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現代恋愛

桜の海

作者: 文月
掲載日:2013/08/18

「あ、やば……間違えた」


 私とナルの関係は、そんな失礼きわまりない一言から始まった。


 人違い。

 それが、私とナルの出会いだった。




 ナルはいつも強引で、私の都合なんてちっとも考えてくれない人だった。


 呼びかけても自分はあまり返事をしないくせに、私が無視をするとすぐ拗ねる。わかりやすく不機嫌になって、そっぽを向いて、それでも私が追いかけないと、財布だけを持って部屋を出ていく。


 そういう人だった。


 それでも私は、そんなナルの手を取った。


 二人で歩む未来を、当たり前みたいに信じていた。


 まだ見ぬ未来は明るいものだと疑わなかったし、私の隣にはナルがずっといるのだと思っていた。


 二人で歩む未来は、どんなものだったのだろう。


 二人で分かち合うはずだった悲しみや喜びは、どれほどあったのだろう。


 今となっては、想像することすら難しい。


 考えれば考えるほど、涸れたはずの涙がまた流れ出す。


 頭の中が、ナルの笑顔で埋め尽くされる。


 その日も、いつもと同じだった。


 ナルはむくれて、子どもみたいに不貞腐れて、部屋を出ていった。


 私は追いかけなかった。


 いつものことだと思ったからだ。


 どうせ帰ってくる。


 帰ってきたら、私もわかりやすく拗ねた顔をして、膝を抱えて俯いている。


 ナルは呆れたように笑って、何か適当なものを買ってきて、ぶっきらぼうに私の前へ置く。


 それで、なんとなく仲直りする。


 私たちはずっと、そうやってきた。


 だから、その日もそうなるはずだった。


 ナルが帰ってきた時のことを考えて、私は晩ごはんを作ろうとしていた。


 けれど、ふいに首筋を冷たいものが走った。


 ぞくり、と背中が震えた。


 肩が揺れた瞬間、包丁が指先をかすめた。


 滲み出た血が、切りかけの野菜に赤い色を移す。


 ぼうっとしていた自分に気づいて、私は慌てて絆創膏を取りに行こうとした。


 今思えば、あれは虫の知らせだったのかもしれない。


 その時、無性に不安になった私は、絆創膏を貼ることも忘れて携帯電話を引っ掴んだ。


 そして、気づいた。


 その日、ナルは珍しく財布を置いて出ていっていた。









「由紀、うちに帰っておいで」


 母の声は、記憶よりもずっと細くなっていた。


 ああ、皺が増えた。


 いつの間に、母はこんなに年老いたのだろう。


 父という存在は、物心がついた頃にはもう家にいなかった。


 いくつかの跡を残して、“お父さん”は消えた。


 大人になってから、ようやく理解した。


 夫婦には、離婚という選択肢があるのだと。


 母は父と離婚して、父は家を出ていった。


 私が大人になっても帰ってこないということは、復縁の可能性はなくて、もしかしたら父はもうこの世にいないのかもしれない。


 母は、女手ひとつで私を育ててくれた人だ。


 けれど、過保護と言えるほど私を心配して、上京することを最後まで許してくれなかった人でもある。


 私は反対を押し切って家を出た。


 あの日、大喧嘩をしてから、母とは電話でたった一度しか話していない。


 たった一度。


 その時も、ナルがそばにいた。


 母からの電話を無視し続ける私を見かねて、ナルが勝手に電話に出たのだ。


 電話口から漏れ聞こえる母の声を、私は懐かしいと思いながら聞いていた。


 それなのに、自分から話すことはできなかった。


 ナルがいなくなったことを、どうして母が知っているのだろう。


 ぼんやりと考えて、ようやく思い出す。


 私が茉莉に連絡したからだ。


 茉莉は、今の会社に入ってから再会した中学時代の同級生だった。きっと、茉莉が気を利かせて母に連絡してくれたのだろう。


「大丈夫よ、きっとまた……」


「また、があるの? 次があるの?」


「そういう、わけじゃ……」


 違う。


 母を責めたいわけじゃない。


 よれよれの服を着て、髪もぼさぼさで、くたびれた旅行鞄を抱えて、私のもとへ駆けつけてくれた母を責めたいわけではない。


 それなのに、どうしても言葉が尖ってしまう。


 ナルはいない。


 もう、私のそばにはいない。


 私を置いてきぼりにして、ナルはこの世から消えた。


 眠たくなるような暖かい季節。


 心地いい風に吹かれる季節。


 桜が咲いて、花見なんかして、楽しくなるはずだった春。


 その春に、ナルはいなくなった。







「何でだよ。プリンの方が美味いじゃん」


「風邪引いたら普通はゼリーでしょ」


「誰が決めたんだよ、そんなの」


 ありがとうと言えばよかった。


 ゼリーを頼んだのにプリンを買ってきたナルを責めたりせず、ちゃんとお礼を言えばよかった。


 小さなことだ。


 本当に、小さなこと。


 けれど私は、ナルに対して素直にお礼を言ったことが、どれだけあっただろう。


 ナルに心から感謝したことが、どれだけあっただろう。


 後悔は、いくつも出てくる。


 そのたびに胸の内側を、じくじくと抉られた。


 ナルとの喧嘩のほとんどは、簡単に仲直りできる小さな喧嘩ばかりだった。


 卵焼きの味付け。


 新しい家具の色。


 風邪を引いた時に買ってくるもの。


 小さな喧嘩を繰り返して、私とナルはお互いを知っていった。


 それは、たった二週間で整理できるほど軽い記憶ではなかった。


 思い出が溢れるたびに、私は声をあげて泣いた。


 朝方だろうと、夕方だろうと、構わず泣き喚いた。


 そうすることで、私の中のナルが消えていくような気がした。


 忘れたい。


 忘れたくない。


 どちらの感情もあった。


 けれど私は、ナルを胸に刻みつけておくよりも、いっそ忘れてしまうことを選ぼうとしていた。


 喚いて、叫んで、声を涸らして。


 ぼんやりと現実に戻った時、私はナルと一緒に暮らしたアパートにはいなかった。






 目を開けて、最初に見たのは母だった。


 母が私を見下ろしている。


 私は母を見上げている。


 懐かしいな、と思った。


 小さい頃に風邪を引いた時も、母はこんなふうに私を見下ろしていた。


「由紀? 由紀っ? 気がついたのね……!」


 ずっと握っていたのだろうか。


 ずっとそばにいたのだろうか。


 一目見ただけでわかるほど、母は弱々しくなっていた。


 痩せこけた顔は涙で濡れている。


