あなたが好きと伝えよう
秋斗との短いような長いようなキスの後、私は秋斗に涙を見せないようにそのまますぐに振り返ると秋斗の家を駆け出た。
「お邪魔しました!」
そのまま近くの公園まで走る。
一人になりたかった。
ここなら、誰にも見られないはずだ。
「っ。っうっ。うぅ。」
ブランコに腰掛けて、あとからあとから流れ出て止まらない涙を拭いながら辺りを見る。
ここは、小さい頃、秋斗や太陽と一緒によく遊んだ公園だ。ジャングルジムや滑り台。かくれんぼや鬼ごっこ。冬には雪合戦をした。
このブランコだって、秋斗と二人乗りをした。
うちの小学校に転入した当時、秋斗は全く口を利けなかった。日本に来た直後に誘拐されそうになったショックで声が出なくなってしまったのだ、とおばさんが引っ越しの挨拶の時に教えてくれた。
幼い彼は、その辺のどの女の子よりもずっとずっと可愛らしかった。事件の被害者になったと聞いて誰もが男の子であることを理由に否定できないくらい、彼は愛らしかった。私も引っ越しの挨拶に来た時に彼の顔を見てびっくりした覚えがある。こんなに綺麗な子供が太陽以外にいるとは思っていなかったから。
でも、容姿よりも何よりも、こちらを見ようとさえしない様子が気になった。
その引っ越し挨拶からしばらく経った転入日の挨拶のとき、事件のことを聞いていなかったのか、それとも忘れていたのか、担任はクラス全員の前に彼を置いて、あろうことか、自己紹介をするように言ったのだ。
当然彼は何も話せなかった。
彼の容姿は私たち子供の興味を引くには十分だった上、何も話さない不思議な雰囲気の子供は注目を集める。そして子供というのは無邪気で残酷だから、興味を持ったことには踏み込んでいく。彼が一番触れてほしくなかっただろう時に彼の容姿に騒いだ。
警戒して全身の毛を逆立てた子猫のように怯えと怒りを目に映しながら、それでも言葉という武器を取り上げられて抵抗できない彼を見ていたら、どうにも我慢ならなかった。
だから彼のことを庇った。その時が、秋斗が私のことを認識した最初の機会だったと思う。
最初、彼は私にも警戒していた。でもそれも仕方ないと思った。幼稚園時代から太陽が子供たちや親に騒がれて嫌そうな顔をしているのは見ていたから、それよりもっと嫌な気持ちなんだろうと子供ながらに気づいたから。
だから彼のことを必要以上に見ることは避けた。その代わり、彼が必要としているときは積極的に関わっていった。無言でも秋斗の気持ちは大体分かったし、秋斗が訊きたいことも察することができた。そうして一緒に行動しているうちに一切笑わなかったあの子が少しずつ笑ってくれるようになった。
そんな経緯があったせいか、秋斗が再び声を出せるようになったのは転入してから半年くらい経ったくらいだったと思う。それまでは、例え私が相手でも一切話せなかったのに、ある日突然、「ありがとう、ゆき」と言ってくれた。
使っていなくて枯れた声で、懸命に気持ちを届けようとしてくれた。
それが嬉しくてたまらなくて、お母さんたちにいっぱい話をした覚えがある。
それからはもう、べったりだった。何をするにも一緒。どんな時も二人、または太陽を合わせて三人でやってきた。
今だって。
目を閉じれば「ゆき!ゆき!遊ぼう?」「ゆき、見て!俺、100点取った!ゆきとおんなじ!」って天使のように笑ってくれる幼い秋斗の高い声が聞こえる。
秋斗、秋斗、秋斗。
あなたのことがこんなにも、大切で。失いたくなくて。想えば涙が止まらないのに。
それなのに、私はあなたを選べなかった。
私を許して。
後ろで、自転車の音がした。
人が来てしまったか。場所を変えよう。
今は他人と同じ空間にいたくない。それがたまたま通りかかった人であってもだ。
ブランコから立ち上がり、入ってきた人の気配がする方向とは反対側の公園の出口に向かっていると、呼び止められた。
「相田!」
大切な幼馴染を選べなかったくらい強い気持ちで求める人の声に、自然と足が止まる。
どうして、ここに、あなたがいるの?
