約束違反も予想済み。
入院から一週間して私はようやく退院して地元に帰ってきた。その日はいの一番に入浴をしてから(入院中はシャワーだけだったので一番したかった)久々の自分のベッドで早めに寝た。
その次の日の午後、外出の準備をしているとお母さんが不安そうに話しかけてくる。
「そんなにすぐに動いて大丈夫なの?」
「最後はただの風邪だったでしょ?熱もおととい引いたし、喉も治ったからもう平気。」
「母さん、ねーちゃんの平気や大丈夫は信用ならない。俺が部活なかったら着いていくけど…やっぱ今日は休むかな…。」
「何言ってんの!今回は本当に平気だよ。」
「平気?ねーちゃん、去年からどんだけ事故に巻き込まれてると思ってんの?この事故を引き起こす確率から言えば次は車に轢かれるんじゃないかって気が気じゃなくて目なんか離せねーよ。」
「太陽、縁起でもないこと言わないでちょうだい。雪、どうしても今日行かなきゃいけない用事なの?」
「うー…。命の恩人に洗濯した服返してお礼言いに行きたいの。こういうのは早い方がいいでしょう?」
「弥生か。あいつなら礼くらい遅くなっても平気だと思うけどな。…まぁそれだけなら。じゃあ俺、部活行ってくるよ。」
「いってらっしゃい。」
太陽が出ていってからお母さんが再び訊いてくる。
「…雪、それは確かに早く言わないといけないけど、本当にそれだけなの?」
さすがお母さんだなぁ。よく読んでる。
お母さんにここまでしつこく訊かれるのは太陽と同じくトラブルに巻き込まれ過ぎなことを心配されてるんだよね。申し訳ない。ごめんねお母さん。
「…冬馬のお見舞いにも行ってくる。彼、私のせいで倒れちゃったんだもの。太陽に言ったらうるさいでしょ?」
「彼はあなたにつききりだったものね…。じゃあ用事済ませたらちゃんとすぐに帰りなさい?」
「うん。ありがと。行ってくるね。」
神無月くんとは駅前のカフェで待ち合わせていたが、私が着いた時にはもう先にいて衆目を集めていた。
攻略対象者様は探す手間が省けていいね!
「ごめんね!わざわざ来てもらっちゃって!」
「別にいいですよ。先輩こそもう大丈夫なんですか?」
「うん。まだ運動は禁止だけど外出くらいは。むしろ動きたくて仕方なかったよ。これ、ありがとう。本当に助かった。これなかったら多分死んでたもん。」
洗濯済みのウインドブレーカーを入れた紙袋を渡す。あの場で体温が奪われるのを防いでくれた要のこれは、私が病院まで着てしまっていたから、ずっと私の手元にあった。
「大げさですよ。…あれ、この箱は?」
「お礼のお菓子。良かったら食べて?甘いの平気だったらだけどって…平気そうだね。」
彼の前にあるのはコーヒーフロートだ。アイスコーヒーもあったのにわざわざこっちを頼んでいるんだから、甘い物が嫌いではないはず。
「ありがとうございます!いただきます!甘いもの好きなんですよ。…変ですか?」
流行りのスイーツ男子というやつか。
「太陽も平気な方だし変だなんて思わないよ。だいたい、男子だから女子だからってもんでもないでしょ。」
「…そう言ってもらえるのは嬉しいですね。結構、意外、とか、甘いものそれほど好きじゃないイメージだったってガッカリされたりするんですよ。」
神無月くんは太陽や三枝くんに比べてクールな方ではないと思うし、ガッカリもなにもない気もするのだけどな。
「勝手にイメージ作られてガッカリされるって神無月くんも難儀するね。それにしても、こめちゃんが知ったら喜びそうだなぁ…。」
「増井先輩、僕が甘いもの好きなこと、知ってますよ。今度一緒にスイーツ巡りに行こうと誘われました。」
「…行くの?」
「傍にいた海月会長から殺光線が出ていたので丁重にお断りしました。」
だろうな。会長が他の男子とこめちゃんにスイーツデートを許すなんて、会長ご自身で美玲先輩のお菓子を笑顔で食べまくるのと同じくらいありえない。
