願わくは、夏の夜の夢 ②
「ぼくたち、当選したんですよ…………」
やおら安井さんは語り出した。
私は、もう分かっているのに、心の中で尋ねた。
ぼくたちって…………?
「真夜中の、遊園地で遊ぼう」
小さな声で、少し早口に安井さんは言った。
まるで、誘惑を耳打ちされたように、私は首元がそそけ立つのを感じた。安井さんの口の粘膜が、不思議に共鳴している。
その仄暗い口腔の囁きは、安井さんの向こうに見える、夏の午後へと向かう光景にあまりにもそぐわない。私は、窓硝子の透明な厚みがいや増した感覚に襲われた。
今朝は、あれほど喜んで飛び出した日差しの溢れた庭や、小さな木漏れ日のかささぐベンチが、急に作り物に変わってしまったようで、安井さんの声音がすべてを塗り替えてしまったと感じるのは、私の思い込みに過ぎないのだろうか。
大きな雲がベッカライウグイスの上を傘となって覆い、一時、辺りが翳った。
安井さんの向こうで、たいちゃんが、フォークを持ったまま、食い入るような目でこちらを見ている。
安井さんは、続けた。
「そこは有名な、古い遊園地で、誰もが子どもの頃には訪れた場所だった。
…………吊り下げられたブランコが回る遊具や、ロケットが敷地に聳えて、……小さな子どもが乗りたがる汽車のために、線路は縦横無尽に敷かれてた。……コーヒーカップやメリーゴーランドやゴーカートのサーキットもあった。
夏には、巨大な黒いテントが出現するんだ。お化け屋敷だね。中に入るには、巨大なピエロの口の中を通らなくちゃいけない。真夏なのに、その中だけ空気が冷たくて、古い作り物の人形が、天幕と一緒に年月を重ねてる。
季節を問わず、一番人気だったのは、大きな蛸の遊具だった。大蛸の脚に、一人乗りのカプセルがついていて、上がったり下がったりしながらぐるぐる廻る。……愛嬌のある目をした蛸だった……」
安井さんは、恍惚とした目を翳った庭へ移した。多分、その懐かしい遊園地の情景を思い浮かべていたのだろう。けれど、その目の焦点が窓枠へ戻ると、表情は固く変わり、私は空恐ろしくなった。
「学生の夏休みで、ぼくたちはバイトに明け暮れていたんだけど、仲間の誰かが申し込んでいたんだ。
『真夜中の遊園地で遊ぼう』
この企画は、たぶん、毎年じゃなかったけれど、時々、思い出したように催されていて、『行ってきた』っていう人の噂を聞いたこともあった。
どこにでもある、夏の夜のお楽しみ、っていう募集だった。
誰も、抽選に当たるとは思っていなかった。けど、もし当たったら女の子たちへの話の種になるし、ちょっとだけバイトを忘れて、夜の貸し切り遊園地で羽根を伸ばそうぜって。その友達は、半分ふざけて、面白いニックネームを往復葉書に書いて申し込んだんだ。
ぼくは、気の利いたバイトが見つからなくって、ホームセンターの棚卸しとか、スーパーの棚卸しとか、棚卸し三昧の夏休みで、いつも商品を運んでた。若い学生だから、力があると思われていたんだと思うけど、どだいぼくに力があるはずはなくて、こうして床屋になって一番重たい物と言えば鋏…………。
昼も夜も分からなくなった店内の、長い蛍光灯の下で、どこも涼しいはずなんだけどぼくは汗だくで、首に巻いたタオルもいつもぐっしょりだった。
今日も、棚卸しか……って思いながら、朝布団から起き上がったときだった。
電話が掛かってきたんだ。
『おいっ、安井!遊園地、当たったからみんなで行くぞ!』って……」
雲が行き過ぎ、ベッカライウグイスの庭は、再び光に包まれた。
だが、世界の隔絶は大きくなっている。
「そこは、少し遠くの町からも親子連れが遊びに来るような遊興施設で、遊園地の隣には、小さな水族館が、同じ敷地に並んであって、ぼくにとっては、子どもの頃から何度も行ったことのある馴染みの場所だった。
当時は娯楽も少なかったから、高校時代には男友達と出かけたこともあったし、なんなら大学生になってからも、遊びに行った。
