みずほさんの出奔 ①
うららかな陽気が続いていた。
まるで陽炎が立つのではないか、と思うほどの勢いで雪が溶け始め、季節は塗り替えられようとしていた。
静かに、耳を澄ませると、あちこちから雪解けの滴がぽたぽたと地面に落ちる音が絶え間なく聞こえる。それは、歩道から側溝へ流れてゆき、せせらぎ変わった瞬刻、ほんの上澄みを空へ還すようだった。
私は、ベッカライウグイスの駐車場近くを掃除している途中、雪の中から姿を現した片方だけの手袋を拾った。
誰かが落とした後に、雪が降り積もり、埋もれてしまっていたのである。濡れそぼった子供用の小さな手袋の持ち主は、この路地を落としたことにも気づかずに急いだのだろう。
私は、辺りを見回した。低木の街路樹は、もう融けた雪から枝先を出している。私は、具合胃のいいところを見つけると、風で飛ばされないように、そっとその手袋を嵌めた。誰かが見つけてくれるといいな、と思って。春めいた風が、きっと乾かしてもくれるだろう。
それから、スコップに力を込めて、削れるようになった駐車場の雪を、わんさかと除雪した。雪は、ざらざらとした小さな氷の結晶に変わって、零れ落ちながら積み上がった。
カランコロン
外の掃除を終え、店内に入ると、温かい空気とスープの匂いに私の額から頬の皮膚が緩んだ。やはり、まだ本当の春は遠いのかも知れなかった。
リスさんが、朝食をカウンターへ運びながら、笑っていた。
「ふふふ。来春さん、手袋を履かせてましたね」
リスさんに見つかってしまったようだ。
「可愛い手袋でした。見つけてくれるといいんですけど」
「きっと、落とし主が気づきますよ」
私たちは、弱く焚かれるようになったガスストーブのぬくもりに包まれながら、朝食をとった。
大きな窓の外からは、眩しいほどの日差しが降り注ぎ、冬の庭は春の気配に応えようとしていた。
カランコロン
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
みっちゃんである。家の周辺の固くなった雪をずいぶん均してきたのだろうか、少し疲れて見えた。私は、嵌め殺しの大きな窓から外を見ながら、今日はそんな人が多いだろう、と思った。
みっちゃんは、クリームパンを注文するといつもの席に腰を下ろした。
カランコロン
「いらっしゃいませ」
ベッカライウグイスは、今日も、お客さんたちが入れ替わり立ち替わり訪れる。まだ冷え込む朝夕のために厚いコートや防寒具は欠かせなかったが、お昼にやってきたお客さんたちは、お店の扉をくぐると一様に、マフラーを外して首元を緩めた。
床屋さんの安井さんなどは、ご近所なのでごく軽装でやって来た。
安井さんは、サンドイッチを注文すると、みっちゃんの隣に座った。
「こんにちは」
安井さんが、みっちゃんを覗き込みながら、小さな声で言った。
「今日は、あったかいね」
私は、安井さんにサンドイッチとコーヒーが載った木のトレイを運んだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
「あ、みっちゃん……」
安井さんと私が見ている横で、みっちゃんがクリームパンの中身を、ぼとっと落とした。
「あぁ」
残念そうな、安井さんの声が漏れ聞こえた。
みっちゃんは、気づかない様子で、庭を見ている。安井さんの声が小さいから仕方がなかったのだろうか。
お皿の上に落ちたクリームを、みっちゃんは今更のように気づいて、じっと見た。
午後からの郵便で、ベッカライウグイスには、○○小学校からの一通の封書が舞い込んだ。
リスさんに、地域のお世話になった人の一人として、卒業式ご臨席への招待状だった。だが、リスさんは、特にお世話はしていないし楽しい思いをさせて貰ったのはこちらだし、そのうえ、卒業生とは何のふれあいもなかったから、という理由で欠席のお返事をするつもりだと話した。
「もう、そんな季節なんですね」
リスさんと私は、昨年からの小学校を巡るあれこれを思い出していた。そのあれこれの筆頭に上がるのは、古賀さんであろう。
リスさんは、そろそろ発売する予定の春のパンを何にするのかを決めようとしていた。
私は、ずっと思っていた要望を口にした。工場に入る度に、それが綺麗な色で輝いて見えるのだ。
「リスさん、私、どうしても伊予柑のジャムが食べたくなりました」
リスさんはすぐに同意した。
「私も!……でも、ひとつのパンに伊予柑ジャムをたっぷり入れたら、すぐに使い切ってしまいそうで、……それでね、三色ぱんにしませんか?」
「三色ぱん……!」
すごく、楽しそうな響きである。
私は、気がついた。
「チョコクリームは、なくなりましたね」
「そうね……チョコクリームと伊予柑ジャムはちょっとね」
「やっぱり、カスタードですよね!」
リスさんと私の意見は一致していた。
「甘さ控えめのカスタードにしましょう。もう一種類は、来春さん何がいいです?」
「ダイスチーズで、お願いします!」