 握り返したら折れてしまいそうな、か細い手。


 けれど、その温もりは昔と同じだった。


「ここ、病院?」


 掠れた声で尋ねると、母ははっとして頷いた。


 私の腕に刺さった点滴を一瞥する。


「なにも、食べてくれなかったから……」


 その寂しげな目に、何と言えばいいのかわからなかった。


 心配かけてごめん。


 そんなふうに素直に謝れる可愛げは、私の中には残っていなかった。


 母に対して素直になることは、きっとこれからも難しい。


 上京をめぐって生まれた深い溝は、こんな状況になっても簡単には埋まりそうになかった。


 消毒液の匂いがする病室。


 保健室とよく似た匂い。


 簡素で、無駄なものが何もない部屋。


 ナルのものはない。


 ナルの匂いもしない。


 そう自覚した途端、言いようのない不安が私を襲った。


 足元から。


 背中から。


 頭のてっぺんから。


 漠然とした恐ろしさが襲いかかってきて、私の身体も、感情も、硬く強張らせていく。


「ナルに、会いたい」


 寝起きで、声がうまく出なかった。


 それでも言わずにはいられなかった。


「会いたいの」


 ぽろりとこぼれたその言葉に、母の顔がさっと青ざめた気がした。


「もう少し眠ったら、きっと気持ちも落ち着くわよ」


 それだけ言い残して、母はひどく焦ったように病室を出ていった。


 まるで、何かから逃げるみたいに。


 小さな背中を見送って、一拍遅れて、病室が無人になったことに気づく。


 目が覚めたのに、医者は呼ばなくていいのか。


 ナースコールは押さなくていいのか。


 そんな現実的なことが一瞬だけ頭をよぎった。


 けれど、熱くなった思考回路は、そんなことをすぐに忘れさせた。


 ねえ、ナル。


 手を握って。


 ねえ、ナル。


 私の名前を呼んで。


 ひたすらナルの名前を呼び続けて、私はまた眠りの中へ落ちた。






 微睡みから目覚めた私を見下ろしていたのは、ナルだった。


 ……そう、思った。


 瞳を開いた私に気づき、ナルはくしゃりと顔を歪める。


 その瞬間、胸の奥に小さな違和感が引っかかった。


 髪の色が、記憶の中のナルより少し暗く見えた。


 声も、少し低い気がした。


 いつもそばにあった匂いも、しなかった。


 それでも私は、その違和感を見なかったことにした。


 だって、ナルがそこにいたから。


 私を見て、私の名前を呼ぼうとしていたから。


 それだけで、もう充分だった。


「馬っ鹿じゃねーの! 何も食わないとか、おまえ、死ぬ気かよ」


 こんなふうに目の前で怒ったナルを見るのは、久しぶりだった。


 眉間に思いきり皺を寄せて、ナルは私をじっと見つめている。


「何でだよ……」


 絞り出したような、悲しげな声。


 それすらも嬉しくて、私は思わず頬を緩めてしまう。


「ナル、会いにきてくれたの」


 会いに来てくれたナルが、夢でも幽霊でも構わなかった。


 ただ、ナルがそこにいて、私を見てくれている。


 それだけで充分だった。


「飯食え。仕事行け。ちゃんとしろ」


「……なんか、偉そう」


 ぶっきらぼうに注意するナルは、いつもより偉そうだった。


 でも、ちゃんとナルらしかった。


「由紀。ちゃんと、しろよ」


「ナルが戻ってきてくれるなら、ちゃんとするよ」


 意地悪を言った。


 もう会えないと理解しているからこそ、ナルを困らせたかった。


 もっと話してほしかった。


 もっと、ここにいてほしかった。


「……俺、死んでるんだぞ」


「知ってる」


「どうやって戻ればいいんだよ」


「幽霊でも、夢でもいいよ。会いに来てくれるなら」


 無茶なことを言っている自覚はあった。


 叶うはずがない。


 それでも、言わずにはいられなかった。


「……分かった」


 けれどナルは、頷いた。


 私の我が儘を、了承した。


 夢だとわかっているはずなのに。








 次に目が覚めた時、私は妙にすっきりしていた。


 母に向かって笑いかける余裕さえあった。


 そんな私を、母はとても悲しそうに見つめていた。


 大丈夫。


 変になったわけじゃない。


 ナルが会いに来てくれたから。


 夢でも、会いに来てくれたから。


 だから、ほんの少しだけ気持ちに余裕ができた。


「大丈夫」


 そう言った私に、母はぼろぼろと涙を流した。


 私がぎょっとして声をかける前に、母は逃げるように病室を出ていった。


 どうしてなのか、私にはわからなかった。


 母は、私が変になってしまったと思っているのだろうか。


 違うと言っても、きっとまともには受け取らないだろう。


 だったら、それでいい。


 もともと、仲がいいとは言えない関係なのだから。






 翌日、診察を終えて病室へ戻ると、見覚えのある後ろ姿が視界に映り込んだ。


 まだ少しふらついていた身体から、すべての力が抜けた。


 私は磨かれた床にへたりこんだまま、動けなくなった。


 嘘。


 嘘だ。


 ありえない。


 心の中で、誰かが叫んでいる。


 こんなのは嘘だって。


「な、る……?」


 背中がぞわりと冷えた。


 鳥肌が立っていくのがわかった。


 全身に走る寒気と恐怖は、誤魔化しようがなかった。


 それなのに、次の瞬間に込み上げてきた感情は、まぎれもなく歓喜だった。


「戻って来いって、言っただろ?」


 呆れた顔で、溜め息混じりに、ナルは私へ手を伸ばす。


 震える私の指先が、その手にそっと触れた。


 温かい。


 まぎれもなく、人間の体温だった。


 ナルは私の手を掴み、ゆっくりと引いて床から立たせてくれた。


「しばらくは流動食じゃねーの、由紀」


「……うん」


「ちゃんと飯食って、由紀が元気になったら、また会いに来る」


 私がベッドまで辿り着くと、ナルは元気づけるみたいに頭を数回撫でた。


「もう、帰るの?」


 一体、どこに帰るのだろう。


 どこから来たのだろう。


 透けているわけでもないナルの身体は、どこからどう見ても生身の人間だった。


「また来るって言ってんだろ? そんなに寂しいかよ」


 寂しいよ。


 そう言いたかった。


 素直になれなかったと後悔しているくせに、また素直になれない自分が馬鹿みたいだった。


 寂しいから消えないで。


 行かないで。


 そう言いたかった。


 けれど、勇気が出なかった。


「由紀が元気になって、仕事も行くようになったら、また会いに来てやるから」


