桜の海
「あ、やば……間違えた」
私とナルの関係は、そんな失礼きわまりない一言から始まった。
人違い。
それが、私とナルの出会いだった。
ナルはいつも強引で、私の都合なんてちっとも考えてくれない人だった。
呼びかけても自分はあまり返事をしないくせに、私が無視をするとすぐ拗ねる。わかりやすく不機嫌になって、そっぽを向いて、それでも私が追いかけないと、財布だけを持って部屋を出ていく。
そういう人だった。
それでも私は、そんなナルの手を取った。
二人で歩む未来を、当たり前みたいに信じていた。
まだ見ぬ未来は明るいものだと疑わなかったし、私の隣にはナルがずっといるのだと思っていた。
二人で歩む未来は、どんなものだったのだろう。
二人で分かち合うはずだった悲しみや喜びは、どれほどあったのだろう。
今となっては、想像することすら難しい。
考えれば考えるほど、涸れたはずの涙がまた流れ出す。
頭の中が、ナルの笑顔で埋め尽くされる。
その日も、いつもと同じだった。
ナルはむくれて、子どもみたいに不貞腐れて、部屋を出ていった。
私は追いかけなかった。
いつものことだと思ったからだ。
どうせ帰ってくる。
帰ってきたら、私もわかりやすく拗ねた顔をして、膝を抱えて俯いている。
ナルは呆れたように笑って、何か適当なものを買ってきて、ぶっきらぼうに私の前へ置く。
それで、なんとなく仲直りする。
私たちはずっと、そうやってきた。
だから、その日もそうなるはずだった。
ナルが帰ってきた時のことを考えて、私は晩ごはんを作ろうとしていた。
けれど、ふいに首筋を冷たいものが走った。
ぞくり、と背中が震えた。
肩が揺れた瞬間、包丁が指先をかすめた。
滲み出た血が、切りかけの野菜に赤い色を移す。
ぼうっとしていた自分に気づいて、私は慌てて絆創膏を取りに行こうとした。
今思えば、あれは虫の知らせだったのかもしれない。
その時、無性に不安になった私は、絆創膏を貼ることも忘れて携帯電話を引っ掴んだ。
そして、気づいた。
その日、ナルは珍しく財布を置いて出ていっていた。
「由紀、うちに帰っておいで」
母の声は、記憶よりもずっと細くなっていた。
ああ、皺が増えた。
いつの間に、母はこんなに年老いたのだろう。
父という存在は、物心がついた頃にはもう家にいなかった。
いくつかの跡を残して、“お父さん”は消えた。
大人になってから、ようやく理解した。
夫婦には、離婚という選択肢があるのだと。
母は父と離婚して、父は家を出ていった。
私が大人になっても帰ってこないということは、復縁の可能性はなくて、もしかしたら父はもうこの世にいないのかもしれない。
母は、女手ひとつで私を育ててくれた人だ。
けれど、過保護と言えるほど私を心配して、上京することを最後まで許してくれなかった人でもある。
私は反対を押し切って家を出た。
あの日、大喧嘩をしてから、母とは電話でたった一度しか話していない。
たった一度。
その時も、ナルがそばにいた。
母からの電話を無視し続ける私を見かねて、ナルが勝手に電話に出たのだ。
電話口から漏れ聞こえる母の声を、私は懐かしいと思いながら聞いていた。
それなのに、自分から話すことはできなかった。
ナルがいなくなったことを、どうして母が知っているのだろう。
ぼんやりと考えて、ようやく思い出す。
私が茉莉に連絡したからだ。
茉莉は、今の会社に入ってから再会した中学時代の同級生だった。きっと、茉莉が気を利かせて母に連絡してくれたのだろう。
「大丈夫よ、きっとまた……」
「また、があるの? 次があるの?」
「そういう、わけじゃ……」
違う。
母を責めたいわけじゃない。
よれよれの服を着て、髪もぼさぼさで、くたびれた旅行鞄を抱えて、私のもとへ駆けつけてくれた母を責めたいわけではない。
それなのに、どうしても言葉が尖ってしまう。
ナルはいない。
もう、私のそばにはいない。
私を置いてきぼりにして、ナルはこの世から消えた。
眠たくなるような暖かい季節。
心地いい風に吹かれる季節。
桜が咲いて、花見なんかして、楽しくなるはずだった春。
その春に、ナルはいなくなった。
「何でだよ。プリンの方が美味いじゃん」
「風邪引いたら普通はゼリーでしょ」
「誰が決めたんだよ、そんなの」
ありがとうと言えばよかった。
ゼリーを頼んだのにプリンを買ってきたナルを責めたりせず、ちゃんとお礼を言えばよかった。
小さなことだ。
本当に、小さなこと。
けれど私は、ナルに対して素直にお礼を言ったことが、どれだけあっただろう。
ナルに心から感謝したことが、どれだけあっただろう。
後悔は、いくつも出てくる。
そのたびに胸の内側を、じくじくと抉られた。
ナルとの喧嘩のほとんどは、簡単に仲直りできる小さな喧嘩ばかりだった。
卵焼きの味付け。
新しい家具の色。
風邪を引いた時に買ってくるもの。
小さな喧嘩を繰り返して、私とナルはお互いを知っていった。
それは、たった二週間で整理できるほど軽い記憶ではなかった。
思い出が溢れるたびに、私は声をあげて泣いた。
朝方だろうと、夕方だろうと、構わず泣き喚いた。
そうすることで、私の中のナルが消えていくような気がした。
忘れたい。
忘れたくない。
どちらの感情もあった。
けれど私は、ナルを胸に刻みつけておくよりも、いっそ忘れてしまうことを選ぼうとしていた。
喚いて、叫んで、声を涸らして。
ぼんやりと現実に戻った時、私はナルと一緒に暮らしたアパートにはいなかった。
目を開けて、最初に見たのは母だった。
母が私を見下ろしている。
私は母を見上げている。
懐かしいな、と思った。
小さい頃に風邪を引いた時も、母はこんなふうに私を見下ろしていた。
「由紀? 由紀っ? 気がついたのね……!」
ずっと握っていたのだろうか。
ずっとそばにいたのだろうか。
一目見ただけでわかるほど、母は弱々しくなっていた。
痩せこけた顔は涙で濡れている。
握り返したら折れてしまいそうな、か細い手。
けれど、その温もりは昔と同じだった。
「ここ、病院?」
掠れた声で尋ねると、母ははっとして頷いた。
私の腕に刺さった点滴を一瞥する。
「なにも、食べてくれなかったから……」
その寂しげな目に、何と言えばいいのかわからなかった。
心配かけてごめん。
