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伊予柑と望春 ①

雪の坂道に、人知れず真夜中に作られる階段。

ベッカライでは、みずほさんによる伊予柑ピール作りが始まります。

智翠さんは、リスさんと来春さんを水琴庵の神事に招きます。

この伊予柑と神事にまつわることが、

後々起こる不穏な事件の端緒となるとは……。

 外は、冬真っ盛りである。

 雪はあちこちに、人の姿も隠れるほど高く積み上げられ、アスファルトの上の氷雪は、日に日に厚みを増していた。

 その上にまた、雪は降り積もる。


 深い雪に埋もれた歩道は、人の通れる幅が格段に狭くなる。

 人々は、老若男女、道を譲り合う。

 自分が歩いている前方から、小さな子どもを連れたお母さんやご高齢の方がやってくると、若者は靴に雪が入るのもいとわず、細い道から外れた場所を漕いで歩く。お母さんやご高齢の方は、若い人が自分の後に近づく気配を感じると、お先にどうぞ、と声を掛けて一歩雪の中にずれる。そんな待避所の足跡が、狭隘きょうあいな雪道の所々に膨らんでできていた。

 そうして人々が行き交ううちに、いつの間にか、積もった雪は氷のような圧雪になり、また雪が積もり、雪かきと往来を繰り返すうちに、小さな坂が出来上がる。凍りついた傾斜は、歩道の切れ間に、公園の入り口に、空き地のような駐車場に、至る所に形成される危険地帯でもあった。

 誰かが、真夜中に、そんな坂に階段を作っている。

 昨夜まではなかった雪の階段が、朝見ると角も鋭角に削られて出来上がっているので、夜中に作られていることは間違いなかった。 

 私は、毎日のように、近くの通り道に出来た階段にお世話になっていたが、誰が作っているのかその現場に行き会ったことはなかった。長く住むリスさんでさえもなかった。

 

 

 朝の気温は、マイナス十度を下回る日が続いていた。

 リスさんと私は、まだ真っ暗な朝五時半、工場へ入る。

 足下の、固い雪を踏みしめる音が、高く鳴る。リスさんの家から徒歩にして十歩程度しか離れてはいないが、その短い移動の間に、きりりと冷えた空気は体中の皮膚を収斂しゅうれんさせた。


 リスさんが工場の鍵を開け、中に入る。だが辺りは、ほぼ外と温度が変わらないくらいに冷え切っている。

 私は、指を冷たい壁に這わせ、工場の明かりを点ける。

 リスさんが、声を震わせながら言った。

 「うちも、ペチカがあったらね……母のパン屋さん仲間で、ペチカのあるお店があってね、私も何度か連れて行ってもらったけど、冬場でも工場がとっても暖かいって言ってたわ」

 「ペチカ……暖炉みたいな感じですか?歌でしか知らなくって」

 「工場の壁が一面、レンガ積みになってて、その中に薪を燃やして温めてるの。だから、壁が冬じゅう蓄熱されていて、オーブンとしても使えるのよ。もちろん、パン焼き釜として使われてたわ」

 「確かに、冬は魅力的ですね……」

 ペチカのある工場は、こんなに寒くなることはないだろう。

 「工場の水道を落とす必要もないのよ?」

 マイナス十三度の予報が出ると、リスさんは、お店を閉める時に必ず工場の水を落とす。翌日、水道が凍ってしまわないために必要なことだった。リスさん曰く、電熱線を入れていてもマイナス十三度が限界点、だそうだ。 

 私たちは、ぶるぶる震えながら、工場の隅にあるロッカーにコートを掛け、それぞれの仕事着を身につけた。


 リスさんはすぐに発酵機の中を改め、今日のお昼には焼き上がる予定の生地をミキシングし始める。低い機械の音が工場の冷えた床に伝わっていく。

 私は、お店に出ると、ガスストーブを点火する。

 リスさんは、予約タイマーを使うべきと言うが、私には冬の楽しみがひとつあったのだ。

 私は期待しながら、大きな嵌め殺しの窓のシェードを上げた。

 

 真冬になると、ありとあらゆる硝子窓には、氷の植物が、美しく葉を広げ繁茂する。

 霜の葉は、まるでこの世には住まない鳥の羽根を集め、幾重にも重ねたようで、窓の向こうの暗闇を透かして煌めく。

 大きく、窓中に匍匐ほふくして広がった葉は、映った明かりを破砕された結晶に変え、その葉脈に皓々とちりばめめた。

 私は、つかの間、その自然の造形に目を奪われ、それからすぐに仕事に掛った。

 

 この時期は、ストーブに火を入れても、全体が温まるのに時間が掛る。近い距離から暖まった空気は対流し始めるが、お店全体にそのぬくもりが行き渡るのは、もっと時間が経ってからだった。ベッカライウグイスで、冬に一番暖かいのは天井を渡る古い梁の空間だろう。

