信頼は一日にしてならず、しかし崩れるのは早し。
あの後、高熱で意識を失った私は愛ちゃん先生の車で地元の病院の集中治療室に緊急搬送されたらしい。意識が戻ったのは入院3日目の夜。
丸2日間目覚めなかったのだと聞いて自分がどれだけ無茶をしてしまったか知った。
外傷の方は、全身細かい擦り傷切り傷打ち身だらけになっていたものの、破傷風菌の予防接種もしていたし、頭も打っていないので川に落ちたのだとすればかなり幸運だったそうだ。
高熱は、体を冷やしたことと水の雑菌による肺炎が原因だったそうで、これのせいで生死の境をさまよった。
私が目を覚ましたと聞いた葉月は泣きながら抱きついてきたし、太陽ですらちょっと泣いていた。太陽は私が事故に巻き込まれたとの知らせをコテージで聞いた途端、走って飛び出そうとして雨くんと愛ちゃん先生に押さえられていたらしい。
先に病院に送られていたこめちゃんは予想通りアブに刺されていたらしく、病院の先生には「直後の応急処置が良かったおかげで酷くならない」と言われたのだそうだ。意識が戻ってから会った(またも私のせいで大泣きしていたので顔はむくんでパンパンになっていた)こめちゃんにお礼を言われた。
そんな入院も5日目。
明日退院できるのだから今日までは安静にしているようにきつく申し渡されて大人しくベッドで寝ていると祥子が見舞いに来てくれた。
「あの、師匠と二人だけにしてもらえませんか?」
「ダメよ。あれだけ敵意を剥き出しにしてたあなたをこの弱った雪と二人きりにはできない。」
その時傍にいた未羽は即座に拒絶した。未羽は私の目が覚めてからも、地元からかなり距離があるこっちにわざわざ泊まり込んでまでして毎日見舞いに来てくれている。
意識のない時はずっと太陽か冬馬か葉月、そして話を聞いて飛んできてくれた未羽が片時も離れずついていてくれたらしいのだが、目を覚ましたときにいたのも未羽だった。
彼女らしからぬ神にも祈るような表情で、私の手を爪の痕が付くくらい強く握りしめていた。
「…み、う…?」
「!!雪!!目が覚めたのね?!」
私の意識が戻ったことに気付いてこっちを見たその目からぽろりと涙が落ちた。
「なにやってんのよあんたは…!!!」
「ごめ…油断してた…。」
「あんなに!あんなに注意してたのに!!!上林くんと対策した意味ないじゃないのよぅ…!」
「ごめん、ごめんね。未羽がいてくれたから戻ってこられたんだよ…。」
そう言ってすがりついてくる頭を撫でていて、大変なことを思い出した。
「み、未羽…!大変なことに気づいてしまった…!」
「なによ…?」
「カメラ…。未羽のカメラ、壊した上に忘れてきた!」
「ばかっ!!!」
「ごめん、隠し攻略対象者の卯飼くんの主人公との貴重な絡みを」
「そんなことよりもっと大事なことがあるでしょうが!それにっ、そんな失敗、私がいくらでもカバーしてやるわ!…だからこんな時くらい自分を一番に考えなさいよ…!」
そう叫んでから病室であることを丸ごと無視してわんわん大泣きされた。
あのスチル集めを生きがいとしている未羽にそんな、と言わせるくらい、心配させてしまったことを思い知らされて胸がかきむしられる思いがした。
なので今私は全く未羽に頭が上がらない。
「お願いです。師匠とだけお話したいことがあるんです。」
未羽の怖い表情に一瞬ひるんでも、それでもなお食い下がる祥子を見て、未羽は自らが転生者であることを告げてその場に居続けるか、それとも隠したままにしておくか迷っている様子を見せる。
「未羽、大丈夫。祥子は平気だって。」
「あんたの大丈夫は全くあてにならない上に1ミリも信用できない。却下。」
瞬殺された!
私と未羽の1年半にわたる信頼関係はあっさり崩れ去っている!
