みずほさんの出奔 ③
本当に、私の頭の中だけの、ただの夢だったのですが、リスちゃんと二人で、虎男さんの元から出て行きたかった。
でも、リスちゃんは、一人で立派に知歌子さんのベッカライウグイスを守って、しっかり生きている。私が、リスちゃんから離れられないだけで、リスちゃんはもうとうに自立した大人の女性で、自分で考え、自由に生きられる。
私は、本当は、リスちゃんみたいになりたかった。自由になりたかった。
だから、どんなにリスちゃんの近くで、リスちゃんを見守りながら生きたくても、もう、そんな幸せな時間は終わりなんだと思います。
私は、虎男さんから、リスちゃんからも離れ、一人で生きようと思いました。
リスちゃん。許してね。離れてもやっぱりリスちゃんのことが心配でならないし、近くにいたい。自分から出て行くくせに、持て余してしまう感情を、この先も持ち続けていきます。私の人生と、私の大切なリスちゃんへの気持ちだから。
リスちゃん。色々なことは、とどまらず変化していきます。リスちゃんのお店に来春さんが来たり、古賀さんが来たり。
来春さんは、リスちゃんのお姉さんのような人で、きっとリスちゃんと二人でベッカライウグイスのこれからを盛り立てていってくれると思います。
私は、来春さんのことも、母親とはまた別の気持ちで見てきたから、来春さんにもどうか、出て行く私を許してもらえたらと、私の代わりに、リスちゃんのそばでリスちゃんをお姉さんのように見守ってくれたら、勝手にそう願っています。
二人とも、どうか健康でいてくださいね。
毎日、笑ってね。
本当に、ごめんなさい。私の大事な、リスちゃん。
どうか、いつも元気でいて。
どうか、私を許してください。
三山 みずほ」
とうとう、リスさんの目に溜まった涙がこぼれ落ちた。弘子さんはずっとリスさんと私を慰めてくれた。
みずほさんの手紙には、具体的な事柄はほとんど書かれてはいなかった。ただ、みずほさんがリスさんのことをそして私のことも思っていてくれるその気持ちが溢れていた。
その夜から、みっちゃんは、ベッカライウグイスに姿を見せなくなった。
リスさんと私は、常にみっちゃんのことが気がかりで、今日こそはやってきてくれるかとお店の扉が開く度に期待した。
忘れ物を届けに来たように、雪が優しく舞いだした。
早春は、残像を透明な氷に変え、それすら、再び雪に埋もれていった。
何日かぶりに降る粉雪は、徐々に密度を濃く、空じゅうを埋め尽くした。
時間は、何かをしてもしなくても、同じように流れていく。
リスさんと私は、みずほさんも一緒に作った伊予柑のジャムの瓶を開け、言葉少なに春の三食ぱんを作って、発売した。
お客さんには好評で、伊予柑ジャムがとても美味しい、三食ぱんシリーズを作って欲しい、と声を掛けられた。
「みずほさんにも、食べてもらいたかった」
ぽつりとリスさんが呟き、私は、カウンターから覗くあてのない空に、みずほさんの行方を思った。
カランコロン
「こんにちは」
「古賀さん……」
「いらっしゃいませ」
古賀さんは、久しぶりにやってきたが、リスさんの異変をすぐに目に留めたようだった。
けれど、言及はせず、いつもと変わらない様子でパンを選んだ。
「わぁ、この三食ぱん、すごく贅沢ですね。絶対に食べなくちゃ。お願いします」
春の新作パンを発見し、注文すると、古賀さんはカウンターへと向かった。
だが、いつもならば古賀さんの左側にいるはずのみっちゃんがいつまで経っても姿を現さないので、不思議に思ったのだろう。
まさか、異変の原因がみっちゃんであるとは分かるはずもなかった。
「今日は……みっちゃんさんは?」
古賀さんは、トレイを運んだリスさんに尋ねた。
リスさんは
「みっちゃんは……」
と言いよどみ、困惑した様子なので、古賀さんの方がおろおろしだした。
「すみません。余計なこと聞いちゃったかな……」
「いいえ、いいんです」
リスさんは首を振って、古賀さんの前に注文の品を並べると、工場へ入ってしまった。
古賀さんは、振り返ってその後ろ姿を見送っていたが、コーヒーのお代わりを注ぎに行く頃には、いつもの様子で私に尋ねた。
「リスさんと、みっちゃんさん、どうかされたんですか?」
私は視線を彷徨わせたが、古賀さんはもう半分、ベッカライウグイスの身内のような人である。決心して告げた。
「みっちゃんが、ちょっと…………、姿を見せなくなったものですから、リスさん、心配してるんです」
古賀さんは、
「そうですか……」
と納得し、空っぽのみっちゃんの席を見た。
一時間ほど、リスさんがこちらへやってこないか、楽譜を眺めながら待っていたが、レッスンの時間なのだろう、ショーケース越しに工場のリスさんを心配そうに窺いながら帰って行った。
