新年 ②
智翠さんは、多分、やる気に満ちあふれていた。
私たちは三人揃って、新年の雪を踏みながら、ベッカライウグイスの駐車場へ廻った。昨夜降った雪はさらさらと冬靴の上を軽く舞ったが、その下に広がっている凍った圧雪に足を取られないよう、気を付けて歩いた。自分たちが変わった巨大ペンギンの行列のように思えたが、冬は誰もがこんな風に歩く。ぎしぎしと踏みしめる足下の音で、気温の予測がつく。ペンギン行列は白い息に取り巻かれていたが、比較的暖かな新年だと思う。
駐車場に着いてみると、停められていたのはいつもの営業車ではなかった。智翠さんは、後部座席のドアを私たちのために開けてくれた。智翠さん個人の車なのかな、と思いながら乗り込むと、中は広くリスさんと私は個別になった座席に深々と腰を下ろした。車内は、暖かだった。
「千春さんたちは、初詣に上がらないの?」
リスさんは、運転席の智翠さんに尋ねる。後部座席と運転席が遠いので、リスさんには珍しくやや大きな声である。千春さんは、水琴庵の女将さんで、智翠さんのお母さん、かつリスさんのお母さんの友人である。
「もう行ってきた」
智翠さんの返事に、リスさんは少し声を落として呟いた。
「それで、おじさんの車なんだ……」
智翠さんには、リスさんの小さな声も聞こえるようだった。
「もう、リス!」
智翠さんが、身なりを整え、お父さんの車を借りてまで挑みたい相手は、古賀さんである。二人は、リスさんを巡る戦いを、静かに、だが誰からも見てとれるような形で、昨年から繰り広げてきた。場所は、ベッカライウグイス。そしてそれは、いよいよこれから神前に移される模様である。私は、一抹の不安に駆られながら、雪道を走る車に身を任せた。
初詣に境内での競り合いは止めてもらえるとありがたいけれど……私は、バックミラーに映る、古賀さんの顔を見ながら思った。
リスさんが、そんな私に気づいたのか小声で言った。
「智翠、これで大真面目なの。老舗和菓子屋さんを継ぐ身としては、神様の前に上がるのに、ちゃんとしないわけにはいかないみたい。毎年、初詣とは別に、お店の人総出でご奉納に上がってるくらいだから」
リスさんの言葉に、私ははじめて智翠さんの置かれている立場を理解した。だが、今日の出で立ちは、そればかりが理由ではないだろう。
智翠さんは、時折、鰐の背中のような氷の瘤に車輪をとられながらも、慎重に運転し、揺れるのは道路状況のせいなのに、まるで自分が原因であるようにリスさんと私に丁寧に詫びた。
静かな元日の住宅街を抜けると、道行く人々が、少しずつ増えていった。これからお参りに向かう人々と、お参りから帰る人々が、煙のように立ち籠める白い息の中をすれ違う。
神宮前は、既に車両が通行止めになっていて、周辺の駐車場は、どこも一杯だった。智翠さんは、駐車場を探しながら周回した。
「すみません、混んでますよね。……分かってたんだけど、やっぱりすごいな」
智翠さんは、私に言ったようなので、こちらの方が申し訳なかった。
「そんなことないです。地下鉄も混んでいたでしょうし、元旦から歩き回るのもたいへんだったので、乗せて戴けてありがたいです」
感謝しながらも、智翠さんそっちのけで、リスさんと私は、連れられている子どものように、気づいた他愛のないことを話して楽しんでいた。
空いている駐車場を探して、神宮が少しずつ遠ざかっていく。
同じ市内でも、気象条件は微妙に変わるものである。山がすぐ近いこの辺りの地面は、圧雪がすっかり固い氷に変わり、どの人も、歩き始めの子どものように転んだり、ぎこちなく地面を踏みしめていた。今年は、雪が多い。智翠さんは、リスさんの晴れ着姿を見たかったようで残念だが、道行きで歩く人さえいない。皆、着ぶくれしたうえ、マフラーに頬を埋めている。それでも活気があるように見えるのは、新年だからだろうか。よく晴れた元旦だった。通りに面した商店のしめ縄飾りが、通りすがりに眩しく光って見えた。
「来春さん、見て!綿あめ持ってる子がいる。いいなー」
リスさんの言うことに、智翠さんはくすりと笑った。
「なにかおかしい?」
リスさんは、絶好調なようで、智翠さんの子どもの頃の逸話を繰り出した。
