懐かしい声は身を救う。(生徒会合宿編その9-3日目)
ふっという一瞬の浮遊感の後、体が水に叩き付けられる感覚と共に、全身が一気に重くなる。どうやら落ちたところが深みだったのとリュックがあったおかげで川底の岩やら何やらで頭を打たなかったようだが、それでよかったねーで終わりではない。昨日と違うこの場所は、急流で流れが速いところだったらしく、体があっという間に押し流されていく。
「ガバッ!がババっ!」
頭を岩で直撃しての死亡は避けられても今度は溺死するっ!!
どんどん流れが急な方向に流されるのが分かる。着衣は水を含んで重くなるから脱ぐのが常套だが、あれは海の話。あちこちに障害のある川では物理的に無理だ。リュックですら外す余裕はない。急流に巻き込まれて引き込まれては、必死で空気を目指してもがく。
このままだと本当に死んじゃう!
流されながらも必死で辺りの岩のでっぱりを掴もうとするも、滑って掴めない。足はつかないし、踏み出す足が重い。
焦りは余計に水面を遠ざけさせる。
と、冬馬…!太陽…!
がばっとなんとか空気をわずかに吸えたのも束の間、また渦に巻き込まれて水中に引き込まれる。
起き上がれない…!苦しい…!!
誰かについてきてもらえばよかった、こんなとこで死にたくない。
もがいても泳ごうとしても水の重みにのしかかられる。
段々と意識が薄くなり、気力も奪われていく。
水面が遠い。なのに体が全然浮かない。
もう、無理なの?こんなとこで、また死ぬの?
嫌なのに、もう動けないよ。誰もいないよ。助けも求められないよ。
ごめん、未羽。ごめん、冬馬。あんなに守ってくれようとしてたのに、油断してた。
ごめんね。
息苦しさから、暗くなる世界に身を委ねてしまおうかとも思った時だ。
『諦めないでよ、ゆき!!!今諦めたら俺、一生怒るし恨むからね!!』
唐突に、懐かしい声が聞こえた気がした。必死に歯を食いしばって、守ってくれた幼馴染みの顔が脳裏に浮かんだ。
秋斗、こんなとこで私が死んだら一生恨み続けるだろうな、私のこと。冬馬のこと。そして目を離した自分のこと。
そしたらあの二人は今度こそ喧嘩するのかな。
本気で?もうお互い、許せないくらい?
だめだよ、そんなことさせないんだから!
諦めそうになる自分を叱咤し、ガバガバと水を飲みながらも川底の岩を大きく蹴って死にもの狂いで浮上すると、川中の岩から生えているでっぱりの枝を掴みとることに成功する。
「ゲホッゲホッ!ハァッハァッ…!」
久々の空気に肺が痛い。
空気を体に取り込んでから、必死で背負っている既に重くなったリュックの腕を通す部分を他の岩の出っ張りにもひっかけて流されるのだけは阻止した。だが体を引っ張りあげるだけの力はもうない。水を飲み過ぎてしまったのか、酸素が足りなかったのか、頭がボーッとする。
「う。このままで意識を失ったら、体が冷えてそのまま死んじゃう…!寝ちゃダメ!」
頭を振り、再度岩場への上陸を試みるも、そもそもリュックのせいで伝手となる木や出っ張りとは逆方面を向いている。かといってリュックから離れれば流れに押し流されそうだ。
万事休す…!
「…んぱい!!!今助け…んで、動かないでください!」
遠くから声が聞こえた。その声は段々大きくなる。
助けが、来た。
誰かの手が私の体を岩場に引き上げてくれることを感じたのを最後に、私の意識は霞んで消えた。
背中が暖かい。
私…いまどこにいるの?
ぼうっとする意識がまた闇に落ちることに抵抗してなんとか目を開ける。
「…んぱい、…先輩!」
「…か…んな…づき、くん?」
カラメル色の髪と不安そうな表情の綺麗な顔の男の子が私の返事にようやく、ほっとしたように眉を下げた。
「…よかったぁ、意識が戻って。」
「…こ、ここは…。」
「川の傍です。木の陰まで引っ張ってきました。」
「川の岩場…?…それにしては柔らか……って!!」
よく見たら神無月くんの顔がすぐ近くにある。膝枕どころか彼の体に上半身を預けている状態だと気づく。
目覚め早々美少年の腕の中。
はい、イベント確定!