カランコロン
「こんにちは!」
「いらっしゃいませ」
さくらさんと弘子さんがやってきた。
リスさんは、工場で作業に没頭する時間が増え、自然とお店は私の担当になっている。
私は、お客さんの合間を見て、さくらさんと弘子さんの元へ、パンとコーヒーを運んだ。
「もう、みっちゃんが来なくなって五日経ちます……」
さくらさんと弘子さんは顔を見合わせた。
「そうね。あ、来春さん、でも、そんなに心配しないでね」
「私よりも、リスさんが……。お店の扉が開く度に、みっちゃんかと思って。期待して違うことに疲れてしまって、みっちゃんのことは心配だし、工場でずっと作業し続けてるんです。」
「……それは、困ったわね」
「来春さん、リスちゃんを呼んできて」
さくらさんに言われ、私はリスさんを工場へ呼びに行った。
リスさんが、とぼとぼとやってきた。
「こんにちは」
元気のないリスさんに、さくらさんは快活に言った。
「だいじょうぶよ、リスちゃん。みっちゃんはね、そういう性格なの」
弘子さんは、さくらさんの言うことに隣で頷いている。
「すねてるのよ」
「みっちゃんは、すねやすいの。困ったものね」
立ったままのリスさんに、弘子さんは、椅子に掛けるよう促した。いつもならば、お客さんの訪れる時間帯にそんなことは決してしないリスさんだったが、今日は弘子さんに従って、黙ったまま腰掛けた。
弘子さんは、一度、リスさんの方へ向き直ったが、また、窓へと体を向けてからゆっくり話し出した。
「みっちゃんとみずほさんの結婚の経緯って、聞いたことある?」
「少しは……」
「そうよね、リスちゃん、一緒に住んでいたものね。みっちゃんから聞いた?それとも、みずほさんから?」
「みずほさんからです。一緒にお料理してるときに」
「そう。それは、事実に一番近いと思うわ」
みっちゃんから聞くと、事実とはかけ離れるのだろうか。私は、リスさんへ温かいコーヒーを準備しながら、耳をそばだてた。
「同じ事柄でもね、当人同士の受け止め方とか、認識の仕方って言うのは、結構相違があるものよ」
「みっちゃんは、酔ってからかわれると、武勇伝のように語るけれど、みずほさんからしたら、まぁ、騙されたとまではいかなくても、決して思うような人生ではなかったってこと」
「来春さんも、こっちにいらっしゃいな」
さくらさんが私を呼んだ。
「はい……」
私は、人数分のコーヒーカップを木のトレイに載せると、レジ横のカウンターを跳ね上げ、コーヒーを運んだ。
「ありがとう、来春さん。一緒に聞いて」
弘子さんが、私を座らせ、さくらさんは、私に分かるように端的に言った。
「みっちゃんはね、教育実習生だったみずほさんに一目惚れして、押し切って結婚したのよ」
それから、弘子さんとさくらさんは思うことを交互に語った。
「みずほさんからしたら、教師になりたいっていう夢があって、教育実習に出て、これから採用試験を受けて、卒業してっていう、そんなふうに思い描いていた人生が、みっちゃんの恋によって、まったく違ったものになったのよ」
「もちろん、決心したのはみずほさんだし、選んだのもみずほさんよ。でも、みっちゃんが、もう少し待ってあげたり、みずほさんがどうしても家庭に入らなければいけなかったってことはなかったと思う」
「みっちゃんはね、職場でよく見て分かってたのよ。女の人が社会に出て同じ仕事をするとどういうことになるのかって」
「私たち、同じ職場同士で結婚すると、お給料も仕事内容も同じだから、自然、家のこともすべて平等になるのよ。でも、みっちゃんたちというか、私たちの年代はちょうど過渡期で、女性の先生たちは家庭でのこともほとんどすべて担って、保育園や子どもの病気や、食事の支度や介護で、もう本当にたいへんな時代だったの。それを見てたから、私はあえて結婚しようとは思わなかったわ。そのくらい、既婚の女性の先生たちはたいへんだった。みずほさんは、分かってたのよ。みっちゃんは、結婚しても決して家庭で自分と対等に何かをしてくれるわけじゃないってね」
「みっちゃん、ああ見えて、バリバリの体育教師兼生徒指導部だったからね」
「みっちゃん、長男で、あとはお嫁に行ったお姉さんたちだったから、介護のことも考えたと思うわ。それも、過渡期ね」
「今とは違って、やっぱり家で、家族がお世話をするっていうのがほとんどすべてな時代よ」
「結局、みずほさんが家のことをすべてやるっていう形になったわけ」
「みずほさんとみっちゃんって、結構年のひらきはあるんだけど、もうみずほさん自身、今を逃したら、自分のやりたいことは何も出来ない人生で終わってしまうっていう時期に来て、それで決行したのよ。