そんなふうに素直に謝れる可愛げは、私の中には残っていなかった。
母に対して素直になることは、きっとこれからも難しい。
上京をめぐって生まれた深い溝は、こんな状況になっても簡単には埋まりそうになかった。
消毒液の匂いがする病室。
保健室とよく似た匂い。
簡素で、無駄なものが何もない部屋。
ナルのものはない。
ナルの匂いもしない。
そう自覚した途端、言いようのない不安が私を襲った。
足元から。
背中から。
頭のてっぺんから。
漠然とした恐ろしさが襲いかかってきて、私の身体も、感情も、硬く強張らせていく。
「ナルに、会いたい」
寝起きで、声がうまく出なかった。
それでも言わずにはいられなかった。
「会いたいの」
ぽろりとこぼれたその言葉に、母の顔がさっと青ざめた気がした。
「もう少し眠ったら、きっと気持ちも落ち着くわよ」
それだけ言い残して、母はひどく焦ったように病室を出ていった。
まるで、何かから逃げるみたいに。
小さな背中を見送って、一拍遅れて、病室が無人になったことに気づく。
目が覚めたのに、医者は呼ばなくていいのか。
ナースコールは押さなくていいのか。
そんな現実的なことが一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、熱くなった思考回路は、そんなことをすぐに忘れさせた。
ねえ、ナル。
手を握って。
ねえ、ナル。
私の名前を呼んで。
ひたすらナルの名前を呼び続けて、私はまた眠りの中へ落ちた。
微睡みから目覚めた私を見下ろしていたのは、ナルだった。
……そう、思った。
瞳を開いた私に気づき、ナルはくしゃりと顔を歪める。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が引っかかった。
髪の色が、記憶の中のナルより少し暗く見えた。
声も、少し低い気がした。
いつもそばにあった匂いも、しなかった。
それでも私は、その違和感を見なかったことにした。
だって、ナルがそこにいたから。
私を見て、私の名前を呼ぼうとしていたから。
それだけで、もう充分だった。
「馬っ鹿じゃねーの! 何も食わないとか、おまえ、死ぬ気かよ」
こんなふうに目の前で怒ったナルを見るのは、久しぶりだった。
眉間に思いきり皺を寄せて、ナルは私をじっと見つめている。
「何でだよ……」
絞り出したような、悲しげな声。
それすらも嬉しくて、私は思わず頬を緩めてしまう。
「ナル、会いにきてくれたの」
会いに来てくれたナルが、夢でも幽霊でも構わなかった。
ただ、ナルがそこにいて、私を見てくれている。
それだけで充分だった。
「飯食え。仕事行け。ちゃんとしろ」
「……なんか、偉そう」
ぶっきらぼうに注意するナルは、いつもより偉そうだった。
でも、ちゃんとナルらしかった。
「由紀。ちゃんと、しろよ」
「ナルが戻ってきてくれるなら、ちゃんとするよ」
意地悪を言った。
もう会えないと理解しているからこそ、ナルを困らせたかった。
もっと話してほしかった。
もっと、ここにいてほしかった。
「……俺、死んでるんだぞ」
「知ってる」
「どうやって戻ればいいんだよ」
「幽霊でも、夢でもいいよ。会いに来てくれるなら」
無茶なことを言っている自覚はあった。
叶うはずがない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……分かった」
けれどナルは、頷いた。
私の我が儘を、了承した。
夢だとわかっているはずなのに。
次に目が覚めた時、私は妙にすっきりしていた。
母に向かって笑いかける余裕さえあった。
そんな私を、母はとても悲しそうに見つめていた。
大丈夫。
変になったわけじゃない。
ナルが会いに来てくれたから。
夢でも、会いに来てくれたから。
だから、ほんの少しだけ気持ちに余裕ができた。
「大丈夫」
そう言った私に、母はぼろぼろと涙を流した。
私がぎょっとして声をかける前に、母は逃げるように病室を出ていった。
どうしてなのか、私にはわからなかった。
母は、私が変になってしまったと思っているのだろうか。
違うと言っても、きっとまともには受け取らないだろう。
だったら、それでいい。
もともと、仲がいいとは言えない関係なのだから。
翌日、診察を終えて病室へ戻ると、見覚えのある後ろ姿が視界に映り込んだ。
まだ少しふらついていた身体から、すべての力が抜けた。
私は磨かれた床にへたりこんだまま、動けなくなった。
嘘。
嘘だ。
ありえない。
心の中で、誰かが叫んでいる。
こんなのは嘘だって。
「な、る……?」
背中がぞわりと冷えた。
鳥肌が立っていくのがわかった。
全身に走る寒気と恐怖は、誤魔化しようがなかった。
それなのに、次の瞬間に込み上げてきた感情は、まぎれもなく歓喜だった。
「戻って来いって、言っただろ?」
呆れた顔で、溜め息混じりに、ナルは私へ手を伸ばす。
震える私の指先が、その手にそっと触れた。
温かい。
まぎれもなく、人間の体温だった。
ナルは私の手を掴み、ゆっくりと引いて床から立たせてくれた。
「しばらくは流動食じゃねーの、由紀」
「……うん」
「ちゃんと飯食って、由紀が元気になったら、また会いに来る」
私がベッドまで辿り着くと、ナルは元気づけるみたいに頭を数回撫でた。
「もう、帰るの?」
一体、どこに帰るのだろう。
どこから来たのだろう。
透けているわけでもないナルの身体は、どこからどう見ても生身の人間だった。
「また来るって言ってんだろ? そんなに寂しいかよ」
寂しいよ。
そう言いたかった。
素直になれなかったと後悔しているくせに、また素直になれない自分が馬鹿みたいだった。
寂しいから消えないで。
行かないで。
そう言いたかった。
けれど、勇気が出なかった。
「由紀が元気になって、仕事も行くようになったら、また会いに来てやるから」
上から目線の、いつものナル。
可愛げのないその言葉に、懐かしさと切なさで胸が締め付けられる。
「……なにそれ」
偉そうな態度に、少しだけむっとする。
以前と、同じように。
「じゃあな、由紀」
行かないで。
思わず出そうになった言葉を、寸前で飲み込んだ。
意地だったのかもしれない。