リスさんは、笑いながら頷いた。
「いいですね!来春さん、だんだん分かってきましたね!」
私は、恥ずかしくなる。
「パンの表面にチーズが出るのは、あまりよくないかな、と思いました」
リスさんは、にこにこしながら頷いた。
ベッカライウグイスの時間は、まるで今日のお天気のように、温かく、穏やかに過ぎていった。
みっちゃんが、いつものように、暮れはじめのカウンター席にじっと座っていた。私は、ショーケース奥のカウンターを片付けはじめた。
そういえば、今日、みっちゃんの声をあまり聞いていない気がした。
リスさんが、そろそろお店を閉店しようと、レジの下に置かれている折りたたみの踏み台へ手を伸ばした。
伸ばしながら、ふと思いついたようにみっちゃんに聞いたのだ。
「あら、みっちゃん、今日みずほさん遅いのね?」
みっちゃんは、よほどのことがない限り、みずほさんがパートの帰りにお迎えに寄って、二人仲良く帰途につくのが日課だった。帰途につくといっても、ここのすぐ裏手が家である。
リスさんの声に、私も窓の外を見た。みずほさんは、まだのようである。
私は、カウンター上のライトを付けた。
明るくなった店内が、もう一つ、別の古めかしい世界のように、大きな窓に映し出される。
だが、私は驚いたのだ。
その窓の中の世界に映って見えたのは、ただ事ではない、みっちゃんの苦し気な顔だった。
「……みっちゃん?」
思わず私はみっちゃんに駆け寄った。
「具合が悪いんじゃ……?」
リスさんも急いでやって来た。
「大丈夫?」
みっちゃんは、微動だにしなかった。
ただ、口元だけを機械のようにぎこちなく動かし、ぽつりと呟いた。
「みずほさんが、帰ってこない……」
「えっ?」
しばらくみっちゃんを見つめた後、リスさんと私は顔を見合わせた。みっちゃんは、なんと言ったのだろう、私たちにはすぐに理解できなかった。
「みっちゃん、今なんて……?」
だが、みっちゃんはそれ以上口を開かない。がっくりと、項垂れただけだった。リスさんと私は、与えられた先ほどの言葉をもう一度頭の中で繰り返して理解するしかなかった。
「みずほさんが帰ってこないって…………どういう?」
リスさんが、眉を顰め、みっちゃんの肩口に詰め寄った。
「…………いつから……?ね、みっちゃん!みずほさん、どうしたの?……警察!みっちゃん、警察には?」
カランコロン
入り口の扉が開く音が聞こえ、リスさんと私は驚いて振り返った。
「こんにちは」
さくらさんと弘子さんがやって来た。
リスさんは、二人に駆け寄って訴え、私は、どこかおかしい違和感めいたものを感じながら、さくらさんと弘子さんのために、みっちゃんを囲むように椅子を寄せた。
リスさんは訳が分からず、みっちゃんの隣に戻ると質問を繰り返した。
「ね、みっちゃん、警察へは連絡した?みずほさん、いつからいないの?」
さくらさんと弘子さんは、二人ともコートを着たまま困った顔で、椅子に腰を下ろした。
「リスちゃん、事件じゃないから、大丈夫よ。心配しないで」
弘子さんが、リスさんの肩を撫でて落ち着かせようとした。
「みずほさんね、家を出て行ったのよ」
さくらさんが、言った。
リスさんが、愕然とした顔で、さくらさんの言ったことを繰り返した。
「……家を、出て行った……?」
それから、みっちゃんを見た。
「あ」
リスさんは、声を上げた。
やっと真相を理解したというふうに。
「みっちゃん、喧嘩したんでしょ、みずほさんと。ふぅ。もうびっくりしちゃった」
一気に気が抜けた様子で、椅子に背中を預けた。
だが、みっちゃんもさくらさんも弘子さんも口を開かない。沈黙が続いた。
「……みっちゃん……一体何をしたの?」
リスさんはみっちゃんに尋ね続けたが、みっちゃんは緘黙状態だった。
弘子さんが、そんなみっちゃんを見やると、小さな溜息を吐きながら話し始めた。
「みずほさんね、昨日、家を出て行ったの」
リスさんが、弘子さんを、見たことのない表情で凝視した。
「リスちゃん、落ち着いて聞いてね。みずほさん、置き手紙をして、みっちゃんのところから出て行ったのよ。だから、事件でもないし、みずほさんは元気でいると思うから、そこは安心して。たぶん、落ち着いたら連絡をくれると思う。それまで、待ちましょう?」
リスさんが、納得できないとばかりに言い募った。
「……そんな、待つって……みっちゃん、喧嘩でしょ?みずほさんが出て行くくらい、一体何を……」
さくらさんが、リスさんを押しとどめた。小さく首を振っている。
「リスちゃん、みずほさんのことは、みっちゃんとみずほさんにしか分からないと思うのよ。今、私たちに出来ることは何もないから」
それから、ただ口を噤み呆然としているみっちゃんを叱咤した。
「みっちゃん!みっちゃんが一番しっかりしないと!ちゃんと、食べて、寝て、みずほさんとどうするのか考えて待ってるの!」
リスさんは、それでも信じられないという顔で、みっちゃんを見つめていた。