 上から目線の、いつものナル。


 可愛げのないその言葉に、懐かしさと切なさで胸が締め付けられる。


「……なにそれ」


 偉そうな態度に、少しだけむっとする。


 以前と、同じように。


「じゃあな、由紀」


 行かないで。


 思わず出そうになった言葉を、寸前で飲み込んだ。


 意地だったのかもしれない。


 弱さを見せることが下手な私の、余計で邪魔な意地。


 けれど、伸びた手は何より素直だった。


 私はナルの服の裾を、ぎゅっと掴んでいた。


「……由紀。俺、あんまり時間がねぇんだ」


 困ったような顔をされて、私は慌てて手を離した。


 離したら、ナルが行ってしまう。


 そんなことはわかっていた。


 それでも、引き留める言葉は出てこなかった。


「必ず、会いに来てよ。約束して。お願い、ナル」


「……おう。約束な」


 力強い返事だった。


 嘘は混ざっていないように思えた。


 そう思いたかっただけなのかもしれない。


 それでも、この約束だけは破られない気がした。


 ナルは突然消えるわけでもなく、普通にドアを開けて出ていった。


 人間らしい幽霊だと、小さく笑ってしまうくらい。


 けれど、その後ろ姿が見えなくなった途端、私は自分がひとりなのだと思い知らされた。


 やっぱり追いかけよう。


 そう思って立ち上がると、足にひやりとした床の感触が伝わる。


 その冷たさが、現実を思い知らせてくる。


 ナル、ごめん。


 やっぱり待てない。


 そばにいてほしい。


 ふらつく足取りでベッドを下り、ドアまで辿り着く。


 けれど、開けた先の廊下に、ナルの姿はもうなかった。







味気ない病院食も、できるだけ完食するようにした。


 積極的に散歩もした。


 軽い運動もした。


 間食は、栄養補助食品と書かれたものばかりにした。


 単純だと自分でも思う。


 それでも、もう一度ナルに会うためには、言われた通りにするしかなかった。


 病院の売店でゼリーに手を伸ばしかけて、私はプリンを手に取った。


 そんな私を見たら、ナルはきっと笑うだろう。


「ほらな。そっちの方が美味かっただろ?」


 そんなふうに言うだろう。


 本当は違う。


 ナルが好きだから選んだのに。


 変なところで鈍いナルは、きっと私がプリンを選んだ本当の理由になんて気づかない。


 プリンが入った袋を揺らして病室へ戻る途中、ちょうど私に会いに来たらしい母と合流した。


 母はゆっくり歩いていた。


 か細い手足。


 心配そうに私を見上げる目。


 その視線が、妙に居心地悪かった。


「先生が、明後日には退院できるって」


「そう……良かったわ。足は疲れていない?」


「うん。大丈夫」


 母の付き添いを必要とする年齢ではない。


 自分のことは自分でできる。


 そう思っている。


 できていなかったから、入院したのだけれど。


 ナルが死んでから、今日でちょうど二週間だった。


 葬式にも行っていない。


 ナルの家族にも挨拶できていない。


「退院したら、ナルのご両親に会いに行ってくる」


 報告する必要なんてなかった。


 それでも、間を持たせるために何かを口にしたかったのだと思う。


「行かなくていいわ」


 母から返ってきたのは、予想外の言葉だった。


「な、んで……?」


 唖然として問い返すと、母ははっと表情を変えた。


 けれど理由は言わない。


 何でもないと苦笑いを浮かべ、早足で病室へ向かってしまった。


 それから何度か聞いてみても、母は頑なに答えなかった。


 ただ、行かなくていい、とだけ繰り返す。


 不可解に思うのは当然だった。


 だから私は、母の言うことを聞かなかった。


 退院してすぐ、ナルの両親へ電話を掛けた。


 母のいない、昼間に。


 ナルの携帯から番号を探し、自分の携帯で掛ける。


 緊張のあまり床に正座して、コールが途切れた瞬間、ごくりと唾を飲み込んだ。


『もしもし』


 聞こえた声に、心臓が跳ねた。


「あ、あのっ、初めまして。私、ナル……鳴海さんと、お付き合いをさせていただいておりました──」


『……ごめんなさい』


 ぷつりと音が途切れた。


 わずかに聞こえていた雑音も消えて、通話が終了したことを知らせる音だけが無情に響く。


 故意に切られた。


 もしかして、私だから。


 ナルの恋人だった私だから。


 そう気づいたのは、二回目の挑戦を経てからだった。


 最初は、ただの間違いかもしれないと思った。


 勧誘か何かと勘違いされたのかもしれない。


 そんな微かな希望を抱いて、もう一度電話を掛けた。


 けれど聞こえてきたのは、機械的な着信拒否のメッセージだった。


 住所は分からない。


 けれど、ナルの免許証を見れば本籍地は分かるかもしれない。


 会いに行くことを、一瞬だけ考えた。


 けれど、すぐにその考えを捨てた。


 話したくない。


 会いたくない。


 だから、私に知らせなかった。


 ナルの葬式の連絡は、私に届かなかった。


 それはつまり、そういうことなのだろう。


 母は知っていたのだろうか。


 それとも、察していたのだろうか。


 安易に連絡しようとした私が馬鹿だった。


 あの日、ナルは間違いなく私と喧嘩をして部屋を出た。


 喧嘩なんかしていなければ、ナルがいなくなることもなかった。


 すべてが自分のせいだと悲観しているわけじゃない。


 私がいなかったら、なんて考え続けても仕方がない。


 ただ、喧嘩をしなければ、ナルはあの時間に家を出ていかなかった。


 それだけは真実だ。


 私は、それを認めなければならない。


 私にも責任はあった。


 原因の一端もあった。


 いつものことだと思ってナルを引き留めなかったのは、間違いなく私の落ち度だった。


 言い合いをしたくないからと家を出ていったのは、間違いなくナルの落ち度だった。


「ナルも私も、子どもだった……どうしようもないくらい」


 落ち込んでも仕方がない。


 私が俯いていても、ナルは戻ってこない。


 だったら、ちゃんとしなきゃ。


 ナルが会いに来てくれると言った、あの約束を信じなきゃ。


 そうやって自分を奮い立たせないと、駄目になってしまいそうだった。


 気を抜けば、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。


 私は、ナルがいなくなって悲しむ自分に蓋をした。


 見ないふり。


 気づかないふり。


