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伊予柑と望春 ④

 カランコロン

 「こんにちは!」

 「こんにちは」

 一週間は飛ぶように過ぎ、智翠ともあきさんが餡子を運んでやってきた。

 

 「リス、来春こはるさん!ちょっと来て」

 リスさんと私は、なんだか悪いことをした子どものように、智翠さんから工場へ呼ばれた。

 だが、行ってみると私たちの気持ちとは対照的に、智翠さんはご機嫌で饒舌じょうぜつだった。

 「聞いて!リス!来春さん!」

 頬が紅潮し、表情が輝いている。

 「俺、今年のおまつりのお菓子を任されることになったんだ!」

 リスさんが両手で口元を覆った。

 「うわぁ!智翠ー!」

 二人の様子から、それはとてもすごいことなのだと思われた。

 リスさんが私に言った。

 「智翠、お菓子を任されたって!初めてなのよ!」

 智翠さんが悦に入っているのがはた目にも分かる。

 「あー。苦節七年、いや、高校時代を入れたら十一年!いよいよ自分のお菓子が……作れる!」

 その全身で、喜びに浸っていた。

 あれ?

 ふと私は、去年、リスさんとシューさんと一緒に水琴庵みなことあんを訪ねた時のことを思い出した。そのとき、確か智翠さんが、お菓子を運んで来てくれて……あれは智翠さんが作ったものだとばかり思っていたが、違ったのだろうか。

 私の反応が鈍かったらしく、智翠さんが説明しだした。

 「あの、僕、高校生の時から、修行で工場に入ってたんですけど、もう、ほんとに毎日毎日朝から晩までずっと餡子作ったり、ひたっすら蒸したり練ったりの繰り返しで、やっと作業場に入ってからは上の職人さんに仕込まれるばっかりで、自分のお菓子を一度も作らせてはもらえなかったんです。……それがっ……!」

 智翠さんは、感極まったように、両手の拳で眉をぐっと押した。

 リスさんが、その背をさする。

 「よかったね、智翠。やっとだね」


 水琴庵は、老舗であり家業である。代々、同じように修行を経て、その味や技術を継承してきた。

 智翠さんは、自分のお菓子を巡る修行や、様々なことを、家族に訴えることが出来ない厳しさがあるのだろう。智翠さんの家族は、仕事の上では彼を教える職人さんであり、経営者である。智翠さんは、家族に鍛えられ且つ雇われている。それは、どんな日々なのだろうか。

 そんな智翠さんの話を聞き、励ましてきたのがリスさんである。もちろん、智翠さんには、別の友人もいただろうが、長い時間を共に、幼なじみとして同じ職人として支え合ってきたのは、リスさんなのだ。

 そして、智翠さんも、リスさんのことを大切に思いやっている。

 初詣で、智翠さんの言ったことが鮮明に思い浮かぶのと同時に、先日、リスさんに迎えられた古賀さんの嬉しそうな顔が、私の記憶の中で霞んでしまうのを感じて、ふと辛くなった。

 

 「これで、やっと出発点だよ」

 智翠さんとリスさんは、一緒に頷き合った。

 二人を目の前にしていると、私にも、その道の険しさが伝わってくる。智翠さんのお菓子を披露できる日がくるのを喜ばしく思った。

 私は、離れたところから声を掛けた。

 「よかったですね、智翠さん!」

 智翠さんは大きく頷いた。

 「リスも、来春さんも、お菓子を食べに来てくれるよね?」

 えっ……?

 「もうどんなお菓子を作るのか、決めてるんです!」

 リスさんは、うんうん頷いている。智翠さんの修行の苦労をねぎらいたいリスさんの気持ちに、私が随行しても……。

 「もちろん!ね、来春さん!」

 「お祀りのお菓子は特別で、もう二度と同じものは制作されないんです!」

 二人は、ぐいぐい押してきた。

 私は、…………頷くしかなかった。




 その日がやってきた。


 私は、クローゼットの中から、十年近く前のスーツを引っ張り出した。入社式の時に買ったものだったか、それとも……。私は、別のスーツも出してみたが、どちらにしてもさして変わらないように見えた。飾りのない、実用的な濃い色のスーツである。

 神事なのだから、ちゃんとした服装でなければいけないだろう。となると、やはり手持ちのものはこれしかなかった。

 私は諦めて、少しだけ華やかな白いブラウスの釦を首まで止めると、体にぴったりとした大きさのスーツを着込んだ。いざ着てみると、こんなに窮屈な服装で仕事をしていたのか、と昔の自分を褒めてやりたい気持ちになった。

 仕事と同じように髪をまとめたが、まるで面接に行くように見えたので、髪の横の方だけを後ろに持ってきて、小さな飾りの付いた髪留めで止めた。それから長めの丈のコートを着込み、襟に隠すように淡い色のマフラーを入れた。

 