弱さを見せることが下手な私の、余計で邪魔な意地。
けれど、伸びた手は何より素直だった。
私はナルの服の裾を、ぎゅっと掴んでいた。
「……由紀。俺、あんまり時間がねぇんだ」
困ったような顔をされて、私は慌てて手を離した。
離したら、ナルが行ってしまう。
そんなことはわかっていた。
それでも、引き留める言葉は出てこなかった。
「必ず、会いに来てよ。約束して。お願い、ナル」
「……おう。約束な」
力強い返事だった。
嘘は混ざっていないように思えた。
そう思いたかっただけなのかもしれない。
それでも、この約束だけは破られない気がした。
ナルは突然消えるわけでもなく、普通にドアを開けて出ていった。
人間らしい幽霊だと、小さく笑ってしまうくらい。
けれど、その後ろ姿が見えなくなった途端、私は自分がひとりなのだと思い知らされた。
やっぱり追いかけよう。
そう思って立ち上がると、足にひやりとした床の感触が伝わる。
その冷たさが、現実を思い知らせてくる。
ナル、ごめん。
やっぱり待てない。
そばにいてほしい。
ふらつく足取りでベッドを下り、ドアまで辿り着く。
けれど、開けた先の廊下に、ナルの姿はもうなかった。
味気ない病院食も、できるだけ完食するようにした。
積極的に散歩もした。
軽い運動もした。
間食は、栄養補助食品と書かれたものばかりにした。
単純だと自分でも思う。
それでも、もう一度ナルに会うためには、言われた通りにするしかなかった。
病院の売店でゼリーに手を伸ばしかけて、私はプリンを手に取った。
そんな私を見たら、ナルはきっと笑うだろう。
「ほらな。そっちの方が美味かっただろ?」
そんなふうに言うだろう。
本当は違う。
ナルが好きだから選んだのに。
変なところで鈍いナルは、きっと私がプリンを選んだ本当の理由になんて気づかない。
プリンが入った袋を揺らして病室へ戻る途中、ちょうど私に会いに来たらしい母と合流した。
母はゆっくり歩いていた。
か細い手足。
心配そうに私を見上げる目。
その視線が、妙に居心地悪かった。
「先生が、明後日には退院できるって」
「そう……良かったわ。足は疲れていない?」
「うん。大丈夫」
母の付き添いを必要とする年齢ではない。
自分のことは自分でできる。
そう思っている。
できていなかったから、入院したのだけれど。
ナルが死んでから、今日でちょうど二週間だった。
葬式にも行っていない。
ナルの家族にも挨拶できていない。
「退院したら、ナルのご両親に会いに行ってくる」
報告する必要なんてなかった。
それでも、間を持たせるために何かを口にしたかったのだと思う。
「行かなくていいわ」
母から返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「な、んで……?」
唖然として問い返すと、母ははっと表情を変えた。
けれど理由は言わない。
何でもないと苦笑いを浮かべ、早足で病室へ向かってしまった。
それから何度か聞いてみても、母は頑なに答えなかった。
ただ、行かなくていい、とだけ繰り返す。
不可解に思うのは当然だった。
だから私は、母の言うことを聞かなかった。
退院してすぐ、ナルの両親へ電話を掛けた。
母のいない、昼間に。
ナルの携帯から番号を探し、自分の携帯で掛ける。
緊張のあまり床に正座して、コールが途切れた瞬間、ごくりと唾を飲み込んだ。
『もしもし』
聞こえた声に、心臓が跳ねた。
「あ、あのっ、初めまして。私、ナル……鳴海さんと、お付き合いをさせていただいておりました──」
『……ごめんなさい』
ぷつりと音が途切れた。
わずかに聞こえていた雑音も消えて、通話が終了したことを知らせる音だけが無情に響く。
故意に切られた。
もしかして、私だから。
ナルの恋人だった私だから。
そう気づいたのは、二回目の挑戦を経てからだった。
最初は、ただの間違いかもしれないと思った。
勧誘か何かと勘違いされたのかもしれない。
そんな微かな希望を抱いて、もう一度電話を掛けた。
けれど聞こえてきたのは、機械的な着信拒否のメッセージだった。
住所は分からない。
けれど、ナルの免許証を見れば本籍地は分かるかもしれない。
会いに行くことを、一瞬だけ考えた。
けれど、すぐにその考えを捨てた。
話したくない。
会いたくない。
だから、私に知らせなかった。
ナルの葬式の連絡は、私に届かなかった。
それはつまり、そういうことなのだろう。
母は知っていたのだろうか。
それとも、察していたのだろうか。
安易に連絡しようとした私が馬鹿だった。
あの日、ナルは間違いなく私と喧嘩をして部屋を出た。
喧嘩なんかしていなければ、ナルがいなくなることもなかった。
すべてが自分のせいだと悲観しているわけじゃない。
私がいなかったら、なんて考え続けても仕方がない。
ただ、喧嘩をしなければ、ナルはあの時間に家を出ていかなかった。
それだけは真実だ。
私は、それを認めなければならない。
私にも責任はあった。
原因の一端もあった。
いつものことだと思ってナルを引き留めなかったのは、間違いなく私の落ち度だった。
言い合いをしたくないからと家を出ていったのは、間違いなくナルの落ち度だった。
「ナルも私も、子どもだった……どうしようもないくらい」
落ち込んでも仕方がない。
私が俯いていても、ナルは戻ってこない。
だったら、ちゃんとしなきゃ。
ナルが会いに来てくれると言った、あの約束を信じなきゃ。
そうやって自分を奮い立たせないと、駄目になってしまいそうだった。
気を抜けば、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
私は、ナルがいなくなって悲しむ自分に蓋をした。
見ないふり。
気づかないふり。
涙を流している自分を、なかったことにしようとした。
「由紀ー! こっち!」
晴天の空の下、茉莉が左手を大きく振った。
ランチに誘われたのは、本当に久しぶりだった。
彼女なりに、私のことを心配してくれていたのだろう。
「何にする? 私は本日のおすすめパスタにしたけど」
「じゃあ、私もそれにする」
「オッケー。すみませーん」
代わりに注文してくれる茉莉に「ありがと」と告げながら、私は着ていたカーディガンを脱いだ。