 涙を流している自分を、なかったことにしようとした。







「由紀ー! こっち!」


 晴天の空の下、茉莉が左手を大きく振った。


 ランチに誘われたのは、本当に久しぶりだった。


 彼女なりに、私のことを心配してくれていたのだろう。


「何にする? 私は本日のおすすめパスタにしたけど」


「じゃあ、私もそれにする」


「オッケー。すみませーん」


 代わりに注文してくれる茉莉に「ありがと」と告げながら、私は着ていたカーディガンを脱いだ。


 日差しが強いからと着てきたけれど、この気温では暑い。


 椅子の背もたれにカーディガンを掛ける。


 前を向くと、自然と茉莉と向かい合う形になった。


 バレッタで髪をまとめた茉莉は涼しげで、少し羨ましい。


 肩まで伸びた私の髪は、結ぶには少し短かった。


 注文したパスタが来るまで、なぜか茉莉は喋ろうとしなかった。


 本日のおすすめであるアラビアータが届いて、フォークを握ってから、ようやく私を見た。


「元気になって、本当に良かった」


 独り言みたいな口調だった。


 何となく気まずい。


 けれど、心配してくれていたことは充分に伝わってきた。


「うん。ごめん、心配掛けて」


「どんな言葉を掛けたらいいか、分からなくて連絡できなかった。言い訳になっちゃうけど、話聞いてあげられなくてごめん」


 ナルが病院に運ばれて、呆然としていた私に、ちょうど茉莉から電話が掛かってきた。


 あの日、涙声で私が言えたのは「ナルが死んじゃった」の一言だけだった。


 茉莉は必死に声を掛けてくれていた。


 けれど私は、うずくまって震えることしかできなかった。


 一段落しても、茉莉に電話を掛け直す気力は残っていなかった。


 茉莉も、どうしたらいいか分からなかったのだろう。


 だから連絡できなかった。


 現に、私が出勤して二日目の今日、こうして声を掛けてくれたのだから。


 違う部署でも会社は同じだ。


 入院生活で有給をすべて使い切った私は、ようやく会社に戻った。


 急に取った休みで、上司にも同僚にも迷惑を掛けた。


 けれど、電話で事情を聞いた上司は納得してくれて、出勤した私を温かく迎えてくれた。


 どうしてあの上司が慕われているのか、今まではよく分からなかった。


 今回のことで、少し分かった気がする。


 ここぞという時の思い切りの良さと気遣い。


 それが、古参の社員から慕われている理由なのだろう。


「由紀がこんな時に言うのはどうかって、自分でも思うけど」


 茉莉は、フォークにパスタを巻きつけながら俯いた。


「私ね、会社辞めるの」


「もしかして、寿退社?」


 以前から、近いうちにそうなりそうだとは聞いていた。


 茉莉が本格的に会社を辞めると決めたのなら、理由はそれだろう。


 本当は嬉しいはずなのに、茉莉はちっとも嬉しそうな顔をしていなかった。


 きっと、私を気遣っている。


「おめでとう。茉莉、素直に喜んで。私なら大丈夫だから。いつもみたいに笑ってよ」


 いつも明るい茉莉が、こんなに悲しそうに結婚報告をするのは、私のせいなんだろう。


 喜ばしいことなのに。


 祝ってあげなくちゃいけないのに。


 ぎこちない微笑みしか作れない私は、最低だ。




 いつか、ナルと話したことがある。


 結婚したら、子どもは何人ほしいか。


 そんな、まだ遠い未来の話だった。


「賑やかな方がいいよなー。で、お揃いのTシャツとか着せんの」


「お揃いは絶対恥ずかしがるって。今の子どもはお洒落に敏感なんだから」


「結婚かぁ……してぇなぁ」


 ごろんと横になったナルは、横目で私を見た。


「なに?」


「由紀とするんだろうな、俺」


「……結婚?」


「そう。すっげーそんな気がする」


「どんな気なのよ」


 嬉しかった。


 けれど恥ずかしくて、私は照れ隠しにそっぽを向いた。


 あの時、ナルはどんな気持ちで私を見ていたのだろう。


「まぁ、そんな未来もいつかはあるんだろうし。……しっかりしろ、俺!」


 いきなり自分の頬を叩いて、ナルはにっと笑った。


 しっかりしろ、俺。


 ナルが自分を叱咤するために言ったその言葉に、私は密かに期待していた。


 ナルの仕事が、あまり上手くいっていない時だった。


 上手くいっていないからこそ、そんな先の見えない未来を想像してみたのかもしれない。


 寄り添って話を聞くことも、上手に慰めることも、私はできなかった。


 だから、いつもと同じように「ばか」と笑い返すことしかできなかった。


 結婚式には、行かないことにした。


 茉莉は分かってくれた。


 行けない分、お祝いは茉莉が喜んでくれるものを選んで贈ろうと思う。


 値段なんて気にしない。


 そんなに高いものは選べないけれど、茉莉とその旦那さんの幸せを祝うために使えるなら、貯めていた結婚資金も報われる。





 背筋を伸ばして交差点を歩く。


 人波に紛れて、誰かと同じ方向へ進む。


 それだけで、ほんの少し前に進めたような気がした。


 ナルはいつ、来てくれるんだろう。


 そんなことを考えていたからだ。


 次の横断歩道の信号が赤だということに、私はまったく気づかなかった。


 ぼんやりと、ナルのことを思い出す。


 笑ったナル。


 怒ったナル。


 悲しそうな顔をしたナル。


「あ……ッ、ぶねぇッ!」


 危ない。


 そう聞こえた時、私は地面に尻餅をついていた。


 自分の腹部にしっかり回った腕を辿って、後ろを向く。


「ナル……?」


 そこにいたのは、まぎれもなく会いたかったナルだった。


「何やってんだよ! 馬鹿!」


「ごめん……」


 ナルに手を引かれて歩く。


 前は当たり前にできていたことが、今はこんなにも愛おしい。


「もしかして、死ぬ気だったのか」


「違う! ぼんやり、してて」


「ぼんやりすんな!」


「……はい」


 叱られてばかりだ。


 ナルは死んでしまってから、私を叱ってばかりいる。


 やっと会えたのに、ドラマみたいな感動の再会にはならない。


「昼休み、いつまで?」


 問いかけられて、顔を上げる。


 本当は、すぐにでも会社へ戻らなければならなかった。


「もう、少し」


 嘘を吐くのは下手だと、友達にもよく言われた。


 それでも今だけは、この嘘が通じてほしかった。


「今夜十九時」


「え?」


「最初に会った時、二人で行った公園で会おう」


 じゃあな、と言い残して。


 くしゃりと私の前髪を撫でて。


 ナルは背中を向け、早足で去っていった。


