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伊予柑と望春 ③

 「おおっと」

 古賀さんが慌てて立ち上がり、持って来た紙袋に楽譜を入れた。もう、リスさんと私にはその慌てる理由は分かっていた。レッスンの時間が迫っているのである。

 古賀さんは一年のうち半年ほどは、指揮者としての仕事で全国や、時に海外を飛び回っていたが、日本に落ち着いているときは、リスさんも卒業した○○小学校の学区にある、お姉さんの家に寄宿していた。お姉さん宅には、離れにレッスン室があり、そこでお弟子さんにピアノを教えているのである。お弟子さんは、全国にいるらしく、演奏会で地方へ行っても、その周辺に居住している方々のレッスンがあるらしい。

 これらはみな、赤間さん情報である。古賀さんは、特に何も語らないどころか、まったく何も言わずにしばらく姿を消すことがあるので、私たちは「何かあったのでは」と心配したものだったが、理由が分かれば予測がついた。

 したがって、今慌てているのは、もうすぐレッスンが始まりそうなためであり、古賀さんは、そんな事情をリスさんと私が知っているとは思っていないのだろうな、と私は考えた。

 古賀さんは、

 「リスさん、来春さん、ごちそうさまでした!」

 と超特急で支払いを済ませると、マフラーをぐるぐると片手で巻いて、外へ飛び出した。

 「ありがとうございます」

 私たちは、その背中にお礼を言い、古賀さんを見送った。はずだった。



 カランコロン

 「あっ、すみません。大丈夫ですか?」

 ゆっくり閉じていく扉の向こうに、古賀さんの声が聞こえ、リスさんと私は驚いて外へ向かった。

 

 扉を思い切り引くと、古賀さんが何度も頭を下げているその先には、みずほさんが笑いながら立っていた。パートが終わり、みっちゃんを連れに来たのである。

 「あら、リスちゃん、来春さん、こんにちは。古賀さん、いいのよ。全く大丈夫だから。それより、急いでたんじゃない?」

 古賀さんは自分の仕事に気がつくと、

 「申し訳ありませんでした」

 と深く一礼して、小走りに立ち去った。

 その後ろ姿を見送りながら、みずほさんが呟いた。

 「あれじゃ、たいへんね。転ばないといいけど」

 小さな子どもに言うようなその口調がおかしくて、リスさんと私は笑いながらお店に戻ってきた。


 「みっちゃん、みずほさんがお迎えに来たわよ」

 みっちゃんは、当たり前な顔を装い、それでいて嬉しそうである。

 「もうそんな時間かな」

 とぼけたように言いながら、席を立った。

 みずほさんは、振り返ってリスさんに声を掛けた。

 「リスちゃん、来週から工場に入ってもいいかしら?」

 「もっちろんです!あれ?でも、いつもより早くないですか?」

 「前から評判の伊予柑があってね、今年こそ注文したい、と思って通販で買ったのがもうすぐ届くのよ」

 「そうなんだ!えー、どんな伊予柑なのかしら」

 「ものすごく香り高いらしいわよ」

 「それは、楽しみ!ね、来春さん!」

 リスさんが、尻尾のように結わえられた髪を揺らし、にこにこして隣の私を見た。

 「じゃあ、届いたら、また言うわね」

 みっちゃんがさっさと歩き出し、みずほさんはその後を追って帰って行った。リスさんと私は、外で手を振って見送ると、縮こまってお店に戻った。




 明かりの落とされた店内と、煌々と蛍光灯が光る工場は、まるで別の空間のようである。工場の灯りが、空っぽのショーケースまで伸び、黒っぽい影になった床の先でぷつりと途絶えていた。


 その夜、みずほさんはせっせと雪道の中、家から伊予柑を運んだ。なんだか小さな引っ越しのようで、私たちは楽しくなってお手伝いをする。

 段ボール箱を開けると、濃い色の伊予柑が、なんとも言えない匂いを放ち、思わず唾液がこみ上げた。

 「うわぁ、いい匂い」

 瑞々しく照り返す、大玉の伊予柑である。

 「みずほさん、今年、こんなにですか?」

 段ボールは、3箱あった。

 「ふふふ。3箱で割安だったのよ。ちょっと注文し過ぎちゃったかしら?」

 「いいんです。でも三年分くらいできそう」

 「実はね、考えてることもあるの」

 リスさんは、首を傾げてみずほさんを見た。

 「まだ、内緒」

 「えーっ」

 「出来たら、教えるわね」

 そう言って、その夜から、みずほさんは二週間ほどベッカライウグイスの工場へ通うことになった。


 前に、リスさんから、この季節にはみずほさんがいつも工場へ入り、伊予柑ピールを作ってくれるという話を聞いていた。だから、先日、みずほさんが伊予柑の話をしたときには、すぐに私はこの作業が和気藹々と楽しいものになるであろうことを想像した。