「私ね、今でも忘れられないんだけど、ほら、千春さんが催した初釜で、私とお母さんもお呼ばれしたとき、お寿司をごちそうになったじゃない?」
智翠さんは、何か嫌な予感がする、という目を、バックミラー越しからリスさんへ向けた。だが、リスさんは私を見ていて全く気づいてはいない。
「智翠ってば、イカをよく噛まないまま飲み込んでね、喉に詰まって、千春さんがそれを引っ張り出したの!智翠の喉から、ずるずるって、イカが……。あれは、忘れられないわね。それから、私、イカには最大限注意するようになったわ」
「もう、リス!」
思わず笑ってしまったが、私は、智翠さんとリスさんのお姉さん的立場である。ここは、リスさんの気を反らしてあげなければいけない。
「リスさん、あの人が持ってるの、破魔矢?なんかちょっと違う感じなんだけど」
リスさんは、窓の外を通り過ぎる女性を見た。
「あ、あれは鏑矢かも。二種類あるわよね。ね、来春さん、うちはお店だから、今年から熊手をいただいてみる?」
私は、可愛らしい縁起物の熊手が、ベッカライウグイスのどこかにちょこんと飾ってあるのを想像した。深い黄緑色の壁に、赤や金色の飾りは、お店の情緒的には相違があっても、それはそれでなかなか合うのではないかと思った。
「あ、いいですねー」
だが、次に私の頭に浮かんだのは、年々成長していく熊手の姿だった。
「…………熊手って、毎年大きくしていくんですよね?」
「そうね」
リスさんも、想像したようだ。
「…………でもそんな大きくなると、どこに飾ったらいいのか分からないわね。工場も狭いし……」
リスさんと私の頭には、ベッカライウグイスのしつらえの中に、完全に成長しきり大きく広がる、熊手の姿があった。
「そうね、止めておきましょうか」
リスさんが、納得してそう言い、私は、智翠さんに尋ねた。
「水琴庵では、熊手は?」
「家は、いただいてないけど、毎年旧正月には、水琴窟というか、手水場のお祀りはしてもらってますね。湧き水だから」
「そうなんですか」
私は、お手水場から、少しずつ零れ滴る水を思い出した。
「昔、曾祖父の時代に一度枯れたことがあったんです。その後に大地震がきたって言われてて、それから年に一度は神主さんに来てもらってるんです。あ、でも飲めはしないんですよ」
「そうね、飲むことは止められてるわね。それが、昔……」
「もう、リス!」
私は、笑いを堪えきれなかった。
笑いつつ、みっちゃんが至った境地を理解した気がした。やがて、智翠さんも、みっちゃんの醸し出す、諦念とも哀切ともつかない域に達するのだろうか。幼なじみとは、気が置けず、またどこか気の許せない危うさを孕んだ甘美な時間の積み重ねがある関係なのだ。みっちゃんの遠い目がそれを物語っていた。私がしみじみ考えていると、リスさんが声を上げた。
「あ、古賀さん!」
智翠さんが、また、バックミラー越しにリスさんを見た。
「古賀さん、地下鉄だったのかしら」
リスさんが心配そうに言う。
私は、考えて言った。
「うーん、どこかに駐車してるのかも」
暮れに、リスさんを迎えに行きたいと言いたそうで、そうはならずに意気消沈していた古賀さんだったが、帰りは一緒にお茶にでも誘ってあげたいと私は思った。私は、智翠さんも、古賀さんも両方平等に応援している。リスさんが自分の意志で考え、幸せになるのが一番いいとおもう。ともあれ、初詣の帰りに、一人とぼとぼと帰る古賀さんは、捨て置けるはずがない。
「智翠さん。帰りなんですけど、もし古賀さんが地下鉄なら、一緒に乗せてあげられませんか?」
智翠さんは、一呼吸考えたようだが、
「もちろん、構いませんよ」
と快諾してくれた。
結局、古賀さんと待ち合わせ場所で出会えたのは、約束の時間を大幅に過ぎてだった。
だが、このことは、古賀さんにとって功を奏した。別れ際に、リスさんの連絡先を聞きだすことに成功したのである。
私たちは、二の鳥居の前で待ち合わせをしていた。
一の鳥居の前までは、まだ歩く人々の間に余裕があったが、参道に入ってからは、この街に住んでいる人々が大勢大挙して押し寄せたかに、向かう道も混んでいて、智翠さんと私は、小柄なリスさんを庇いながら、たくさんの人と肩や腕をこするように歩いた。ところどころで、交通整理が行われ、行き交う人々を左右に振り分け、誘導していた。
