ベッカライの初売り ①
一月三日、午後、リスさんと私はベッカライウグイスの鍵を開けた。
厚い扉は木製で、真鍮の柵が小窓に取り付けられている。有機的な弧を描く取っ手に手を掛け、リスさんが力を込めて押した。まるで古城の入り口を阻むためのように造作された扉は、重たい、何十年もの年月を経た音を立てて開く。リスさんと私は滑り込むようにして、しんとした店内に入った。
リスさんは、工場の明かりを点け、明日のパンの仕込みに入る。今年初めて、ミキサーを動かし、パンを捏ねる。出来上がった生地を、翌朝に使うまで発酵機に寝かせる。デニッシュ生地には、バターを折り込んでいく。
私は、薄暗い店内の空気を、四日ぶりに吸い込んだ。乾燥した空気の中に、消えることのない、長い年月に閉じ込められた小麦粉やバターの匂いが香る。
しばらく火を入れていない室内は、息も外と変わらないほど白く流れた。すっかり冷え切った床板が、ぎしぎしと小さく軋んだ音を鳴らした。
ガスストーブを点火し、お店で一番大きな嵌め殺しの窓に掛った、シェードを上げる。
弱い陽光が、羽鳥さんから受け継いで磨いてきた、焦げ茶色の床に長く伸びると、辺りはまろやかな光を宿した。
今日から、またこの床を磨くのだ。
こめかみの辺りがきりりと引き締まるのを感じる。
私は、固く絞ったモップで、床の油分を損なわないように節が落ちてしまわないように、だが力を込めて磨き始めた。
店内には、リスさんが煮詰めだしたクリームから立ち上った、温かく甘い香りが漂いだした。
翌日、ベッカライウグイスは初売りの朝を迎えた。
午前十時。
今年初めての開店を迎える。
カランコロン
「いらっしゃいませ!」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
新年初めてのお客さんは、女性の方だった。
私は商家に縁はなかったが、なんとなくその言い伝えは聞いたことがあり、リスさんと目配せして喜んだ。
人々が並んだり詰めかけたりするわけではないが、ご近所の常連さんたちは、ご挨拶がてらパンを求めに来てくれ、遠方から車でやってくる人で駐車場もすぐにいっぱいになった。
私たちは、年末のうちに準備したお年賀のクッキーを、お買い上げいただいたパンの下にそっと忍ばせ、「ありがとうございます。よい年になりますように」と心からのお礼と願いを込めた。
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ!」
お昼のかき入れ時の前には、みっちゃんがいつものようにやってきて、カウンターの一角に陣取る。知っているお客さんを目に留めると、挨拶を交わす。みっちゃんは、退職した体育の教師であるが、ジャージ姿でいるところを一度も目にしたことはない。髪は寸分の狂いもなく、近所の床屋さんの安井さんによって整えられ、みずほさんがアイロンを掛けた清潔なシャツをいつも身につけていた。ただ、一度、みっちゃんって、ほんとうに体育の先生だったのだな、と実感させられたのは、シューさんがベッカライウグイスにやってきた一件の時だけである。
私は、みっちゃんの元へコーヒーを運んだ。注文はされていないが、ほんのり紅い梅あんパンとともに。みっちゃんは、甘いものが大好きである。
「お待たせいたしました。今年もよろしくお願いいたします」
木製のトレイを手に、私は新年の挨拶をした。みっちゃんとみずほさんのところには、既に新年のご挨拶に伺っていたから、これはお店としての儀礼的な挨拶だった。リスさんと私は、初詣の帰り道、神宮近くで特別に売り出されているお餅を求め、みずほさんからいただいたおせちのお礼にお持たせした。みっちゃんもみずほさんも、寒い玄関に出てきて、ことのほか嬉しそうに笑ってくれた。
「来春さん、こちらこそよろしくお願いします」
みっちゃんは、いたずらっぽく笑いながら、新年二度目の挨拶に頭を丁寧に下げた。
「あら、かわいいわねー」
「きらきらしてる」
「おもち!小さい蜜柑が載ってるよ」
親子連れには特に、鏡餅パンが人気である。
暮れに漬け込んだ金柑の砂糖漬けに、リスさんは、白ザラ糖を混ぜたグラニュー糖をさっとまぶした。大小の結晶が金柑の蜜の色を透かし、蜜柑色の宝石に見えた。それを、年末に慌てて注文したお正月飾りのピックで、鏡餅の頂上に止めてある。
ご年配のお客さんには、紅白の梅パンが好まれた。特に説明には、「水琴庵の特製梅餡入り」と書き添えた。
「水琴庵なんて、すごいところの餡子を使っているんだね」
はじめていらっしゃるお客さんは驚かれる。リスさんは
「水琴庵の七代目と幼なじみなんです」
とさらりと説明するが、それは特別なことなのだと実感させられる。
「ありがとうございます。今年もよろしくお願いします」
そっと忍ばせたはずのお年賀のクッキーに気がついたお客さんは、
「あら、綺麗!ありがとうございます!もったいなくて食べられないわ」
と驚かれる。
