抜き打ち審査の合否はいかに。(体育祭編その3)
冬馬は保健室に着くと私の左上腕部分を軽く縛り、傷口のところも止血をしてくれた。異様に手際が良かったので、もしかしたら応急訓練を受けているのかもしれない。
それから倒れた際にジャージにまとわりついた全身の砂を払ってくれて、車の準備ができると私を乗せた。
でもその間、ずっと無言だった。
大きめの病院に着いて処置をしてもらったが、大きな破片が食い込むように刺さってしまったわりには幸いにも手の神経を傷つけたりということはなく、2~3針縫ったくらいで済んだ。今後障害も傷も残らないで済みそうだということにほっとしたせいか、部分麻酔をしてもらったおかげで痛みがないせいか、かゆいような違和感を嫌だなぁとか、しばらく生活が面倒になることが億劫だなぁとかのんびり考えてしまったくらい。
右利きだから文字を書けるのは助かるけど、風呂とかが面倒そう。
一応激しく衝突したので手以外の箇所も診てもらったが、こちらも重大な怪我はなかった。ただ、強く体をぶつけていて頭を打った可能性があるから一応1日は入院した方がいいと言われた。頭を打った時は実は脳内出血が起こったりしていて容体が急変することもあるからだそうだ。私の場合は私が知覚する限りそもそも頭自体打っていないので本当に念のためのものになりそうだった。
「冬馬…ごめんなさい。」
処置室から出てきて、ずっと付きっきりで待っててくれた冬馬に謝ると、冬馬は私を座らせてそのまま抱きしめた。
「…良かった。手の怪我もそこまでじゃなくて、他も大きな怪我はなくて。…なんであんな無茶するんだよ?」
「上の生徒席から見てたらさっきのガラスの破片が見えたの。あのままだと誰か裸足で踏んじゃって怪我するって思ったから…。」
「…じゃあなんで競技自体を止めなかったんだよ?」
冬馬の声は意図的に抑えつけられていて、怒鳴られたりすることはない。
「言ったんだよ。でも声がかき消されちゃって。マイクを先生から強奪して止めるにはもう遅かったの。」
ぎゅうっと私を抱きしめたまま、冬馬が言葉を絞り出す。
「…怖かった。」
「え?」
「雪が大きな怪我したんじゃないかって、俺、一瞬本当に目の前が暗くなった。」
「心配かけてごめんね。」
「あいつがあれだけ過保護だったのが分かる。雪はトラブルに巻き込まれすぎだ。」
去年の寺落ちやら監禁やらおとり捜査のことを言っているようだ。あれは全て私のせいではなくゲームのせいだと言いたい。でも冬馬はそんなこと知らないから「ごめんね、本当に。」と繰り返すことしかできない。隠し通すことは心苦しい。
「守れなくてごめんな。」
「冬馬のせいじゃないよ!こんなの私が勝手にやっただけなんだから。」
「それでも。俺、どんなことをしても雪のこと全力で守るって去年の事故見て決めてたのに。」
「だからー…。」
「今日初めて医者の家に生まれて良かったって思ったよ。」
「え、ここ…。」
「うん、そう。先生に言ってこの医院に来てもらった。腕のいい医者を祖父さんが確保していることぐらい知ってるから。」
冬馬がそう言った時にかちゃとドアが開く。
「冬馬様はこちらですか?」
「…その呼ばれ方はすごく嫌なんですけど。」
冬馬が珍しくぶっきらぼうに応えた相手はスーツ姿のおじいさんだった。
「それは失礼いたしました。」
おじいさんは冬馬に軽く頭を下げてから私を見て深くお辞儀した。
「私は上林家の当主に仕えております第一秘書兼執事の斎藤と申します。相田雪様でいらっしゃいますね?」
「執事?!今時そういうお仕事ってあるんだ…!」
君恋って大金持ちとか出ないんじゃなかったっけ?
