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伊予柑と望春 ②

 少しも寒さが和らぐ気配のないその朝、ベッカライウグイスに、開店を待っていたかのように一人のお客さんがやってきた。


 カランコロン

 「こんにちは!」

 「いらっしゃいませ」

 古賀さんである。

 初詣以来、リスさんから、地方の演奏会に出掛けていると聞いていたが、やっとこの街に戻ってきたようだ。

 歩いてやってきたらしく、鼻も耳も真っ赤になっている。

 

 「お帰りなさい、古賀さん」

 リスさんのお迎えに、古賀さんはぎくりと足を止めた。

 「えっ、……」

 リスさんが、当たり前に言った言葉に、古賀さんは戸惑い、顔を隠すように後ろを向いて、コートを脱いだ。

 「街に帰っていらしたんですよね?」

 「え。そう、そうですね」

 「次の演奏旅行はいつですか?」

 遂に、古賀さんは、嬉しそうな顔をリスさんに向けた。だがリスさんは、無情にも、古賀さんを、軽く、崖から突き落とす手腕を身につけている。それも、とびきりの笑顔で。

 「来春こはるさんが聞いてましたよ?」

 ショーケース奥のカウンターで、コーヒーの準備を始めていた私は、思わず顔を上げた。

 「あ、来春さんが……そうですか……」

 古賀さん、頑張れ!

 私は、まだ空のカップを手に、無言で古賀さんを励ました。

 

 「しばらく、こちらでオーケストラの定演の練習をみながら、レッスンがあるんです。ひと月弱くらいかな。二月の半ばにはまた出掛けます」

 少し元気なく言いながら、古賀さんは嵌めていた毛糸の手袋を外し、手に持っていたコートのポケットに入れると、マフラーとともに、入り口横の真鍮のフックに掛けた。


 それから古賀さんは気を取り直し、久しぶりにショーケースの中のパンを眺めた。

 一通りどころか何巡もして、リスさんのパンのレパートリーを頬張り尽くした古賀さんが、お気に入りのパンをハードロールに決めたのは昨年のことだった。

 今日も、相変わらず子どものようにウキウキしながらショーケースを見回している。ハードロールの中から、クリームチーズ入りのブレッツェルを選ぶと、リスさんに注文した。

 リスさんがショーケースの前にいると、古賀さんの笑顔は、ますます目尻の皺を増やし優しくなる。

 古賀さんは、今日の幸運を満喫していることを隠しきれない表情で、カウンターへと向かった。


 リスさんが、古賀さんのトレイを用意している。

 その横で、私は淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ、リスさんが手にする木製のトレイに載せた。

 古賀さんは、リスさんが教えたメールアドレスが、お店のものであることに気づいてはいないだろう。今が至福の時なのかも……、と思いながら私は静かに工場の仕事へ移った。

 この頃では、リスさん指導のもと、私は本格的にパン作りを手伝えるようになってきていた。見習い期間はとうに終わり、昨年はボーナスまでいただいてしまった。リスさんの家にもともと作られていた、雇いの職人さん用の部屋に、家賃無料で住まわせてもらっているのに、申し訳ないことである。

 とは言っても、私はまだまだ見習い同然である。パンの種類はあまりにも多く、クリーム作りや焼き菓子づくりなども学ばなくてはいけない。気温や湿度による、配合や練りや発酵の具合など、分からないことばかりである。


 

 カランコロン

 お客さんがいらしたようなので、私は工場からすぐにショーケースの前に戻った。

 「いらっしゃいませ」

 「こんにちは」

 みっちゃんである。

 リスさんと古賀さんが、仲良くカウンターからみっちゃんを迎えた。

 「こんにちは!」

 そんな二人を見て、ちょっとしょんぼりしたのか、みっちゃんは、元気のない様子で厚いコートを入り口のコート掛けに掛けた。古賀さんのコートと、みっちゃんのコートが並ぶ。お店のガスストーブは自動調節の室温を上げ始め、雪の庭に向かう大きな窓が、リスさんと古賀さんのいる場所から曇りだしていた。

 「そういえば、昨日の夜、スーパーの近くでリスさんたちを見かけました」

 「そうですか」

 古賀さんは、優雅にコーヒーを一口飲んで微笑んだ。

 「僕、タクシーで信号待ちをしていたので、そのまま通り過ぎたんですが……そりを持ってましたね?」

 リスさんは笑った。

 「ふふふ。見られていましたか。最近、そりでお買い物に行くのに凝ってるんです」

 「重たい買い物があったら、運びますよ?」

 「ぼくが運びますから、心配には及びませんよ」

 みっちゃんが慇懃に口を挟み、リスさんと私は笑った。古賀さんは、笑いはしなかったが、微笑みながら相槌を打った。



 左端にみっちゃん、右端には古賀さん、その間にある三脚の椅子は、何人かのお客さんに入れ替わり立ち替わり座られ、店内の空気は穏やかだった。

 古賀さんは、持って来た楽譜を広げ、静かにコーヒーを飲みながら椅子の上で体を揺らしている。みっちゃんは、珍しく本日二つ目の、大好きなクリームパンを一口ずつ味わいながら真っ白な庭が眩しいのか目を細めていた。


 カランコロン

 「こんにちは!」

 「こんにちは」

 

 ベッカライウグイスには、僅か二人だけ、「いらっしゃいませ」と迎えられない人がいる。小麦粉やコーヒーなど様々な材料を持ってきてくれる業者さんと、餡子を届けてくれる智翠ともあきさんだった。