 さくらさんが、以前、梁の部分に天井扇を取り付けたらどうかと、一日お店で過ごすリスさんと私のために提案したが、リスさんは、冬はこの感じが好きだから、と言って婉曲に断った。私も、場所によって暖かさが違う感じが冬の好きなところだったから、このままそれを堪能したかった。


 そんなことを考えながら、シェードや灯りの傘の埃を軽く落とし、ショーケースの中を消毒してから、外側を磨く。カウンターと椅子を拭き上げ、いよいよ床磨きに掛る。

 リスさんがオーブンに火を入れ、今朝一番のパンの焼ける匂いが、香ばしく漂いはじめた。

 私は、お店の清掃を終えると、リスさんを手伝いに工場へ向かった。



 窓に描かれていたはずの霜の葉は、いつの間にか形をなくし、水滴に変わっていく。


 リスさんと私は、シューさんが帰国してから、またお店のカウンターで朝の休憩と朝食をとるようになった。

 リスさんが、今朝のスープを運んできてくれる。その湯気から、ベーコンと野菜の匂いが漂う。トレイには、底に薄い結晶ができた蜂蜜の瓶も載せられている。リスさんは、その瓶に柄の長いスプーンを入れ、こんこんと何度も叩いて結晶を割ると、温めたフランスパンのスライスに載せた。

 「しゃりしゃりして、美味しいですよ」

 私は、一枚戴いて口にする。

 「ふふふ」

 思わず笑みが漏れる。

 「美味しいです」

 凝縮された蜂蜜の匂いがいつまでも鼻孔に残る。それは、懐かしい匂いだった。

 ベッカライウグイスのこうした真冬のひとときは、懐かしさの残滓をあちらこちらにとどめ、パンの焼ける飴色めいた空気の中で、私は満ち足りてコーヒーを啜った。


 それから、私は、窓の水滴を綺麗に拭き取り、リスさんはお店の吊り看板を外に出した。

 


 カランコロン

 「いらっしゃいませ」

 「おはようございます」

 今日一番のお客さんは、ベッカライウグイス自慢のレーズン入りのハードトーストと、リスさんお手製のカスタードクリームがたっぷり詰まったクリームパンをお買い上げくださり、やがて、お昼近くになると、カレーパンの匂いに誘われた、みっちゃんがやってきた。


 真冬の時期は、ベッカライウグイスの、すぐ裏手に住むみっちゃんでさえも、足下に注意を払い、厚いコートに帽子、マフラーに手袋、という重装備である。

 入り口の扉の横には、真鍮のコートフックがいくつかつけられており、みっちゃんはそこに脱いだものを一式掛けた。

 私は、最後に帽子を掛け終わったみっちゃんに、前から不思議に思っていることを聞いてみた。

 「みっちゃん、あの、歩道の階段なんですけど、誰が作っているのか知ってますか?」

 みっちゃんは、思案げに首を傾げ名前を挙げていった。

 「鈴木さんかな……いや、須磨すまさんかな、もしかしてトマトゥ……いや、青年部かも……、でもぼくがやったことないな……誰かな?」

 トマトゥ……?

 結局、謎が増えてしまった。



 お正月も終わり、すっかり通常運転に戻ったベッカライウグイスで、リスさんは春に売り出すパンを何にしようか、考えるようになっていた。

 「来春こはるさん、何か作ってみたいパンの種類とかあります?」

 私は、うーんと考えた。

 「あ!ブリオッシュ、とか作ってみたいです」

 リスさんは笑った。

 「ふふふ。あの帽子みたいにちょこんとしたの、可愛いですよね。生地もリッチで、まだ早春の口当たりって感じで、……いいわね!」

 「私、チョコとかナッツとか、こってりしたのも食べたいですけど、いちごもいいですよね。生クリームと一緒に乗せたら可愛いかも」

 「ブリオッシュに、チョコレートクリームを入れたのといちごのと、二つ試作してみますか?」

 「うわ、それは美味しそう……プラリネ的な、ナッツ風味の……」

 「美味しそう」

 リスさんと私は、ショーケースに揃って並ぶ、チョコクリーム入りのブリオッシュと、生クリームといちごの飾られたブリオッシュを想像した。

 ああ。帽子の上に、アーモンドスライスを一枚、こっそりのせてみたい……。



 だが、私たちの想像はころっと変わってしまった。

 その夜、二人で食材の買い出しにスーパーへ行ったのだ。


 外は真冬だというのにもう、八朔、不知火、伊予柑、さまざまな柑橘が出回る時期がやってきていた。

 せとか、甘平、はるか、私が子どもの頃には見かけなかった、とろけるような果肉の品種も最近は手軽に手に入るようになった。

 まだ雪は深く寒さも増すというのに、果物売り場は春のようである。


 私たちは、買い物した物をそりに乗せ、帰り道を急いだ。

 リスさんと私は、途中、誰かが作った階段を上り下りしながら、そりは、その脇に出来ている坂を引き上げ、

 「やっぱり、春を目指して、濃厚なのは卒業しますか」

 「そうですね」

 ということになった。

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