未羽の情報との差異に目を白黒させていると、冬馬が追加説明をしてくれる。
「俺は母さんと一緒に祖父さんとは別に暮らしてるから普通の家だよ。祖父さんが別邸で変わった生活をしてるだけ。」
「そ、そうなんだ…。あ、ご挨拶もしないでごめんなさい。君恋高校2年の相田雪と申します。いつも冬馬くんにはお世話になってます。」
ぺこりと頭を下げると、斎藤さんはいえいえ、と首を振る。
「お坊ちゃんがいつもお世話になっております。相田様のお怪我の方は当病院の医師で処置させていただきました。」
「ありがとうございます。間も無く母が来ると思いますので、診察代のお支払いは少しお待ちください。」
「いえ、そちらはいただきません。」
「え?」
「冬馬様、もうすぐ健之助様がいらっしゃいますよ。」
途端に冬馬が立ち上がってくそっと毒づいた。
「祖父さん、今日いたのか…ツイてないな。」
「そう仰らずに。」
話の流れが読めないが健之助さんという方が冬馬のおじいちゃんと見て間違いないだろう。
「あ、私、席を外しますので。」
「いえいえ、相田様もご一緒ください。相田様に会いに来られるそうですので。」
「私に、ですか?」
なんでだろう、こんな大きな病院のおそらく院長先生に診ていただくほど悪いんだろうか?いやそんなことはないはず。そうだとすると、もっと別の理由か?他の理由…だとすれば思い当たることは一つしかない。
表情を読んだ冬馬が再びフォローしてくれた。
「怪我はおそらく関係ないよ。違う理由で雪が見たいんだ。」
「それは…冬馬と付き合ってることを知ってってこと?」
「斎藤。」
「は、旦那様。」
答えを聞く前にドアを開けて入ってきたのは、冬馬とすごく似ているということはないけれど、昔は大層男前であっただろうことを窺わせる容姿の初老の男性。
彼が入った瞬間に、部屋の空気がぴりりと張り詰めたものに一変した。
冬馬がさりげなく私を庇う位置に移動してくれている。
だけど瞬間に私は悟った。
この人に私は勝てない。
「冬馬。久方ぶりだな。」
「お祖父様。ご無沙汰しております。」
冬馬が軽く頭を下げた。
このやりとりだけで、相田家での私とおじいちゃんたちとの関係とは違うことが分かる。
「君が、相田雪さんだね?」
険しい顔がこちらに向く。単に笑っていないだけなのだろうにその鋭い視線に射すくめられる。
きっと今の私はライオンの前の子ウサギ…どころかネズミのようなものだ。
足で押さえつけられて動けなくてじたばたしている絵が一瞬で頭に浮かんだ。
人間だって動物だ。本能的に分かることがある。
何度だって言おう、私はこの人に勝てない。それは間違いない。圧倒的に場数が違う。勝てる要素が見つからない。
でも野生動物は、勝負どころも知ってる。そう、ここでの勝負が「勝ち負け」だけじゃないことを知ってる。
「はい。君恋高校に在学中の相田雪と申します。冬馬くんにはいつもお世話になっております。この度は治療していただきありがとうございました。」
椅子から立ち上がり、一礼。
冬馬のお祖父様…健之助さんは何も言わずに私をじっと値踏みするように見るので、あえて目を伏せずに合わせた。その黒い瞳の真意は私などには到底推し量れない。これが貫禄の差なのだろう。隣に立つ冬馬の表情は窺えないが、冬馬が私の背を支えてくれている手に力が籠っているから彼も恐らく緊張している。
「…なるほど。なかなか骨がありそうじゃないか。」
冬馬がほっとしたように力を抜く。
「相田雪さん、君のことは少し調べさせてもらっている。報告に間違いはないようだ。怪我人だろう、かけなさい。取って食いやせんよ。冬馬も安心しなさい。」
私はお言葉に甘えて席に座ってから思い切って尋ねた。
「…なぜ、と伺ってもよろしいでしょうか?」
「なぜとは?」
「私をお調べになったことについても、こうしていらっしゃったことについてもです。」
「雪。」
冬馬が私を止めるようにこちらを見たが、健之助さんの方は愉快そうに口角を上げた。
「ふふ。私に質問してくるとは、なかなか珍しいお嬢さんだね、君は。大抵の者は私を見て震えあがって最小限度の対話で終わらせようとするのだが。度胸があるのか、それとも余程の阿呆か。君はどっちかな。」
私を見て目を細められる。その目から目を逸らさないように耐える。
この人だって子供だった時もあった。おもらししてお母さんに怒られた時代があるはず。と心の中で怯える自分を叱咤する。
「その勇気に敬意を評して正直に答えよう。冬馬に悪い虫がついたら困るからだ。」
悪い虫。つまり、冬馬に言いよる女という意味か。
「冬馬は上林家の唯一の直系の子供だ。私の可愛い娘の子供であると同時にあの男の子供でもある。やつの能力は評価するが息子としては認められん。そして冬馬はあやつの性質をかなり引き継いでおるから女性関係について信用ならん。うちの後継ぎとして、下手な女と下手な関係を持ってもらったらのちのち困るのだよ。」
「お祖父様!」
冬馬が憤ったように返す。
「俺は!…俺はあいつを父親と思ったことはありませんし、母さんを悲しませるようなことはしません。」
「お前は私の後継として予想以上に優秀に出来た。それだけ期待しているということだ。いくら心配しても足りんだろう。」
いつの間にか私ではなく冬馬と健之助さんの会話になっている。お二人とも。私を放置するのは構わないのですがそんなヘビーな家庭状況を部外者の前で披露していいんですか?
