新年 ①
新しい年を迎えたベッカライウグイス。
リスさん、古賀さん、智翠さん、そして私は連れだって初詣へ。
今年は、どんな年になるのでしょうか。神社の境内では、弘子さんと樹森さんに出会います。
あれ?この二人って……。
久しぶりに朝ゆっくりとした時間で目が覚める。瞼の微睡みを求める、少し重たい感覚が、心地いい。息が、深く届く。
部屋は、温かく静かだ。
私はむくりと起き上がると、後ろ手に指を絡め、伸びをした。背筋に、空気が通る。
ふと時計を斜めに見上げ、笑いが漏れた。
六時三十分。この時間をゆっくりだと思うほど、私はここに慣れたのだ、と思う。
堰き止められていた朝を迎えに、窓辺に向かう。
微細な光を僅かに鏤めた厚いカーテンを、両手で開く。
鈍い光が部屋の中になだれ、私は瞬きした。
見上げていると、乳白色の元旦の空は、まだ曇っていない窓越しに、少しずつ色を取り戻していった。
薄水色の湖面に、霧が泥んでいくと思うと、形を集めた雲が浮かび上がる。陽を透かしはじめた空は、桜色を雲に分け与え、やがてその片影は薄い朱を帯びだした。
私は、息で曇った窓硝子を、指で拭き、陽に網羅された庭に視線を落とす。
まるでウサギがそこここに隠れているように、雪景色が眩しく変わりだした。
新しい年である。
昨夜までのことが、まだ記憶の上辺に新しい。新年は、ずっと続いてきた私の人生の途上にあった。
私は、洗面所へ向かい、灯りを点けた。
施された碧いタイルが、透明にあるいは曇って輝く。深海に瀰漫した空気の行方を辿るように、深呼吸をしながら鏡を見る。
自分に、希望の呪文を唱える。
良い年になりますように。
なぜなら、それを成していくのは自分だから。
身支度を済ませ、するりと廊下に出ると、前夜からの冷気で家のあちこちが軋みそうなほど固くなっているのが分かった。どんどん寒さが増す頃だ。凍るような空気が、私の頬を引き締めた。
「おはようございます」
リビングのドアを開けると、リスさんがもう起きて食事の支度をしていた。
「おはようございます、来春さん」
珍しく、リスの尻尾のような巻き毛が解かれ、長く明るい色の髪が背中に揺れていた。三が日の夕刻まで、ベッカライウグイスは新年のお休みである。リスさんと私は、のんびり過ごす予定だった。ただ一つ、初詣の予定を除いては。
私は、お手伝いに、キッチンにいるリスさんの元へ歩んだ。
近づくと、ふわっと出汁や醤油やネギの匂いに包まれた。
「お雑煮ですか」
リスさんが、温まった頬を染めて、横にいる私を振り返った。
「はい。お正月ですからね」
テーブルには、お雑煮を飾るための、三つ葉やかまぼこ、柚が綺麗に揃えられていた。だがお椀の数が多い。
私の疑問に気がついたのだろうか、リスさんが振り返って言った。
「お供え用ですよ。来春さんも、ひとつお持ちくださいね」
「ありがとうございます」
私よりも年下だとは思えないほど、よく気のつくリスさんである。リスさんは、さらに言った。
「家の神様にも、新年のお参りをお願いしたいんですが……」
「もちろんです、ありがとうございます」
リスさんは、お盆にお雑煮をひと椀載せると、シューさんの使っていた客間に、私を案内した。
シューさんがここで生活した形跡は、もう一つも残っていなかった。暖房が付けられていないので部屋は外のように息が凍えた。
神棚の下には既に踏み台が用意されていて、リスさんがそこに登り、私は預かっていたお雑煮の載ったお盆を、リスさんに掲げて差し出す。
神様の前に飾られた鏡餅の横に、リスさんは丁寧にお椀を上げた。
リスさんのお家の神棚の下で、お参りをさせていただくのは初めてだった。
私は、リスさんの後ろで、深く礼をし、ご挨拶の柏手を打った。
それから、リスさんと私は、そのまま畳に正座した。
「来春さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
リスさんが、畳に指を付き、その甲に向け深く頭を下げた。私もそれに倣い、腰を折り深く頭を下げる。
「リスさん、昨年は大変お世話になりました。本年も、何卒よろしくお願いいたします」