馬と馬蹄の抜き型に、アイシングでお洒落をした、リスさんにとってはご愛顧くださるお客さんへのささやかな感謝とお礼のお品だった。リスさんらしくただそっと隠すように添えられていたものだったが、
「まぁ。可愛い!」
「飾っておきたいけど、どのくらい持つかしら?」
「お馬さんだ!」
とあっという間に人気になった。
昨年の、年の瀬の夜なべを私は思った。いつもの仕事に加え、山ほどのクッキーをリスさん監修の元に焼き、リスさんは次々とアイシングを絞ったものだった。それを二人、セロファンの袋に詰め、お祝いのシールを貼って仕上げた。段ボール二箱分の、お菓子の山が出来上がり、レジカウンターの下に置かれて、初売りの今日、お客さんにお年賀として添えることができたのである。
感謝の気持ちを喜んでくださるお客さんの姿が、なにより私たちへのご褒美でありがたかった。
カランコロン
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ」
さくらさんである。
「リスちゃん、来春さん、あけましておめでとう」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします」
さくらさんは、唇を横に広げた笑顔で、私たちにも同じ表情を伝染させる名人である。さくらさんは、ショーケースを見るなり声を上げた。
「あら、かわいい。上に載ってるの、何?」
「ふふふ。金柑です」
「あらー。金柑って、綺麗なのね!」
さくらさんは、みっちゃんの同期で、中学校で美術を教えていたが退職し、今は市のカルチャー教室で陶芸を指導している。もともと専門は陶芸なのだが、リスさん宅で私が住まわせてもらっている部屋のインテリアを監修してくださったそうで、その洗練された感性の素晴らしさを私は憧憬していた。
だから、今日も、コートを含め身につけている色彩の合わせ方が素敵だな、と思う。
「どうぞ」
みっちゃんの隣に座ったさくらさんに、私は注文の鏡餅パンとコーヒーを持って行った。
「ありがとう、来春さん」
さくらさんの笑顔に、私は、思い切って言ってみた。
「さくらさん、前から思っていたんですけど、服の色合わせがとっても素敵ですね」
「あら、来春さん、それはありがと」
さくらさんは、コーヒーの表面の湯気をふうふうと吹いてから、一口啜った。
「私ね、実は平安時代に生まれたかったのよ」
突然の話に、私は目を丸くして尋ねた。
「そうなんですか?どうして……」
さくらさんは、愉しそうに答える。
「平安時代ってね、日本で初めて彩色された陶芸が生まれた時代なの。それまでは、渡来人から受け継いだものを作ってきたんだけど、色々金属を混ぜ込んだ釉薬を作ったりとか、日本人が工夫を始めた時代なの。その頃、緑色の釉薬で焼かれた陶芸が残ってるんだけどね、ほんとうに綺麗な、なんていうのかな、奥ゆかしい若草色で、ほんのりオレンジがかってもいてね、そんな作品が生まれた時代に生きて、私も窯を営んでみたかったなって」
私は、思いもかけないさくらさんの話に聞き入った。
すると、さくらさんは、笑って言った。
「なーんてね。ま、それはそれで本当なんだけど、十二単を着てみたかったのよ!」
「……十二単……?」
そう言われてみると、さくらさんが身につけている服の素敵さは、重ねられている色彩が醸し出す、色や季節の瑞々しさに思えてきた。
「十二単の重ねの色目って、たくさんあって、どれにも意味や名前があるの。それが、補色の色目でも、対照の色目でも、なんていうのかすべてに透徹された美しさがあるのよね。それに憧れるの」
そういえば、さくらさんは、真夏以外はほとんど重ね着をしている。コートの襟から少しだけ見えているカーディガンやストールの様々な色合いは、綺麗だったり、見る者をどきりとさせる渋みのある合わせ方であったり、確かによく考えられたものだと思う。
「私ね、時々弘子さんやみずほさんと一緒に買い物に出掛けると、コーディネートして勧めるんだけど、二人ともやんわり断るのよね。どうしてかな?」
さくらさんは、首を傾げて言った。
「さくらさんの選ぶ色合わせは、やっぱりさくらさんが一番似合うからじゃないですか?弘子さんは弘子さんでいつも綺麗だし、みずほさんは、飾らない優しいところが素敵だし、人それぞれなんじゃ……?私は、さくらさんの色合わせ大好きですけど、見ていて素敵だな、って思うだけで十分で、自分に同じように合うとは思えません。そういうのもあるんじゃないかと思いますよ」
みっちゃんが、コーヒーカップに口を付けたまま、隣でうんうん、と頷いている。
「そっか。無理に勧めるのはよくないわね。来春さんが褒めてくれるし、それで十分だわよね、ありがと!」
その後、赤間さんが、さくらさんの色彩感覚をお借りしたいと申し入れてきた。赤間さんのお嬢さんが、来年成人式だそうで、振り袖選びに付き添って欲しいという。さくらさんの手腕が遺憾なく発揮され、赤間さんもお嬢さんもそれは美しく、麗しいコーディネートになったそうで、私たちはその記念写真を見せてもらい、やっぱりさくらさんはすごいな、と思ったのであった。