ホットドックを食べて、コーラを飲んで、遊具に乗るんだ。大笑いして、子どもみたいに歓声を上げる。……お化け屋敷にも何度も入ったことがあるから、細かい趣向も織り込み済みで……。
生涯で一番多く行った遊園地だった。
けれどそこは、ぼくが子どもの頃から、すでに古びていた記憶しかないんだ。なにか、新しい乗り物が出来たり、ペンキが塗り直されていたり、そんなことはついぞなかった。
どの乗り物も、どの場所も、すべてがまるで思い出の中にあるだけの格好だった。思い出とどこか似ていてどこか違うような、そんなノスタルジーや享楽をいっしょくたにした、不思議な場所だった。
どの遊具も、塗られているペンキの色は、元の色が分からないほどくすんで、あちこち掠れたり剥げたりしてた。みすぼらしかった。
遊具だけじゃなくて、立て看板も、置かれてる木のベンチも、鱗みたいになった表面から色が剥げ落ちて、日に焼けて、見たことのない印象だけの色彩に変わっている。
どこもかしこもそうだ。
罅割れたモルタルには、黒い染みが蔓延っていて、ありもしない地図みたいに辺りを駆逐し続けてた。
馴染みの大蛸は、はじめは多分、真っ赤だったんだろうけど、ぼくが子どもの頃の記憶の中では、もう、汚れた夕日色に褪色してた。
粗悪なコンクリートの池の真ん中で、頭じゅうから、土にまみれた涙を流して見えた。その涙は、コンクリートの池の水を余計に濁らせるんだ。大蛸の脚につけられたカプセルは、無数の傷と傷に入り込んだ長年の汚れに覆われて、乗り込んでも、もう周りがよく見えなかった。
そんなだったけど、なにはともあれ、バイト漬けで楽しいことのなかった学生には、『真夜中の遊園地で遊ぼう』は、タダで遊べて話の種にもなるしで、ぼくらは当てた奴をみんなで褒め称えたんだけど、仲間の中で一人だけ、あんまり気の進まない奴がいたんだ。
あろうことか、その友達は、自分だけじゃなく、全員で行くのをやめようって言い出した。ぼくたちは信じられないとばかりに、説得したんだ。
真夜中の遊園地なんて、普段入ることなんかできないよ。
裏の世界が見られるんじゃない?
ぼくらには、気晴らしってのが必要なんだよ。
女の子と行ったときに、珍しい話ができる。
そうして、その友達は、諦めたんだ。
自分だけ行かないことも出来たけど、諦めて、ぼくたちに付き合うことを選んだ。
そして、指定の日がやってきた。
その日は、やたらと暑くて、蝉の声が充満した空気が息苦しかった。けれど、突然、夕立が驟雨みたいに降りだして、蝉を全部樹から落としてしまったみたいに、夜になると静まりかえった。
実家通いで、運転免許を持ってる友達が、親の車を借りてきてくれて、ぼくらはぎゅうぎゅう詰めに乗り込んで出掛けた。
真夜中の午前0時、ぼくたち仲間全員が、遊園地の閉ざされた入り口の前にいた。
遊園地は、誰かが入り込むことがあるからだろうか、ものすごく高い金属の柵で囲われていた。
ただ、それもペンキが剥げ落ちて腐食の進んだ柵だった。赤錆が生きた模様みたいに絡みついてた。
それでも、塀の役割は果たしていて、観音開きになる門には鎖が巻かれ、南京錠が掛けられていた。
『まぁ、自由に入り込めたら、入場料がいらなくなるからなぁ』
『棲み着いてたりして』
誰かの話す声が、静寂に消えた。
夜は、どこか濡れそぼって、湿気が忍んでいるような、それでいてうだるように暑かった昼間が嘘みたいに、涼しくなっていた。
その場に集まったのは、ぼくたちだけじゃなかった。
他にも、抽選に当たった人たちが、所在なく屯していた。
若いカップルと、男女4人の、なんていうか当時流行ってたダブルデートみたいな人たち、それからぼくら。彼らから見たら、ぼくらは野暮ったい学生で、野郎ばっかりでなんともつまらなそうに見えたかも知れないけど、ぼくらにしてみちゃ、気も使わないであれこれ自由にいられた、最高の面子だった。
南京錠の掛った高い柵の前で、ぼくたちは、だらだらとしながら、バイトのことやレポートのことを話していた。そしたら、誰かが、『あっ』と叫び声をあげた。
なんだろう?