ベッカライウグイスにお世話になって八か月ほど、リスさんとはよき雇用主と社員、かつ友人としての日々を重ねてきた。その中で、こうして居住まいを正し、新年の挨拶をすることは、今までの関係にまた厳粛な何かが加わった気がした。それは、喜ばしいものであった。
「さ、来春さん、私たちもいただきましょう!」
リスさんは、軽快に立ち上がると、私の腕を両手で引き上げた。
私たちは、お供え用のお椀を持ってそれぞれの部屋へ戻り、新年のお参りを済ませてから、リビングへ向かった。
お正月の私たちの楽しみは、なんといっても、昨夜届けられたみずほさんのおせち料理だった。
みずほさんは、お料理上手である。ベッカライウグイスで何かがあると、いつも大きな器に山盛りのお料理を持ってきてくれる。羽鳥さんの送別会の時は魚介と新鮮で色とりどりな野菜のマリネだったし、シューさんのおでんの会の時には、みんなが大満足した大盛りの唐揚げだった。クリスマスにはかぼちゃサラダをいただき、大晦日には、玄関まで、おせち料理の詰まった小さなお重を届けてくれた。私よりも、ずっとサンタさんのようなみずほさんである。
私たちは、自分たちのお雑煮をお椀に盛り付け、そっと蓋をすると、玄関ホールへ子どものように飛び出した。
この季節、家の外は冷凍庫と同じであり、玄関は冷蔵庫と同じである。
大きな鏡餅の横に、みずほさんのお重は保管されていたのだった。
「きゃー」
「うゎあ」
幾つになっても、人様が自分のために作ってくれたお料理は限りなく嬉しいものだった。私たちは、そんな喜びを込めた声を思い思いに上げ、テーブルへ急いだ。
「開けまーす」
リスさんが、お重の蓋に両手を添える。私は、うんうん頷く。
現われたのは、心づくしが籠められたお祝い料理の数々だった。
「すごい!」
「わぁ」
黒豆、数の子、エビになます、松風焼きにローストビーフまで、それらは隙間なく詰められ、新年の喜びが溢れ出るようだった。
下の段には、うま煮が、梅の飾りや絹さやも鮮やかに詰められている。
私たちは、食卓に着くと、手を合わせた。
「いただきます」
お雑煮のお椀の蓋を、そっと押し開け、おだしの香りを堪能する。
それから、お祝い用のお皿に、みずほさんのおせち料理を、思い思いに少しずつ盛り合わせ、ありがたく頂戴した。
リスさんが汲み置いた若水を使い、のんびり食後のお茶を飲み、みずほさんに、なんてお礼を伝えようと考えているうちに、いつの間にか時間は過ぎていった。
リスさんが、気づく。
「来春さん!智翠が来る時間!」
「えっ?」
忙しくしているよりも早く時間が過ぎるとは、どういうことなのだろう。リスさんと私は、慌ててよそ行きに着替え始めた。
玄関の呼び出しが鳴った。
「はい!」
インターホンに、智翠さんの姿が映っている。
私たちがポーチに出ると、見たこともない智翠さんがそこに立っていた。
いつもは、水琴庵の営業車に乗り、お店の白い作務衣に上着を着るか、夏ならばもっと軽装で、髪も清潔だがさして手入れもされていない様子なのに、今日はまったく違った。
仕立てのよい、厚地のコートの下は、スーツであった。髪は、軽やかに整えられ、おまけに、手触りの良さそうなマフラーを、どんな結び方をしているのかその方法さえ不明な、だがかなりお洒落に巻いていた。
何か、生まれ変わったような…………別人?私は、年度末の、古賀さんと智翠さんの攻防を思い出し、それがこれからもまだ続くのかと心のどこかで懸念した。
さらに、智翠さんは、私たちに向かって、慇懃に新年の挨拶をした。
「あけましておめでとうございます。リス、来春さん、今年もよろしくお願いします」
両手のひらを、腿の横にぴたりと付け、実に折り目正しい礼である。
リスさんと私は、コートのボタンもまだ留めていない格好でポーチの下にも降りず、慌ててお辞儀をした。
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
そんな、隙のない様子をした智翠さんは、顔を上げるなり、いつもの笑顔で快活に言った。
「リス、化粧くらいしないかな?新年だよ?初詣だよ?」
そう言われても……。ポーチの下から顔を覗き込まれ、リスさんはうなだれて口ごもった。
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