 みるみる小さくなっていく背中を見送りながら、私は拳を握りしめた。


 また、置いていかれてしまった。






「十九時に公園、か」


 ナルが最初に会った日のことを覚えているのが、少しだけおかしかった。


 二十一歳の春。


 まだ私が大学生だった頃のことだ。


 半年間付き合った彼氏にデートをドタキャンされた挙げ句、振られた。


 その日、待ち合わせ場所だった駅前で、私は下を向いていた。


 怒りに震えていた。


 悔しさと恥ずかしさを堪えていた。


 悲しさを誤魔化すように、唇を引き結んでいた。


 改札から人が溢れ、通行の邪魔になっていた私は人波に端へ追いやられる。


 その時、肩を叩かれた。


 今更迎えに来ても遅い。


 別れるって言ったじゃない。


 いつもの意地っ張りが、ひょっこり顔を出す。


 涙に濡れたまま目を吊り上げ、私は顔を上げた。


「あ、やば……間違えた」


 素っ頓狂な声を発して、男は目を丸くした。


 ロングスカートを握りしめて男を睨む私。


 首を傾けながら、私と携帯を見比べる失礼な男。


「っていうか、何で泣いてんの? え、俺? もしかして何かした? してないよな?」


 数秒遅れてそう言った男は、無言で睨み続ける私に早々に痺れを切らした。


 声を出したら、涙が今以上に溢れそうだった。


 だから、どうしても声が出せなかった。


「とりあえず、こっち。近くに公園あるから」


 ナルに手を引かれたのは、きっとこれが最初だった。


「少しは落ち着いた?」


 鼻水を啜りながら頷く私に、ナルは浅く溜め息を吐いて、隣に腰を下ろした。


 公園のベンチだった。


 どこの公園にもありそうな、木でできた普通のベンチ。


 ナルは少し眉を寄せて、意を決したように口を開いた。


「あの、泣いてるのって、俺のせい?」


「違う。まったく違う」


「だよな」


 心底ほっとしたように、ナルは長く息を吐いた。


 私がずっと鼻を啜っていることに気づくと、ポケットから紺色のハンカチを取り出す。


「これ使えよ。返さなくていいし、やる」


「どうも、ありがとう」


 遠慮も躊躇いもなく受け取った私に、ナルは少し呆れていた。


 当時の私は、今よりずっと意地っ張りで、世間知らずで、本当に我が儘だった。


「で、何で泣いてたんだよ」


「彼氏に振られたから。急に。しかもデートをドタキャン!」


「あ……やべ!」


 私の言葉で何かを思い出したらしいナルは、携帯を取り出して開いた。


 けれど、すぐに閉じてしまう。


 今思えば、あの日のナルは誰かと約束していたのだろうか。


「……まぁ、いいか。じゃあ、あんた一日暇ってことか」


「まぁ……」


「気晴らしにどっか行くか?」


「行きません。ナンパはお断りさせていただいています」


 思い出しても、子憎たらしい。


 どうしてあんなにも自惚れが強く、変に警戒心の強い女だったのだろう。


 田舎からひとりきり、誰も知らない場所へ出てきたからだろうか。


 都会は危ない。


 始終警戒していないと、危険な目に遭う。


 そんなふうに思っていた。


 見知った人間以外とは話さない。


 出かけない。


 そんな私を、数人の友人は「考えすぎだよ」と笑っていた。


 ナルは、その日の夕方まで公園で私と話してくれた。


 この時は「話してくれた」なんて考えていなかった。


 けれど、どこにも行かないと言った私に付き合ってくれたのだろう。


 ナルは夕方まで、ずっとそばにいてくれた。


「そういえば、名前は?」


 好きなアーティストの話が思ったより盛り上がり、次から次へと話題が移った。


 同じタイミングで一息ついた時、ナルはそう尋ねた。


 私も似たようなことを思ったから、はっきり覚えている。


 苦笑いをしながら、それでもやっぱり警戒しながら、私は名前だけを告げた。


「由紀。あなたは?」


 何故か一瞬だけ戸惑って、ナルはまっすぐ私を見つめた。


「……鳴海。鳴る海で、ナルミ」


 あまりにも簡単に思い出せる。


 ナルと歩んだ日々の欠片。


 ぽろぽろとこぼれ落ちる、大事な大事なナルの欠片。










 あの日。


 嫌な予感がして、胸騒ぎがして、私は家を飛び出した。


 携帯を引っ掴んで。


 絆創膏も貼らないまま。


 ナルが死んでしまったことは、しっかり理解している。


 ナルが私の前に現れてくれているのは、ただの妄想かもしれないということも。


 だってナルは、私の目の前にいた。


 家のすぐ近くにいた。


 救急車がなかなか来てくれなかった理由も、私は知っている。


 だからこそ、ナルの死を認めないわけにはいかなかった。


 ナルが死んだ日、天候はひどく荒れていた。


 激しい豪雨で、交通規制が掛かっていた。


 道路は雨で滑りやすくなっていて、車を運転する人にとっては見通しも悪かったはずだ。


 もしかしたら、運転していた人には何も見えていなかったのかもしれない。


 それとも、ただ早く家に帰りたかっただけなのかもしれない。


 豪雨の日にナルが家を出ていくことは、過去にも何度かあった。


 私もナルも、きっと「いつも」と同じだと思っていた。


 天気がひどくても、帰ってこられると思っていた。


 私とナルが住むアパートの近くには、事故が起こりやすいことで有名な道があった。


 だから、いつも気をつけていた。


 あの日も、ナルはきっと気をつけただろう。


 憶測になってしまうけれど、ナルは帰ろうとしたのだと思う。


 私がいるアパートに、帰ろうとしていた。


 行きは道路がよく見える。


 けれど帰りは、標識のせいで少し見えにくい。


 事故が多かったのは、アパートへ帰る時に通る側の道だった。


 だから、ナルはたぶん、家に帰ろうとして事故に遭った。


 どうして、よりによってその日だけ帰ろうとしたのか。


 私と仲直りをしようとしたのかもしれない。


 ナルは財布を忘れていたから。


 財布を取りに帰るだけなんて、当てつけがましいことをナルはしない。


 そういう性格だった。


 財布がないと気づいたなら、素直に出かけるのを諦めて帰ってくるはずだった。


 豪雨は、なかなか止まなかった。


 アパートの近くで事故に遭ったナルを、最初に見つけたのは私だった。


 轢き逃げ犯は、後できちんと捕まった。


 けれど、そんなことはもうどうでもよかった。


 ナルの動かない姿を、私は最初に見つけた。


 それだけが重要だった。


 それだけが事実だった。


 救急車を呼んだのも私だ。