日差しが強いからと着てきたけれど、この気温では暑い。
椅子の背もたれにカーディガンを掛ける。
前を向くと、自然と茉莉と向かい合う形になった。
バレッタで髪をまとめた茉莉は涼しげで、少し羨ましい。
肩まで伸びた私の髪は、結ぶには少し短かった。
注文したパスタが来るまで、なぜか茉莉は喋ろうとしなかった。
本日のおすすめであるアラビアータが届いて、フォークを握ってから、ようやく私を見た。
「元気になって、本当に良かった」
独り言みたいな口調だった。
何となく気まずい。
けれど、心配してくれていたことは充分に伝わってきた。
「うん。ごめん、心配掛けて」
「どんな言葉を掛けたらいいか、分からなくて連絡できなかった。言い訳になっちゃうけど、話聞いてあげられなくてごめん」
ナルが病院に運ばれて、呆然としていた私に、ちょうど茉莉から電話が掛かってきた。
あの日、涙声で私が言えたのは「ナルが死んじゃった」の一言だけだった。
茉莉は必死に声を掛けてくれていた。
けれど私は、うずくまって震えることしかできなかった。
一段落しても、茉莉に電話を掛け直す気力は残っていなかった。
茉莉も、どうしたらいいか分からなかったのだろう。
だから連絡できなかった。
現に、私が出勤して二日目の今日、こうして声を掛けてくれたのだから。
違う部署でも会社は同じだ。
入院生活で有給をすべて使い切った私は、ようやく会社に戻った。
急に取った休みで、上司にも同僚にも迷惑を掛けた。
けれど、電話で事情を聞いた上司は納得してくれて、出勤した私を温かく迎えてくれた。
どうしてあの上司が慕われているのか、今まではよく分からなかった。
今回のことで、少し分かった気がする。
ここぞという時の思い切りの良さと気遣い。
それが、古参の社員から慕われている理由なのだろう。
「由紀がこんな時に言うのはどうかって、自分でも思うけど」
茉莉は、フォークにパスタを巻きつけながら俯いた。
「私ね、会社辞めるの」
「もしかして、寿退社?」
以前から、近いうちにそうなりそうだとは聞いていた。
茉莉が本格的に会社を辞めると決めたのなら、理由はそれだろう。
本当は嬉しいはずなのに、茉莉はちっとも嬉しそうな顔をしていなかった。
きっと、私を気遣っている。
「おめでとう。茉莉、素直に喜んで。私なら大丈夫だから。いつもみたいに笑ってよ」
いつも明るい茉莉が、こんなに悲しそうに結婚報告をするのは、私のせいなんだろう。
喜ばしいことなのに。
祝ってあげなくちゃいけないのに。
ぎこちない微笑みしか作れない私は、最低だ。
いつか、ナルと話したことがある。
結婚したら、子どもは何人ほしいか。
そんな、まだ遠い未来の話だった。
「賑やかな方がいいよなー。で、お揃いのTシャツとか着せんの」
「お揃いは絶対恥ずかしがるって。今の子どもはお洒落に敏感なんだから」
「結婚かぁ……してぇなぁ」
ごろんと横になったナルは、横目で私を見た。
「なに?」
「由紀とするんだろうな、俺」
「……結婚?」
「そう。すっげーそんな気がする」
「どんな気なのよ」
嬉しかった。
けれど恥ずかしくて、私は照れ隠しにそっぽを向いた。
あの時、ナルはどんな気持ちで私を見ていたのだろう。
「まぁ、そんな未来もいつかはあるんだろうし。……しっかりしろ、俺!」
いきなり自分の頬を叩いて、ナルはにっと笑った。
しっかりしろ、俺。
ナルが自分を叱咤するために言ったその言葉に、私は密かに期待していた。
ナルの仕事が、あまり上手くいっていない時だった。
上手くいっていないからこそ、そんな先の見えない未来を想像してみたのかもしれない。
寄り添って話を聞くことも、上手に慰めることも、私はできなかった。
だから、いつもと同じように「ばか」と笑い返すことしかできなかった。
結婚式には、行かないことにした。
茉莉は分かってくれた。
行けない分、お祝いは茉莉が喜んでくれるものを選んで贈ろうと思う。
値段なんて気にしない。
そんなに高いものは選べないけれど、茉莉とその旦那さんの幸せを祝うために使えるなら、貯めていた結婚資金も報われる。
背筋を伸ばして交差点を歩く。
人波に紛れて、誰かと同じ方向へ進む。
それだけで、ほんの少し前に進めたような気がした。
ナルはいつ、来てくれるんだろう。
そんなことを考えていたからだ。
次の横断歩道の信号が赤だということに、私はまったく気づかなかった。
ぼんやりと、ナルのことを思い出す。
笑ったナル。
怒ったナル。
悲しそうな顔をしたナル。
「あ……ッ、ぶねぇッ!」
危ない。
そう聞こえた時、私は地面に尻餅をついていた。
自分の腹部にしっかり回った腕を辿って、後ろを向く。
「ナル……?」
そこにいたのは、まぎれもなく会いたかったナルだった。
「何やってんだよ! 馬鹿!」
「ごめん……」
ナルに手を引かれて歩く。
前は当たり前にできていたことが、今はこんなにも愛おしい。
「もしかして、死ぬ気だったのか」
「違う! ぼんやり、してて」
「ぼんやりすんな!」
「……はい」
叱られてばかりだ。
ナルは死んでしまってから、私を叱ってばかりいる。
やっと会えたのに、ドラマみたいな感動の再会にはならない。
「昼休み、いつまで?」
問いかけられて、顔を上げる。
本当は、すぐにでも会社へ戻らなければならなかった。
「もう、少し」
嘘を吐くのは下手だと、友達にもよく言われた。
それでも今だけは、この嘘が通じてほしかった。
「今夜十九時」
「え?」
「最初に会った時、二人で行った公園で会おう」
じゃあな、と言い残して。
くしゃりと私の前髪を撫でて。
ナルは背中を向け、早足で去っていった。
みるみる小さくなっていく背中を見送りながら、私は拳を握りしめた。
また、置いていかれてしまった。
「十九時に公園、か」
ナルが最初に会った日のことを覚えているのが、少しだけおかしかった。
二十一歳の春。
まだ私が大学生だった頃のことだ。
半年間付き合った彼氏にデートをドタキャンされた挙げ句、振られた。
その日、待ち合わせ場所だった駅前で、私は下を向いていた。
怒りに震えていた。
悔しさと恥ずかしさを堪えていた。
悲しさを誤魔化すように、唇を引き結んでいた。
改札から人が溢れ、通行の邪魔になっていた私は人波に端へ追いやられる。
