その感情はまだ名称未定のまま
恋などというものは、脳内の化学物質による一時的なバグにすぎない。
性ホルモンが欲求を焚きつけ、腹側被蓋野がドパミンを過剰に分泌し、前頭前野の合理的な判断を鈍らせる。脳科学的に言えば、重度の依存症患者と大差ない状態だ。
早い人間なら小学生の頃から、誰それが好きだの、かっこいいだのと騒ぎ出す。中学三年にもなれば、後先も考えず本能に従っただけのことを、さも誇らしげに語る連中まで現れる。
実にくだらない。
そんなことばかり考えているから、大会の日に弁当を忘れるなどという間抜けな失態を犯すのだ。愚妹が。
あんな非生産的な脳内麻薬の氾濫を「青春」などという言葉で美化し、貴重な受験期のリソースを浪費するなんて、僕には理解しがたいコストパフォーマンスの悪さだった。
中学三年の夏。双子の妹・柚葉が、中体連という集大成の大会に臨んでいた。
仕事で応援に行けない両親に代わり、忘れた弁当を届けろと命じられたのが僕である。心底気が進まなかったが、取引の結果、仕方なく引き受けることになった。愚妹は、あの参考書を出している出版社に五体投地で感謝すべきだろう。
会場は市民体育館。普段から通っている図書館と同じ敷地内にあるから、場所は勝手知ったるものだった。この図書館は学習資料が充実していて、防音の自習室まである。自宅に安息の場を持たないインドア派にとっては、ほとんど避難所である。
閑話休題。
昼前ということもあり、すでにいくつかの試合は終わっているらしい。あちこちで歓声と嗚咽が入り混じり、青春という名の集団幻覚が盛大に展開されていた。
対戦表を見ると、柚葉の試合はちょうど進行中だった。
Bコートへ向かう。
第四クォーター残り二分、五十二対十八。
珍しく点が伸びていないな、と思った。
二卵性双生児だから似ているところなど大してないが、僕が知的活動に適性を振って生まれたのに対し、柚葉は運動能力に全振りしたらしい。中学一年でレギュラー入りし、それからはチームを全国大会の常連校に押し上げた。個人競技ではない以上、全国では一回戦を勝ったり負けたりだが、それでも地区大会レベルなら一人で試合の流れを変えてしまう。そこは素直に大したものだと思う。
興味の薄い視線をコートへ向けた。
柚葉がドリブルで切り込む。ひとりでは止められず、相手がふたり、三人と寄っていく。当然フリーが生まれる。柚葉のノールックパスが、空いた選手へ一直線に走った。
きれいな連携だと思った、その瞬間だった。
相手チームのポニーテールの少女が、影のようにそのコースへ滑り込み、ボールをさらった。
思わず目を見張る。
地区大会レベルにも、こんな守備をする選手がいるのか。
だが、次の瞬間には点差の理由が分かった。
こぼれたボールを追う選手たちの中で、相手チームはその少女だけが全力で前へ走っていた。残る四人は、まるでそこで試合が終わったかのように足が止まっている。一方で柚葉のチームは、前線の柚葉が先に駆け、残る四人も迷いなくボールへ詰めていく。
少女がどうにかボールを確保しても、その瞬間には二人に囲まれる。パスを出そうにも、味方は動かない。コースは塞がれ、孤立し、結局また奪い返される。
ボールが前線の柚葉へ渡る。
もう間に合うはずもないのに、それでも少女は全力で追っていた。
残り一分を切って、逆転は絶望的だった。
それでもなお、ひとりだけ諦めず走り続けるその横顔が、なぜか脳裏に強く焼きついた。
試合はそのまま終わった。
相手ベンチには、泣いている四人と、その肩を抱いて慰めているエースがいた。涙ぐみながら、それでも笑顔を作って仲間を励ます姿は、妙に絵になっていた。
「お、弁当配達ご苦労だ弟よ!」
試合を終えた柚葉が、汗だくのまま笑いかけてくる。
「誰が誰の弟だ、この脳みそまで筋肉に侵された愚妹が」
「侵された、って言い方えっちじゃない?」
「お前は日本語を基礎からやり直せ」
これが僕たちの日常会話だ。
「試合、見た?」
「珍しく点が伸びてなかったな」
「朱里ちゃんが相手だからね。あれでいつも通りだよ?」
「朱里?」
