優しいお客さん ①
初夏である。
床を磨いていると、開け放たれた扉から、暖かな空気が流れ込んでくる。それは、空と地面の両方から、ゆるやかに踊るような熱を注がれた、まだ夏には届かないたおやかな息吹だ。
私は、モップの柄に凭れ、つかの間、庭の緑を眺めた。
ベッカライウグイスは甘夏デニッシュの季節を迎えていた。冷えたショーケースに並ぶのを、昨年に続きお客さんが喜んでくださり、リスさんと私もとても嬉しい。
さ、早く掃除を終わらせて、甘夏デニッシュを仕上げなければ。
去年は、リスさんの隣で、教わるまま見よう見まねで作っていた私も、今年は少し違う。つもりである。
気候に合わせた細かな温度調節まではまだ難しかったが、生地の成形や、カスタードクリーム作りはすっかり手慣れたものになった。と言えなくもなかった。
そんな甘夏デニッシュを愉しみながら、みっちゃんと弘子さんが、カウンター席に並んでコーヒーを飲んでいた。
大きな嵌め殺しの窓からは、庭が鮮やかに煌めいて見えた。
少しだけ強くなった陽光が、あらゆる輪郭を呼び醒ますように降り注いでいるせいだ。
春に稗田さんが植えてくれた桃色の石竹が、増えて咲き誇り、木製のフェンスの周りを彩っていた。
「ミジンコ」
弘子さんが、確かにそう言った。庭に目を向けたまま、首を少し傾けている。
みっちゃんが、ゆっくりと弘子さんを見た。
「みっちゃん、ミジンコの自由研究したでしょ」
まずみっちゃんは口を開け、それからやや間があって答えた。
「したけど……?」
弘子さんは、みっちゃんを一瞥した。
「……困ってるのよね」
みっちゃんは、わけが分からないとばかりに眉を寄せた。
「……何に?」
弘子さんは、溜息を吐いて首を振った。
「いいわ。ミジンコは」
「いいの?」
「いいわよ、もう」
「…………なら、いいんだけど」
リスさんが、コーヒーのお代わりを注ぎにカウンターへ行った。
「ありがとう、リスちゃん」
「いいえ」
「そういえば、最近、古賀さんを見ないわね?」
弘子さんが、コーヒーの湯気をふうっと息で流しながらリスさんに尋ねた。
リスさんは、にっこり笑って答えた。
「音楽祭に行ってるそうですよ?」
「そうなの?」
弘子さんは、その先を促すように優しく言葉尻を上げた。
リスさんは、戸惑いはしない。
「なんだか……外国の音楽祭みたいですね」
「そうなんだ」
弘子さんが、美味しそうにコーヒーを一口啜った。
弘子さんに、もう一押しして欲しいな、と私はショーケースの奥から思念を送ったが、無理な話である。
弘子さんは、古賀さんの話題をさらりと終わらせてしまった。
リスさんは、この頃、少し考え事をしている時がある。ぼんやりと窓の外を見ていたり、唇を結んでじっと一点を見つめていたりする。
何か悩み事ならば相談に乗りたいところだが、自分で考えた方がいいこともあるのだし、と私はまだリスさんに声を掛けられずにいたのだった。
「そういえば、みっちゃん。私、ミジンコ以外のことでも少し困ってることがあってね」
みっちゃんは、何?と問いたげな顔を弘子さんに向けた。
「私のやってる市のボランティア、人員が足りないのよね」
「……うん」
「みっちゃんって、体育の他に社会も持ってたわよね?」
「……うん」
「特に、歴史。国同士の関係や流れが難しくてね……それが分かるといいわよね。体育もね、苦手なばっかりに学校へ足が向かなくなる子もいるの」
弘子さんは、退職して以来ずっと、市が運営する会で、学校をお休みしている中学生たちの勉強をみている。学校は苦手でも、勉強したい子どもたちはたくさんいるという。むしろ、どんな子でも学びたいのだ、と弘子さんは言っていた。
カランコロン
「いらっしゃいませ」
「よいしょ。こんにちは」
小柄で、穏やかに頬を丸くして微笑む方が、一生懸命、重たい扉を押して入ってこられた。
私が慌てて飛び出し、扉を支えようとすると、その人はいつも「いいのいいの。大丈夫よ」と目を糸のように細くした笑顔を見せてくださる。
月に一度ほど、土曜日にいらっしゃるお客さんである。
「いらっしゃいませ!」
お客さんは、ショーケースの奥のリスさんを見ると、表情が明るくなった。
リスさんも、とても嬉しそうである。
「今日は、何がお勧めですか?」
リスさんは、保冷のためのショーケースへ手のひらを向けた。
「少し前から、『甘夏デニッシュ』を始めたんです」
お客さんは、いつもと違って、少しだけ右足を庇うように歩いて移動した。リスさんはそのことに気づき、何気なく尋ねた。
「今日は、バスでいらしたんですか?」
「いえね、地下鉄で来て、少し歩いたものだから……」
お客さんはそう言って、軽く右足をさすった。隣の町から、わざわざここまでやってきてくださるお客さんなのだ。
リスさんは、柔らかく微笑んだ。
「ゆっくりなさっていってくださいね」
「ありがとう」
土曜日のお客さんは、甘夏デニッシュを注文すると、いつも古賀さんが座っている席へ向かった。
「ほんと、体育はなかなかいないのよ。すぐ横の公園で、鉄棒の指導をしてくれるだけでいいんだけど」
「……うん」
生返事である。
「ね、みっちゃん」
「……うん?」
「来週から、手伝ってくれるととっても助かるし、嬉しいんだけど」
「え?……稗田くんが?」
「みっちゃんよ!」
「ぼく?」
みっちゃんは、鳩が豆鉄砲をくらったような顔を見せた。
「お待たせいたしました」
リスさんは、土曜日のお客さんへ、甘夏デニッシュと淹れたてのコーヒーを運んだ。
「ありがとう。お庭、綺麗ね」
「ありがとうございます。お好きなお花、何かありますか?」
「ふふふ。そうね、石竹が」
「来春さんと同じですね」
お客さんとリスさんは、しばらく、桃色の花が揺れるのを仲良く眺めた。
カランコロン
「こんにちはー」
「こんにちは、智翠」
半袖の智翠さんが、塗りの番重を抱え、ベッカライウグイスへやってきた。
「半袖なんですね。まだ寒くないですか?」
私は窓の外を見ながら声を掛けた。
「うちの作業場の方が外より寒いかな。この上に調理白衣着てるからまだなんとか」
「ふふふ。水琴庵の作業場って、外と直通って感じだものね」
「笑い事じゃないよ?工場の熱気と作業場の冷気は、赤道と南極だよ?」
智翠さんは、リスさんに向かって真面目に言った。
その真面目に拗ねた言い方に、私は笑った。
「じゃ、餡子、工場へ持ってくね」
「ありがとう。あ、智翠」
智翠さんが、扉の前で立ち止まって振り返った。
「何?」
「あの……」
リスさんが、言いあぐねている。
言いにくいことなのかな、と私は思い、静かにレジの奥へ移動すると、二人に背を向けるようにして、新しいコーヒーの袋の封を切り、缶へ入れ替え始めた。
ついでに、最近、リスさんから教えてもらっている在庫管理のために、お店のパソコンを開き、業者さんからのメールを確認した。
それから、注文が入っていないかどうか、私はベッカライウグイスのホームページを開いた。お客さんからの注文の代わりに、古賀さんからの、ファイルが添付されたメールがあり、私は、そのままパタリとパソコンを閉じた。