その時、肩を叩かれた。
今更迎えに来ても遅い。
別れるって言ったじゃない。
いつもの意地っ張りが、ひょっこり顔を出す。
涙に濡れたまま目を吊り上げ、私は顔を上げた。
「あ、やば……間違えた」
素っ頓狂な声を発して、男は目を丸くした。
ロングスカートを握りしめて男を睨む私。
首を傾けながら、私と携帯を見比べる失礼な男。
「っていうか、何で泣いてんの? え、俺? もしかして何かした? してないよな?」
数秒遅れてそう言った男は、無言で睨み続ける私に早々に痺れを切らした。
声を出したら、涙が今以上に溢れそうだった。
だから、どうしても声が出せなかった。
「とりあえず、こっち。近くに公園あるから」
ナルに手を引かれたのは、きっとこれが最初だった。
「少しは落ち着いた?」
鼻水を啜りながら頷く私に、ナルは浅く溜め息を吐いて、隣に腰を下ろした。
公園のベンチだった。
どこの公園にもありそうな、木でできた普通のベンチ。
ナルは少し眉を寄せて、意を決したように口を開いた。
「あの、泣いてるのって、俺のせい?」
「違う。まったく違う」
「だよな」
心底ほっとしたように、ナルは長く息を吐いた。
私がずっと鼻を啜っていることに気づくと、ポケットから紺色のハンカチを取り出す。
「これ使えよ。返さなくていいし、やる」
「どうも、ありがとう」
遠慮も躊躇いもなく受け取った私に、ナルは少し呆れていた。
当時の私は、今よりずっと意地っ張りで、世間知らずで、本当に我が儘だった。
「で、何で泣いてたんだよ」
「彼氏に振られたから。急に。しかもデートをドタキャン!」
「あ……やべ!」
私の言葉で何かを思い出したらしいナルは、携帯を取り出して開いた。
けれど、すぐに閉じてしまう。
今思えば、あの日のナルは誰かと約束していたのだろうか。
「……まぁ、いいか。じゃあ、あんた一日暇ってことか」
「まぁ……」
「気晴らしにどっか行くか?」
「行きません。ナンパはお断りさせていただいています」
思い出しても、子憎たらしい。
どうしてあんなにも自惚れが強く、変に警戒心の強い女だったのだろう。
田舎からひとりきり、誰も知らない場所へ出てきたからだろうか。
都会は危ない。
始終警戒していないと、危険な目に遭う。
そんなふうに思っていた。
見知った人間以外とは話さない。
出かけない。
そんな私を、数人の友人は「考えすぎだよ」と笑っていた。
ナルは、その日の夕方まで公園で私と話してくれた。
この時は「話してくれた」なんて考えていなかった。
けれど、どこにも行かないと言った私に付き合ってくれたのだろう。
ナルは夕方まで、ずっとそばにいてくれた。
「そういえば、名前は?」
好きなアーティストの話が思ったより盛り上がり、次から次へと話題が移った。
同じタイミングで一息ついた時、ナルはそう尋ねた。
私も似たようなことを思ったから、はっきり覚えている。
苦笑いをしながら、それでもやっぱり警戒しながら、私は名前だけを告げた。
「由紀。あなたは?」
何故か一瞬だけ戸惑って、ナルはまっすぐ私を見つめた。
「……鳴海。鳴る海で、ナルミ」
あまりにも簡単に思い出せる。
ナルと歩んだ日々の欠片。
ぽろぽろとこぼれ落ちる、大事な大事なナルの欠片。
あの日。
嫌な予感がして、胸騒ぎがして、私は家を飛び出した。
携帯を引っ掴んで。
絆創膏も貼らないまま。
ナルが死んでしまったことは、しっかり理解している。
ナルが私の前に現れてくれているのは、ただの妄想かもしれないということも。
だってナルは、私の目の前にいた。
家のすぐ近くにいた。
救急車がなかなか来てくれなかった理由も、私は知っている。
だからこそ、ナルの死を認めないわけにはいかなかった。
ナルが死んだ日、天候はひどく荒れていた。
激しい豪雨で、交通規制が掛かっていた。
道路は雨で滑りやすくなっていて、車を運転する人にとっては見通しも悪かったはずだ。
もしかしたら、運転していた人には何も見えていなかったのかもしれない。
それとも、ただ早く家に帰りたかっただけなのかもしれない。
豪雨の日にナルが家を出ていくことは、過去にも何度かあった。
私もナルも、きっと「いつも」と同じだと思っていた。
天気がひどくても、帰ってこられると思っていた。
私とナルが住むアパートの近くには、事故が起こりやすいことで有名な道があった。
だから、いつも気をつけていた。
あの日も、ナルはきっと気をつけただろう。
憶測になってしまうけれど、ナルは帰ろうとしたのだと思う。
私がいるアパートに、帰ろうとしていた。
行きは道路がよく見える。
けれど帰りは、標識のせいで少し見えにくい。
事故が多かったのは、アパートへ帰る時に通る側の道だった。
だから、ナルはたぶん、家に帰ろうとして事故に遭った。
どうして、よりによってその日だけ帰ろうとしたのか。
私と仲直りをしようとしたのかもしれない。
ナルは財布を忘れていたから。
財布を取りに帰るだけなんて、当てつけがましいことをナルはしない。
そういう性格だった。
財布がないと気づいたなら、素直に出かけるのを諦めて帰ってくるはずだった。
豪雨は、なかなか止まなかった。
アパートの近くで事故に遭ったナルを、最初に見つけたのは私だった。
轢き逃げ犯は、後できちんと捕まった。
けれど、そんなことはもうどうでもよかった。
ナルの動かない姿を、私は最初に見つけた。
それだけが重要だった。
それだけが事実だった。
救急車を呼んだのも私だ。
呼吸が上手くできなくて、途切れ途切れの声で電話を掛けた。
豪雨の中、返事をしてくれないナルの身体を、私は思いきり抱き締めた。
最後にナルが言った言葉なんて、分からない。
私が到着した時には、ナルはもう意識を失っていた。
どんなに大きな声で呼んでも、反応してくれなかった。
だから、ナルは死んだのだ。
私に会いに来てくれるナルは、本物のナルじゃない。
そう分かっていても、私は妄想のナルに縋りついた。
置いていかれた焦げ茶色の財布。
傷だらけのナルの携帯。
ナルのものはひとつの箱にまとめて、ベッドの下に置いている。
妄想でもいい。
夢でもいい。
私の頭が変になってしまっているのだとしても、それでもナルに会えるなら、いくら変になってもいい。