 呼吸が上手くできなくて、途切れ途切れの声で電話を掛けた。


 豪雨の中、返事をしてくれないナルの身体を、私は思いきり抱き締めた。


 最後にナルが言った言葉なんて、分からない。


 私が到着した時には、ナルはもう意識を失っていた。


 どんなに大きな声で呼んでも、反応してくれなかった。


 だから、ナルは死んだのだ。


 私に会いに来てくれるナルは、本物のナルじゃない。


 そう分かっていても、私は妄想のナルに縋りついた。


 置いていかれた焦げ茶色の財布。


 傷だらけのナルの携帯。


 ナルのものはひとつの箱にまとめて、ベッドの下に置いている。


 妄想でもいい。


 夢でもいい。


 私の頭が変になってしまっているのだとしても、それでもナルに会えるなら、いくら変になってもいい。


 だから、お願い。


 会いに来て。


 約束の十九時ぴったり。


 私は会社から走って、ようやく約束した公園に辿り着いた。


「ナル! いるの!?」


 いい歳をして、子どもみたいだった。


 ナルの前では、私はいつだって子どもだった。


 夕暮れの公園。


 ちょうど、この時間くらいまで、ナルは私に付き合ってくれた。


「ナル! 出てきて、お願いっ!」


 必死に探した。


 汗だくで、涙も流して。


「お願い、ナル。まだ、言ってないことがあるの!」


 もう、これが最後の気がした。


 どうしてかは分からない。


 けれど、ナルに会える最後のチャンスになるような気がしていた。


 一度だけ、ナルが本気で怒ったことがある。


 ナルの言葉に肩が跳ねて、私は反射的に怖いと思ってしまった。


 それからナルは、喧嘩をするたび家を出ていくようになった。


 伝えたいことは山ほどある。


 ナルが求めていたのに、滅多に言えなかった「好き」という気持ち。


 素直になれない私の代わりに、母の電話に出て「元気です」と伝えてくれたことへの感謝。


 私が怯えたあの日から、ナルは私を怒らなくなった。


 あの時、ナルの言葉を受け止めず、ただ怖がってしまったことへの謝罪。


「もう怖くないから、怯えたりしないから、ナルの言葉を、本心をぶつけてほしい」


 ずっと、そう言いたかった。


 なのに、言い出せなかった。


 伝えたい。


 言えなかった言葉を、全部。


「ナル、ごめんっ、私……」


 言いたいことが、いっぱいあるの。


「もう、いいよ」


 続けようとした言葉を遮って、ナルは私の後ろから現れた。


 夕日が背中に当たり、ナルの姿がオレンジ色に染まる。


「もう、いいから。由紀」


 切なそうに歪む顔は、はっきりとは見えなかった。


 ゆっくり近づいてくるナルを見て、私はようやく気がついた。






 ナルじゃない。


 彼は、私の恋人のナルではなかった。


「もういいよ。泣くなよ。そんな顔して、泣くな」


「なん、で……」


 目を見開く私を見て、ナルではない、ナルによく似た彼は泣きそうな顔をした。


「やっと、気づいた」


「あの日も、こうやってベンチに二人で座ったんだよな」


 彼は懐かしそうに呟き、私をベンチへ座らせた。


 ひどく穏やかで、ナルによく似た声。


「由紀は鼻水啜りながら泣いて、俺はずっと隣にいて」


 カッターシャツの袖を捲り、彼は疲れを取るように首を回した。


「あー……暑いなぁ。去年の春ってこんなに暑かったっけ」


 ネクタイを緩めながら私を見る視線は、あまりにも真っ直ぐだった。


 直視できない。


「初めて由紀に会った日、俺は鳴海の代わりに、他の子とデートすることになってたんだよ」


 彼は、からりと笑って出会った日の話を始めた。


 その言葉で、思い出す。


 私が「デートをドタキャンされた」と言った時、彼は慌てて携帯を見ていた。


「鳴海は風邪引いちゃって。でもどうしても行きたいって言うから」


「あなたが、代わりに来た?」


「そう」


 デートに代役を寄越すなんて、どうかと思う。


 けれど、ナルならやりかねないとも思った。


 キャンセルしたら相手が可哀想だとか、そんなことを考えそうだから。


「でも、結局行かなかった。俺は由紀を放っておけなくて、鳴海の約束の方をドタキャンしたから」


「ナルは、怒らなかった?」


「怒ったよ、そりゃ。だけど、風邪引いたあいつが悪い」


「それは……そうかもね」


「そうなんだよ」


 強く肯定する彼から、自分はナルをよく知っているのだという感情が伝わってきた。


「俺は鳴海が好きだった。変な意味じゃねーよ。家族としてな」


「……うん、分かる」


「だから、鳴海に由紀のことを聞かれた時、隠そうとはしなかった」


 寂しげに目を曇らせながら、それでも彼は私から目をそらさなかった。





 ナルと出会ったと思っていたあの日。


 私が出会っていたのは、ナルではなく彼だった。


 彼がナルに私のことを話し、ナルが興味を持ったこと。


 その後、ナルが私に会いに来たこと。


 そうだ。


 二度目の再会は、私の通う大学だった。


 校門で彼を見つけて、私は「同じ大学だったの?」と尋ねた。


 けれど、その時会いに来ていたのは彼ではない。


 本物の鳴海だった。


 私はその後、鳴海が専門学生であることを知った。


 けれど、その頃には再会した場所の違和感なんて頭の隅へ消えていて、本人に尋ねることもしなかった。


 思い返せば、何の理由もなく私の大学に来ていたのは、やっぱりおかしい。


 彼の話は続いた。


 静かな声で。


 時折、懐かしそうに。


 何度か私と会ううちに、鳴海は私に好意を抱いた。


 そして、彼に謝ったらしい。


 好きになってしまった、と。


 彼は鳴海を許した。


 私は、正真正銘、本物の鳴海と付き合い始めた。





「なら、最初に言った“間違えた”っていうのは……」


「鳴海がくれた相手の子の写真が、黒髪ロングだったから。由紀は俯いてたし、顔見えなかったし……」


 拗ねたような顔がナルにそっくりで、思わず笑ってしまった。


「それで“間違えた”だったんだ」


 ひとつひとつ紐解いていく私に、彼は少し渋い顔をした。


 それでも全部、答えてくれた。


 家族に紹介してくれないことを不満に思って、ナルと喧嘩をしたことがある。


 あの時、ナルが理由を言わなかったのは、彼に会わせることになるからだった。


 本当のことを話して、嫌われるのが怖かった。


 そう聞かされて、ようやく分かった。


「会わせるのは嫌じゃない。由紀が悪いわけじゃない」