冗談でも笑えないって!こんなの学校の誰かにバレたら即イケメン好きのビッ○認定、暗黒時代に遡り、だ。
おかしいな、生徒会合宿にはこんなものなかったはずなのに。
慌てて身を起こそうとすれば、頭も喉もひどく痛むし、全身も打ったように痛い。
「あたた…。」
「そりゃそうですよ。川で流されたんですからかなり中で打ってるはずです。それに水も飲んでるでしょうから頭がボーッとしませんか?」
「する…。」
「ちょっと休まないと動けないですよね。」
「か、体がすごく重い…。」
「大丈夫です、僕がおぶっていきます。」
「そんなこといいよ!申し訳ないし!もうちょっと待ってもらえれば回復する、はず!」
「いえあの。その格好で歩かせるわけにもいかないので。」
「格好?」
見下ろして、
「!!!」
腕で体を隠す。
「な、な、な、なんで!」
辛うじて下着は着たままだが、服はない。
神無月くんはすまなさそうにして顔を背けている。起き上がった時からどうも目を合わせてくれないと思ったわけだ!
「すみません、ここは山中で、もう夕方ですから気温もかなり下がってますし、いくら夏でも全身ずぶぬれだったのであのままだと風邪を引くだろうと思って…そうしました。あ、その格好で砂利の上に直接寝かせたらすごく痛そうだったので膝の上に先輩乗せてましたけど、僕の上着をかけていたのでほとんど見てはいません!安心してください!」
「…そうだよね、ごめん。最良の選択だわ。それどころかありがとうだね……ちなみに、人口呼吸は…?」
イベント典型のあれは?!
「し、してません!!見つけた時に先輩、既に呼吸できる位置にいましたし、ちゃんと呼吸確認できましたから。」
真っ赤な顔でぶんぶん首を振る神無月くん。
そういえば彼はそれほど濡れていない。私にかけてくれていた彼の上着は乾いているし、下の長袖シャツもズボンもせいぜい半分程度濡れているくらいでびしょ濡れではない。
「神無月くんはどうしてここに?」
これを最初に訊くべきでした。イベントだとしても上手くいきすぎてる気がする。
「上林先輩に、先輩の代わりに後をついていくよう頼まれたんです。で追いついた時にちょうど相田先輩が落ちたんです。川沿いに走って追いかけていたので僕は水の中にはそれほど入っていません。一回沈んで戻ってこなかった時には入ろうかと思ったんですが、相田先輩が自力で這い上がって岩で止まってくれたので助かりました。」
賢い選択だ。もし彼が水の中に飛び込んでいたら一緒に溺れただろうし、彼の腕に縋り付いて彼も沈めてしまっただろう。
「ありがとう、助けてくれて。」
「いえ。本当はすぐに先輩をおぶって移動しようと思ったんですが、先輩の荷物を全部置いていかなければいけないことになりますし、それに大分流されて離れてしまったので戻るには僕も休憩が必要だったんでまだここにいました。僕にもうちょっと体力があれば、先輩の意識がないままでも直ぐに戻れたかもしれないんですけど…。」
「いやいやそんな!無茶しないで正解だよ。」
バックの方は別によかったんだけれども。あれさえあれば。
あ、あれ流されてないよね!?
急いで胸元のネックレスがあることを確認してほっと息をつく。
「神無月くん、自分のリュックは?」
「あっちで置いてきてたんで手ぶらです。」
「そっか。私のリュック開けていいよ?こういう時のためのものしか入ってないから。」
中は水浸しのずぶぬれになっていたが、もともとここでは使えないケータイは持ってきていないし、後は捨てて仕方のないものばかりだ。
あ、まずい。未羽のカメラが水浸しだ。これは完全に中身のデータもやられている。後ですごく怒られそうだ。
「あ、これ食べる?中身は濡れてないはずでしょ?」
アルミパックの中に入っていたカ○リーメイトを差し出す。
まだ私は喉が痛くて仕方ないし、ぱさぱさするのはいただけないけど、これから歩いて戻ることを考えたら体力をつけるものは必要だ。彼も「ありがとうございます」と言って素直に受け取ってくれた。
そんな感じで二人でさくさくかじりながら辺りを見回し、ふっと神無月くんのいない左側を見て、硬直した。
「いやあああああ!!!」
「先輩、どうしたんですか!?」
「なんでこんなところにもいるの――――!?」
「え?」
私が指さす先には、おそらく鮮やかな蛍光オレンジに紫という毒々しい色のちょっとした大きさのヤツがいるはずだ。
ヤツ。英語でいえばモス。
幼少期にはとげとげした毒のある毛を全身に生やし、のそのそ歩いている姿はグロテスクそのもの。同じような形態なのに毒のないつるぺたなアゲハ蝶の幼虫を見習ってほしい。ヤツに比べたらあの臭いつのをにょきっと出して外敵を追い払うくらい、掌に載せて愛でたくなるくらい可愛いもんだ。
奴は成長すると繭にくるまれ、そしてしまいには…あの姿になるのだ。
毒々しい色をした鱗粉付の翅。茶色い色のやつは大抵背中にフクロウの目のような要らん飾りが付いている。
蝶とやつらの違いは厳密ではなく、境界線ぎりぎりのもの達も数多くいるらしい。
しかしメジャーどころで比べるなら、全く違う。蝶が長い線のような触覚をしているのに対し、レーダーのような縦線の入ったやつを装備。そして止まるときも可愛いちょうちょは羽を垂直に持ち上げているのに対して、ヤツらは壁に水平に翅をくっつける。
あぁ想像しただけで怖気が走る!