「来春さん、大丈夫?」
智翠さんが、私を心配し声を掛けてくれ、私は「大丈夫ですよ」と答えた。人が多いので、ざわめきも大きく、私たちの声もかき消されがちだった。
参拝の行列は、遅々として進まなかったが、やがて、一際大きな二の鳥居が見えてきた。
鳥居を両端から守るように、ご神木が聳えている。ご神木は、大人が三人手を回してようやく届くかのような立派な幹に、経てきた年月を湛えている。ご神木の懐に抱かれるように、巨大な石灯籠が鎮座し、その両方を見上げながら、私たちは進んだ。
古賀さんは……どこだろう。辺りを見回そうにも、人がひしめき合い、先が見えない。
リスさんも、心配そうに言った。
「古賀さん、待ってるわよね……ずいぶん遅くなっちゃったから、申し訳ないわ」
私たちは、流されるまま、時折立ち止まりながら、広い幅の階段を上った。
小柄なリスさんは、辺りを見回しても人波に巻き込まれるだけで、人の背中しか見えないだろう。私も同じようなものだった。智翠さんに頼るしかなかったが、大丈夫だろうか、と思ったところ、
「あっ、いた!」
古賀さん発見の声が上がった。
「あー、待ってる。ピックアップされるのを待ってる人って感じで待ってる」
智翠さんのいうことが、あまりにも古賀さんをよく表わしていたので、リスさんと私は肩を寄せ合って笑った。
「おーい、古賀さーん」
智翠さんは、古賀さんに向けて両手を高く上げ、振った。
私たちは、人の流れに逆らえず、このまま境内に向かうしかなかったから、古賀さんがどうにか頑張って合流する方法を試みるしかない。古賀さんにそれが出来るかどうか……などという、私の失礼な予測をよそに、古賀さんは波の後ろから人を縫うように追い越し、あっという間に私たちの横へやってきた。
「はぁ。すごい人ですね」
古賀さんは、白い息に埋もれながらリスさんの横に陣取り、一緒に少しずつ進む中、挨拶をした。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「おめでとうございます。よろしくお願いいたします」
リスさんに続いて、智翠さんと私も挨拶をする。
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
古賀さんは、目尻にたくさん皺を寄せ、嬉しそうに笑った。
「あ、それ」
リスさんが、古賀さんの何かに気づいて声を上げた。
「これですか?」
古賀さんが、紺色のマフラーの端を持って見せた。
「それです」
ここにきての、ユニコーンだった。封印されたのはいつのことだったか、久しぶりに見た気がした。
智翠さんが、私の横から覗き込んで言った。
「ずいぶんおちゃらけた顔ですね」
これは素直な感想なのだろうか、それとも新年一度目の挑戦なのだろうか……。私は頬がそそけ立つ思いだった。
「智翠、これね、ドイツにある街の紋章なのよ」
リスさんの言葉を、古賀さんが継いだ。
「シュヴェービッシュ・グミュントっていう街なんです」
「え……?」
智翠さんが、怪訝に眉を寄せた。
リスさんが、もう一度言う。
「シュヴェービッシュ・グミュント」
「街の紋章なんですか?」
私は、もう一度、古賀さんのマフラーに付いているピンズを覗き込んだ。紛れもない、あの、初めてのベッカライ襲来の折に古賀さんが身につけていた、ポロシャツの刺繍と同じ絵柄である。
「そう。結構大きくて、自然保護区もあって、綺麗な街なんですよ」
寒さのため、耳を真っ赤にした古賀さんが説明してくれる。
今では、古賀さんはベッカライウグイスのカウンターに、なくてはならない人の一人である。しかし、最初からそうだったわけではなく、古賀さんは少しずつ、辛抱強く、ベッカライに馴染んでいった。
私は、古賀さんとはじめて出会った時のことを、思い出していた。無知とは、偏見を生むものなんだな、と実感しながら、古賀さんに申し訳なく思いつつも感謝の気持ちを抱いた。そして、何より、古賀さんと出会ってから今まで、ずっと変わりなく接している年下のリスさんに、尊敬の念を抱きつつ、でも少し変わって欲しいような、淡い期待を覚えた。




