秘密の共有はウインクで。
沙織さんの語りは始まった。
「…私の夫、冬馬の父はこの上林家の入り婿なの。上林家は代々医者の家でね、私が一人娘で医者にならなかったから、どうしても医者の婿が必要だった。…冬馬の父親は優秀な人でね。医師になってまだそんなに年数の経っていないあの人も大学で教授になった私の父の後ろ盾が欲しかった。だから私と彼は結婚したの。」
沙織さんは膝に置いた自身の白い手を組んで淡々と話す。
「元から愛のある結婚じゃなかったせいかしらね、あの人は私に満足しなかったわ。結婚してしばらくは我慢していたようだったけど私のお腹に冬馬ができてしばらくしてからかしら?浮気を繰り返したわ。飽きたら別れて、次に別の女の人と。そういう繰り返しは、冬馬が生まれてからもそう。むしろ酷くなったかしら。失敗して相手の方に子供が出来てしまって中絶させて示談交渉したこともあったそうよ。そんなあの人がこっちで暮らしたのは5年くらい。その後は年に1度だけ、こちらに来てお父様…冬馬の祖父への顔見せのためと、そして上林本家として親戚一同と挨拶するためにこっちに来て、そのついでに私と冬馬を見ていくくらいよ。」
何の感情も籠めずただ事実を並べていくようによどみなく話していた沙織さんがようやく小さくため息をついた。
「…可哀想なことに冬馬は昔から賢い子でね。父親がそういう人だとか、何をしているのか知っていたわ。おそらくお父様や心無い親戚の人たちが何か吹き込んだりしたんでしょうけど、幼い頃からあの人を毛嫌いしていたわ。それで私を喜ばせようと優秀な子であろうとした。あの人は父親として、夫としては最低な人だけど、一人の男性としての能力は最高値を持った人で、その形質はそっくりそのまま冬馬が受け継いでいてね、あの子が優秀であろうとすれば優秀になれてしまうだけの素質を持っていたの。…私は、あの子が不憫でならなかった。私の、上林家のせいで感情を素直に出すこともほとんどなく、大人の顔色を窺っていい子になろうとばかりするあの子のことが。…このままじゃいつかあの子は壊れてしまうんじゃないかってずっとずっと不安だった。」
大人に囲まれた幼い冬馬が瞼の裏に写った気がする。
美しい容姿の子供が壊れた人形のようにただ表面的な笑顔を浮かべているそんな姿。
「その不安を決定的にしたのは、あの子が小学5年生の頃のことよ。低学年の頃から熱心に難しい本を読んでて、勉強が好きなのは血筋なのかしら、と私も見守って何も言っていなかったのだけど、ある日私に訊いたの。『お母さん、なんで人って殺しちゃいけないの?』って。」
11歳の子供から発せられた疑問。
それは無邪気な好奇心からではないと断言できる。
「びっくりして『どうしてそんなことを訊くの?』と訊いても答えてくれなくて。『お祖父様の書斎にある難しい本のどれを読んでも分からなかった。なんで、いけないの?』とだけ訊き返されるの。慌ててよく考えもせず『法律で人を殺してはいけないって書いてあるのよ。』って答えたら、『それは読んだよ。でも書いてあるのは、人を殺したら、こういう罰を課しますってことだけでしょ?どうして法律はそんなことを決めたの?』って言うのよ。だから今度こそ真面目に答えたわ。『人は、誰かと誰かが愛し合って出来た結晶なのよ。そうして生まれた子はまた誰かを愛して、愛されるの。誰かが死んだら誰かが悲しむのよ。大切な人がいなくなったら苦しくて悲しいの。冬馬もお母さんが死んだら悲しいでしょ?』『うん。』『ね?だからダメなのよ。』…そう言ったらあの子、黙ってくれたからこれで納得してくれたのかなって思ってほっとしたときに、言われたの。『お母さんは「あの人」のこと、嫌いだよね?じゃあ「あいされてない」人だから殺してもいいの?』…って!」
沙織さんの声と握られた手が震えている。
「『だめよ!』って言っても『どうして?あの人のこと、憎んでるんでしょ?好きじゃないでしょ?僕は「あいされて」生まれてないよね?僕がそういうことしても、誰も悲しまないし、殺される「あの人」はお母さんが嫌いな人だから、殺されても誰も悲しくないよね?』って納得してくれない。ただ『だめ。冬馬がそんなことしたら、お母さんが悲しいから。冬馬がだめになっちゃうからお母さん、死ぬほど辛くなるわ。だからだめよ。』って繰り返したら、あの子は訊いたの。…『お母さんは、「あの人」のせいで無理矢理僕を産まされたのに、僕がいなくなったら悲しいって思う?』って。」