声を上げたらしい、女の子の視線の先を、全員がじっと見た。
辺りには、駐車場を照らす街灯しかなかった。遊園地は、本当にすべての電源を落としていて、何の色も分からないくらいに、その奥は暗がりだった。だから、なにか黒い物がもぞもぞと動いていて近づいてくるのも、本当に見えているのか見えていないのか区別が付かなかった。
ようやく、街灯の薄明かりがその動く影を映し出した。
ありえない風体で、よたよたと左右に振れながら近づいてきたのは、ピエロだったんだ。
塗り込んだ白い顔に、耳まで裂けた真っ赤な口を描き、その口から赤い物を出して見せたように丸い鼻をのせていた。瞼は青く塗りつぶされ、手には、肌が見えないように汚れた手袋を嵌めている。
口角の横に付けられた、髪のもじゃもじゃした塊は、ところどころ焦げているのが薄明かりの中でも分かった。
くたびれて生気のない表情は、こんな真夜中に労働させられていたからだろう。
およそ体に合わない大きな衣装を着て、脱げそうな三角帽を垂れ、作り物の不格好な靴を履いている姿が、ピエロの生活そのもののようでもの哀しかった。
ピエロは、精一杯やろうとしていた。
その背に隠していたスケッチブックを、柵の向こう側から、我々の前に見せると、一枚ずつめくりだした。
〈ようこそ、真夜中の遊園地で遊ぼう!へ!!〉
〈今宵、眠っていた遊具が、突然動き出します!〉
〈お好きなだけ乗って、楽しんでください!〉
〈水族館も、開いてます!〉
〈では、招待状を拝見します〉
ピエロは、一言も話さなかった。
一人、『あのぅ、遊具は、誰か運転をしてくれるんですか?』と質問をした女の子がいたが、それにさえも声を出さず、スケッチブックに書き込んで回答した。
〈遊具の運転は、簡単。運転所に書いてある。ピエロが巡回して運転するし。自由に触ってもかまわない。ただし、故障したら、請求書がいく〉
それから、ピエロは、ポケットに手をつっこみ、小さな鍵を一つ出して見せた。
それを南京錠に差し込むと、カチャリと回す。
遊園地への扉が、頑なに錆びた音を響かせて夜の向こう側へ開いた。
我々一行は、飲まれるように中に入っていった。
昏い、夜の底へ。
ぼくらは、招待状になっていた葉書を見せて、一番最後に、ゲートを通り抜けた。
気がつくと、ピエロは、いつの間にか姿を消していた。
ぼくたちは、遊園地の出発点に取り残された格好だった。
けれど、はじめからそんな趣向なのだろう、と思った。
ピエロは、遊具を巡回する、と自分で書いていたし、ぼくらは真夜中の遊園地を堪能できれば、それでいい。
もう、この頃にはすっかり夜目に慣れてきて、ぼくらは僅かな月明かりを頼りに、あちこちを自由に巡ることができた。
『それにしても、電飾の一つくらいあったっていいじゃないか』
ぼくは、隣を歩く仲間に言った。その友達は、相づちを打った。
『ほんとにな。俺、鳥目なんだよ』
『お前、ちゃんと飯食えよ』
別の友達が、間に入ってきた。
『ぎりぎり、本買ったんだよ』
『明日、家来いよ。唐揚げ食わせてやるよ。俺、夏じゅう家で鳥捌いてたから、そのくらいお安いご用さ』
その友達の家は、精肉店だった。ぼくが、夏中棚卸し三昧なのと同じように、精肉三昧な学生もいるんだ、と思った。
『おい!明日は、夕方から家で唐揚げパーティーするぞ!みんな来いよ!』
『おぅ!』
この催しの参加に一時反対していた友達も、ぼくらを振り向いて笑って見せた。
記憶の中には、ほんの微少に黄味がかった、灰色の印画紙に閉じ込められた世界が、思い浮かぶんだ。
灯りのない世界は、どこもかしこも色がない。
灰色の濃淡が、砂粒みたいに押し寄せたり、散り散りになったり、……印象だけだった世界を、頭の中に呼び覚ますんだ。
……ぼくらの横で、止っていた遊具が、急に動き出した。
さっきのピエロが動かして回っているんだろう、と思った。
『おい、乗ろうぜ!』
既に緩やかに回り出していたコーヒーカップに、ぼくらは飛び乗った。
『回すやつ、こっちね。回るのが嫌なのは、別のに乗れよ』
ぼくは、こんな夜中に、招かれた遊園地で吐き戻すなんて嫌だったから、大人しく回さないほうのカップに乗った。
それでも、いつの間にか回転が速くなっていって、真ん中のハンドルをしきりに回してる仲間のカップは、人が振り落とされそうになっていた。
カップのくっついている大きな円形の台座までもが、回る速度を増した。
ぼくは、カップの縁に、両手を広げて掴まった。
景色がものすごいスピードで横に流れては戻る。
風を切る音が、耳をつんざく。
振り回された頭が、耐えられなくなりそうだった時だった。
轟音に混じる声が聞こえた。
『ダメだ!飛び降りるぞ!!』
『降りろ!!』
ぼくは、カップの底に這いつくばって台座へ転げ落ちた。
別のカップが、ぼくめがけてぶつかってくる。
視界が鳴動し、頭がぐらぐらと定まらない。体を引き摺るしかない。
『こっちだ!!』
仲間に呼ばれ、ぼくはやっとのことで大きな台座から飛び降りた。