 リビングに行くと、ワンピースにジャケット姿のリスさんがソファに座って待っていた。

 いつもと同じく、リスの尻尾のように髪を結わえているのが安心できた。

 「来春さん、スーツ姿、新鮮です」

 リスさんは、見るなりそう言ってくれたが、私の気持ちは晴れなかった。

 「……リスさん……知らないひとばかりの家の中に放り込まれるような気持ちです……」

 「そんな、来春さん、大丈夫ですよ!ほら、千春さんとは名前だって一字違い!向こうはいつでも大歓迎よ?」


 地下鉄に揺られながらも、私はリスさんに訴えた。

 「周りはご親族や、大事な取引先とか、そんな方々ばかりなのに、私一人、部外者が混じるようで……」

 「それはないわよ。来春さん、去年お店に行ったじゃないですか。そんなことなかったでしょう?」

 「確かに……そうですけど、それはお客さんだったから……」

 それにその時は、女将さんの千春さん一人であった。今日は、大勢集まると聞いていたし、皆さん知り合いの方ばかりであろう。

 「はあっ」

 私は思わず溜息を吐いた。

 「分かったわ。来春さんがここまで譲歩したんだから、智翠には、美味しいものでもごちそうして貰いましょう!」

 リスさんが請け合ったが、そんなことをして貰っても申し訳ないだけである。

 「…………関係者ではないけれど、関係者の振りをするように、覚悟を決めます」

 私は、横のリスさんに決意を語った。だが、その決意は、30分も経たないうちに霧のように消える儚いものであった。



 私は、先ほどの覚悟も気力も雲散霧消した状態で、水琴庵みなことあんの入り口に続く門扉の前に立っていた。


 高い屋根が上がっている、その木戸は隙間なく閉じられ、自分が今立っているところが、内と外を隔てる厳格な境界の場所に感じられた。両脇へぐるりと囲んだ塀は、世界を明確に隔絶していた。

 去年来た時には気づかなかったが、門に上がる、切り出された御影石は、奥底まで覗けるかに磨かれ、この真冬に氷一つ張ってはいない。片端に盛られた塩はやはり厳めしく、私を選別しているかに思えた。

 リスさんが、両手で門の木戸をそっと開けた。

 うらぶれた、小さな暖簾が訪問者を告げて僅かに閃いた。

 私は、うつむいて境界を越え、リスさんの背を追った。


 内側に入り、視線を上げると別世界が広がっていた。

 門の中は、見事な雪景色だった。

 

 雪景色など、見慣れていたはずだった。季節は冬で、私は何度も雪かきをしていた。至る所、どこも雪景色なはずである。

 だが、この世界は、違っていた。

 何もかもが、静謐せいひつに美しかった。


 白い雪が掃かれているのは、ごく狭い道だけで、両側は自然な傾斜に削り取られ、そこに新しい雪が積もっている。雪をはねた跡もどこにも見当たらない。

 ただ、綿帽子をあちらこちらに載せているかに、なだらかで、年月を狂わせた幻想にさえ思える起伏が、どこまでも続いていた。

 遠くの白い雪が、空の色を落として仄碧く、置き綿の影は、薄められた濃紺を溶かして見えた。

 あの瑞々しかった夏紅葉が、この雪の下にどんなふうに散ったのだろう。

 私は、人の手の付いた気配がない、自然だけに染め上げられた真っ白な景色を見回していた。

 「来春さん、足下、気を付けてね。石は滑るから」

 リスさんが優しく気遣ってくれた。

 私は、頷くと、黙ったまま付いて行った。


 

 門の木戸とは違う暖簾が、小豆色に染められた麻に、「水琴庵」と勇猛に揮毫きごうされ、緩くはためいている。

 初めて来たときには、分からなかった。

 その筆の運びは、以前、お店の中で見た木目の看板に書かれた手によく似ていた。

 入り口の開き戸には、蜜蝋色をした硝子がめられている。古くさざ波を打ったその硝子の上には木の格子が組まれ、外から中の様子は窺えない。

 その開き戸を、リスさんが左に引いた。

 それから、そっと暖簾に手をやって、私を招き入れた。


 「いらっしゃいませ」

 戸が引かれると同時に、女性たちの声が幾重にも重なって、私たちを迎えた。

 「こんにちは」

 リスさんが、臆することなく挨拶をして、今日も、雨が降り籠めたかに濡れている石の床を進んだ。

 電灯の、淡く温かみをを帯びた光が、石の上に揺れて見えた。


 「リスさん!今日はいらっしゃると女将さんから聞いていました」

 和服姿の女性の従業員の一人が、前に出て私たちを招いた。

 「本日は、おめでとうございます」

 「ありがとうございます」

 二人は、丁寧に腰を折り、頭を下げ合う。その後に続いて、後ろに控えていた二人の若い従業員の方も頭を下げたので、私もお辞儀をする。

 お店は、予約客しか取らないくらいで、この前来たときは誰も見かけなかったが、今日のお祀りのために総出なようだった。

 「そちらは、リスさんのお店の方ですよね?申しつかっております。三多さんたさん、本日はよろしくお願いいたします」

 「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 見知らぬ従業員の方に丁寧に挨拶され、私は身の置き所なくかしこまった。