「あれから神無月くんは風邪とか引いてない?平気?」
「僕はほとんど濡れてませんでしたから全く問題ないです。」
「重かったでしょうし、大分汗もかいてたでしょ?冷えたんじゃない?」
「あれくらい部活でもかきます。いい筋トレになりました。」
「すみませんねぇ。重くて。」
「逆です。軽くて心配になりました。人一人なんですからもっと重いかと思ってました。」
「そう?どっちにしても汗はかかせちゃったから心配だったんだ。命の恩人の神無月くんがそれで風邪とか引いたら申し訳なくて顔合わせられないよ。」
「大げさですってば。」
「大げさじゃないって。あの場で濡れた服着たままだったらもっと体温奪われてまずかったってお医者さんに言われたんだから。」
「いや僕こそ勝手に服を脱がすなんてことして…その」
「命の方が大事だから仕方ない。いやーごめんね本当に。」
いちごパンツとかくまさんパンツでなくて良かったなぁと命の危険がなくなってからどうでもいいことを思った。いやさすがにいちごとかくまさんは持ってないよ?せいぜい水玉とかでしたとも。それらだってもういなくなりつつある。なぜだか私の下着ラインナップは主に茶道部女子面々によって定期的に革新されているからね。
「そういえば、その…あれ、どうなった?」
「あれ?」
「恋愛?その、既婚者の女性だったか親戚のお姉さんだったか。…解決しそう?」
「…既にそこに限定されたんですね…。…そんなに早く解決したら苦労しません。」
苦笑してストローでフロートを突っつく神無月くん。
「僕の中での悩みは深くて。」
そうしてコーヒーの中に溶けでたクリームをじっと睨みつけている。
あまり恋愛に突っ込んで訊くのもよくないかな。本人が話したいと思う人に聞いてもらえればいいんだろうけど。
「…そっか。誰かに相談してみてもいいかもね。し…と、冬馬…は今あれだから、そうね、私でよければ聞くし!」
祥子に相談したらそこから恋愛ルートに乗る可能性大アリだ!危ない危ない!
「相田先輩が?それ相談相手適切ですか?」
「何が言いたいのかな?」
「僕の見る限り相田先輩ってそういうのかなり鈍そうなんですけど。」
ここでも言われた!!未羽や明美や俊くんにも言われてるのに遂に後輩にまで!!
「それ他の人にも言われた…!うっ。だったら…太陽…もあまり使えなさそうだよね、その方面には。」
「ぷっ!ははは!…大丈夫ですよ、ちゃんと先輩に相談します。」
「笑う必要ないじゃん。」
「頼りにしてますよ、先輩。」
「どーも!…さて、行くかな。」
「送ります。帰るんですか?」
「いや、冬馬の見舞いに行こうと思って。私のせいで冬馬が倒れちゃったんだよね…。」
「…それぐらい先輩のことが大事ってことですよ、先輩のせいじゃないです。お見舞い、僕も行っていいですか?」
神無月くんは冬馬が大好きだ。葉月の私への執着に似ている。彼も心配なんだろう。
「いいよ。行こうか。」
ピーンポーン。
「はーい。」
鈴を震わすような声がしてドアが開くと、相変わらずお美しい女性が出てきた。
「雪さん!いらしてくれたのね。どうぞどうぞ入って。…あら?そちらの彼は?」
「ぼ、僕は君恋高校1年の神無月弥生と申します!上林先輩とは生徒会と部活が一緒で、大っ変お世話になっています!!お見舞いに来ました!う、上林先輩のお姉さんですか…?」
頰を染める神無月くんを見て、沙織さんはくすくす笑っている。
「あら、お上手ね。私は冬馬の母の上林沙織です。神無月くん、ようこそいらしゃいました。冬馬も喜ぶわ。さ、玄関で立ち話してもあれだし、お入りになって?」
リビングに案内されている途中で、後ろでずっと、「お、お母さん…?お母さんだなんて…え、でも、…お歳は…?」とつぶやいているのが聞こえる。
もしかして君は年上好きなのかい?