だから、お願い。
会いに来て。
約束の十九時ぴったり。
私は会社から走って、ようやく約束した公園に辿り着いた。
「ナル! いるの!?」
いい歳をして、子どもみたいだった。
ナルの前では、私はいつだって子どもだった。
夕暮れの公園。
ちょうど、この時間くらいまで、ナルは私に付き合ってくれた。
「ナル! 出てきて、お願いっ!」
必死に探した。
汗だくで、涙も流して。
「お願い、ナル。まだ、言ってないことがあるの!」
もう、これが最後の気がした。
どうしてかは分からない。
けれど、ナルに会える最後のチャンスになるような気がしていた。
一度だけ、ナルが本気で怒ったことがある。
ナルの言葉に肩が跳ねて、私は反射的に怖いと思ってしまった。
それからナルは、喧嘩をするたび家を出ていくようになった。
伝えたいことは山ほどある。
ナルが求めていたのに、滅多に言えなかった「好き」という気持ち。
素直になれない私の代わりに、母の電話に出て「元気です」と伝えてくれたことへの感謝。
私が怯えたあの日から、ナルは私を怒らなくなった。
あの時、ナルの言葉を受け止めず、ただ怖がってしまったことへの謝罪。
「もう怖くないから、怯えたりしないから、ナルの言葉を、本心をぶつけてほしい」
ずっと、そう言いたかった。
なのに、言い出せなかった。
伝えたい。
言えなかった言葉を、全部。
「ナル、ごめんっ、私……」
言いたいことが、いっぱいあるの。
「もう、いいよ」
続けようとした言葉を遮って、ナルは私の後ろから現れた。
夕日が背中に当たり、ナルの姿がオレンジ色に染まる。
「もう、いいから。由紀」
切なそうに歪む顔は、はっきりとは見えなかった。
ゆっくり近づいてくるナルを見て、私はようやく気がついた。
ナルじゃない。
彼は、私の恋人のナルではなかった。
「もういいよ。泣くなよ。そんな顔して、泣くな」
「なん、で……」
目を見開く私を見て、ナルではない、ナルによく似た彼は泣きそうな顔をした。
「やっと、気づいた」
「あの日も、こうやってベンチに二人で座ったんだよな」
彼は懐かしそうに呟き、私をベンチへ座らせた。
ひどく穏やかで、ナルによく似た声。
「由紀は鼻水啜りながら泣いて、俺はずっと隣にいて」
カッターシャツの袖を捲り、彼は疲れを取るように首を回した。
「あー……暑いなぁ。去年の春ってこんなに暑かったっけ」
ネクタイを緩めながら私を見る視線は、あまりにも真っ直ぐだった。
直視できない。
「初めて由紀に会った日、俺は鳴海の代わりに、他の子とデートすることになってたんだよ」
彼は、からりと笑って出会った日の話を始めた。
その言葉で、思い出す。
私が「デートをドタキャンされた」と言った時、彼は慌てて携帯を見ていた。
「鳴海は風邪引いちゃって。でもどうしても行きたいって言うから」
「あなたが、代わりに来た?」
「そう」
デートに代役を寄越すなんて、どうかと思う。
けれど、ナルならやりかねないとも思った。
キャンセルしたら相手が可哀想だとか、そんなことを考えそうだから。
「でも、結局行かなかった。俺は由紀を放っておけなくて、鳴海の約束の方をドタキャンしたから」
「ナルは、怒らなかった?」
「怒ったよ、そりゃ。だけど、風邪引いたあいつが悪い」
「それは……そうかもね」
「そうなんだよ」
強く肯定する彼から、自分はナルをよく知っているのだという感情が伝わってきた。
「俺は鳴海が好きだった。変な意味じゃねーよ。家族としてな」
「……うん、分かる」
「だから、鳴海に由紀のことを聞かれた時、隠そうとはしなかった」
寂しげに目を曇らせながら、それでも彼は私から目をそらさなかった。
ナルと出会ったと思っていたあの日。
私が出会っていたのは、ナルではなく彼だった。
彼がナルに私のことを話し、ナルが興味を持ったこと。
その後、ナルが私に会いに来たこと。
そうだ。
二度目の再会は、私の通う大学だった。
校門で彼を見つけて、私は「同じ大学だったの?」と尋ねた。
けれど、その時会いに来ていたのは彼ではない。
本物の鳴海だった。
私はその後、鳴海が専門学生であることを知った。
けれど、その頃には再会した場所の違和感なんて頭の隅へ消えていて、本人に尋ねることもしなかった。
思い返せば、何の理由もなく私の大学に来ていたのは、やっぱりおかしい。
彼の話は続いた。
静かな声で。
時折、懐かしそうに。
何度か私と会ううちに、鳴海は私に好意を抱いた。
そして、彼に謝ったらしい。
好きになってしまった、と。
彼は鳴海を許した。
私は、正真正銘、本物の鳴海と付き合い始めた。
「なら、最初に言った“間違えた”っていうのは……」
「鳴海がくれた相手の子の写真が、黒髪ロングだったから。由紀は俯いてたし、顔見えなかったし……」
拗ねたような顔がナルにそっくりで、思わず笑ってしまった。
「それで“間違えた”だったんだ」
ひとつひとつ紐解いていく私に、彼は少し渋い顔をした。
それでも全部、答えてくれた。
家族に紹介してくれないことを不満に思って、ナルと喧嘩をしたことがある。
あの時、ナルが理由を言わなかったのは、彼に会わせることになるからだった。
本当のことを話して、嫌われるのが怖かった。
そう聞かされて、ようやく分かった。
「会わせるのは嫌じゃない。由紀が悪いわけじゃない」
そう言ったナルの言葉は、本当だったのだ。
「ねぇ。どうして鳴海って名乗ったの?」
ずっと気になっていた。
最初に鳴海だと名乗ったのは彼だ。
あの時、自分の名前を言ってもよかったはずなのに。
「気づかない? 俺を見て」
苦笑いを浮かべて、彼は自分の髪に触れた。
ああ、そうだ。
髪の色も、服も、雰囲気も。
似ているけれど、鳴海とは全然違う。
鳴海は暗い茶髪だった。
彼は黒髪だ。
鳴海は明るい色が好きで、よく古着を着ていた。
彼は、全体的に暗い色の服ばかり着ている。
能天気で、お調子者で、明るい鳴海。
思慮深そうで、冷静で、落ち着いている彼。
「全然違うのにね……」
私は彼をナルだと、ずっと思い込んでいたのだろうか。
「由紀に会った日は、鳴海のふりをしてたから。だから鳴海だって名乗った」
「あなたの、本当の名前は?」
「桜海。桜の海で、桜海。鳴海の双子の兄だ」