「ポニーテールの子。去年の秋大会から出るようになったんだけど、あの子だけ別格なんだよね」
柚葉は、少しだけ真面目な顔になった。
「あの子ひとりなら、たぶん県でも上位。でも他がついてこれない」
なるほど、と僕は思った。
さっき見た試合内容なら、それで説明がつく。
「じゃ、僕は帰る」
「最後まで応援してかないの? お姉様の勇姿、もっと見られるよ?」
「誰がお前の弟だ」
手を振って背を向け、外へ出る。
……暑い。
このまま帰れば茹で上がりそうだ。夕方まで図書館で本でも読んで帰ることにして、僕は体育館の裏手にある通路へ向かった。
そのときだった。
「……っ、……ぅぐ……」
人の少ない区画の、茂みの陰。
しゃくり上げる声を、必死に喉の奥で押し殺そうとしている気配がした。
「ずっ、……ぐす、……ひっ、えぐっ……」
空耳ではなかった。
体育館の壁にもたれ、三角座りをしたまま膝に顔を埋めている、ポニーテールの少女――朱里が、そこで泣いていた。
さっき、コートの脇で見たときは、泣いている仲間たちを笑顔で励ましていたはずなのに。
今は誰にも見えない場所で、必死に声を殺し、拳を握りしめ、肩を震わせていた。
その姿に、僕は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
悔しかったのだろう。
あれだけのスタミナと技術が、並大抵の努力で手に入るはずがない。チームメイトの力量差を見る限り、普段の練習でもずっとひとりで背負ってきたのだと思う。
中学の部活など、顧問の方針ひとつでいくらでも歪む。教育の一環として年功序列を重んじるのも、理屈としては理解できる。
けれど、あの泣き方を見てしまうと、それを正しいと断言することもできなかった。
朱里が柚葉のチームにいたなら、間違いなくレギュラーになっていただろう。全国でも通用したかもしれない。
積み重ねた努力が報われない痛みは、少しだけ分かる。
僕自身、私立中学の受験に失敗して、その反動で勉強にのめり込んだ。今では当時受かった連中より成績で上に立っているという自負もある。けれど、あの頃の、努力に裏切られたような感覚だけは、いまだにきれいには消えていない。
誰のせいにもできない悔しさ。
どうしようもなくひとりな感じ。
朱里の邪魔をしないよう、僕はそっと踵を返し、何も見なかったふりをして日差しの中へ戻った。
その日の夕方、家のリビングでニュースを聞き流しながら、僕はぼんやりソファに沈んでいた。
「どうした弟よ。珍しく魂が抜けてるぞ」
柚葉が、冷えた麦茶を片手に隣へ腰を下ろす。
「お姉様の勇姿を見て惚れ直したか?」
「惚れ直すも何も、そもそも惚れていない。自惚れるな」
いつもなら、ここで適当に言い返して終わる。
だが今日は、言葉のあとに妙な間が空いた。
柚葉がじっとこちらを見る。
「……ほんとに、どうしたの」
「何が」
「なんか変。ついに弟にも春が来たか?」
鼻で笑ってやるつもりだった。
「恋などというものは、脳内の化学物質による一時的なバグにすぎない。僕にそんなものがあるわけないだろう」
そう言った、そのはずなのに。
脳裏に浮かんだのは、試合中の鋭い目でも、仲間を励ましていた笑顔でもなかった。
誰にも聞かれないように声を殺し、膝に顔を埋めて泣いていた姿。
震えながら握られていた拳。
力なく垂れたポニーテール。
あの光景だけが、なぜか妙にはっきりと思い出せた。
「……ふうん」
隣で、柚葉が小さく笑った。
視線を向けると、愚妹は麦茶のグラスを揺らしながら、いかにも面白そうにこちらを見ている。にやにやと、全部お見通しだと言わんばかりの顔だった。
「なに」
「べっつにー?」
その間延びした返事が、妙に癪に障る。
けれど僕は、それ以上うまく言い返せなかった。
ニュースキャスターの声が遠く聞こえる。
窓の外では、夏の終わりの風がカーテンをかすかに揺らしていた。
遅れてきた春を、たぶん僕だけが、まだ認識できていなかった。
ご拝読ありがとうございました。
本人だけがまだ気づいていない、遅れてきた春の話でした。
にやにやしていただけたなら嬉しいです。




