マッサージをしよう
花火大会から2日後。
私は秋斗の家のインターホンを押した。
ピンポーン。がちゃ。
「ゆき!どうぞー。先に俺の部屋行ってて!」
「お邪魔しまーす。」
おばさんはいないらしい。私は秋斗に言われた通り、二階にある秋斗の部屋に向かう。
勝手知ったる他人の家。
秋斗の家には小学生の頃から何度も行ったことがある。それこそ秋斗と仲良くなってからは毎日お互いの家を行き来していた。太陽も入れて三人で遊ぶことも多かった。夕方になってお互いの家に帰るのが嫌で、帰った後に窓から直接に行き来もしていた。これがばれて、双方の両親に後にも先にもこれ以上ないってくらい怒られたっけ。特に秋斗は、秋斗の一度も怒ったことのなさそうな優しいお父さん(ちなみにこの人も渋いダンディな美形のおじさま)に拳骨を食らってた。それからは、「夕飯をいただいてきてもいいから、窓で行き来するのはやめなさい」と言われ、夜でも結構二人で遊んでた。実はあの後も秋斗の方は私の部屋に窓から遊びに来ることがあったのだが、それは内緒だ。今は禁止令を出しているので来ないが。
久しぶりに私の部屋よりも広い秋斗の部屋に入る。
内装は前よりにもさっぱり、シンプルになっていた。学習机に本棚、ワードローブにベッド。昔は本棚のところにはおもちゃやらぬいぐるみやら恐竜の置物が置かれていたんだけど、それらは全部撤去されて今は教科書や辞書、洋書が置かれていた。
秋斗の部屋でぼーっと立っていると、秋斗がお茶とお菓子を持って入ってくる。
「あれ?座ってなかったの?てきとーに座ってよかったのに。」
秋斗が机の上にお盆を置くと、ベッドに腰掛けて言う。
「あ、これ!前来た時も飾ってあった!今も置いてくれてるんだね~。」
秋斗と太陽と私の三人で小学生の時に撮った写真が今でも昔と変わらず飾ってある。
「楽しかったからね。」
目を細めてそれを見る秋斗。写真の中の、まだ小さくて可愛らしい姿を懐かしそうに見ている。
「さて、とりあえず来た目的を果たしますか!」
「え?本当にマッサージすんの?」
「え?しないの?」
「…ま、いっか。じゃ、よろしく。」
そう言ってベッドにごろーんとうつ伏せに転がる秋斗。もうベッドと同じくらい身長があるんだから、そうやって寝っ転がっていても写真の中の小さくて可愛らしい姿はどこにもない。
私は秋斗の足側に回ると、まずは太ももとふくらはぎのマッサージをする。本当は体幹からやった方がいいんだろうけど、この前一番使ったのは足だろうから、足からで。それから腕を。
こうやって見ていると、本当に男の子だなー。引き締まってて、筋肉がしっかりついている。
すべすべなのはどうしてですか?あれですか、あんまり生えない体質ですか?
世の中の女子に挑戦状をたたきつけているとしか思えない綺麗な肌だ。
「よし、次は背中っと!ちょいと失礼しますよー。」
私は秋斗の背中に跨り、背骨の両脇にある筋を上から順に親指で押していく。
肩甲骨の下あたりと、すぐ近く、体の側面には腕のツボがあったと思う。ちゃんとした場所とか名前とか知らないけれど、手で触れば当たる。これは昔中国整体に通っていたお母さんが「ぜひ覚えて!」と言って私を鍛え上げた成果だ。女性の体のお母さんと違って、ふわっとした脂肪がついていなくて、固いから押しにくい。
「秋斗―?どう?強すぎるとか、弱すぎるとか、ない?」
「……。」
え、気持ち良すぎて寝ちゃった?
「…くすぐったい。もう、いいよ、ゆき。」
「ふぇ?まだ半分くらいなんだけど。」
「いいから。お願い。降りて。」
「重かったか。ごめん。」
私は秋斗の体から離れると、そのまま秋斗の隣にうつ伏せにごろーんとした。
「はぁー手ぇ疲れたぁ!」
横を向くと、秋斗も横を向いて、こっちを見ていた。金色のふわっとした髪が重力でちょっと目にかかっているのを見る。お人形のように綺麗で整った顔。昔もよく、こうやって二人でベッドで向かい合わせになって見合った。秋斗のお母さんが「二人ともー?どこにいるのー?」と探してくるのを、二人で布団の中に隠れてくすくす笑ったものだ。
「ふふっ。」
「何がおかしいの?ゆき。」
「いや、なんとなくー!なんか、秋斗の部屋来るの久々だね~。」
「いつだっけ?来なくなったの。」
「確かー中2だったかな。2年前?」
そうだ。あれは中2の初めの時。クラスの男子がいわゆる「エロ本」という超古典的なものを持ってきていて、それを秋斗に見せていたのを見てしまったのだ。あの本に載っていた、「あっはんうっふんボインなお姉さんたち」に秋斗も興味があるのかと思って、すごくショックを受けた。特に中学2年生、13歳という多感な年ごろだったから、ちょっと男の子に対して潔癖になってしまったのを覚えている。秋斗がいつもと同じように「遊びにおいでよ」というのを、「いやだ!気持ち悪い!」と言ってしまったのがきっかけだ。
あれは悪いことをしてしまった。秋斗は何がなんだか分からず傷ついただろう。前世合わせて37歳の今なら分かるが、今時の青少年は部屋にエロ本という物理的媒体を持っているはずがない、おそらくネットで観てしまう時代だ。だからそんなものが秋斗の部屋にあるわけはなく、そして秋斗もあれは友達に見せられただけだったのだから、特に本人に問題があるというわけではなかったのに。
「あの時は、ごめんね。」
秋斗は覚えてないかもしれないけど。
「覚えているよ。」
心の声が漏れたか!?
