序章
序章 全ての始まり
ダイロア大陸の遥か南の海に、地図にも載らないような小さな島が存在している。
大陸に住んでいる誰一人としてその島の存在を知らず、ましてやそこに人が住んでいるなどとは思いもしなかった。
年中が真夏のこの島で、大陸では見られないような植物や動物と共に生活しているのは、一人の老婆と一人の少年だった。
そしてその少年は、島の際から海を眺めていた。ボロボロの衣服を身に纏い、全てを見通すような蒼色の瞳で、穏やかな海を眺めていた。
その時、少々強い風が吹いた。この島にしては珍しく、冷たい風だった。
「っと……来たか」
少年は海から目を逸らし、振り返る。そして今度は、島の中心にあるボロボロの小屋を目指して歩き始める。
途中、色鮮やかな果実や木の実を口に運びつつ、少年は小屋へと向かう。
小屋は今にも崩れそうな程朽ち果てていた。少年はそんな事を少しも気にせず小屋の扉に手を伸ばし、軋んだ音を鳴らしながらそれを開ける。
「ババア。夜になったら嵐が来るぞ」
少年は薄暗い部屋の奥に向かって声を発した。すると、
「そうかい。じゃあ、私の命もここまでだね」
という、しゃがれた声が届く。
「そうらしいな。っつーか、よく今まで生きて来られたもんだ」
「大きなお世話だクソガキ。……星はどうだい?」
「こんな昼間に星なんて見えるかよ。まぁ昨日の夜見た限りじゃあ、てめぇの命は今日までだったが」
「そうかい。私も年貢の納め時って事かい」
少年は話をしながら部屋の真ん中にぶら下がっているランプに火を灯す。すると、部屋が明るくなり、その様子が明らかになる。
何も無い部屋だった。ランプがあり、かまどがあり、テーブルがある。しかし、他には何一つ無かった。
他にあるとすれば――腰の曲がった老婆が少年の前に座っているくらいの事だ。
「それで――クソガキ。あんたはどうするつもりだい?」
老婆は少年に問いかける。血こそ繋がっていないものの、この二人は一〇数年の時を共に過ごしている。老婆は無意識に少年の行動を縛り、少年は何の疑問も持たずにこの島で生活して来た。小さな小さな、二人だけの世界だったのだ。
しかし、少年を縛り続けて来た老婆は今日死ぬ。嵐で死ぬのか老いて死ぬのかはわからないが、星占いの結果は狂うはずもなかった。
「……どうするかな。当分はここにいてもいいし、いなくてもいい。てめぇが死んだら考えるさ」
少年は特に考えも無く、そう告げる。だが、老婆はそれを聞き、少年に向かって言い放つ。
「ここを出な。今すぐに」
少年は耳を疑った。昔、何度も脱走しようとし、その都度目の前の老婆に止められて来たのだ。しかも、これから嵐が来ようとしているというのに。
「おい、もうろくババア。死期が迫って遂にイカれたか? 今日はこれから嵐が来るんだ。船なんて出したら一発でお陀仏だぜ」
「……この嵐はこの辺一帯だけのもんだ。今から船を出せば充分に抜け出せる。……操舵の技術は叩き込んだはずだろう」
「……本気か?」
「本気だ。ここから遥か北に、大陸がある事は知っているだろう?」
老婆はしわだらけの顔でニヤリと笑う。そして、続けた。
「ここから真っ直ぐ北に向かえ。いいか、真っ直ぐだぞ? すると、でかい山脈が見えてくる。その山脈を越えたところにある国へ行くがいい。そこで――ヒルデスに会え。そして、見せてやりな。アンタの力を」
「ヒルデス? 誰だそりゃあ?」
「行けばわかるさ。……さぁ、行きな。お前などに死に水なんて取ってもらいたくないしねぇ」
「……そうかよ。なら、そうさせてもらうぜ。俺の力って奴を――世界に見せつけてやる」
少年は老婆に笑いかけ、小屋を飛びだした。残された老婆はその背中を見送り、少し寂しそうに微笑んだ。
「世界を見て来な、カイト」
少年――カイトは旅立った。
そしてその旅立ちは同時に、黒扇物語の始まりを意味していた。