 

 夜の工場は、賑やかな作業場になった。

 伊予柑ピール作りは、もちろん私たちもお手伝いする。三人でおしゃべりをしながらの作業は、瞬く間に進んでいった。

 まず、ひと玉ひと玉を丁寧に水で洗う。工場中のザルとボウルに、伊予柑が山と盛られていく。

 それから皮を剥き、お湯で煮ては何度も茹でこぼす。

 熱いうちにスプーンで、皮の内側の白い部分をこそげ取る。柔らかくなった白い部分は、伊予柑の色素でやや色づき、湯を含んでぼってりと重たくなっていた。それを、空いたボウルに入れていく。

 温かい伊予柑の匂いも、なかなか素敵である。工場の中はまろみのある柑橘の香りと湯気で、いっぱいになった。

 初めのうちは、力加減がよくなくて、皮の縁に亀裂やひびを入れてしまっていた私も、幾つもこそげているうちにコツを掴み、手早く出来るようになった。たまに、皮表面のつぶつぶした部分が弾け、濃いオイルのような噴霧が目に染みた。

 「来春さん、大丈夫?」

 「リスさんも」

 「みずほさんは平気?」

 三人で目をしばしばさせながら笑った。


 「リスちゃんも来春さんも、聞いて。この頃、虎男さんが色々消し忘れたりするから、注意したのよね」

 作業を進めながら、歓談も進む。

 「色々って?」

 リスさんが手を休めずに聞き返す。

 「ガスとか、電気とか」

 私は、思わず言った。

 「ガスは怖いですね」

 「そうなの。だから、今、IHにしようか検討中なのよ。私一人で検討しているんだけどね」

 「そうね、それはIHにした方がいいかも。何かあってからじゃ遅いから」

 リスさんの言葉に、みずほさんは決心を固めたようだった。

 「分かった。決めたわ。今度ショールームで見てくる。虎男さんが何かごにょごにょ言っても、私のパート貯金でやってしまうわね」

 リスさんも私も、胸をなで下ろした。

 私は、吹きこぼれそうなお鍋に気づき、ガスを止めた。茹でられた伊予柑の皮が、ザルの中で、勢いよくいい匂いの湯気を上げる。

 みずほさんとリスさんの真ん中にあるボウルには、こそげ取ったものが、濡れた綿のように積み上げられている。

 「それでね、虎男さん、おトイレの電気もよく消し忘れて……あら、いけない。ごめんなさい。こんな知歌子さんとリスちゃんの神聖な場所で、話すことじゃないわね、今度、別の時に聞いてね」

 みずほさんが話題を変えようとした。知歌子さんとは、鶯谷うぐいすだに知歌子さんで、リスさんの亡くなったお母さんのことである。ちなみに、リスさんの本名は、鶯谷里翠りすである。

 「えーっ、聞きたい、聞きたい!」

 リスさんがせがむ。

 「……うーん。じゃあ……」

 みずほさんは、手に持っていたスプーンをボウルの中に置くと、調理台から移動して、お店の方へ行った。リスさんと私はいそいそとついて行く。

 みずほさんは、ショーケースの奥でも「いけない」と首を振り、レジの横のカウンターを跳ね上げると、いつもみっちゃんが座っている辺りまで進んでいった。そこで、ぴたりと止まると、後ろをついて行った私たちを振り返った。

 「じゃあ、そのものについては、むずむずクンって言うわね」

 「ふふふっ!うん、うん、むずむずクン!」

 リスさんとみずほさんそしてみっちゃんは、リスさんのご両親が亡くなってから、五年もの間親子のように暮らしていたので、不可解な話題も何のそのである。だが、むずむずクンとは一体……。

 「その、むずむずクンなんだけど、虎男さん、よく置き忘れるから、私注意したのよね、何度か」

 「何度か……」

 リスさんは、意味ありげに復唱する。

 「そうなの。で、虎男さんも嫌になったのか、ある時いいことを思いついちゃって」

 ふんふん。リスさんは頷く。

 「自動洗浄っていうのにしたのよ」

 「ああ!横のコントローラーにあった気がする!」

 ああ!むずむずクンって!

 「でね、半年ほどは、よかったのよ。むずむずクンとの出会いもなくなってね。だから、私もそのことはすっかり忘れてしまっていたの」

 それで、何が起こったの……?