 そう言ったナルの言葉は、本当だったのだ。


「ねぇ。どうして鳴海って名乗ったの?」


 ずっと気になっていた。


 最初に鳴海だと名乗ったのは彼だ。


 あの時、自分の名前を言ってもよかったはずなのに。


「気づかない? 俺を見て」


 苦笑いを浮かべて、彼は自分の髪に触れた。


 ああ、そうだ。


 髪の色も、服も、雰囲気も。


 似ているけれど、鳴海とは全然違う。


 鳴海は暗い茶髪だった。


 彼は黒髪だ。


 鳴海は明るい色が好きで、よく古着を着ていた。


 彼は、全体的に暗い色の服ばかり着ている。


 能天気で、お調子者で、明るい鳴海。


 思慮深そうで、冷静で、落ち着いている彼。


「全然違うのにね……」


 私は彼をナルだと、ずっと思い込んでいたのだろうか。


「由紀に会った日は、鳴海のふりをしてたから。だから鳴海だって名乗った」


「あなたの、本当の名前は?」


「桜海。桜の海で、桜海。鳴海の双子の兄だ」


 出会ったあの日、本来聞くはずだった名前。


 鳴海ではなく、桜海。


 なんとも変で、不思議な話だった。


「病室に来てくれたのも、あなた?」


 きっとそうなのだろう。


 真実を受け入れるつもりで尋ねた。


 けれど、桜海は呆然と目を見開いた。


「どうしたの?」


「……いや、まさかそう聞かれるとは思わなくて」


 顔色を悪くした桜海は深く息を吸い、長い時間をかけて吐き出した。


「恨んだり、しないでほしい」


「……恨む? 私が、何を?」


「隠し通すつもりはなかったし、必ずバレることでもある。ただ、もし聞かれなかったら、俺は答えなかったかもしれない」


 桜海はポケットからスマートフォンを取り出し、何度か指を動かした。


「俺が病室に行ったのは、由紀のお母さんから連絡が来たからだよ」


 そう言って、着信履歴を見せてくれる。


 けれど私は、母の電話番号を覚えていない。


 そのことに気づいて、妙に笑いたくなった。


 娘の一大事にあれほど必死になってくれた母の電話番号さえ、私は知らない。


「お母さんは、俺に鳴海のふりをしてほしいなんて言ってない」


 桜海は、そこだけははっきりと言った。


「ただ、話をしてほしいって。鳴海の家族としてでも、双子の兄としてでもいいから、由紀に会って、少しだけ話をしてやってほしいって言われた」


「……じゃあ、どうして」


「由紀が、俺を見て鳴海だと思ったから」


 桜海の声が、少し掠れた。


「最初に否定しなきゃいけなかった。俺は鳴海じゃないって、その場で言うべきだった。でも、由紀があんな顔で俺を見たから……言えなかった」


 責める言葉は出てこなかった。


 責められるほど、私は正しくなかった。


 私は、違和感に気づいていた。


 髪の色も。


 声も。


 匂いも。


 ほんの少し違った。


 それでも、ナルだと思いたかった。


 ナルが会いに来てくれたのだと、信じたかった。


「ごめん。由紀を騙した」


「……私も、騙されたかったんだと思う」


 そう言うと、桜海は苦しそうに顔を歪めた。


「それでも、ちゃんと言うべきだった」


「うん」


「俺は、鳴海じゃない」


「……うん」


 やっと、その言葉が胸の奥まで落ちてきた。


 ナルは、もういない。


 私の前に現れたのは、奇跡でも幽霊でもない。


 鳴海によく似た、鳴海ではない人だった。






「……私ね、素直になりたかったの」


 母からの電話を無視し続ける私に痺れを切らしたナルが、勝手に電話に出たことがある。


「お母さん、由紀は元気です。心配掛けてごめんって言いたいけど、言えないみたいなんで、俺が代わりに言います。由紀の恋人の、鳴海です。お母さん、心配かけてごめんなさい」


 一字一句覚えている。


 あんなにぽかんとしたことは、後にも先にもない。


 驚いて、むっとして、それからナルの言葉を反芻して、胸がひどく切なくなった。


 ハンズフリーにしていた電話の向こうは、異様なくらい静まり返った。


 しばらく無言が続いた後、母の啜り泣く声が聞こえた。


 掠れた小さな声で「ありがとう」と言った母に、私は泣きそうになった。


 母からも、ナルからも逃げるように、寝室へ向かった。


 通話を終えて追いかけてきたナルは、私を抱き締めながら呟いた。


「たったひとりの家族だろ」


 上京するって言った時、誰より母に応援してほしかった。


 たったひとりの家族だからこそ、信じてるって言ってほしかった。


 頑張ってこいって、背中を押してほしかった。


 自分の未来を否定された気がした。


 お前じゃ無理だと言われた気がした。


 たったひとりで知らない街へ来て、使わずに貯めていたお金でアパートを借りた。


 保証人さえ、親戚筋の人に頼んだ。


 あの頃は、母に頼らないことだけで自分を保っていた。


 そうやって掴んだ生活だから、自分の選択を悔やまないためにも、意地になって母を遠ざけた。


「あの子から電話が掛かってきたら、無理に話さなくて大丈夫ですって、お母さんから言われたんだ」


 桜海がぽつりと言った。


「うちの家族にも頭を下げてた。こんなことを頼める立場ではありませんが、って」


 桜海が語る母は、今の弱々しい母とは似ても似つかない。


 けれど上京する前の母は、たしかにそんなふうに強い姿勢で話す人だった。


「最後に言葉を交わせなかったみたいだから、一度だけ会ってやってほしい。きっとあの子は強いから、気持ちの整理だけつけば立ち直れると思うんです──って。それが、由紀のお母さんの言葉」


 余計なお節介だ。


 本当に、余計な。


 だけど、あのままだったら。


 桜海が現れることなく、ただ日々が過ぎていくだけだったら。


 私は、立ち直れなかったかもしれない。


「うちの家族は、由紀のことを恨んでなんかない」


 桜海は、少しだけ言葉を選ぶように目を伏せた。


「電話、切られただろ」


「……うん」


「あれは、由紀を責めてたからじゃない。母さんが、耐えられなかったんだと思う」


 責められるより、ずっと苦しい言葉だった。


「由紀に何を言えばいいのか分からなかったんだよ。鳴海の恋人だった由紀に、うちの家族は申し訳なかった。葬式のことも、連絡しなかったことも、事故のことも。全部、どう向き合えばいいか分からなかったんだと思う」


「申し訳ないって、どうして」


「由紀も、最後に鳴海を見つけただろ。あんな形で、ひとりで抱えさせた。鳴海の家族なのに、由紀に何もしてやれなかった。だから、電話口で声を聞いた瞬間、謝ることしかできなくなったんだと思う」