こそっと、
「沙織さんは既婚者だからダメよ?」
と言うと、
「な!上林先輩のお母さんに手を出そうなんて考えませんよ!!」
と真っ赤になって返してきた。
可愛いやつ。
「沙織さん!!この度は私のせいで冬馬くんにあんなに体調を崩させてしまって本当に申し訳ありません!」
沙織さんが紅茶と、お見舞いに持ってきたはずのクッキーを出してくれたその前で私が大きく頭を下げると沙織さんは首を振った。
「雪さんが謝ることじゃないわ。あの子が周りの制止を聞かなかったからこうなっただけの話よ。それに、それだけあの子が雪さんのことを大事に思っているということだもの。私が貴女を責める理由なんてどこにもないのよ。だからお顔を上げて?…それより、雪さんは今回命の危険があったとお聞きしたわ。もう大丈夫?」
「はい。入院中もずっと冬馬くんが近くにいてくれたそうですし、ゆっくり休んで回復しました。ご心配ありがとうございます。」
「良かったわ。」
頰に手を添えてほっと息を吐く姿はあどけない少女のようで可愛らしい。見かけは冬馬のお姉さんだと言っても騙されるくらいだ。この人が既婚者なのは本当に勿体無い。
「冬馬、今寝てるのよ。」
「じゃあお邪魔しない方がいいですよね?」
そう言う神無月くんの方が圧倒的に常識的。
だけど私は嫌だ。例え寝ていたって、少しだけ顔を見ていきたいと思うのは私のわがままだろうけれど、それでも会いたい。
「…あの、少しだけ彼の顔見てからお暇していいですか?起こさないようにしますので。厚かましい非常識なお願いであることは分かっているのですが、お願いします。」
私が言うと、沙織さんはくすっと笑って、
「冬馬の部屋に案内するわね。」
と返してくれた。
冬馬の部屋は二階にあった。
軽くノックしてから部屋のドアを細く開けて沙織さんが入っていく。
枕元まで行って彼が寝ているのを確認して、私たちに入っていいと合図してくれたので音を立てないようにそうっと入る。
暗いからよく見えないけど、広いんだろうことは分かる部屋に足を踏み入れてベッドに近づくと、ほぼ一週間ぶりに見る彼がいた。
寝息が聞こえるから本当に寝ているんだろう。
「あの、少し見守っていていいですか?」
潜めた声での私の図々しいお願いに沙織さんは首を縦に振って肯定し、私の耳元で、「いてあげてくれるかしら?私、下にいるから、お好きな時に帰ってね。雪さんも無理しないで?」と囁いて部屋を出て行った。
暗闇にも目が慣れて冬馬の顔が見える。
目を瞑って寝ているその表情は決して安らかなものではない。苦しそうに少し眉が寄ったままだ。それでもこんなに絵になってしまうくらい整った顔。
魔女に無理矢理眠らされた王子様というのがいればこんな感じなんじゃないかな。
それを後輩と二人で黙って眺めるなんて変態ぽいな、なんてドアの前では思っていたけれど、そんなことは彼の顔を見た今はどうでもよくなっている。
「冬馬…ごめんね。心配かけて。」
小さな声で呟きながら、枕元に跪いて冬馬の目にかかった前髪を細心の注意を払ってどける。
たったそれだけなのに、冬馬が少し身じろぎする。
起こしてしまったか?!
身を離して蝋人形のように固まってやり過ごせば、彼はその浅い眠りから覚めることなくこちらにころりと寝返りを打っただけで済んだ。眉間の皺が深くなっていたが、まだすーすーと寝息を立てていたのでほっとする。
頭を撫でてあげたい欲求に耐えながら、その様子を見守りしばらく経ったところで神無月くんがとんとん、と私の肩を叩いた。
「先輩、そろそろ行きますか?」
「…うん。」
後ろ髪をひかれるが、冬馬の睡眠第一だ。
「冬馬、また来るね。」
囁いて立ち上がった時だ。
「雪…。」
その声に、呼ばれた。
「雪…死ぬな…。…後生だから俺の傍にいて…。」
目を瞑ってうなされている。起きているわけじゃない。
けれどこんなに切ない声で呼ばれて、離れられるわけない。
もし今回、状況が逆だったら、どれだけ辛かっただろう。
事故に巻き込まれやすいことが分かっていて心配していた恋人が少し目を離した瞬間にいなくなって、川に落ちたのだと分かって、見当たらなくて、でも探すことも許されない。川の事故での生存率が低いことも知っていることが不安を煽る中で神に縋る想いで待っていて、帰ってきたと思ったら肺炎起こしかけていて意識がない。病院では生命の危険があると言われてそのまま2日も目を覚まさない。
一度期待を持ったところから落とされて、絶望という名の川の縁一歩手前から戻って来られない。
大切な人がこのままいなくなってしまうかもしれない。どうして自分が止めなかったんだと自分をひたすら責めて、それでもただ神様の存在を信じて祈ることしかできない。