「冬馬、くん…?」
荒い息が白く、宙に吐かれては消える。
「新田が。電話してきて、多分ここだろうって。」
今、来ないで。
私は今、あなたに会ったら、耐えられない。
「相田…。あの」
「来ないで!向こう行って!お願いだから!」
近寄ってくる冬馬くんを鋭い声で止める。
冬馬くんは、その場で足を止めた。
それでも戻ってはくれないから、絞り出すように言葉を出した。
「…ごめん。ここね、昔、私が秋斗と一緒に遊んだ場所なの。いっぱいいっぱい。あの子、小学校の時にうちの学校に転入してきたんだけど、事故で声が出なくなってて、半年後にようやく話せるようになるまでずっと無言だった。それでも、あの子が何考えていたのか分かったし、楽しかった。お互い、何考えているのか、言わなくても大体分かった。それぐらい一緒にいたの。」
冬馬くんは静かに聞いてくれている。
「目を閉じるとね、今でも『ゆき、ゆき!』ってね。聞こえるの。いつも近くでずっと笑いあって、嫌なことがあったら慰めあってた。秋斗は、中学に入っても、高校に入っても変わらず想ってくれた、私の大事な幼馴染。宝物なの。彼は。」
冬馬くんがわずかに視線を下に落とすのが見えたが、それでも止まらない。
「………それなのにね、私は彼を裏切った。」
「え…?」
「そんなに大事なのに!私、今も身を裂かれるように辛いのに!それでも、彼のことを恋愛という意味で好きだって思えなかった!」
呆然とする冬馬くんの整った顔を少し離れたところから睨むようにして、叩き付けるように。
自覚してからもどうしても言えなかった気持ちは、あっけなくこぼれ出た。
「私、冬馬くん、あなたが好き。どうしようもなく、好き。秋斗がいるのに。秋斗が離れてしまうって分かってずっと考えていたのに、どうしても、どうやっても、この気持ちが消せないの!私、私、秋斗が!!」
「相田!!」
ぐっと、体が締め付けられ、冷たい外気から遮断されて、驚きで言葉が詰まる。
ふわっと広がる爽やかな香りが私に何が起こっているのかを自覚させる。
「は、はなして」
「嫌だ。」
離れるどころかより強く腕に閉じ込められて動けない。
「…分かったから、一人でそんなに壊れそうな、苦しそうな顔するなよ。…何でも聞くから。どんなに泣いてもいいから。泣くなら俺のところで泣いて。俺に頼って。」
その声音は、今まで聞いた彼のどの言葉よりも優しい。
やめてよ。
ずっと我慢していたのに。
こらえていたのに。
耳元で、そんなに優しい声で言われたらもう、我慢できないから。
すがりつくように、冬馬くんのセーターを掴んで叫ぶ。
「…っ。うっ。…っ秋斗が!!秋斗が行っちゃうよぉ!!!!嫌だぁ!!!秋斗、行かないでぇっ!!いつまでも、私の傍にいて!!行っちゃやだぁああ!!秋斗ぉぉぉ!!!」
絶対に言ってはいけない言葉。
1月に話を聞いてから、ずっとずっと胸の奥に封じ込めてきた想いが堰を切ったように流れ出す。
自分じゃない男の子の名前を叫ばれているのに、冬馬くんはぎゅっとただ腕の力を籠めるだけで、何も言わないで抱きしめてくれていた。
涙が収まって、しゃくりあげるくらいになった頃になってようやく、冬馬くんがこの寒い中コートの前を開けていたことに気づいた。
それだけ急いで出てきてくれたんだ。
しがみついていた中のセーターがよれたり濡れたりしてしまっている。
「っご、ごめん。よ、汚しちゃった…。」
慌てて身を離そうとしても、冬馬くんは放してくれない。
「いい。構わないからそのまま聞いて。」
耳元で抱きしめられたままで囁かれた声に、心が跳ねる。
期待する。彼の言葉を全身が待っているのが分かる。
「俺、相田のことが好きだ。夏に気持ち伝えて、相田と新田がどれだけ強い絆で結ばれているか思い知らされるようなこと、何回も見てきた。でも、それでも諦められなかったくらい、相田のことが好きなんだ。」
あぁ、なんで。
あんなに泣いていたのに、秋斗のことを想って泣いていたのに、こう言われて嬉しくてたまらないんだろう。
「だから相田が俺を選んでくれたこと、すごく嬉しい。あいつが行っちゃうこと、俺も辛いし、相田がそれ以上に辛いのは分かっているのに、今、俺、嬉しくてたまらないんだ。」