 リスさんは、気持ちばかりと用意した連名のご祝儀袋を、帛紗ふくさからそっとお渡しした。従業員の方は

 「ご丁寧に、ありがとうございます。お預かりいたしまして、主人に運ばさせていただきます」

 と深々と頭を下げた後、こちらには体を横向きに、後ろに控えていた方が手に取った、黒塗りのお盆へそっと載せた。


 私たちは、別の従業員の女性にコートを預け、この前と同じように、奥のお座敷へと案内された。


 一面のガラス戸が開け放たれた長い廊下を、進む。

 夏には美しかった松も離れた場所から寄り添った置き石も、青々と濡れた芝生も、すべてが雪に呑まれていた。唯一、雪は、赤いナナカマドを引き立てて、その上に白い分銅となって積もり、鳥に遊ばれるのを待っていた。


 途中、神事に祀られる湧き水の横を通る。


 石を丸くくりぬかれた手水鉢に、湧き水は冬だというのに、凍らずに細く流れ続けていた。その水面に張った薄氷が、時折、冬の陽光を反射して強く輝いた。

 水琴窟へと落ちる滴は、遥彼方にある鐘の音を、私の耳に伝え、おごそかでどこか不穏な残響を埋没させた。


 お手水場ちょうずばの上には、新しいしめ縄と紙垂しでが張り巡らされ、今日のためにしつらえられたのであろう、台の上に置かれた三方には、神饌しんせんがお供えされていた。三方の横には、お酒、そして漆塗りの菓子器には、白いお菓子が綺麗に盛られていた。

 もう、準備万端という様子だった。

 

 「こちらです」

 案内してくれた女性は、私がこの前通されたお座敷の横を通り過ぎて、曲がった後をさらに進んでいった。

 想像していなかった奥の広さに、私は気持ちの上で十分尻込みしていた。

 女性がようやく立ち止まり、膝を付いてふすまを開け、さらに襖と二重になっていた障子戸を開けた。

 はじめは左手で、少し開いた縁に両手を置いて、そして音もなく右手で。

 リスさんは、敷居の前で正座をし、両手をついて

 「失礼いたします」

 と挨拶をすると、座ったままするりと中へ入った。

 私の番である。もう、見よう見まねで、リスさんのしたとおりに繰り返すしかなかった。


 襖の向こうは、広く格式高いお座敷だった。

 中は、明るく、温かかった。

 外の廊下を歩いてきた私は、ほうっと息を漏らした。

 上座には、小さく描かれた福寿草の掛け軸が、その下には、控えめに花々が生けられていた。


 何よりも驚いたのは、既に三、四十人ばかりの人々が、ほとんど和服で居並んでおり、姿勢を崩すことなくこちらを顧みたことだった。

 その居住まいに、私は自分の心臓が打ち付ける音を強く感じはじめた。


 「リスちゃん!来春さんも、よく来てくれたわね!」

 そんな中からまるで春の空気のように、女将さんの千春さんがふわりと飛び出してきた。その柔和な微笑みに迎えられ、私は心が温まるのを感じたが、千春さんの、紋付きの黒留め袖という厳粛な姿に目がいくと、気持ちがのすっと遠のくのを感じた。どうしよう。落ち着いて周りをよく見ると、華やかな和服や厳かな礼服が集う中で、一人私は、まるで仕出しを届けに来た業者さんである。

 千春さんは、私の姿を全く気に留めない様子で、親しげにリスさんと私を招き入れた。

 「さ、二人の席はこちらよ」

 私は、立ち上がった自分の足下が急に気になった。もしストッキングが伝線していたらどうしよう、と思ったのだ。


 千春さんは、親族の近くの席に、リスさんと私を座らせた。私の心臓がバクバクしだした。

 「おじさん、ご無沙汰しています」

 こちらへ、これもまるで座ったまま移動してきた羽織袴の人に、りすさんは声を掛けた。それからするりと座布団から降りると、両手をついて頭を下げた。

 「この度は、おめでとうございます。お招きいただきましてありがとうございます」

 私は、声も出さずに、リスさんに倣い、ただ深々と頭を下げた。

 「リスちゃん、久しぶりだね。この前来てくれたのはいつだったっけ」

 「ふふふ」

 リスさんは、笑いながら振り返って、私に言った。

 「智翠のお父さんよ。水琴庵の六代目」

 私はぎこちなく、再び低頭した。

 「来春さんでしょ?ベッカライウグイスにいい人が来てくれたって、智翠も千春も喜んでたよ」

 「……ありがとうございます」

 私の声は、小鳥をさらに震わせたようなものだった。

 「今日は、智翠が無理言って、すみませんね。リスちゃんと来春さんにどうしても今日のお菓子を食べさせたいからって。いや、もう今日しか作らないものになるからね、それで」

 千春さんもそうだが、六代目と呼ばれる智翠さんのお父さんも、威儀を正した装いとは違う、ごく素朴な温かな人柄に思えた。何か芯に奥ゆかしいものを守っているのだが、それを包む気持ちが温かい。智翠さんとよく似た笑顔が、リスさんと私を覗き込んでいた。

 「……いいえ。本日は、このような場にお招きいただきまして、光栄です」

 心から畏れ多かったが、冬のお座敷とは思えないほど温かな空気が漂うこの場に、私は少しずつ慣れていくのを感じていた。    

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