某怪獣映画で主役の怪獣よりも好きだった守り神の怪獣が蝶ではなくヤツだったと知った時の心の痛みは今も忘れない。よく考えればあの怪獣の名前はモス○なのだから気づいてもよかったのに、あのつるつるした幼体に騙された。
同じ鱗粉付の完全変体の虫だろう、何が違う、と言うあなた。
白いワンピースの少女がひらひらと舞うモンシロチョウやアゲハ蝶を追いかけてきゃっきゃと戯れる童話のような姿を想像してほしい。そしてその飛んでいる蝶をばたばたと見苦しく羽を動かすヤツらに置き換えてほしい。受け取る印象は全く違うはずだ。
そう、全く違うのだ!
というわけで、私にとってちょうちょは愛すべき虫だが、ヤツらは出会えば女性に抱きつかれた雹くん並みに鳥肌の立つ対象なのです。
神無月くんはその止まっているヤツを見て少し嫌そうな顔をしてから場所を寄ってくれる。
「先輩、大丈夫です。蛾は触れなければ飛びませんから。…先輩、あの。」
「何!?嫌なものは嫌なの!虫は平気でもアレはダメなの!鱗粉とか何!?あの色は何!?存在が許せない…殺虫剤も入れておくんだった!馬鹿にするならしていいからっ!前に神無月くんのこと笑っちゃったし!」
「笑いませんよ、僕も嫌ですし。それよりも。あの、もう少しだけ離れていただけると…」
「嫌だ!!あれに近づくんでしょ?」
涙目で訴える。川の存在を忘れて命の危険に遭うぐらい嫌いなモノに近づけと!?
そんなにこれに巻き込んだことを恨みに思っているの!?
「…相田先輩。そっちに行けとは言ってません。とりあえず、腕を離していただけませんか?あの、その格好で抱きつかれると僕にもいろいろ問題がありまして。」
恰好。
ふむ。そうだった。
「…………」
ものも言わずにそろそろと神無月くんの腕を離し、それから
「………ごめんなさい。」
と頭を下げた。
「ぷっ。あはははははは!!」
「そこでなぜ大爆笑!?」
「いや先輩、最初の印象と違い過ぎますから。…とにかくその上着を着ちゃってください。前も閉めていただけると僕も目のやり場に困らないで助かります。」
「そーですねー。ありがたく着させていただきます。」
長めのウィンドブレーカーの前のチャックをきっちり首元まで閉める。
その間も神無月くんは思い出してはぷぷっと噴き出している。
「…なんでそんなにおかしいんでしょーか?」
「だって先輩!先輩が学校でなんて言われているか知ってます?」
「…女王だとか氷だとかなんとかについてはちら、と耳に入れたことがあるかな。」
「僕、最初先輩に会ったときに噂通りの人だなって思いましたもん。近づきがたいなって思ってました。実際にさっき、増井先輩の処置をしているときの先輩の冷静さはすさまじかったですよ。知識があってもなかなかすぐにああ行動は出来ません。」
それはゲームで起こることをフライングで知っていたからだ。アブだったのは意外だったけど。
「それに川で流されてた時の対処もわりかし冷静でしたよね。ああいう時ってパニックになるのが普通なんじゃないですか?あとは女性だったら叫んで助けて、とか言いそうなのに。」
「声も出せないくらいやばい状況だったってだけだよ。」
あとは去年寺落ち事件という自分の生命の危険に晒されている経験があるからだ。前世の死の瞬間の記憶から解放されることはないけれど、それでも、いやだからこそ生きようと足掻く意思は強くなるんだ。
「先輩、僕、生徒会入っていろんな人のいろんな面を知ることができるって前に先輩に言われましたけど、今回の合宿で本当にそうだと思ってます。」
「へぇ。誰のどんな面を知ることができたと思う?」
「桜井先輩が実は周りを常に見回してその空気を和やかにしている大人な方だとか、海月会長が優秀過ぎたことだとか、俊先輩がお話してみたら結構漢気のある人だとか。それから上林先輩も。」