それは私もそうだ。甘い気持ちと、苦い気持ちがないまぜになって、二つが心の中に矛盾なく共存している。
冬馬くんは抱きしめたままそれだけ言って、ようやく私を放す。
正確には、私の腕は持ったまま少しだけ身を離した。
そしてその黒い双眸でこっちをまっすぐに射抜く。
「相田、俺と付き合ってください。」
自分の気持ちに素直になれば、返事は一つしかない。
私も、涙に濡れたままの目で彼の目を見返す。
「っ、はい。よ、よろしく、お願いしますっ。」
「はぁ。やっと…。」
冬馬くんはそう言って、もう一度私を抱き寄せると私の肩に額を当てた。
さらさらした黒髪が頬に当たってくすぐったい。
それから頭を上げ、片腕で私の腰を抱いて引き寄せてからケータイで誰かに電話した。
「あ、俺。…は?そう、今公園。早く来いよ。…いいから!」
しばらく待っていると来たのは、
「秋斗!」
すっごく不機嫌な顔の秋斗だ。ちょっと目が赤い。
「…なに?上林、俺に見せつけるつもり?」
「違う。ほら。」
背中をとん、と軽く押して秋斗の方に押しやられたから、泣きすぎてぼうっとした私はたたらを踏んで秋斗の胸に飛び込む形になる。転がり込んだ私を慌てて支えると、秋斗が冬馬くんに問う。
「は!?何だよ!?」
「預ける。今日から14日まで、2週間。」
「はぁ!?お前何言ってんの?」
「お前、いつ帰ってくるか分かんないんだろ?1月、ちゃんと悔いなく相田と過ごせたのか?」
「それは…。」
「言っとくけど、預けるだけだから。相田、俺のだから。ちゃんと俺の彼女だから。」
彼女。
その言葉に秋斗の目が鋭くなる。
「何?同情?」
「違う。一つは相田のため。俺の腕の中で、名前呼んで泣き叫ぶくらい好きなやつと気まずいままに別れさせるのは嫌なんだ。」
それをさりげなくばらすのはやめてほしい。
「二つは、俺のため。お前が行った後、相田がお前のこと想ってずっとこのままだったら、俺がどうしようもない。それから…三つは、俺のライバルのため。あ、友達の話なんだけどな。小学生の時からずっと大好きだった女の子とずっと離れ離れになるらしくって。俺、友達思いだから。悔い残させるのは嫌なんだよ。俺もそいつと友達だからさ。」
冗談ぽくくすっと笑った冬馬くんを、信じられないという顔で秋斗が見ている。
「でもお前…」
「その代わり、悔いを残すな。ちゃんとお別れしろよ。」
秋斗は表情を変えてじっと冬馬くんのことを見た後、ふっと口角を上げた。
「余裕だねぇ。この2週間、本当にゆきを俺に預けるつもり?俺がゆきに何かしちゃったらどうするの?」
「お前は、しないよ。」
冬馬くんが秋斗を見て、にっと笑う。
「…ふん。俺も信用されたもんだね。なんだよ、勝者の余裕?」
「そうだよ。勝ったのは俺。だから同情じゃなくて、そうだな、自己満足と俺の優しさ。噛みしめろよ?」
「………あ~~~くっそ。」
秋斗がくしゃくしゃ、と自分の髪をかき上げて、恨み深そうな目で冬馬くんを見た。
「うっぜぇ!ほんとーにお前って、気に食わない!!」
言葉は乱暴。でもその顔はどこか吹っ切れたように表情の陰りが潜んでいた。
「だったら2週間、思いっきり充実して過ごしてやるよ。2週間もお預け食らわされて焦れてるお前を目に焼き付けて、ざまーみろって思ってやる。俺に預けんじゃなかったって後悔させてやるから!」
「ここまで我慢してきた俺にそう思わせるくらいには充実させろよ?」
「望むところ!こうなったら一刻も無駄にはできない。よし、ゆき、帰ろう?」
「え?え?え?」
一人だけ置いていかれて現状に全くついていけていないのは私だけだ。
「2週間、俺だけを見てね、ゆき!」
秋斗が私に笑いかける。
その笑顔は、少し幼くて、それでいて無理のない無邪気なもので、ほっとする。
秋斗のその笑顔が見られるなら、男の子のよく分からないやり取りも、分からないままでいいのかな。
「ほらー。ゆき、置いてくよ?」
「ちょっと待ってよ秋斗!」
秋斗の手を軽く握って、私は秋斗に走り寄った。
あと2話です!