 リスさんも私も、みずほさんをじっと見た。

 「この前、市の検診で、ぐさぐさやるのがあったんだけど……」

 ぐさぐさ?

 リスさんと私は顔を見合わせた。

 「あら、若者にはまだ無縁かしらね。むずむずクンにグサグサする検査があるのよ。ブスブス、って言った方がいい?」

 「グサグサで」

 リスさんが間髪入れずに言うので、私もこくこく頷いた。

 「それで、虎男さんも、その日、グサグサしようとしてたわけ。ところが、声が聞こえてきたのよ。『ああ、待ってくれぇー!ダメだーよー!』」

 一瞬の沈黙の後、私たちは、爆笑した。

 流れていくむずむずクンを、大声で呼び止めるみっちゃん。

 その場に一人、残されたみっちゃん……。

 「虎男さん、とっても悲しい顔で出てきて、吐き捨てるように私に言ったの。『やり直しだよ』って。自動洗浄も良し悪しだわねーっていうだけのお話しなんだけどね」

 「それって、もしかして、先週の金曜日じゃ?」

 「そうよ!来春さん、よく知ってるわね!」

 ええっ、という顔でリスさんも私を見た。

 私は顔の前で両手を振った。

 「いえ、ちょっとみっちゃんが元気なさそうにしながら来た時があって」

 みっちゃんが、リスさんと古賀さんの仲のよい様子を目にし、悲しげに意気消沈して見えたのだが、原因は別のところにあったのである。

 あらあら、というふうにみずほさんは肩をすくめた。

 そして、このお話はもう終わったとばかり、率先して工場へ戻っていったが、話題は次に移った。

 「虎男さんったらね……。リスちゃんも、来春さんもね、結婚は一生のものだと思わなくていいからね」

 えっ。私たちは、むずむずクンからのこのみずほさんの発言に驚いた。

 「結婚式では、なんだか一生もののように誓うけれど、人間って変わるのよ。むしろ、変わらない方がおかしいでしょ?相手も、自分もね。そのときのなんて言うのか、責任めいたものはお互いにあるんだし、辛いな、と思ったらさっと別れて構わないのよ?だから、結婚とか、お付き合いするとか、約束するとか、深く考えない方がいいわ。お互い、自由なのよ。自由を尊重できる間柄だと思ったら、多少の約束はしてもいいかもね」

 みずほさんは、溜息を吐いた。

 「人生は、あなたたちが思っているより、ずっと短いわ。出来ることは限られているの。だから、したいことを自分自身のためにしていいし、色んな人と出会った方がいい。でも、出会う人に、自分が本当に望むことは妨げられない方がいいわ」

 私は、みずほさんがこんなに話すのをはじめて見たが、似たようなことを弘子さんと樹森さんに言われたことを思い出した。

 リスさんは、真面目な顔になってみずほさんに聞いた。

 「みっちゃんと結婚して、後悔してる?」

 みずほさんは、笑った。

 「そんなことないわ」

 私たちは、胸をなで下ろした。

 それからも、みっちゃんのご家庭での逸話の数々を聞きながら、私たちは大いに笑い、作業を続けたのだった。 


 その夜、段ボールひと箱分の伊予柑は、無事に伊予柑ピールになる下ごしらえを終え、大きなお鍋に砂糖漬けにされた。

 一晩漬け込んだ後、翌日には、伊予柑の皮を一度上げて、お鍋に残った砂糖液に、さらに砂糖を足して煮立たせ、再び皮を漬け込む。それを四日ほど繰り返すと、伊予柑ピールが出来上がり、煮沸した瓶に詰めるのだと、みずほさんは私に教えてくれた。

 今夜使った伊予柑の中身は、冷蔵庫にしまい、明日からは並行してジャム作りも始めることになった。


 リスさんと私は、終日、いや、何日も、お店の仕事の合間をみては、地道な作業に取り組んだ。ひたすら、伊予柑の房を剥き、中身を取り出すという作業である。しかし、こればかりは、なかなか上手くはならなかった。三日目に、私は上手くなることを完全に諦めた。ジャム会社には、どんな素敵な機械があるのだろうと想像しながら、楽しくやることが大事なのだと気持ちを切り替えた。伊予柑の中身は、山のようにあるのだから。


 お客さんからは、たびたび、

 「あら、伊予柑の匂いがしますね」

 「春が来たみたいですね」

 と言われるほど、店内は、まろやかな柑橘の香りがいっぱいに漂い続け、夜にはみずほさんも参加して、少しずつ伊予柑ピールとジャム作りは完成に近づいていった。

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