 あの時の「ごめんなさい」は、拒絶ではなかったのかもしれない。


 けれど、私には拒絶に聞こえた。


「着信拒否も、由紀が嫌いだからじゃない。たぶん、これ以上お互いを壊さないためだった。勝手な言い方かもしれないけど」


 私は何も言えなかった。


 恨まれていた方が、まだ楽だったかもしれない。


 責められた方が、泣き崩れる理由にできたかもしれない。


 けれど、申し訳なかったから切られたのだとしたら。


 誰も、どこにも、怒りの置き場所がない。


「鳴海が馬鹿なんだ。あんな豪雨の日に家を出るなんて」


「止めなかった私も、悪い」


「そうだとしても、由紀を残していなくなった鳴海を、俺は叱りたいけどね」


 不貞腐れた顔で、桜海は言った。


 似ている。


 けれど、全然違う。


「大馬鹿野郎だ。鳴海は」


「……そう、だね」


「なぁ、由紀」


「なあに」


「もう一つだけ、大馬鹿野郎の話をしてもいいかな」


 もう一つだけ。


 桜海はそう言った。


 けれどきっと、本当は最後の一つと言いたいのだ。


「……大馬鹿野郎は、なにをしたの?」


「由紀のお母さんと、由紀に秘密で仲良くなったんだ。よく似た男も一緒に」


 驚かなかった。


 そんな気がしていたからだ。


 母が私のもとに駆けつけたのは、茉莉が連絡したからだと思っていた。


 それも間違いではないのかもしれない。


 けれど、母と鳴海が知り合いで、母は桜海の存在も知っていた。


 そう考える方が、なぜかしっくりきた。


「会ったりはしてないよ。電話とか、メールとか、それだけだった。俺は皮肉にもお母さんに会えたけど……鳴海は、会えてないままだ」


 逆だったら、良かったのにな。


 そう呟いた桜海を、私は睨んだ。


 そんなこと、思わないでほしかった。


 でも、叱る言葉は出てこなかった。


 その気持ちが分かるからだ。


 私だって、事故に遭ったのが私だったらと何度も思った。


 責められない。


 同じ気持ちを抱いたから、責められなかった。


「由紀に内緒で、あいつ色々やってたんだ。前はたまに由紀の話を聞いてたけど、最近はあんまり聞かせてくれなくなった。その代わり、会ったら由紀のお母さんの話をしてくれたりしてたけど」


 桜海は、少しだけ笑った。


「妬いてたんだよ、鳴海のやつ」


「私の話の代わりに母の話をするっていうのも、何だか変な気分なんだけどなぁ」


「確かにな。俺は、どんな話でも聞けて嬉しかったけど」


 桜海の話を聞きながら、体の中に溜まっていた重たいものが、少しずつ溶けていくような気がした。


 綺麗さっぱり切り替えられるわけじゃない。


 想いは胸にのしかかっている。


 ずっと沈んだままだ。


 それでも、すべてのことには理由があった。


 奇跡や幻想なんて、この世には存在していなかった。




 ここ数日、ふわふわしていた視界が、少しずつ開けていくような気がした。


 私がナルだと思っていた彼は、桜海という、ナルの双子の兄だった。


 桜海が私に会いに来たのは、母がそう頼んだからだった。


 ナルは現れてくれなかった。


 この世のどこにも、もういない。


 自覚して、きちんと刻んでしまえば、それは思いのほか現実として胸に入ってきた。


 桜海の話を聞いて、ナルがもっと恋しくなった。


 もっと会いたくなった。


 けれど同時に、会えないのだと理解できた。


 言い表せないほど、リアルな感覚だった。


「また会いに来るって言ったのは、俺の独断で、俺の我が儘」


 桜海は申し訳なさそうに白状した。


「お母さんは一度だけって言ったのに、どうしても放っておけなくて……会いに来るって言ったんだ」


「桜海の我が儘?」


「鳴海に由紀を譲ったこと、ほんとはずっと後悔してた」


 つまり、桜海は私のことを忘れていたわけではなかった。


 鳴海と付き合っていると知りながら、ずっとそう思ってくれていた。


「鳴海が由紀を本気で好きだって知ってたから、何も言えなかった。俺の知らない由紀を知っていく鳴海が羨ましかった。でも、鳴海も大事だから。俺は一度、由紀を諦めた人間だけど」




 なぁ、由紀。


 一目惚れって、信じる方?




 そう問いかけた桜海に、私はあの時と同じ口調で答えた。


「信じません。ナンパはお断りさせていただいています」


 いつか。


 ナルのことを、今より忘れて。


 いつか。


 どこかの誰かを、違う人を想って。


 私は生きていくのだろう。


 けれど、今は。


 鳴海をまだ好きでいたい。


 母との溝を、ゆっくり埋めたい。


 現実と向き合って、前に進む努力をしたい。


「確かにナルは大馬鹿野郎だよ。だけど、私も大馬鹿だ」


「そんな馬鹿は馬鹿なりに、色々なことを考えてたみたいだけどな」


「どういうこと?」


「さぁ」


 もし俺になんかあったら、桜海、おまえ、由紀に会いに行けよな。


 ナルが生前そう言ったことを、私は数年後、桜海から聞くことになる。


 たくさんの苦悩を経て。


 たくさんの喜びを経て。


 ナルがいなくなったこの世界で。


 私は今日もナルなしで、それでも“ちゃんと”生きていかなければならない。


「連絡したのは……桜海しかいないよね」


 公園の入口に、母が立っていた。


 息を乱して、小さな身体を揺らして、泣きそうな顔をしている。


「本当のことを話します、ってここに来る前に連絡したお節介な大馬鹿がここにひとり」


 桜海があまりにも軽い口調で言うから、笑ってしまいそうになった。


 いっそ笑えたらよかったのに、なかなかうまくはいかない。


「ありがとうって、言うべきだよね」


 母は心配しているのだろう。


 きっと、ずっと心配してきたのだろう。


 私の知らないところで。


 私の知らない間に。


 ずっと、ずっと。


 素直になるのは、本当に難しい。


 こんな時でも、何も言わずに通り過ぎてしまいそうになる。


「由紀は意地っ張りだけど、態度は充分素直だよ」


「ばか」


 ああ、もう。


 また言ってしまった。


 可愛げのない、いつもの一言。


 素直に言えばいいのに、どうしても言葉が尖ってしまう。


「お母さんも、よく分かってると思うけどな。俺は」


 そんな顔してる由紀を見て、分からないはずないと思うし。


 桜海はそう言った。


 ぼろぼろと落ちる涙を乱暴に拭って、私はどうしたいのかを考える。





 小さい頃みたいに。


 おかあさん、と抱きついて。


 思いきり泣き叫びたい。


 けれど、できるわけがない。


 そんなこと、できない。


 だから私は、ゆっくり顔を上げて、母の方へ歩き出した。


 近づくにつれて、母の顔が歪んでいく。


 私の顔もきっと、ひどいものだ。


 ねぇ、ナル。


 見てて。


 素直には程遠い。


 まだまだ本当の意味で素直にはなれない。


 それでも、ナルがどうにかしようとしてくれたことを、絶対に無駄にはしない。


 勇気を出して、ほんの少しだけ。


 私の気持ちを、お母さんに伝えてみる。


「おかあさん」


 母の肩が震えた。


「大切な人が、大好きな人が、私のそばからいなくなったの」


 声が震える。


 涙が止まらない。


「もう二度と帰ってこない。もうずっと会えない」


 母の顔が、ぐしゃりと歪んだ。


 それでも私は、言葉を続けた。


「すごく、さみしいよ」


 その瞬間、母が私を抱き締めた。


 細くて、弱々しくて、それでも昔と同じ温もりだった。


 私はようやく、声をあげて泣いた。


 母の腕の中で。


 ナルのいない春の夕暮れに。


 ちゃんと、泣いた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 前を向けて良かった。 私はまだかけがえのない人を失ったことはないから、きっと由紀の気持ちを本当の意味で理解することはできないけれど、本当に辛いことは想像できます。 由紀の周りにも素晴らしい人…
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