出会ったあの日、本来聞くはずだった名前。
鳴海ではなく、桜海。
なんとも変で、不思議な話だった。
「病室に来てくれたのも、あなた?」
きっとそうなのだろう。
真実を受け入れるつもりで尋ねた。
けれど、桜海は呆然と目を見開いた。
「どうしたの?」
「……いや、まさかそう聞かれるとは思わなくて」
顔色を悪くした桜海は深く息を吸い、長い時間をかけて吐き出した。
「恨んだり、しないでほしい」
「……恨む? 私が、何を?」
「隠し通すつもりはなかったし、必ずバレることでもある。ただ、もし聞かれなかったら、俺は答えなかったかもしれない」
桜海はポケットからスマートフォンを取り出し、何度か指を動かした。
「俺が病室に行ったのは、由紀のお母さんから連絡が来たからだよ」
そう言って、着信履歴を見せてくれる。
けれど私は、母の電話番号を覚えていない。
そのことに気づいて、妙に笑いたくなった。
娘の一大事にあれほど必死になってくれた母の電話番号さえ、私は知らない。
「お母さんは、俺に鳴海のふりをしてほしいなんて言ってない」
桜海は、そこだけははっきりと言った。
「ただ、話をしてほしいって。鳴海の家族としてでも、双子の兄としてでもいいから、由紀に会って、少しだけ話をしてやってほしいって言われた」
「……じゃあ、どうして」
「由紀が、俺を見て鳴海だと思ったから」
桜海の声が、少し掠れた。
「最初に否定しなきゃいけなかった。俺は鳴海じゃないって、その場で言うべきだった。でも、由紀があんな顔で俺を見たから……言えなかった」
責める言葉は出てこなかった。
責められるほど、私は正しくなかった。
私は、違和感に気づいていた。
髪の色も。
声も。
匂いも。
ほんの少し違った。
それでも、ナルだと思いたかった。
ナルが会いに来てくれたのだと、信じたかった。
「ごめん。由紀を騙した」
「……私も、騙されたかったんだと思う」
そう言うと、桜海は苦しそうに顔を歪めた。
「それでも、ちゃんと言うべきだった」
「うん」
「俺は、鳴海じゃない」
「……うん」
やっと、その言葉が胸の奥まで落ちてきた。
ナルは、もういない。
私の前に現れたのは、奇跡でも幽霊でもない。
鳴海によく似た、鳴海ではない人だった。
「……私ね、素直になりたかったの」
母からの電話を無視し続ける私に痺れを切らしたナルが、勝手に電話に出たことがある。
「お母さん、由紀は元気です。心配掛けてごめんって言いたいけど、言えないみたいなんで、俺が代わりに言います。由紀の恋人の、鳴海です。お母さん、心配かけてごめんなさい」
一字一句覚えている。
あんなにぽかんとしたことは、後にも先にもない。
驚いて、むっとして、それからナルの言葉を反芻して、胸がひどく切なくなった。
ハンズフリーにしていた電話の向こうは、異様なくらい静まり返った。
しばらく無言が続いた後、母の啜り泣く声が聞こえた。
掠れた小さな声で「ありがとう」と言った母に、私は泣きそうになった。
母からも、ナルからも逃げるように、寝室へ向かった。
通話を終えて追いかけてきたナルは、私を抱き締めながら呟いた。
「たったひとりの家族だろ」
上京するって言った時、誰より母に応援してほしかった。
たったひとりの家族だからこそ、信じてるって言ってほしかった。
頑張ってこいって、背中を押してほしかった。
自分の未来を否定された気がした。
お前じゃ無理だと言われた気がした。
たったひとりで知らない街へ来て、使わずに貯めていたお金でアパートを借りた。
保証人さえ、親戚筋の人に頼んだ。
あの頃は、母に頼らないことだけで自分を保っていた。
そうやって掴んだ生活だから、自分の選択を悔やまないためにも、意地になって母を遠ざけた。
「あの子から電話が掛かってきたら、無理に話さなくて大丈夫ですって、お母さんから言われたんだ」
桜海がぽつりと言った。
「うちの家族にも頭を下げてた。こんなことを頼める立場ではありませんが、って」
桜海が語る母は、今の弱々しい母とは似ても似つかない。
けれど上京する前の母は、たしかにそんなふうに強い姿勢で話す人だった。
「最後に言葉を交わせなかったみたいだから、一度だけ会ってやってほしい。きっとあの子は強いから、気持ちの整理だけつけば立ち直れると思うんです──って。それが、由紀のお母さんの言葉」
余計なお節介だ。
本当に、余計な。
だけど、あのままだったら。
桜海が現れることなく、ただ日々が過ぎていくだけだったら。
私は、立ち直れなかったかもしれない。
「うちの家族は、由紀のことを恨んでなんかない」
桜海は、少しだけ言葉を選ぶように目を伏せた。
「電話、切られただろ」
「……うん」
「あれは、由紀を責めてたからじゃない。母さんが、耐えられなかったんだと思う」
責められるより、ずっと苦しい言葉だった。
「由紀に何を言えばいいのか分からなかったんだよ。鳴海の恋人だった由紀に、うちの家族は申し訳なかった。葬式のことも、連絡しなかったことも、事故のことも。全部、どう向き合えばいいか分からなかったんだと思う」
「申し訳ないって、どうして」
「由紀も、最後に鳴海を見つけただろ。あんな形で、ひとりで抱えさせた。鳴海の家族なのに、由紀に何もしてやれなかった。だから、電話口で声を聞いた瞬間、謝ることしかできなくなったんだと思う」
あの時の「ごめんなさい」は、拒絶ではなかったのかもしれない。
けれど、私には拒絶に聞こえた。
「着信拒否も、由紀が嫌いだからじゃない。たぶん、これ以上お互いを壊さないためだった。勝手な言い方かもしれないけど」
私は何も言えなかった。
恨まれていた方が、まだ楽だったかもしれない。
責められた方が、泣き崩れる理由にできたかもしれない。
けれど、申し訳なかったから切られたのだとしたら。
誰も、どこにも、怒りの置き場所がない。
「鳴海が馬鹿なんだ。あんな豪雨の日に家を出るなんて」
「止めなかった私も、悪い」
「そうだとしても、由紀を残していなくなった鳴海を、俺は叱りたいけどね」
不貞腐れた顔で、桜海は言った。
似ている。
けれど、全然違う。
「大馬鹿野郎だ。鳴海は」
「……そう、だね」
「なぁ、由紀」
「なあに」
「もう一つだけ、大馬鹿野郎の話をしてもいいかな」
もう一つだけ。
桜海はそう言った。