「横田先輩…ですよね?お願いします。もしどうしてもと言われるならドアの外にいてもらえませんか?あたしが変なことしたらすぐ分かりますよね?」
「…分かった。何かしたらただじゃおかない。」
耳にイヤホンをさしていたから、盗聴する気満々だ。
そんな未羽が出て行ってから祥子が枕元に座って頭を大きく下げた。
「師匠、すみません!!!」
「なんで祥子が謝るの?」
「あたしがもっと注意していれば…!イベントが起こりうるのは知っていたのに…!」
「私だって知ってたよ。それでもまさかあそこで起こるとか思ってなかった。誰も予想してなかったんだから仕方ないことだよ。」
「でも…!」
「主人公イベントが時期を外して起こることは去年もあったの。今年はちゃんと祥子が主人公になってたからって油断してたのは私。…あれから蛇は?」
「出てません。」
「じゃあこめちゃんのアブ事件が蛇の代わりでしょ?こめちゃんにあったなら私にあってもおかしくない。警戒を怠ったのは私だわ。祥子は悪くないから。責めないで。そもそも、あれは本当にイベントだったのよね?でも生徒会合宿のじゃない気が…。」
「残っていたイベントは、日の出見学の帰りに足を滑らせてずぶ濡れになるくらいなのでそれほど危険ではありません。びしょ濡れの主人公に服をかけてあげて抱き上げるというスチルです。それにそのイベントは本来、相田くんのなんです。それは川遊びに似たものがありましたよね。だからあたし、今回のは一年合宿の…。」
「だと思う?私もそう思う。」
今年の第3弾の秋にある一年合宿では祥子が川に落ちて神無月くんに助けられるというイベントがあるのだ。それと全く状況が変わらないからあれが起こったと考えた方が自然だ。
はっきり言って、一年合宿の時のイベントが起こると想定できる方が頭おかしいだろ!
頭を押さえて悩んでいると、祥子がポツリとあの後あの場で起こったことを話し出す。
「師匠が向かわれて、それからしばらくして師匠の悲鳴と大きな水音が聞こえました。上林先輩が師匠の名前を呼んで誰よりも早く向かったんですけど、もう師匠の姿はどこにもなくて。上林先輩が危険なのも顧みずに下流に下っていこうとするのを東堂先輩と雹先輩が二人掛かりで止めたんです。神無月くんもいないことに気づいた先生が、彼が追ってくれているはずだと説得したんですけど、上林先輩は納得しなくて、抵抗してたんで東堂先輩がずっと羽交い絞めにしてて。…その後ようやくコテージに先輩を連れ戻したんですけど、先輩、誰とも口利かなくて。捜索隊の要請した後の待機中なんかあまりにピリピリした空気を纏っていて俊先輩以外の人は近寄ることも出来ないくらいでした。…師匠が神無月くんに連れられて戻ってきた時は真っ先に飛び出して師匠を受け取って、雪、雪!って師匠の名前を何度も呼んで師匠を抱きしめてて。上林先輩、いつもと別人みたいに取り乱してて…万が一師匠に何かあったら上林先輩も壊れちゃいそうでした。」
冬馬は、四季先生と俊くんにしつこく言われても3日間ほとんど寝食をとらずに私に付きっ切りだったらしく、体調を崩してしまったので沙織さんに引き取ってもらい、自宅で休んでいると聞いた。今は彼の方が憔悴しているような状態だ。会いに行きたいが外出禁止が徹底されているし、この状態で抜け出すという人でなしにはなれないので、退院してから見舞うつもりだ。
「祥子…その、私が川に落ちた理由なんだけど…すごくくだらなくて、こんな大事になっちゃうなんて…私がどこかに雲隠れしたいよ…。」
「多分どんな理由であってもいつか師匠かあたしが川に落ちたんだと思います。師匠はあたしの身代わりになってくれたんですよね…本当にすみません。あたし…。」
「だ―――っ!それは違うって。別に祥子の身代わりじゃないから。私は去年からこの世界にどっぷり浸かってて、ゲームに狙い撃ちされてるのよ。こめちゃんもある意味そうかも。だから祥子のせいじゃない。」
「師匠…。」
「だから祥子も思い詰めないで?…夏はもう危険なイベントなかったわよね?」
「ありません。ないはずです。イベントがあるのは茶道部合宿と生徒会合宿が主で、あとは個別に関わりがあったりするくらいです。危険性は絶対ないです。」
「絶対はここでは通用しないよ?」
「はい。でも唯一あるイベントの夏祭りは好感度が一定値超えた人がいれば、その人が誘ってくることになっていたのであるかは分かりません。」
「なるほどね。あったら教えて?」
「はい。」
「もうそろそろいいかしら?雪も万全じゃないんだけど。」
未羽がドアを開けて言ったところで祥子が立ち上がる。
「はい、ありがとうございます。横田先輩。師匠、お大事に。」
祥子は礼をして帰っていった。
「…さて。雪。聞かせてもらおうじゃないの?」
「何を?まさか、川から落ちた理由!?」
「それは多分あの子の言った通り、どんな理由でも落ちたんだろうからどうでもいいわ。それじゃなくて、なんであんたが今後起こるはずの一年合宿のイベントの存在を知っているかってことよ。」
「!そうだった!…ごめん、隠そうと思ったわけじゃないの。学校でたまたま彼女と直接会う機会があって、その時に彼女と和解してこれからのイベントの概要を聞いたの。」
「…それいつ?」
「生徒会合宿の3日前かな。」
「盗聴機は?」
「持ってなくてさ。」
私の答えに大きなため息をつく未羽。
「せっかく私と上林くんがあんたを守るための作戦会議をしていたのにあんたってやつは。」
「ごめん…。」
だが後悔はしていない。
冬馬の過去もあったからだ。未羽がいかに信用できる相手でも、プライバシーに関わる話を未羽にするのは違う。
「これから話すよ。」
「きりきり吐きなさいな。」
未羽にこれからの危険なイベントについて一通り話すと、未羽はううむと考え込んだ。
「ね、未羽。」
「何よ?」
「2日目の川遊びの落石事件のことなんだけど、あれ、『起こるか分からない』っていうのは、一体どういうこと?祥子は知らなかったみたいだから、聞いてなかったの。」
「あぁ。あの子は純粋なゲームプレイしかしてなかったから知らなくても仕方ないわよ。それボツ案だもの。」
「ボツ案?」
「そう、製作段階でイベントに組み入れるか話されたんだけど、実際には組み入れられなかったやつ。人数限定でされた特別先行配信でプレイできた部分よ。」
「それ、未羽は」
「もちろんやっているに決まってるでしょ。だからその存在を知っていたし、万が一に備えてそれは上林くんに伝えておいたの。雪を2日目の時になるべく川の中にとどめておかないようにって。それにしても、先行配信はやってないなんてあの子もまだまだね!」
それは未羽、あんたがすごすぎるだけだと思うけど?
