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みずほさんの出奔 ②

 みっちゃんが、顔を上げた。

 どんよりと、まるで不透明な覆いを掛けたような目が、暗い窓に映るのを私たちは見た。眼窩の窪みようが、昨日とは全く違う。人は、一日にしてこんなにも憔悴しょうすいしてしまうものなのだろうか。


 みっちゃんの口を開かせるのは、容易なことではなかった。みっちゃん自身が混乱し、どのようにしたらいいのか分からなくなっていたのである。


 「みっちゃん、ごめんなさい、強いこと言って」

 さくらさんが、先ほどの言葉を悔いた。

 弘子さんが言った。

 「私も、来るのが遅くなってごめんね、みっちゃん」

 その言葉に、みっちゃんは、瞼の皺を引き上げ、すがるように二人を見た。

 


 「あれから、警察に電話した?」

 弘子さんは、みっちゃんに尋ねる。

 みっちゃんは、ようやく口を開いた。

 「…………事件じゃ、ない」

 一体どういうことなのだろう。リスさんと私には何も分からなかった。

 みずほさんが、みっちゃんの元を離れる理由が、何一つ思い浮かばなかったからだ。一昨日まで、楽しそうにみっちゃんの話をしていたのに、なぜ?

 なぜ、という言葉しか私には出てこない。


 もう一つ、私は、さくらさんと弘子さんがやってきた時に感じた違和感の正体が何なのかを考えていた。リスさんも、気がついているのではないだろうか。

 二人は、とても落ち着いていた。「あれから、警察に電話した?」そう確かめようとした。


 リスさんが、思いついたように言った。

 「みっちゃん、みずほさんのパート先は……?」

 みっちゃんの代わりに、さくらさんが言った。

 「私が、昨日のうちに電話したの。15日で辞めているって」

 「15日って……そんなに前に?」

 みずほさんは、パート先も辞め、何をしていたというのだろうか……。


 不安そうにみっちゃんを見続けるリスさんに、弘子さんが説明しはじめた。

 「私には、今朝みっちゃんから電話があって……。置き手紙もあったって」

 「置き手紙って……?」

 みっちゃんは、悄然しょうぜんとして顔色を失ったままだった。それでも、声を絞り出してなんとか言った。

 「…………家を出させて欲しい、自由になりたい、って書いてあった」


 リスさんが、椅子の上で体の重心を失い、ぐらりと揺れた。私は慌てて、斜めに倒れそうになったリスさんに手を伸ばした。

 

 私は、みずほさんの、笑顔を思い出していた。

 工場で、一緒に伊予柑ピールを砂糖漬けにして、ジャムを煮て、出来上がった瓶の眺めに、心から喜んでいたみずほさん。

 楽しい話と、綺麗な瓶詰めと、私たちを写真に撮ってくれた。たくさん撮ってくれて……………。

 あの時、みずほさんが、「まだ内緒」と言ってたのは、SNSのことではなかったのだ。

 本当に内緒だったのは、このことだった。

 ーーー「もっと撮りためてからね」

 みずほさんの明るい声が、私の心をざわめかせた。


 みっちゃんは、それ以上何も言わなかった。私たちも、何も聞けなかった。

 場をとりなすようにさくらさんが言った。

 「…………みずほさん、ちょっと長期旅行に出掛けてみたくなったんじゃない?一人でふらりと。人間、一人になりたいときって、あるわよ」

 その言葉は、思いがけない希望で、私たちは全員さくらさんの方を見た。

 

 弘子さんが、みっちゃんに言った。

 「みっちゃん、もう一度聞くけど、手紙にはなんて書いてあったの?」

 みっちゃんの顔には、見たことのない皺が刻まれていた。

 苦渋に耐えきれない様子で、みっちゃんは言葉を咀嚼そしゃくした。

 「…………今までずっと耐えてきたけれど、もう、自由に一人で暮らす。ずっと準備してきた。仕事も、家もあるから、心配しないように。……離婚したかったら提出するように」


 みっちゃんは、離婚届と一緒に、家に残されたのだった。


 だが、そのことをどうしても受け入れられないのは、みっちゃんだけではなかった。

 五年もの間、親代わりになって居食を共にし、それからもずっと陰日向なく見守り続けてくれた人から、リスさんも、突然その手を離されたのである。


 夜の工場で、みずほさんとリスさんは、他愛のないことで笑い、親密で、まるで本当の親子のように時間を愛おしんで見えた。

 工場の棚に、大事に並べられた瓶が美しかった、その意味の一端を、私は急に理解した。


 

 状況が一つも進展せず、行き詰まった私たちは、暗い沈黙に陥った。

 そんな時、いつも救ってくれるのは、さくらさんだった。

 さくらさんは、明るい声で言いながら立ち上がった。

 「さ、みっちゃん、あなたろくに食べてないんでしょ?なんか、徹夜で雪かきした人より疲れ切ってるわよ!さくらさんがあったかいもの作ってあげるから、今日のところは帰るわよ!ここに夜じゅう居座るわけに行かないんだから、さ、立って」