けれどきっと、本当は最後の一つと言いたいのだ。
「……大馬鹿野郎は、なにをしたの?」
「由紀のお母さんと、由紀に秘密で仲良くなったんだ。よく似た男も一緒に」
驚かなかった。
そんな気がしていたからだ。
母が私のもとに駆けつけたのは、茉莉が連絡したからだと思っていた。
それも間違いではないのかもしれない。
けれど、母と鳴海が知り合いで、母は桜海の存在も知っていた。
そう考える方が、なぜかしっくりきた。
「会ったりはしてないよ。電話とか、メールとか、それだけだった。俺は皮肉にもお母さんに会えたけど……鳴海は、会えてないままだ」
逆だったら、良かったのにな。
そう呟いた桜海を、私は睨んだ。
そんなこと、思わないでほしかった。
でも、叱る言葉は出てこなかった。
その気持ちが分かるからだ。
私だって、事故に遭ったのが私だったらと何度も思った。
責められない。
同じ気持ちを抱いたから、責められなかった。
「由紀に内緒で、あいつ色々やってたんだ。前はたまに由紀の話を聞いてたけど、最近はあんまり聞かせてくれなくなった。その代わり、会ったら由紀のお母さんの話をしてくれたりしてたけど」
桜海は、少しだけ笑った。
「妬いてたんだよ、鳴海のやつ」
「私の話の代わりに母の話をするっていうのも、何だか変な気分なんだけどなぁ」
「確かにな。俺は、どんな話でも聞けて嬉しかったけど」
桜海の話を聞きながら、体の中に溜まっていた重たいものが、少しずつ溶けていくような気がした。
綺麗さっぱり切り替えられるわけじゃない。
想いは胸にのしかかっている。
ずっと沈んだままだ。
それでも、すべてのことには理由があった。
奇跡や幻想なんて、この世には存在していなかった。
ここ数日、ふわふわしていた視界が、少しずつ開けていくような気がした。
私がナルだと思っていた彼は、桜海という、ナルの双子の兄だった。
桜海が私に会いに来たのは、母がそう頼んだからだった。
ナルは現れてくれなかった。
この世のどこにも、もういない。
自覚して、きちんと刻んでしまえば、それは思いのほか現実として胸に入ってきた。
桜海の話を聞いて、ナルがもっと恋しくなった。
もっと会いたくなった。
けれど同時に、会えないのだと理解できた。
言い表せないほど、リアルな感覚だった。
「また会いに来るって言ったのは、俺の独断で、俺の我が儘」
桜海は申し訳なさそうに白状した。
「お母さんは一度だけって言ったのに、どうしても放っておけなくて……会いに来るって言ったんだ」
「桜海の我が儘?」
「鳴海に由紀を譲ったこと、ほんとはずっと後悔してた」
つまり、桜海は私のことを忘れていたわけではなかった。
鳴海と付き合っていると知りながら、ずっとそう思ってくれていた。
「鳴海が由紀を本気で好きだって知ってたから、何も言えなかった。俺の知らない由紀を知っていく鳴海が羨ましかった。でも、鳴海も大事だから。俺は一度、由紀を諦めた人間だけど」
なぁ、由紀。
一目惚れって、信じる方?
そう問いかけた桜海に、私はあの時と同じ口調で答えた。
「信じません。ナンパはお断りさせていただいています」
いつか。
ナルのことを、今より忘れて。
いつか。
どこかの誰かを、違う人を想って。
私は生きていくのだろう。
けれど、今は。
鳴海をまだ好きでいたい。
母との溝を、ゆっくり埋めたい。
現実と向き合って、前に進む努力をしたい。
「確かにナルは大馬鹿野郎だよ。だけど、私も大馬鹿だ」
「そんな馬鹿は馬鹿なりに、色々なことを考えてたみたいだけどな」
「どういうこと?」
「さぁ」
もし俺になんかあったら、桜海、おまえ、由紀に会いに行けよな。
ナルが生前そう言ったことを、私は数年後、桜海から聞くことになる。
たくさんの苦悩を経て。
たくさんの喜びを経て。
ナルがいなくなったこの世界で。
私は今日もナルなしで、それでも“ちゃんと”生きていかなければならない。
「連絡したのは……桜海しかいないよね」
公園の入口に、母が立っていた。
息を乱して、小さな身体を揺らして、泣きそうな顔をしている。
「本当のことを話します、ってここに来る前に連絡したお節介な大馬鹿がここにひとり」
桜海があまりにも軽い口調で言うから、笑ってしまいそうになった。
いっそ笑えたらよかったのに、なかなかうまくはいかない。
「ありがとうって、言うべきだよね」
母は心配しているのだろう。
きっと、ずっと心配してきたのだろう。
私の知らないところで。
私の知らない間に。
ずっと、ずっと。
素直になるのは、本当に難しい。
こんな時でも、何も言わずに通り過ぎてしまいそうになる。
「由紀は意地っ張りだけど、態度は充分素直だよ」
「ばか」
ああ、もう。
また言ってしまった。
可愛げのない、いつもの一言。
素直に言えばいいのに、どうしても言葉が尖ってしまう。
「お母さんも、よく分かってると思うけどな。俺は」
そんな顔してる由紀を見て、分からないはずないと思うし。
桜海はそう言った。
ぼろぼろと落ちる涙を乱暴に拭って、私はどうしたいのかを考える。
小さい頃みたいに。
おかあさん、と抱きついて。
思いきり泣き叫びたい。
けれど、できるわけがない。
そんなこと、できない。
だから私は、ゆっくり顔を上げて、母の方へ歩き出した。
近づくにつれて、母の顔が歪んでいく。
私の顔もきっと、ひどいものだ。
ねぇ、ナル。
見てて。
素直には程遠い。
まだまだ本当の意味で素直にはなれない。
それでも、ナルがどうにかしようとしてくれたことを、絶対に無駄にはしない。
勇気を出して、ほんの少しだけ。
私の気持ちを、お母さんに伝えてみる。
「おかあさん」
母の肩が震えた。
「大切な人が、大好きな人が、私のそばからいなくなったの」
声が震える。
涙が止まらない。
「もう二度と帰ってこない。もうずっと会えない」
母の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
それでも私は、言葉を続けた。
「すごく、さみしいよ」
その瞬間、母が私を抱き締めた。
細くて、弱々しくて、それでも昔と同じ温もりだった。
私はようやく、声をあげて泣いた。
母の腕の中で。
ナルのいない春の夕暮れに。
ちゃんと、泣いた。




