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願わくは、夏の夜の夢 ①

 「うわぁ、リスさん!」

 早朝、ベッカライウグイスの大きな窓のシェードを上げた私は、リスさんを呼んだ。

 まるで、ひと夜の魔法である。

 リスさんは、工場からパタパタとやってきた。

 「どうしたの?!」

 

 生きた壁画のように、庭が、その姿を変えていた。

 

 前日までは、木製の塀の中央にあったはずのベンチが右手にずらされ、その上には、緑を絡ませた小さなパーゴラを戴いていたのだ。

 「うわぁ!稗田さん?!」

 リスさんも、思わず歓声を上げた。


 私たちは、庭へ飛び出した。


 夏の朝が、刈られたばかりのような草の匂いを鏤めて輝いていた。

 眩しくて、瞳の中で景色が白く抜ける。

 稗田さんが、新しい世界を連れて来たのだった。


 リスさんと私は、ベンチに腰掛け、頭上のパーゴラを見上げた。

 薄く濃く、涼しげに重なり合った葉がそよいでいる。緑が、水面の幻影になり、見えない小さな魚が音もなく戯れる。


 「……これ……ツルウメモドキ……?」

 「えっ……」

 リスさんと私は、昨日まで木製のフェンスに匍匐ほふくしていた蔓を思い出した。もう、フェンスにはその姿はない。すべてパーゴラの天井に誘引された後だった。

 「すごいわね」

 リスさんが感嘆し、私も溜息を吐いた。

 「稗田さんねー」

 優雅な朝だった。


 

 だが、開店直前になって、水を撒いておこうと再び庭に出た私は、軽い立ちくらみに額を押さえた。

 辺りは、もうひどく気温が上がっていた。

 監視されているエルニーニョとラニーニャはどうなっているのだろうか。

 

 私は、手早く水栓にホースを繋ぎ、庭全体に水を撒いた。

 もはや、真昼のような太陽の行状である。

 石竹は終わり、その手前に私の撒いたニチニチソウがぐんぐんと伸びたものの、花は元気をなくしている。私は、シャワーのようにあらゆる場所へ水を行き渡らせた。


 額に汗が滲んだ。

 唯一、今朝見つけたパーゴラの夏葉が、小さな木蔭を庭に落として涼しげだった。




 カランコロン

 「こんにちは」

 床屋さんの安井さんである。

 「いらっしゃいませ。ゴーヤ、今年もすごいですね」

 私が床屋さんの窓辺に伸びるゴーヤカーテンを褒めると、安井さんも小さな声で応えた。

 「さっき見たけど、お宅の、ツルウメモドキも、いい日陰だね」

 私たちの間には、ご近所の親愛の関係が育っている。


 「おや、今日、みっちゃんは……?」

 安井さんはカウンターを見て言った。

 「みっちゃん、最近、ボランティアを始めたんです。今日はもうすぐ来ると思うんですけれど……」


 弘子さんに誘われて始めたボランティアは、みっちゃんの毎日に躍動をもたらした。

 もともと子どもたちとあれこれするのが好きなみっちゃんである。夜に、リスさんとおかずを持って家を訪ねると、受け持ちの子どもたち一人一人のために、綿密な指導計画を書いていたりする。

 生徒もそう多くはないようだし、週に4日ほどの活動だったが、みっちゃんは、みずほさんがいなくなってからやっと楽しみを得たようで、リスさんと私も胸をなで下ろした。



 床屋さんの安井さんは、小さな声で、夏野菜のキッシュを注文すると、カウンターへ移動した。どうやら、お昼からのお客さんは入っていないようで、このままみっちゃんを待つようである。


 

 カランコロン

 「こんにちはー」

 少し疲れた様子の少女が来店した。

 たいちゃんである。

 半袖の白いワイシャツにとまる、チェックのリボンが傾いている。

 たいちゃんは、開店記念日のたまごで大当たりを掴み、そのイベントを楽しみにしている女子高生だった。


 リスさんが、たいちゃんを迎えた。

 「あら、たいちゃん!いらっしゃいませ。今日は?学校もう終わったの?」

 「そうなんです。期末考査がーやっとーー」

 たいちゃんは、疲れた様子で答えたが、もう次には、生き生きとした目を輝かせてショーケースに魅入った。


 たいちゃんは、以前からときどきベッカライウグイスを訪れていたが、大当たりを引き当ててからというもの、訪れる頻度を増していた。


 たいちゃんは、パンが大好きなのだ。


 「わ、新しいのが出てる!」


 既にリスさんのあらゆるパンを食べ尽くし、その研究に余念がなかった。古賀さんとは、また別の次元でリスさんのパンを味わい、使われている材料やその風味までをよく分析していた。探求者である。