 そして、みっちゃんを椅子から引っ張り上げた。


 弘子さんは、入り口のコート掛けから、みっちゃんのコートを持って来て羽織らせた。

 「みっちゃん、とりあえず今日は帰って、ちゃんと食べて寝るのよ。みずほさん、みっちゃんが倒れたら自分のせいだって思って、どうにかなっちゃうからね!」

 みっちゃんが、恨みがましい目で弘子さんを見るので、さくらさんが、みっちゃんの肘を叩いた。

 「なーにしてるの!ちゃんとして、みずほさんを連れに行くくらいじゃないと!」

 「……連れに……?」

 さくらさんが大仰に頷いた。

 「そうよ!当たり前でしょ?あなたたち、何十年夫婦をやってきたのよ!みっちゃんがしっかり生活してみずほさんを見返すくらいじゃないと、探しにも迎えにも行けないよ!」

 「……探しに……?」

 そう呟いたみっちゃんを、さくらさんは強引に連れ帰って行った。



 ベッカライウグイスには、三人が残された。

 弘子さんと私、そしてこの事態をみっちゃんと同じように受け入れることができずにいるリスさんである。


 「リスちゃん」

 弘子さんは、膝に載せていたバッグの中から、一通の封筒を出した。

 「これね、みずほさんから。リスちゃんにって預かったの」

 リスさんが、ばっ、と顔を上げた。

 その目が、なじるように弘子さんを見ている。


 やはり、弘子さんたちは、みずほさんが家を出ることを前から知っていたのだ。それが、二人の醸し出す空気の正体だった。


 黙ったままのリスさんの視線が、弘子さんの手元へ移った

 弘子さんは、何も言わず、封筒をリスさんに手渡した。


 リスさんは、宛名に書かれた自分の名前を、その裏にみずほさんの名前があることを確かめてから、封を開けた。


 手紙を掴むリスさんの手は、不自然で、無感覚なように見えた。それが、時々振戦した。

 そして、最後まで読むと、手紙を丁寧に封筒へ戻した。



 弘子さんは立ち上がると、勝手知ったる我が家のように、窓のシェードを下ろし、

 「入ってもいい?」

 と私に聞いてから、レジのカウンターを跳ね上げ、ショーケース奥のカウンターでコーヒーの準備を始めた。

 そこで私はやっと、看板すらまだ入れていなかったことに気づき、リスさんをその場に残して、踏み台を持つと外へ出た。



 もう、外はすっかり闇に包まれていた。

 足下に気を付けながら手を伸ばすと、ベッカライウグイスの看板は、指が貼りついてしまいそうなほど凍てついていた。

 少しずつ長くなる陽のきざはしに、冬はまだ、植物のように絡みつき霜の葉で覆うのをやめない。

 私は、凍り始めた地面に降り、リスさんの心の内を思った。おそらく、みっちゃんの気持ちを今一番理解しているのは、リスさんだろう。



 中に入ると、弘子さんの淹れた新しいコーヒーの匂いが、冷えはじめた空気に漂い、香っていた。

 弘子さんは、私の様子を見てショーケースの奥から出ると、ガスストーブの温度を上げた。

 私は、看板と踏み台を、レジの横に仕舞い、既に弘子さんが用意していたカップにコーヒーを注いで、カウンターへと運んだ。


 リスさんは、すっかり疲れて椅子の背にもたれ掛っていた。視線はカウンターの上を彷徨っているようだが、何も見てはいなかっただろう。


 私は、黙ってリスさんと弘子さんの前にカップを置いた。

 「ありがとう」

 「いいえ。淹れてくださって、ありがとうございます」


 弘子さんは、ただ少し困った表情を浮かべているほかは、いつもと変わらない様子でコーヒーに口を寄せた。

 みずほさんは、どうしているのだろう。みっちゃんは、大丈夫なのだろうか。リスさんは、手紙を読んで何を思っただろう……。


 みずほさんは、もう、ここには来ないんだと思った。みっちゃんの家にもいないし、この町内にもいない。せめて、どこにいるのか分かったら……分かったら、リスさんはどうするだろう。みっちゃんは、どうするだろう。

 

 「みずほさん、一昨日おとといまで、夜、工場に来て、一緒に伊予柑の砂糖漬けを作っていたんです」

 私は、誰にともなく、話した。

 「一昨日まで、ここにいて、普通に……そんな人がどうして急に……」

 「来春こはるさん……」

 みずほさんとの時間を思い出すと、涙がこみ上げてくる。みっちゃんもリスさんも我慢しているのに、なぜ私が泣くのだろう。

 弘子さんが、私の背をさすってくれ、リスさんが不安気にこちらを見ている。

 「来春さん……読んでみて」

 リスさんが、みずほさんからの手紙を私に差し出した。

 「…………それは……」

 泣きながら私は遠慮した。

 「ううん。来春さんのことも、書いてあるから。読んでみて」

 リスさんは、私の手に、もう一度封筒から出した手紙を載せた。弘子さんは、ハンカチを出して、私の涙を拭ってくれた。



 「リスちゃん。リスちゃん。何度呼んでも足りないくらい、可愛い私の娘だと、そう思っているのを許してね。

 リスちゃんのお母さんは知歌子さんなのに、私も、まるでリスちゃんを産んだかに誇らしく、リスちゃんのことを大切にしてきました。リスちゃんのことを、知歌子さんから預かった、大事な娘だと思っています。

 それなのに、最後までリスちゃんを見守ることを止めて、私はリスちゃんと虎男さんのいる場所から、出て行きます。

 

 虎男さんも、リスちゃんのことを我が子のように可愛がっていて、リスちゃんは虎男さんと私のことを両方、同じくらい大事にしてくれるから、リスちゃんにはこうなる前に話すことができませんでした。

 きっと、リスちゃんは虎男さんのことをとても心配していて、同じように私のことも心配してくれていると思います。ごめんね。心配をかけて、板挟みにするなんて、やっぱり、知歌子さんとは違って、本当のお母さんにはなりきれませんでした。それでも、リスちゃんと、ずっと一緒に、いつも近くで、あなたを見守りたいと、そばにいない今でも思っています。


 そう言いながら、なぜ出て行ったのか。リスちゃんは、私の気持ちを疑うかも知れません。

 私は、もう、虎男さんと生きていくことはできないと思ったの」 

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