「いきなり、ゆきがうちに来ないって言い出して。よくわかんないけど、気持ち悪いって言われて。あの時は結構きたなー。」
「本当に申し訳ありません。」
「でも、あの時は結果的に救われたっていうか。」
「救われた?まさか、本当に、物理的媒体のエロ本というものが、この部屋に!?」
「何言ってんの?」
「ですよねー違いますよねー。」
「…ゆきってさ、変わんないよね。」
「何が?」
至近距離で向かい合っている秋斗のエメラルドの目が、急に鋭くなった気がした。
へ?
「こういうの、想像したことないでしょ?」
秋斗の手が、私の手を上から押さえていて、いつの間にか、私と秋斗の体の位置が横での向かい合わせ、ではなくて上下になっていた。
え――――っと。これはいわゆる、押し倒す、というやつですか?
「…秋斗?何してんの?」
「ゆきはさ、ずーっと、昔のままだと思ってるでしょ?俺は、小学生で、精神も軟弱で、力もなくて、ゆきの影に隠れている子って。」
「思ってないよ。秋斗、かなり精神的に強くなったじゃん。それに、私の身長だってとっくに抜かしているし。」
「じゃあさ、なんでゆきは俺のこと、弟みたいに扱ってんの?」
「それは…」
「違うとは言わせないよ?気づいてないとでも思ってた?」
秋斗がそれに気づいていないとは思っていない。でも、それでいいと思っていた。それでそのまま押し通せばいいと。
「俺の背中、普通に跨ぐし。俺の横に寝っ転がるとか警戒心の欠片もないし。信じられないよ。」
「ごめんなさい。猛省してます。女子として色々終わってました。枯れていましたとも、認めます。」
「俺にとってはさ、ゆきは昔も今も『女の子』なの。分かる?はっきり言おうか、『女』なの。ゆきは。」
秋斗の顔はいつも見ている顔なのに、なんだか違う人みたい。ちょっとすねたり、甘えたり、そんな顔が可愛らしい、昔と変わらない男の子だったのに。
「…俺もさ、もうしばらくはこの関係でもいいかな、って思ってた。でもさ、特に高校入って、いろんなやつらがゆきのこと目ぇ付けだすから。特に上林。あいつに言われた。」
「な、何を?」
「ゆきに悟らせたって。俺はライバルだから、言っとくって。」
なんてことをしてくれているんだ、上林くん!
「それは断った!」
「だから?」
「え?」
「ゆきが断ったって、俺がこの位置にいる限り、俺とゆきの関係は変われない。ゆき、分かってる?今の俺は、ゆきのこと、簡単にこんな風にできるんだよ?」
「秋斗、落ち着いて。」
「落ち着いてる。もう、弟の位置は嫌なんだ。俺はゆきに俺のことを男として見てもらいたい。」
なんでこんなことになってるんだ!?マッサージか?はたまたあれの原因を作り出したカップケーキのせいか?それを企画した愛ちゃん先生のせいか!?
「…そしたら、今までの距離ではいられなくなるよ?」
「構わないよ。それも覚悟の上だし。そんなに泣きそうな顔しないでよ。安心して?今、どうこうするつもりはないよ。でも、俺のこと、そういう風に見てもらうきっかけは作っとく。」
「は!?秋斗、おちつっ!?」
唇に、何かが、触れた。
柔らかな金色の髪が、私のおでこをくすぐる。
手首を動かそうにも、びくともしない。暴れようとしても、体を押さえこまれていて、無理だ。
ただ私の唇に触れるだけの温かい彼の唇は、とても優しいのに。
私の目じりから一筋、涙がこぼれる。
ああ、もう、だめだ。
秋斗は、弟じゃない。一人の男性なんだ。
お願い、これ以上、私のこの安寧な世界を壊さないで。
ガチャと、階下でドアの開く音がする。
「秋斗~?いるなら、鍵くらい開けてよー。」
おばさんの声!
「秋斗、いるのー?」
とんとん、とそのまま階段を上がってくる音が聞こえてくる。
まずい!
「んーっ!(放せ―!)」
私の努力もむなしく。
こんこん、がちゃ
とドアの開く音がする。
「秋斗、いるんじゃな…」
私とおばさんの目が合う。そしておばさんがその美しい目を大きく見開く。
ようやく秋斗が顔を上げて、おばさんを見た。
「ごめん、母さん、取り込み中。」
「違うわ!取り込んでません!速攻帰る予定です!」
「……。」
さすがにおばさんもこれを見せられるのはまずいんじゃないか!?大事な一人息子が幼馴染とはいえ女の子を組み敷いてキスしている姿だぞ!?
助けておばさん!
「ごめんねぇ。邪魔しちゃって。どうぞ、続けて。」
はぁあああああああ!?
「おばさんっ止めてください!」
「あら、同意の上じゃないのー?秋斗のキス、泣いちゃうくらい下手?」
「…!下手とかそういうんじゃなくてっ!あ、秋斗の暴走ですっ!」
「んーでもゆきちゃん、そろそろ強引な手を使ってでも手に入れとかないとねぇ。」
おばさん!!!!!!あなたが今唯一このケダモノ化した秋斗を止められるんだから、お願いしますっ!!
私の必死の瞳を見て、おばさんは、ふぅっとため息をつく。
「秋斗、ゆきちゃん、本気で泣きそうよ?その辺でやめときなさい?」
「元からそのつもりだよ。意識してもらうきっかけ作りだし。」
この親子嫌だ!!!!