その言葉に胸が絞まる。
幼い冬馬はどんな思いでそれを訊いたんだろう。
「私、『悲しいに決まってるわ!』って叫んであの子を抱き締めることしかできなかった。私が泣いてしまったもんだから、ようやく『分かった。じゃあ僕は「あの人」を殺さない。泣かせてごめんねお母さん。』って返したの。…私がいろんな事情からあの人のことを恨んでなかったと言ったら嘘になる。辛い思いもしたわ。…でもそれをあの子が知ってそんなことを考えるとは思ってもいなかったの。そして…あの子が、自分が愛されてないって思うなんて考えもしなかった。私、あの子のことを一番愛していたし、伝えていたはずなのに、全然伝わっていなかったの…。…母親失格だわ。」
沙織さんの涙があとからあとから溢れて手に落ちていく。
一方で私は悲しみと同時に、違う、という思いでもやもやしていた。
冬馬のお父さんとお母さんの間には私なんかが知ってはいけない事情がたくさんあって、この人ですら耐えられないことがあったんだろうことは想像に難くない。
それを知ってしまった冬馬が考えたことは倫理的には大いに間違っているけれど、幼い年でそんなことを思ってしまったのは、冬馬がお母さんのことをなにより大事に想っているからだ。冬馬が自分を犠牲にしてもお母さんを守りたかったからだ。沙織さんの気持ちを訊いたのは、母の愛情を感じて分かっていても、それでもその口で言ってほしかったからだ。それくらい、幼い冬馬が沙織さんのことを拠り所にしていたからだ。
冬馬の人となりを見てきた私にはそう思われる。
「あの。」
気づけば、声を発していた。
「私みたいな部外者が口出しできるものではないと思うのですが、冬馬くんはお母さんのこと、大好きでこの世界で一番大切な存在だと思っていて、それから愛されていることも分かっていると思います。沙織さんは、今も昔も冬馬くんが一番安心して無条件で拠り所にしている方だと思います。」
沙織さんがはらはらと涙を零しながら私を見てくるのを感じながら続ける。
「確かに会った当時、彼はいつも周りに壁を張っているような雰囲気でした。あまり感情を表に出さない感じがしました。…でも、彼と仲良くなった今一緒にいる友達はみんな、冬馬くんが実は幼いところがあったり、頑固だったり、無邪気だったりするところを知っていますし、見ています。そういう彼がいるのは、きっと沙織さんがお母さんだったからじゃないかな、と思いました。さっきお二人の後ろを歩いていて、見させていただいて、学校の仲のいい友達の前と同じくらい、いやそれよりもっと自然な冬馬くんと沙織さんの様子を見てそう思ったんです。今そのお話を聞いた後だと余計にそう思います。一番大事にしている沙織さんが親失格だなんて言ったことを彼が聞いたらきっと悲しみます。第三者がこんな生意気な口利いてすみません。でも今、彼の恋人として言わせていただけるのなら、冬馬くんのことをもっと信じてあげてほしいです。」
そう言うと、沙織さんは涙を拭ってふっと微笑む。
「…雪さんは、優しい子ね。」
そうじゃない。私は優しくなんかない。
「違います。私、自分が言いたいから言っただけです。優しくなんか、ないんです。」
今だって感じたのは憤りと苛立ちで、それをためていられなかったから口に出しただけだ。
本当に優しいのは、自分の状況を理解したうえで全てを一人で抱え込んできた冬馬だ。
私の目に宿った怒りを見てとった沙織さんはなぜかくすっと笑った。
「笑ってごめんなさい。雪さんは気づいてないのね。」
「どういう意味ですか?」
「雪さんが今怒っているのは、冬馬のことを想ってのことでしょう?それを『冬馬のため』と思わずに、自発的に怒ったというのが、本当の優しいってことじゃないかしら?」
そうなのだろうか。
首をひねった私を見て、沙織さんがハンカチで目を拭ってから続けてくれた。
「私が今言いたかったのは…そうね、そういう雪さんだからあの子は好きになったのだろうな、というのが一番正しいかしら。」
冬馬が私を好きになってくれた理由?