「冬馬も違ったでしょ。」
「はい。前に先輩に言われたみたいに、僕の中で上林先輩は憧れです。それは変わりません。勉強も運動も何でもできて、それでいて性格もよくて、僕たち後輩にも優しい。気配りができて、かっこいい完璧な人だと。でもそれだけじゃなかったです。」
「どこが違った?」
「合宿中、予想以上に嫉妬深くて驚きました。」
「嫉妬?」
「はい。相田先輩のことですよ?気づいてないですか?」
「あー昨日花園くんと出掛けるとかなんとかのことでちょろって言われたけど…それ以外なんてなんかあったっけ?」
「初日の仕事の時にはたまにちらちらと先輩の方見てましたよ。川遊びの時に相田先輩の水着を見られたくないみたいでずっと先輩の周りを目で追ってましたし、それから花園と二人で話していた時も、夕食の時に先輩が海月会長と話してた時も気にしてましたよ。」
げ。あの内容、聞かれてないよね?さすがに遠かったから大丈夫だと思うけど冬馬が知ったら何か探り始めるに違いない。
「それに、僕が昨夜お邪魔しちゃった時、先輩の目が冷たかったです。」
「それは申し訳ない。」
「いえ、僕、上林先輩のこともっと知ることができて、余計尊敬の念が高まりました。」
「そんなもん?嫉妬深いのが尊敬の対象になる?」
「どこか常人離れした感じはしてたんですよ。上林先輩。でもそんなことないなって安心しました。あ、これ、相田先輩もですよ?」
「え?」
「僕、さっきも言いましたけど、最初、先輩に上林先輩と同じ空気を感じてました。ある意味似た者同士だなぁって思ってました。でも今回の合宿で、相田先輩が予想以上に抜けていて、ひょうきんな方だって知りましたよ。そりゃあ想像以上に冷静なところもありましたけど、あの合宿前にお会いしたときよりずっと人間ぽくて。」
そりゃあ人間ですからね。転生者だってだけだ。
「すごく可愛い方だとも思いました。」
「!?ななななななんで!?」
「蛾が怖くてそんな恰好だって忘れて僕に抱きついて来るとか、そういうとこです。無防備ですよね、先輩も。」
「それはもう、太陽や冬馬に言われて耳が痛いとは思ってますよ。でも一つのことが気になっちゃうと止まらないんだもん。」
「それから初めて見た顔もあります。」
「え?」
「昨日の上林先輩と一緒にいるときの顔ですよ。…これも気づいていないみたいなんで、これ以上は内緒にしておきますね。」
「え、ちょっと。神無月くん!教えてくれてもいいのに!」
彼はいたずらっ子のようににやっと笑い、口を閉ざした。
これは絶対教えてくれない顔だ。
「いいもん。今度冬馬に訊いてやる。…それより、そろそろ移動したほうがいいよね。」
「そうですね。もう暗くなってきてますし。これ以上だとここに泊まることになりますね。」
「風邪ひいちゃう。」
「…先輩、その時に僕に襲われないかとか考えるよりそれが出て来るところが無防備だってとこですよ?」
「神無月くんはそんなことしないっていう信頼の証です!さ、移動しよう。持っていくものは最小限度にしないと。ペンライトと…あと必要そうなものは…。」
神無月くんはまともな子だ。川で流されて体調の最悪な私に何かするということは現実にはあり得ない。そしてゲームという意味では、彼は攻略対象者。去年なら警戒していたが、今年はきちんと祥子が主人公認定されているようだから、警戒する必要はない。
怪我もないし、貴重品としていつも入れてるお金だけ入れて…あと一応火を起こせるものは万が一のためにポケットに。
こんなところに荷物を置いていくのは環境破壊だけど、今は切羽詰まっているので許してください。
「よし、行こう。」
心の中で自然に謝りながら、ふらつきを抑えて立ち上がった。