 たいちゃんが宣伝してくれているからか、不思議と同じ制服を着たお客さんが目に見えて多く訪れるようになっていた。

 リスさんは、「たいちゃんにお礼をいわないとねー」と張り切って女子高生の好きな味を、これまた研究中である。

 そこで、今年の夏に、新たに売り出したのが「夏野菜のキッシュ」だった。


 「夏野菜のキッシュを、お願いします。あと、マイボトル、いいですか?」

 たいちゃんは、マイボトル愛用者で、ベッカライウグイスのコーヒーは飲んだことがなかった。律儀に毎回、そう尋ねる。

 「もちろん、構いませんよ」

 とリスさんは答え、たいちゃんはにこやかにカウンターへ向かった。




 「は~ぁ。リスさんのこのタルト生地!最高ですね!」

 「ふふふ」

 

 リスさんは、たいちゃんのところへやってくると、お礼を言った。

 「たいちゃん、いつもありがとう」

 「私、リスさんのパンの大ファンですから!この街一番であることを確信してます!このタルト生地!折り込みじゃなくって、バターも極限まで少ないですよね?は~ぁ。夏に最高です!」


 たいちゃんは、はっ、と気がついて背筋を伸ばした。

 「リスさん、私、一日パン屋さんで、このタルト生地を教わりたいです!」

 リスさんは嬉しそうに答えた。

 「もちろん、いいですよ」

 「私もキッシュを、折り込み生地じゃなくって作るんですけど……バターも控えめで。でも、いつも生地が伸びやすくなっちゃうからか、焼き縮みもあるし、ぱたって、焼いた後カットすると縁が倒れる確率が高いんですよー。もちろん、ちゃんとした包丁を使ってます!

 リスさんのも、同じくらいの厚さなのに、すっごくしっかりしてる」

 「縁にね、大きめの穴をあけてるんです」

 「大きめの?」

 「そう。そこに卵液が密着するように」

 「なにで開けてるんですか?……私、いつもフォークだから……」

 リスさんは、含みがあるように笑いながら答えた。

 「ふふふ。特注ピケローラーです」


 ああ、あれは特注だったんだ。

 私は、何も疑問に思わず使っていたピケローラーを思い出した。


 「同級生に、そういう職人さんがいて作ってもらったの」

 「えーっ!いいなー。見たいです!」

 「ふふふ。一日パン屋さんのときに、心ゆくまで見てくださいね」

 「うわぁ~。もう楽しみで仕方ない!」

 たいちゃんは、一度両腕をぴんと斜めに伸ばすと、夢見るように弛緩した。リスさんは、そんなたいちゃんを微笑ましく見ていた。



 カランコロン

 「こんにちは」

 「いらっしゃいませ」

 お昼のベッカライウグイスは、お客さんが入れ替わり立ち替わり訪れ、夏野菜のキッシュはどんどん売れていった。


 カランコロン

 「こんにちは……」

 「いらっしゃいませ!」 

 そして、とうとうみっちゃんがやってきた。


 その声を聞きつけた床屋さんの安井さんは、入り口を振り返った。

 みっちゃんは、すっかりおやつれれのご様子だった。

 「みっちゃん、大丈夫?今日、外だったの?」

 みっちゃんは、ボランティア教室の隣にある公園で、体育の指導をすることもある。

 「こんな暑さの中でそんなことしたら、クレームが来るでしょ。今日は、大人しく教室で歴史を教えてたね。ただ、帰り道が暑くて」

 私も、ちょっと庭に出ただけで汗が吹き出したことを思い出した。

 「アイスコーヒーにしますか?」

 「ホットで」

 そこは、ホットなみっちゃんだった。


 みっちゃんは、クリームパンを注文すると、ちゃんと空いているいつもの席へ向かった。

 今日は、すでにその隣に安井さんが腰掛けていた。


 「やぁ、みっちゃん、暑いね」

 「……うん。君のところは、涼しいよねいつも。そろそろかな、って思っているんだ」


 みっちゃんの言うそろそろとは、散髪の時期だろうか、それとも…………。

 私は、ごくりと固唾を飲んだ。そして、懸念を払拭しようとした。大丈夫。去年よりも時期が早い。まだだ、今日じゃない、と自分に言い聞かせた。



 だが、床屋さんの安井さんは容赦なく、消え入りそうな声で呟いたのだった。

 「みっちゃん、……いいかな……?」


 あぁ。

 私は、りすさんに助けを求めるために、その顔を見つめた。「工場で仕込みでもしましょうか?」と言って欲しいが、今はそんな時間ではない。3時に並べるパンも、もう成形が終わり発酵が進むのみである。


 「来春こはるさんも」

 みっちゃんが、私を呼んで、席を作る。忘れもしない、鼎談ていだんの格好である。


 私は、覚悟を決めて、用意された椅子に座るしかなかった――。 

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