「なぜ君と話をしようと思ったか、だったね。相田さん。」
「は、はい!」
頭の中まで読まれているようで度肝を抜かれた。油断してはいけなかった。
「冬馬は幼い頃から執着したものがほとんどないのだよ。唯一したのが、高校選びと。」
そういえば、冬馬は天夢高校を勧められてたって前に言ってたな。
「そして君だよ。」
「わ、私、ですか?」
「冬馬の様子は普段から報告させているからね、もちろんこの1年の経緯も把握している。当然君のことも私の耳には入るわけだ。…なに、ここは田舎とまでは言わないが都会ではない。君のことも調べようと思えば色々情報は入ってくる。…成績で冬馬を凌ぎ、品行方正、容姿端麗な少女だと聞いていた。それでも実際会って確認しておきたくてね。」
褒めてもらっているのにちっとも嬉しいと思えない。その前評判を聞いてもこの方は私を見に来た。それはこの方がそんな調査を露ほども信じず、またはそんな評判を嘘くさいと思って自分の目で見る必要があると思っているということだ。
つまり、今、私はこの人のお眼鏡にかなうかを見られているということなのだから。最初の直感は正しかった。
「近いうちに何かしらの機会を設けようと思っていたのだがね。今日ここにいると聞いていい機会だと思ったのだよ。」
「雪は怪我をしたんです。それをいい機会と仰るんですか?」
「冬馬様。」
「冬馬、いいよ別に。それで、私は合格でしたか?」
「…君なら冬馬の傍にいさせておいても大丈夫そうだ。現時点では、だがね。」
最後を強調されたことは分かっていながら、私は渾身の笑顔を浮かべた。
女の笑顔は武器だ。勝てなくてもいい。同点引き分けで持ち越せればそれでいい。
「それは光栄です。今日はお忙しい中わざわざお時間を割いて下さりありがとうございました。有意義な時間でした。」
「…どういう意味かな?」
「冬馬くんの傍にいることを仮にとはいえ認めていただけたことが素直に嬉しかったから申し上げたんです。今回の怪我は私にとってもそれほど悪いことばかりではなかったと思えました。」
真っ直ぐに見返すと、冬馬のお祖父様は満足そうに好々爺の笑みを浮かべる。
「ふん。これはなかなか面白い娘を見つけたな、冬馬。」
「…お祖父様に選んでいただかなくても俺は自分で選べますから。」
「そのようだ。しばらくは尊重しておいてやろう。お前を完全に拘束して道を踏み外されても困るしな。…相田さん、今日は念のために入院するんだったね。治療代は気にしなくて結構。」
それだけ言うと、冬馬のお祖父様はさっさと姿を消した。
斎藤さんも「手続きの方をしてまいりますので」と姿を消すと、冬馬がはぁ。と息をついて、私の隣の椅子に腰を下ろした。大分精神を削られた様子だ。そしてそれは私も変わらない。背中を伝って冷えた汗が乾いて少し寒かった。
「…まさか不意打ちで雪を品定めに来るとはね…。油断も隙もないな、あの祖父さんは。」
「冬馬、大丈夫?」
「平気。雪こそ。大分疲弊しただろ?」
「んーまぁ。あんまり対峙したくない相手だなぁとは思ったかな。」
苦笑して見せると、冬馬は私の頬に手を当てて優しく撫でてくれた。
その手がとても優しくて、心地いい。
「結果的にはよかった。もしあの時点で祖父さんがダメだと思ったら、どんな手段を使っても引き離してきただろうから。雪を信じてないわけじゃないんだけど、それでも祖父さんに向かい合える相手ってほとんどいないからさ。」
「…もし、私が仮合格もらえなかったらどうしてた?」
「徹底抗戦だな。俺が祖父さんに反旗を翻す初めての機会になったんじゃない?」
「わぁーよかった。冬馬の家庭環境を壊さなくて!」
「うん。雪のおかげで助かった。ありがとう。今の俺じゃあの人にはまだ敵わない。」
