開店記念日のたまご ①
時間は、人を手懐ける。
みずほさんがいなくなったベッカライウグイスは、ぽっかり空いたその席を、誰かが埋めるわけでもなく、ただ空席のままであることに私たちは慣れていった。
工場に入ると、リスさんと私は、毎日、みずほさんが作った伊予柑ピールの瓶とジャムの瓶を眺める。
みっちゃんは、毎夕、もうみずほさんのお迎えを待つことなく、一人、席を立つ。
みずほさんが残していったものや、みずほさんの習慣を思いながら、不在なことが少しずつ当たり前であるように、私たちは受け入れはじめた。
けれどそれは、別の物事で埋め合わせたり代用することはできないものだと、気づく回数を重ねることになり、気持ちは、不在の日常に慣れることを拒み続けるのだが、そんな葛藤にすら馴染んでくる。
欠けたピースは、自分で似たものを作ったり、パテで埋めたり、欠けたまま過ごしたり、人はそれぞれの方法で生きていく。
やがて時間は、見えない手で人を慰め、心に薄い膜を作ってくれる。
心の持ち主に、潰れた傷や汚れが見えないように。
心は、以前とは全く同じものにもどることはないというのに、私たちは、日常の小さなきっかけから、少しずつ笑顔を見つけはじめた。
ベッカライウグイスでは、その小さなきっかけは「開店記念日」という言葉だった。
短い二月が終わり、三月がはじまった。
あっという間に日付は更新される。
弘子さんとさくらさんは、いつものようにベッカライウグイスを訪れ、パンを選んでコーヒーを飲み、他愛ない話を聞かせてくれた。
ただ、その話には、みずほさんのことは含まれなかった。
二人は、みずほさんがどこで暮らしているのか知っていて、そのうち私たちを連れて行ってくれると言いながら、所在地をリスさんには決して告げなかった。みっちゃんに知られることを危惧しているのだろうか。
けれど、リスさんと私は、二人には告げられていないであろう、奥の手というか、あるヒントを持っていた。
SNSである。
みずほさんが、一番最初に載せるつもりだと言っていた写真。
それを唯一の手がかりとして、リスさんと私はSNS巡りをはじめた。
もし、みずほさんの存在や痕跡がそこにあって、みずほさんの居所を辿れたとしても、そこから先のことは分からない。ただ、みずほさんが元気で生活しているという安心を求めていたのかも知れなかった。
伊予柑ピールと伊予柑ジャム。
みずほさんは、自分が作った綺麗なものを一番に上げたいと言っていた。
私たちは、思いつく限りの検索をして、様々な画像を見つけた。でも、それはみずほさんの撮したものではなく、みずほさんのSNSらしいものは一向に見つけられなかった。
写真を撮りためてから、とも言っていたので、みずほさんはまだアカウントを作っていない可能性もあった。
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
ベッカライウグイスは、表面上、いつもと変わらずに、のどかに運営されていく。
お客さんにみずほさんのことを聞かれたことはなかったが、最近、たまに聞かれることがあった。
「そろそろ、開店記念日ですね!」
常連のお客さんたちの多くが、気に掛けてくださっているようだった。
「私、伊予柑ピールのクッキーが大好きで、毎年楽しみにしているんです」
「ありがとうございます」
声を掛けてくれるお客さんに、お礼を言いながら、私はその実、「開店記念日」がいつなのか、分からなかった。今日こそは、リスさんに聞いてみようと思うのだが、リスさんの様子を見ているとそれがためらわれてしまうのだった。
リスさんは、相変わらず元気がなく、工場に詰めている時間が長かったので、お客さんたちからまだ「開店記念日」について、直接尋ねられてはいなかった。
すぐに、伝えるべきだろうか。皆さん、こうも楽しみにしてくださるのだから、ちゃんと準備をしてベッカライウグイスの開店記念日を迎えたい、と私は気を揉むようになっていた。
「開店記念日」
というお客さんからの声は、最近街に戻ってきて、またベッカライウグイスのカウンター席を温めるようになった古賀さんの耳にも届いたようだった。
リスさんがやってこないので、私はカウンターの古賀さんに、淹れたてのコーヒーを注ぎに行った。
古賀さんが、私の手元に気づき、楽譜から顔を上げると言った。
「もうすぐ、開店記念日ですよね?三月二十九日」
「えっ」
古賀さんにそう言われ、私は驚いた。
「どうして、ご存じなんですか……?」
「えっ……ええっと……」
古賀さんの方が驚いて、少し頬を紅潮させながら答えた。
「去年の秋かな……。仕事でここに来られない時間が長くて、リスさんのパンが食べたい一心で、SNSを見ていたんです。そしたら、けっこう#ベッカライウグイスっていうので、パンの画像が出てくるんですよね。その中に、『開店記念日のクッキー』っていうポストがあって、そこに書いてあったんです」
#ベッカライウグイス
#開店記念日のクッキー
私は、古賀さんをそのままに、工場へ駆け込んでリスさんを呼んだ。
「リスさん!」
リスさんは、目を丸くして驚いた。
「どうしたんですか?」
「今、古賀さんから聞いたんですけど、ちょっと来てください!」
私は、リスさんをショーケースの奥のカウンターに置かれている、お店のパソコンへ引っ張るように連れて行った。
「来春さん、どうしたんですか?」
私は、パソコンを開いて、ハッシュタグを二つ入れた。
だが、二つ入れても一つになってしまう。リスさんと私は、別の検索を探し始めた。
そこへ、レジのカウンター越しに古賀さんがやってきた。
「リスさん、来春さん、これですよ?」
古賀さんが、自分のスマートフォンに映る画像を差し出した。
リスさんが、それを目に留める。
「来春さんっ!これ!」
リスさんが、古賀さんのスマートフォンの画像を指さした。
たくさんの画像に混じった中に、私たちの求めるものがあったのだ。
ベッカライウグイスの工場の、伊予柑ピールの画像が。
「リスさん!!」
私たちは、抱き合わんばかりに体を寄せ合った。
「……よかったです」
古賀さんが、微笑んでカウンターへ戻って行った。
リスさんと私は顔を見合わせると、去って行く古賀さんをそのままに、再びお店のパソコンに駆け寄った。
慌てて打ち込むと、「あった!」リスさんと私はもう一度声を上げた。
#開店記念日のクッキー
私たちは、みずほさんのIDを開いた。
ベッカライウグイスの、夜の工場の灯りに照らされた、瓶。
綺麗な色の、たくさんの瓶。
リスさんは、その画像をクリックした。
画像の下には、一言だけ、「宝物」と書かれていた。
みずほさんは、元気だった。
私たちに言っていたとおりに、伊予柑ピールの写真が一番はじめに上げられ、プロフィールの画像にも使われていた。
写真は、それ一枚だったが、リスさんと私には十分だった。
みずほさんは、あの時と変わらずに、ここにはいないけれど、ちゃんと無事に暮らしている。
私たちは、みずほさんがいなくなってからようやく、心からの笑顔を互いに見た。
春の、湿った土の匂いがふと風に混じって辺りに流れた午後だった。