「3弾もなぁ!あと一週間あれば通常モードのクリアくらいは出来たはずなのに!」
「え?!攻略対象者10人いるのに?!」
「通常モードでは空石兄弟と卯飼くんは出てこないから8人よ。どっちにしても彼らのゲームでの思考過程や製作社の趣向まで読めるようになっていた私に出来ないことはない。」
どんだけやってたんだこの女。
「それはさておき。あの子の話の限り、この後にある危険なイベントは…」
「モブの嫌がらせを除けば、9月にある誘拐事件と10月の一年合宿でいくつか、11月の君恋祭だね。大きいのは。そういえば、基本冬は危険イベントないんだ?」
「冬はもうルート攻略が終わる頃だからね。イチャイチャするようなもんしかないわ。ストーリーが進むし、行事の多い夏と秋が多くなるのは仕方ないのよ。んで、その中で、一年合宿で悪役三枝葉月が川に主人公湾内祥子を突き落とすっていう一番危険なやつが。」
「多分今回私に起こったものだと思う。」
「全く!そんなもん引き当てて。」
私のせいではない。はずだ。
「湾内祥子にイベントが起こっているのは間違いないのに、なんで今回の生徒会合宿でこめちゃんやあんたが巻き込まれているか…。まぁ、こめちゃんの方はまだわかるのよ。」
「え?!なんで?」
「毒蛇イベントは海月先輩の個別イベントだもの。公式ホームページにそのスチルがサンプル掲載されたから知ってるんだけど、これがまた綺麗なんだわ!海月先輩の銀髪眼鏡が映え過ぎてて…!」
「はいはい。」
なるほど。こめちゃんは会長オンリーで主人公格になるということか。
「問題は…上林くん個別イベントでもないのになんであんたに起こるか、ね。」
そういえば、とふと思い出す。
「未羽…私、一度今年のイベントの主体になってる。」
「なんですって?!いつ?」
「茶道部合宿のサッカー観戦でファンとトラブルになって殴られそうになるのがあったでしょ?それ。冬馬のラインですっかり忘れてた。」
「なっ!!殴られたのあんた?!」
「いや、俊くんが止めてくれたの。」
「…俊くん、攻略対象者並みにやりおるわね。かっこいいじゃないの。」
「全くです。」
「それはさておき、よ。今の話を聞く限り恐らく…。」
「なに?」
少し言いよどんだ後に未羽は言った。
「…あんたは今回も主人公なんだわ。」
「は?!ほとんどのイベントは祥子に起こってるよ?!あの子、モブ嫌がらせにも遭ってるって言ってたし。」
「ダブルキャストなのよ。」
「はぁ?」
「基本は湾内祥子が主人公だけど、彼女がいない時はあんたが主人公になる。いないとき限定かは今の情報からだけじゃ判断できない。」
「…でも川落ちの時は祥子もいたよ?」
「そこが分からないわね…。くそぅ。」
今回、私が主人公になるわけにはいかない。太陽は実の弟だから、私はどう足掻いてもあの子のルートを取り得ないからだ。もし私が主人公になったら太陽に待つのは
退学エンド。
「ねぇ。」
「ん?」
「主人公に選ばれなかった攻略対象者のエンドって、退学だけなの?」
「…いやそんなことないわよ。去年、東堂先輩や海月先輩、四季先生、空石兄弟や太陽くんに何も起こってないでしょ?またそれは話す。とにかく、私は去年も踏まえこの世界でのゲームの動き方に法則がないか検討してみるわ。そうと決まれば早速分析してみるから、太陽くんに後任せて先に向こうに戻るわよ。」
「お願い。わざわざ来てくれてありがとう、未羽。」
未羽は「あったりまえでしょ」と小さくぶっきらぼうに言ってから太陽に連絡して病室を出ていった。