたが、突如腹部を押さえ、床に倒れた。ほぼ同時に消灯時間が訪れ、部屋と廊下の蛍光灯が一斉に消えた。美月が慌てて、机の上の電気スタンドを灯し、明かりを確保した。新貝寮監は、部屋に半身を入れた状態で、床の上で背中を丸めて転がり、時々びくりびくりと全身を振るわせ、痙攣している。消灯後だということも忘れて、美月は藤沢に向かって叫んだ。
「医務室呼んで!」
同時に新貝寮監の元に寄り、容態を確かめた。藤沢は少し戸惑ったものの、程なく医務室への内線をつないだ。医務室に医師が不在の場合は、そのまま医師の個室に掛かるようになっている。すぐに末永医師が応対したが、なんと言っていいのか分からなかった藤沢はそのまま受話器を美月の耳に押し当てた。
「末永医師ですか?須賀です。一年一組の。今、一年生寮の寮監がわたしの部屋に来て、倒れました。痙攣を起こしています。どうも腹部に激しい痛みがあるようです。それ以外は分かりません」
美月は分かるだけの状況を述べた。末永はすぐに来てくれることになった。消灯時間は過ぎているが、流石に気になったのか、両隣や、それ以外の近くの部屋の扉が開かれて、美月たちを伺っている。
「なにか、することあるか?」
隣室の森南が声を掛けて来た。正面玄関に行って、末永医師を誘導してほしいと美月が告げると、うなずいて、素早く移動して行った。
結局、末永医師が新貝の容態を診るために到着するまで、それなりの時間がかかった。消灯後で寮の施錠がされてしまっていたため、末永医師と担架を運んで来た若い事務員の他に、生徒寮のマスターキーを唯一保管している事務長までお出まし願わなければならなかったのだ。美月たちが入学直後に騒動があり、各生徒寮の鍵の管理が厳重になっていたことが災いした。若い事務員と藤沢で、担架に乗せた新貝寮監を運ぶ段になると、10106号室とは正反対に位置する三組の生徒の部屋からも生徒が起き出してくるほどの騒ぎになっていた。坊坂と八重樫も当然野次馬に出て来ていたが、美月も乞われて一緒に医務室に向かう際には、自室の扉の前でなにやら話し合っていた。
末永医師の診断は、新貝寮監は重篤な胃炎、下手をすると潰瘍になっている、というものだった。医務室のベッドに横たえられ、痛み止めの点滴が行われると、大して時間を取らずに痙攣は治まり、寝息を立て始めた。ほっとして美月は医務室のソファに身を委ねた。担架を運ぶ役をしてきたものの、その後はすることがなかった藤沢と、老齢の事務長がソファで居眠りをし始めたために、その場から離れるに離れられなくなった若い事務員が、所在無さげにしている。
「白石さん、戻っていいですよ。後は事務長を起こして、一緒に二人を寮まで送り届けますから」
新貝寮監が落ち着いたのを見て、末永医師がそう、職員に声を掛けた。職員は、少しの間、眠りこける事務長を気にする素振りを見せたが、一礼すると医務室から出て行った。
「さて、須賀くん」
「はい」
「治癒、してくれますか?」
白石事務員が出て行くや、末永医師が声を掛けて来た。予想外の言葉に、美月は目をしばたたかせた。藤沢も眉をひそめている。いくら美月が治癒能力者であるとはいえ、今回は明らかに末永医師の領分だった。更に美月は外傷であればとにかく、内臓疾患に対しての治癒はほとんど行った経験がない。『仕事』をしていた診療所が内臓の病気を診るところではなかったせいもあるが、外傷をただ治せば良い場合と違い、色々と難しく、美月自身が敬遠していた。
「ええ。病気を治した経験が少ないのは分かりますよ。ただ、今回は胃の炎症を押さえるだけですから。内臓を対象とした場合や、病気の治癒が可能になるように、鍛錬出来れば良いと思うのです」
末永医師は清々しい笑顔で、澱みなく喋っている。なのに何故だか美月は背筋が寒くなった。
「一年生寮におかしな電話が掛かって来ていることは聞いています。新貝寮監の胃痛の原因は、多分そのことによるストレスです。意外と影響があるものですよ」
「つまり、遠因が須賀にあるから、須賀が治せと」
藤沢が真っ直ぐに末永医師を見据えて言った。末永医師は笑顔のまま首を振った。
「いや、あくまで、鍛錬、練習です。校外で練習する訳にはいかないでしょうが、ここは学院内ですし。ちょうどいい具合の練習台があるわけですから」
実は、末永医師も新貝寮監流の冗談の被害者だった。美月と違い一度や二度ではない。頭髪事情に関する本人曰く悪意のない言葉を連発された。不快を露骨に表すと、お得意の、冗談が通じない、が続いた。悪意がないのであれば仕方がない。末永医師も悪意はない。ただ末永医師が今ここで出来るのは痛み止めの点滴の投与だけなので、治癒能力者による治癒を受けられるのであれば、それに越したことはないだろうとの判断である。決して、実験動物扱いしてやろうなどとは考えていない。
美月はまぶしいほどの末永医師の笑みを見つめた。無論、美月に末永医師の内心を知る術はない。ただ末永医師が善意で美月に練習の機会を提供しようとしているわけではないことも、新貝寮監を早く快方させたいわけでもなく、意趣返し、というほどではないのかもしれないが、含むところがあるのは分かりすぎるほど分かった。美月は新貝寮監が寝ているベッドに目をやった。カーテンで仕切らているので、その白い生地しか見えるものはない。新貝寮監は一体何を考えて、この陸の孤島で時に命を預けなければならない相手に喧嘩を売ったのだろうと心から疑問に思った。
「もし、仮に悪化した場合、医師が責任を負って下さる、というわけですね」
ベッドを見つめたままの美月の問い掛けに、末永医師は深くうなずいた。
「私が診たのだから、私の責任ですよ」
美月は藤沢を見た。藤沢がうなずく。責任の所在について、しっかり聞いた、という顔だった。普段、なんだかんだで周囲の暴走を止める役にまわることが多い藤沢だが、新貝寮監に対して良い感情は持っていなかった。
「では、炎症を抑えます」
美月は短く言って、治癒を行った。