「私のせい…私とあの人のせいであの子、それまではもちろん、中学に入っても、恋愛とか結婚というものに全く興味がなかったの。臆病とか…嫌悪とまで言っていいくらいかしら。無意識にだったのでしょうけれど、頑なに恋愛に目を向けようとしなかったの。だから周りにあの子を好きになってくれる女の子はいっぱいいたのに全部断って、無理に踏み込まれそうになったらかなり冷たい対応すらしていたわ。多分、表面的に好きと言ったり、綺麗事を言われるのが嫌いなんでしょう。でも雪さんは違う。自分の気持ちに正直であろうとしてるわ。」
「そんな…私、今まで自分の気持ちを誤魔化し続けてきました!私も恋愛から逃げてきて…!」
「でもきっと誤魔化した気持ちで他人に接したりはしなかったでしょう?冬馬に好きだと言われて断ったと雪さんはさっきおっしゃったけれど、それは有耶無耶にして放置しておくことが嫌だったから、正直に告げてくれたんでしょう?その後であの子と誠実に向き合おうとしてくれたのでしょう。私ね、今日お話して、雪さんは自分の気持ちに向き合おうとして、そして思っていることをはっきりと示す素直な子だと思ったの。そして雪さんのそういうまっすぐなところは冬馬のような影を持った子には眩しくて、そして自然と惹きつけられるもの。冬馬が雪さんに惹かれたのもよく分かったわ。」
沙織さんは目元を緩ませて立ち上がると私の隣に座った。
「…さっきの話を聞いても、雪さんのあの子への気持ちは変わらないかしら?」
それは即答できる。
「変わりません。」
「暗かったでしょう?重かったでしょう?」
「はい。予想以上に重かったです。私が彼の重みを背負おうなんておこがましかったと思いました。」
私の答えに沙織さんがこちらをじっと見る。
「でも彼が隠したくなる気持ちも少し分かってほっとしてもいるんです。」
「それだけ…。」
「はい。まだ彼自身が私にその側面を見せてくれているわけじゃないですから実感がないだけかもしれませんが。」
苦笑すれば沙織さんがハンカチを畳んで涙の残る瞳を細めた。
「雪さんは面白い子ね。頭の回転はいい、察しもいい。短絡的でないから色々考えているけれど思ったことに素直で、懐も広くて、それでいて発想が面白いわ。お父様に気にいられた理由も、冬馬が惹かれるどころじゃなくてメロメロなのが分かる。」
かぁっと頬が熱くなる。
「単に図太くて鈍いだけですよ。それから」
ずっと握っていたカップをソーサーに戻す。
「それを知って彼と別れたいなんて微塵も思えないくらい私が彼を好きになっちゃっただけなんです。」
聞いた内容はショックだった。
でも不思議と逆に彼を今まで以上に愛おしいとさえ思ってしまった。その過去を越えても私を好きだと言ってくれる彼の言葉の重さを感じたから。
「…雪さんには素敵な幼馴染がいるんでしょう?」
「どうしてそのことを?」
「あの子が、去年の今頃、私にあなたのことを話してくれた時に話に出てきたの。あの子が雪さんを取られちゃうんじゃないかって気にしてた子として、ちょこっとだけね。…どんな子なのかしら?よければ教えてくれないかしら?」
「…彼は、私が小学生の時から隣の家に住んでいた幼馴染で私とは小中高と何をするにもずっと一緒だった人です。冬馬くんにとっても、ライバルとして一番仲が良かったと思います。…事情で2月に転校してしまって、今はこちらにはいません。…長いこと帰ってこないそうです。」
「…そう。ごめんなさい、そんなことを聞いてしまって。雪さんも寂しかったでしょうに。」
沙織さんが優しく頭を撫でてくれると、歳の離れた親戚のお姉さんに甘えたいような、そんな幼い気持ちになる。
秋斗がいない事実を思い出せばいつでもぽっかりと穴が開いたような寂しさに襲われる。
でも彼は海を越えた向こうで元気にしているはずだ。それにまた帰ってくると約束してくれた。だから大丈夫だ。
「冬馬の母として自分勝手なことを言わせてもらえるなら、雪さんが冬馬を選んでくれて私はとても嬉しい。あの子がちゃんと人を愛するという感情を持ってくれて、私はとてもほっとしているの。…雪さん。」
「はい。」
「あの子は、そういう意味で重い過去を持っているわ。私たちが負わせてしまった過去が。それは雪さんにとって重いものでしょうけど、出来れば、あの子のその部分まで知った上であの子のことを受け入れてあげてほしいの。その傷は、きっと雪さんにしか癒せないから。」