 「リス、工場へ持っていくね」

 入り口から顔を出して声を掛けると、すぐに智翠さんは、車へ戻った。


 智翠さんは、水琴庵みなことあんの餡子を、週に一度、古びているが立派な塗りの番重に詰め、運んで来てくれる。それは、こしあん、白あん、うぐいす餡の三種類の餡子だった。

 この餡子を使ったリスさんのパンは特別なもので、遠くから買いに来てくれるお客さんも多い。だが、餡子には限りがあり、週に三日だけの販売であった。

 「お願いしまーす」

 リスさんはそう言うと、餡子を受け取りに工場へ入った。

 古賀さんは、音楽に没頭しているようで、前のめりに体を揺らしたかと思うと素早く楽譜をめくった。


 私は、ショーケースの中にいたが、隣の工場と店内とを隔てている開き戸は、開けられたままだった。

 「うちの手水場ちょうずばのおまつりだけど、今年はここの定休日になるから、来春こはるさんとおいでよ」

 「そうなの?」

 「うん」

 「じゃ、ちょっと待って。来春さーん」

 リスさんに呼ばれ、私はほんの三歩で工場へ入った。

 「はい」

 リスさんは、工場の壁に掛けてあるカレンダーを見ていた。そこには、仕入れの予定やパン作りについての雑多なメモがたくさん書かれてあった。

 「あ、来春さん」

 私は、智翠さんに軽く頭を下げた。智翠さんは、にこやかに笑った。

 「ここはいつ来ても暖かいですよね。うちの作業場は、寒いですよー。餡子を練ったり蒸し器焚いたりしてる工場と、作業場が違うんで」

 「作業場は、何度くらいなんですか?」

 「20度。僕が小さい頃は16度とかもっと低い温度も見たけど、祖父が倒れてから20度になったね」

 智翠さんがしみじみと頷いている。

 「智翠のおじいちゃんね、」

 「リス、いいから、日にち言うよ?えっと、18日、11時から」

 「……」

 リスさんは頷きながらカレンダーに書き込み、それから無言で智翠さんを見ている。

 リスさんはさらに二度、頷いて見せ、智翠さんは困った顔をした。それを見たリスさんは小さな溜息を吐いた。

 「智翠、自分で言ったらいいのに。来春さんに来て欲しいって」

 智翠さんは、慌てて否定した。

 「来て欲しいなんて言ってない」

 私は、どちらの意味とも取りかねた。

 「リスと来春さんで来ないかな、と思って誘っただけじゃない」

 智翠さんの中では、リスさんを誘えばもれなく私が付いてくる状態なのだろうかと思った。そこは、そろそろ離して考えた方がいいのでは。初詣にもお付き合いしたのだし、と私は考え、やや事務的に伝えた。

 「水琴庵さんの神事ですから、私は遠慮したいな、と思います」

 「えっ」

 二人が同時に声を上げ、私の方が驚いた。

 「え、だって、リスさんは水琴庵さんとは生まれたときからのお付き合いですけれど、私は、…………関係ない気がします。ベッカライウグイスの従業員なだけで。あ、あとは一度お店にお客として伺いましたよね」

 シューさんの、がはっ事件を思い出し私は思わず口元を手で押さえた。シューさん、今頃どうしているかなと考え、私はホットラインの件にまるで取り組んでいない自分に気がついた。いけない。今夜はシューさんのアドレスを開いてみよう。初詣のことを教えてあげなければ……。

 「来春さんが行かないなら、私もやめようかな」

 リスさんの声が、私の想像を遮った。

 「えっ」

 智翠さんが、なお驚いてリスさんを見た。

 「うーん、春のパンもそろそろ試作してみたいし」

 智翠さんが言葉を失い、軽く絶望しているように見えた。私は、リスさんに言った。

 「リスさんは、ほら、女将さんの千春さんも待ってるかと思いますよ?」

 「うーん」

 「来春さんが来てくれるといいんです」

 智翠さんが断言した。

 なぜ、私が……。

 「大丈夫です。結構たくさん、色んな関係の人たちが集まるので。大勢になりますから!」

 大勢なら、なおさら関係のない人が増えるとたいへんなのでは……。神事、というとお祓いか神前結婚式かしか私は知らなかったが、どちらにしても厳粛なものだろうと想像した。

 「今年は、リスと来春さんが来てくれると思って、母ももう人数に入れてるんです」

 「そう言われても……」

 智翠さんが眉間を寄せ、情けなさそうな顔をしている。それは去年の暮れに見た表情によく似ていて、私はこの手の表情の人に罪悪感を覚えるたちであったと自覚した。

 正直言うと、水琴庵は私にとってかなり敷居の高いお店である。一人でふらりと訪れることができるような場所ではなく、リスさんの紹介がなければ一生縁のないような老舗である。そんな格式高いお店の、ましてや神事に参列することなどとうてい無理だということをどうしたら分かってもらえるのだろう。

 「じゃ、少し考えてみましょう?まだひと月近くあるし、大丈夫よね?」

 膠着状態をするりと避けたリスさんの言葉に、智翠さんは、引き下がった。

 「うん。じゃあ、来春さん、考えてみてください」

 リスさんが綺麗に洗われた先週の番重を、智翠さんに手渡した。

 「いつもありがとう。千春さんによろしく言ってね。どのみち近いうちお店に伺うわ。写真撮りに……」

 「はははっ!」

 智翠さんが、吹き出して言った。

 「リス、母さんのコレクションを一度見せてもらうといいよ。なかなかだから」

 「なかなか?」

 リスさんが目をぱちくりさせた。

 私は、二人の幼少期からの成長が詰まっている、その千春さんコレクションに興味を覚えた。

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