私たちくらいの年齢になるとね、もう、人生が残り少ないってことがよく分かるのよ。今まで自分がしてきたこと、できなかったこと、やりたかったことを考えちゃうの。じゃあ、これからの短い人生で、自分は何が出来るんだろうって、どう生きたいんだろう、って。みずほさんは、そんなことリスちゃんには言わなかったと思うけれど、私たちはよく話したのよ……」
決行、という言葉を弘子さんは使った。計画されていたことを実行したということなのだろうか。
私は、尋ねた。
「弘子さんたち、もしかして、みずほさんの行き先をご存じなんじゃ……」
リスさんは、私の言葉に確信した目で、弘子さんを見つめた。
弘子さんは、白状した。
「そうね。知ってるわ」
それから、私たちを見て微笑んだ。
「だから、安心して。みずほさんはとっても元気だから。みずほさん、教師になれなくて、なりたいと思っていた母親にもなれなくて、じっと家で過ごす中で、やりたいことを見つけたのよ。みずほさんね、染め物職人になりたいってずっと思ってきたの。でも、この辺りで染め物工房はないし、家族の誰かが病気のたびにかり出されるし。介護や何かが終わってからやっとパートに出て、ずっと貯金してきたの。染め物工房にも、親戚の法事だってことにして、何度も足を運んだり手紙を書いたりして、やっとお手伝いに雇って貰ったわけ。今は、大好きな染め物工房で、働いてるわ。今度、リスちゃんたちも連れて行ってあげる」
お客さんは、誰も来ない。
しばらくして、リスさんがぽつりと言った。
「…………そうにしたって、それは、みずほさんの人生だから分かるけれど、みっちゃんに伝えてもよかったと思う…………みっちゃんは、みずほさんと一緒に年をとっていく人生を望んでたわ」
「そうね。みっちゃんは、そうね。…………人は、難しいわね。思うように人生を歩める人なんて、そうはいないと思う。……でも、それでも前に進んでいくと、また状況は変化していくから。リスちゃん、みずほさんとみっちゃんも、ずっとこのままではないのよ」
それから何日経っただろう。
みっちゃんは、平静な顔をして、まるでみずほさんがいた時のように、ベッカライウグイスを訪れるようになった。
たとえば、みっちゃんがゴミ出しをしていることに気がついて、近所でみずほさんの不在に気づく人はいたかも知れないが、そんなことを私たちに、ましてやみっちゃんに尋ねたりすることはなかった。
朝、起き出してみっちゃんはちゃんと顔を洗う。髭もあたっている。リスさんの差し入れがあるので、朝は温かいスープとちょっとしたおかずにご飯を食べている。ベッカライウグイスが開店すると、いつも通りの時間に訪れ、ゆっくりとコーヒーを飲みながらパンを食べる。リスさんと私は、夕食を少し多めに作り、二日に一度、みっちゃんに届けた。
ただ一つ、みっちゃんが変わったことといえば、その服装だったかも知れない。みずほさんは、みっちゃんの衣服にもとても気を遣っていた。みっちゃんが元体育教師だとはいえ、ジャージでいることなど許すはずもなく、定年になってからも、ちゃんと皺の伸ばされたシャツに、折り目正しいスラックスを身につけさせていた。
だが、今のみっちゃんが、そんなことに頓着するはずもない。どこからか引っ張り出してきたような、古い色あせた服を身につけてベッカライウグイスへやってくるのだった。それでは、みずほさんの不在を自らご近所中に吹聴しているも同然である。
そのことに、さくらさんと弘子さんが諫言した。
さくらさんに至っては、
「家にチェックしに行くわよ」
と脅し文句を言うので、みっちゃんはとうとうリスさんと私にこっそり聞いた。
「変かな?」
「はい」
娘のようなリスさんにはっきりと告げられた翌日から、みっちゃんは服装にも気を配るようになった。だが、気を抜くとジャージのズボンを履いてきたりすることはある。何事も訓練である。
リスさんは、みっちゃんの様子によく気を配っていた。
カウンターで、コーヒーを飲んでいた弘子さんに、私は、ふと尋ねた。
「みずほさん、帰ってきてくれますかね?」
私の質問に、弘子さんは少し困ったような顔をした。
私は、考えて言ってみた。
「みっちゃんが、病気になるとか……」
さくらさんが容赦なく言った。
「みっちゃんが本当の病気じゃなかったら、逆にだまされたってことになって、二度とみっちゃんのところへ戻る気なくすわね」
「……そうね。みっちゃんじゃなくて、リスちゃんなら、十分みずほさんの弱点とも言えるわね」
「うんうん。リスちゃんがもし病気になったら、みずほさん、飛んでくるね。それに、だまされたとも言わないと思う」
みずほさんにとって、りすさんとみっちゃんを天秤にかけると、ずんと重く下がるのは、リスさんなのだ。
「虎男って、本当に可哀想………」
さくらさんは、本当に正直者である。