冬馬も同じことを思っていたんだ。一介の高校生が相手になるような方じゃないのは間違いない。
「へへ、褒めて褒めて。あとこれでさっき無茶して怒ってたのチャラにして?」
「それとこれとは別。」
ぶーと膨れると、今度は苦笑した気配がして、それから申し訳なさそうに冬馬が頭を垂れた。
「雪、ごめんな。」
「なんで謝るの?」
「俺の家庭事情に雪を巻き込んでしまったから。…俺、監視までされてるって気づいてなかったんだ。」
「いいよ、そんなのは。大したことじゃないし。」
「あの祖父さんに目ぇ付けられたら大変なんだ…。今日、雪はいい意味でも悪い意味でも目を付けられたからこれまで以上に気をつけないと…。」
冬馬が考えに入る前に気になっていたことを尋ねる。
「それよりさ、自分で選べるってどういうこと?」
「あぁ。俺、さっき祖父さんが言ってたように上林家直系の一人息子なんだ。上林家って俺の曽祖父の代からずっと医者やっているんだよ。だから古い習慣も多くて。小学生の時かな。許婚みたいなのがつけられそうになったんだ。…母さんが、防いでくれたんだけどな。」
許婚って本当に現代もあるものなんですね!小説の世界だけかと思っていたわ。
それに一歩間違えれば、その許婚さんが悪役として出ていた可能性は高い。君恋が普通の学園乙女ゲームじゃなければ出ていたのかもしれない。
「じゃあ、冬馬のお母さん様様だなぁ、私。…そうじゃなければ、冬馬の傍にいられなかったんだもんね。」
「雪…。」
冬馬が立ち上がってベッドに座っている私を柔らかく抱きしめてくれる。
「…今まで話してなくてごめん。俺の家庭事情はもう少しこれ以外にも複雑で。…それはまた今度、ちゃんと雪に話してもいい?」
「うん。でも無理しないでいいよ?」
「俺が雪に話したいんだ。」
「そっか。ありがと、冬馬。」
二人でちょっと見合って微笑んでいると、ガラッと病室のドアが開けらる。
「ねーちゃん!」
「雪!」
太陽と未羽だ。
「雪、大丈夫なの?」
「体も骨折とかしてないし、手は2針くらい縫ったけど、平気。体育祭の方は?」
「あのあと少し騒ぎになったけど、でも無事に終わったよ。」
「ねーちゃん、なんであんなことを。」
「砂の中にガラスがあったのが見えたんだよ。もう競技始まっちゃってたから、すぐに行かないと、と思って。」
「!…ほんとーにねーちゃんはいっつも後先考えずに飛び出すよな。」
「ごめんね、心配かけて。」
それだけ言って一つため息をついた太陽は冬馬に向かい合って頭を下げた。
「…俺が雪の近くにいて引きはがそうとしなかったから珍しいと思ってたんだけど。」
「…上林先輩。今回のことは、俺では直ぐに対処出来なかったです。上林先輩がいてくれたおかげで助かりました。ありがとうございます。」
「当然のことをしただけだから、太陽くんにお礼を言ってもらう必要はないよ。俺のことを早く認めてもらえれば。」
「それとこれとは話が違うんで!!何も言わないのも今だけですから!…ねーちゃん、寝るための服は母さんが後で持ってきてくれるってさ。」
「え、入院のこと知ってるの?」
「母さんから電話があったんだ。母さん今日パートだったから俺からの連絡はなかなかつかなかったんだけど、さっきこの病院と連絡ついて、俺のところに泣きそうな電話かかってきたから落ち着かせてた。服持ってきてくれるって。体育着のままはないだろうから、これ。未羽さんが制服をって。」
「ありがとうね。太陽、未羽。着替えるわ。」
「じゃあ俺らは外出てる。なんかあったらすぐ言って。横田は…」
「着替え手伝うわ。あと足の方も湿布しておかないとね。」
「了解。じゃあ、頼む。」
病室には未羽と私だけが残された。