「…私が出来る限り、精一杯の想いを伝えたいと思います。」
「ごめんなさいね。重いお話をしてしまって。」
「いえ、お話いただいて私も嬉しかったです。ありがとうございます。」
沙織さんが悲しそうに笑ったときにちょうどドアの開く音と「ただいま。」の声がする。
「今のこと、冬馬には内緒ね?私と雪さんの女同士の秘密。」
人さし指を口の前で立てて、ちょっとウインクする沙織さん。
その仕草は前に一度冬馬がしたのを見たことがあったけれど、お母さんがよくする仕草だったのか。
冬馬がやっても破壊力があるけれど、女性の沙織さんがやるとこれはもう、文句なしの必殺技だった。
大分長居してしまったので沙織さんに挨拶して出ると「またいらしてね」とにこにこして送ってくれた。
冬馬と二人で帰る道すがら、適当な会話をする。
「冬馬のお母さん、若いよね?」
「母さんが俺産んだの、21歳の時だからね。」
おそらくお母さんよりもずっと若いとは思っていたけど、やっぱりか。まだ37歳なんて。前世と合わせたら私より若いじゃないの。
最初は彼女のことを失礼ながら綺麗で天然なだけの方かと思っていた。
しかしそこはさすがこの冬馬のお母さんだ。冬馬が出て行ってと言われても素直に出ていかないだろうことを分かってああいう策略を立てたり、私の言動から人柄や考え方を分析して息子の傍にいさせていいか、私が彼を支えうるか、母親の目で判断しようとしていた。歳は関係なく、沙織さんは賢く、そして「母親」だった。そんな沙織さんは、実は私が一等好きなタイプだ。あまりに好みのタイプすぎてどうしようかと思った。
礼儀正しくて綺麗で知略家って憧れちゃうじゃないですか。密に目指す女性像にしてしまった。
「冬馬、お母さんのこと大切でたまらないんだね。」
「え?」
「冬馬の家に行くときに冬馬とお母さんが話してたの見た時に、そう思ったんだ。冬馬が学校で俊くんたちや私に向けてるのと同じ…いやそれ以上に素直に喋ってたから。」
冬馬はそれを聞いて、しばらく黙っていたけど、そうだな。と返す。
「母さんには俺以外味方がいないから。祖父さんは母さんのことは大事みたいだけど、やっぱり上林家という家系の一道具と見てるところがある。」
それは、お祖父さんが沙織さんを、冬馬が「あの人」と呼ぶような人と結婚させたからそう思うのかな。
話す彼の顔をそっと横から覗き込む。
冬馬は辛いことや弱音を決して吐かない。それでも、今度過去を話すと言ってくれたから、私に少しでも頼りたいと思ってくれたのだろうか。
頼ってほしい。私も冬馬の痛みを負担してあげたい。
背負うなんてそんなかっこいいことはできないと思うくらい辛い過去だったけれど、私が傍にいて癒しになれるのなら、いつまでも傍にいたい。
「冬馬。」
そんなことを想ったら先ほど感じた愛おしさが湧き上がってきて、思わず自分から彼に抱きついた。
「雪?どうかした?」
「…私、どんな過去があっても冬馬のこと大事だからね。好きだから。一人で抱え込みすぎないでね。」
「俺がいない間に、母さんに何か聞いた?」
こくん、と頷く。
「それは俺の父親のこと?」
「内容は沙織さんと女の秘密だから内緒。」
「……全く、母さんは。俺が話そうと思ってたのにな。」
中身を話さなくても大体想像はついているらしい。
「雪。」
「ん?」
顔を上げると、冬馬の顔が近づいて柔らかく私の唇に触れる。
二度目のキスでまだ慣れないから顔は簡単に熱くなる。
「み、道中だよ?!」
「誰もいなかったから大丈夫。」
「監視カメラは見ていた!」
「それ気にしてたら生きていけない。」
「それは大げさな」
言葉を塞ぐように、強く抱きしめられる。
「ありがとう、雪。俺、雪のことちゃんと頼りにしてる。」
「私ね?冬馬が辛い時に助けを求められるぐらいの人間にはなるから。」
「もう十分雪は頼もしいよ。だからそれ以上無理はしないでいいからな。頼むから考えずに突っ走らないで。」
「失礼な。これでもいつも計算して動いてるんだよ?」
「最終的に損得マイナスでも動くんだろ? 」
「う。」
「計算の意味なし。…でも、ま、そんな雪だから好きになったのもあるから、俺も大概。」
そう言って冬馬は私を解放すると、手を軽く握って笑った。
6月16日の活動報告に明美小話の後篇を載せました。後篇だけで10000字超えの長いものですが、雨くん明美ちゃん好きな方はどうぞ。