想像するだけで胸が引き絞られるように痛い、そんな辛い思いをさせてしまったんだ。
特に冬馬は内にいれた人がいなくなることを、傷つくことを、何よりも恐れているのに。
ごめんね冬馬。怖い思いさせてごめん。
「神無月くん、先帰ってていいよ。」
再度跪き、冬馬の左手を両手で包みこみ、祈るようにおでこにくっつける。
「大丈夫。冬馬、私はここにいるから。どこにも行ったりしないから。」
ぴく、と手が動いた。
顔を上げると長い睫毛が重たげに上がった。
うっすらと開いて漏れた光を反射する瞳と目が合うや否や、黒い大きな双眸がはっきりと私を捕えた。
起こしてしまった。
「雪!!」
ガバッと起き上がった冬馬に強く引き寄せられて抱きしめられる。
「冬馬…苦しい…。」
「雪、雪だよな?!」
「そ、うだよ。」
そう返すと腕の力が強まる。呼吸が出来なくなるくらい強く抱きしめられるなんて初めてだ。いつも柔らかく包み込むように抱きしめられるのに、今はまるで離さないと言うように拘束される。
そしていつもと違う冬馬が耳元で、「雪、雪…」と繰り返していて、その声が微かに、ほんのわずかに震えていることにも気づく。
「冬馬、私だよ。雪だよ。ここにいるよ。」
自分から冬馬に腕を回し、ぽんぽん、と優しくたたいてから撫でる。
大きくて固い男の子の背中なのに、なぜか話に聞いた小さい頃の冬馬がそこにいるような気がした。
しばらくして、ようやく冬馬は腕の力を少し緩めた。まだ離す気はないみたいだけど。
「…雪、もう体は平気なのか?」
「うん。もう大丈夫。すっかり回復した。冬馬が看ててくれたおかげ。ありがとう。」
そう言うとわずかに体を離した冬馬が頭をこつんとぶつけてくる。
「心配した。とても。」
「うん。」
「雪が、本当にいなくなるかと思った。」
「ごめんね。」
「そう思ったら視界が真っ暗になった。何も見えないし、聞こえなくなるなんて初めてだ。体育祭の時もここまでじゃなかった。」
「本当にごめんね。」
「雪はトラブルばかり引き起こすんだよな。俺がどんなに注意していても。なんで雪なんだよ…なんで雪ばかりこんな目に…。」
「でも私は生きてるよ。周りにいてくれるみんなのおかげ。特に今回はそこにいる神無月くんのおかげで!」
そう言われて初めて冬馬は神無月くんの存在に気づいたのか、はっと顔を上げた。
「神無月。」
「はいっ!」
「雪を助けてくれてありがとう。」
私をベッドに引き上げ横に座らせると冬馬は深々と頭を下げた。
「いえ上林先輩にお礼を言われるようなことは…!僕はたまたま居合わせただけですから!」
「お前がいなかったら雪は助からなかったかもしれない。何度お礼を言っても足りない。」
「いやそれはその。な、なんというか当たり前のことをしただけなので!だからもう顔を上げてください!やるせないので!」
「この礼は必ず返す。」
そう言ってから冬馬は暗い中で光る時計の針に目を向ける。
もう5時だ。
「雪、親御さんが心配してるだろ?昨日退院だったんだから。」
そうだった!
「家まで送るから着替える。ちょっと待ってて。」
そう言って少しふらつきながら冬馬が立ち上がるのを慌てて押さえる。
「だめ!冬馬の方が今は体調ボロボロなんだから!!」
「そうですよ先輩!今出歩くのは僕でも止めます。…相田先輩は僕が送りますから。」
「冬馬、沙織さんも心配するよ!」
「………分かった。」
すごく不平が言いたそうな顔だけど、沙織さんのことを考えたのか不承不承頷いた。
「下までは送る。」
そう言って私と神無月くんを下まで連れて行く。
「すみません、沙織さん。冬馬くん起こしちゃいました。」
「あらやっぱり。」
「ごめんなさい。」
階下で会って約束違反を謝ると、沙織さんは予想していたようにふふ、と笑った。
「いいのよ。やっぱり雪さんが一番のクスリみたいね。顔色が良くなったわ、冬馬。」
沙織さんの言葉で私の熱はぶり返したようだった。
冬馬と沙織さんに送られて神無月くんと私の家まで歩く途中、神無月くんは無言だった。
話しかけちゃいけない雰囲気で、声をかけるのが躊躇われる。
どうしたのだろうか?
「神無月くん…?どうかした?」
「はっ。あ、すみません。ちょっと考え事を。」
ようやく笑みらしきものを見せてくれたけれども、晴れ晴れとした顔ではなかったので茶化しておく。
「沙織さんがあまりに綺麗で見惚れちゃったぁ?」
「なっ!!そ、それは美しい方だと思いますけど!!」
「ああいうお嬢様な感じが好みかぁ〜。」
にやつくと、ぷい、と顔を逸らされた。
照れてる照れてる!
「太陽には内緒にしておいてあげるよ!命の恩人様のために!」
「…そうしてください。」
夕日に照らされて、何かまた思考に耽った様子の彼の横顔からはそれ以上のことは読み取れなかった。