【第9話】『正義を喰う触手──マコト、右腕の代償』
月は黒雲に覆われ、夜の港は深い息を潜めていた。
激戦の末、朝倉ユウト──セイガン・シルバーを退けた怪人ゲロスは、静かにその巨大な触手を蠢かせながら、崩壊寸前のセイガン拠点ビルを上階へと這い登っていった。
腐蝕液を滴らせる体躯が、溶けた鉄筋と焦げた配線の間を滑るように進む。ゲロスの狙いはただ一つ──
「副司令官クラマ・ジュン……貴様の腐った脳味噌、どんな味がするのかのう」
最上階の密閉区画。厚い防爆扉が無傷のまま残っていた。
だが、ゲロスにとってそれは障害ではない。
「分解開始──」
ぬちり、と生温い音が響く。触手の先端から溶解液が噴き出し、分子レベルで金属構造を崩壊させていく。瞬く間に防爆扉は泡立ち、穴が空き、腐蝕して崩れ落ちた。
「っ……化け物……く、来るなァ!」
部屋の中央、血の気の引いた顔で拳銃を手に立ちすくむ男。セイガン副司令官・クラマ・ジュン。
「正義を装った臓物どもが……甘い、甘すぎるのう……」
次の瞬間、ゲロスの触手が一閃。銃を構える腕が切断され、叫び声が辺りに響き渡る。
呻く間もなく、別の触手が頭部を包み込む。
めきっ、という鈍い音。
──ジュンの頭蓋骨が割れ、脳髄がそのまま引きずり出された。
「んふ……ぬるいのう……だが、情報の密度はなかなかじゃ……作戦情報、兵站データ……ふむふむ、なるほど」
ゲロスは脳を触手の先で握りつぶし、赤黒い液体を啜るように吸い上げた。
任務──完遂。
ゲロスはくるりと踵を返すと、焼け焦げた階段を降りていった。死体の山と、腐蝕した建材の瓦礫。誰もその背中を止められる者はいない。
■
――ネメシス本拠地・深層研究棟、バイオ第七培養室。
「素晴らしい……いや、芸術的だよ、ゲロス君!」
ドクトル・メディアスの叫び声が研究室に響き渡った。
白衣の背中は興奮に震え、目元の神経パッチがけいれんしていた。
「脳髄からの情報抽出、腐蝕濃度の変動、戦闘時の再生効率……すべて想定値を上回った! 君は、我が最高傑作だ!」
ゲロスはガラス張りの洗浄区画に鎮座し、腐蝕液を排出しながらドクトルの言葉を無言で受けていた。
「ふぅむ……次の任務は慎重に選ばねば。今や君は貴重な兵器だ。迂闊に失っては困る」
「ンふふ……まだ足りぬ。もっと、もっと喰わせてくれ……次は誰じゃ? ワシはまだ飢えておるぞ……」
ドクトルは手元のタブレットを操作し、次なる標的のリストを映し出した。
ゲロスの蛙のような目が、ぬらりと笑った。
「血の雨がまた降るのう……この身が腐り尽きるその日まで、ワシは喰らうぞ、“正義”をな──」
■
──東洋コンビナート埠頭。深夜、潮風が重く澱む中、補給物資が集積される倉庫群の間に、足音すら吸い込むような静寂が広がっていた。
ここは、セイガン戦隊が逆襲の舞台として選んだ“罠”。
ネメシスが次に狙うとされる補給基地を囮に、正義の戦士たちは待ち構えていた。
「やっと来たか……あの化け物が」
セイガン・イエロー──マコトは、義手となった右腕をそっと撫でる。
黒く光る砲台型義肢。再生医療ではなく、あえて武装化を選んだ右腕。
過去の敗北。元仲間だったイツキに腕をもぎ取られた恐怖。そして今、自分は“武器”としてここに立っている。
――正義とは、何だ。
問いは胸に、答えは砲口に。
コンビナートの埠頭に、重い霧が垂れ込めていた。鉄と油の臭いが混じる湿気の中、足音もなく“それ”は現れた。
にちゃり、と蠢く音と共に、黒い人型のような怪物が姿を見せる。全身に触手を這わせ、異様に膨れた頭部の中央には、ぼんやりと赤い目が光っていた。
「ネメシスの怪人か……」
レッドの声に、セイガン戦隊の5人が構えを取る。
「ぬふふふふ……貴様ら、またここで出会うとは因果じゃのぅ……!」
腐食怪人ゲロスが、戦闘員を引き連れて現れた。
無数の鉤爪兵たちが倉庫外周を取り囲み、一斉に突撃を開始する。
「来やがったな……全員、迎撃態勢だ!」
レッドの号令と共に、セイガン戦隊が動く。
ブルー・レイが背後から迫った戦闘員を回し蹴りで吹き飛ばし、ピンク・サクラが照準を定めた矢を連続で放つ。鋼鉄の鉤爪が宙を舞い、倒れていく戦闘員たち。
だが、マコトの視界にはゲロスしか映っていなかった。
「返してもらうぞ、ネメシスの化け物……俺の誇りと……右腕の意味をッ!」
セイガン戦隊にとっては雑魚敵でしかなかったネメシスの戦闘員を数分で殲滅したセイガンファイブ。
「おまえだけになったな“ゲロス」
静かに言い放つブルー──レイの声は冷静だった。
ゲロスはかすかに首を傾けた。人間の動きに似ているが、あまりに不自然で不気味だった。
「セイガン……貴様らを喰らい、我が肉体は進化する。抵抗は無駄だ」
「喰われる気はないな」
レッドが一歩踏み出した瞬間、ゲロスの背中から無数の触手が咆哮とともに射出された。
「くるぞ!!」
触手が鋭い槍のように突き刺さるよう襲いかかる。ピンク・サクラが即座に飛び退き、手にしたダブルブレードを振るう。光の斬撃が空気を裂き、数本の触手を一閃に切断した。
だが、切ったそばから再生する。
「何本あるのよ……っ! 気持ち悪い!」
レイが横から斬り込んだ。鋭利な双剣が絡みつく触手を切り裂き、素早く背後に回り込む。
コンビナートの鉄骨を跳び渡りながら、彼女は叫んだ。
「攻撃が通らないわけじゃない。でも、再生が早い!」
「なら、止めるまで叩き続けるだけだッ!」
グリーン・カケルが肩に担いだハンマーを振り上げ、正面から突撃する。
ゲロスの左腕が鋏のように変形し、振り下ろされるが──
「セイガン・ブレイカー!!」
カケルのハンマーが地面ごと叩き割り、鋏を強引に逸らす。鉄骨が弾け飛び、爆風のように舞う火花。
その隙を突いて、レッドが跳び込む。
「セイガン・クロススラッシュッ!!」
赤い双剣が交差し、ゲロスの胸部にX字の斬撃を刻む。だが──傷は、すぐに蠢いて塞がっていく。
「クソッ、再生の速度が尋常じゃねぇ!」
「じゃあ、奥まで届かせりゃいいってことだろ?」
背後で、イエロー・マコトが低く呟いた。
彼の右腕──それは、過去の戦いで失った本物の腕の代わりに、セイガン本部が極秘に開発した兵装《義肢兵装・ジャッジ・キャノン》。一度しか撃てない切り札だ。
■
──セイガン本部、医療棟の地下に設けられた特殊義肢開発室。
白い照明が鋭く空間を裂き、無機質な音が金属片を削る旋盤から響いていた。
マコトは無言のまま、右肩に走る縫い痕を見つめていた。
皮膚の下にはすでに、神経と接続するためのインターフェースが埋め込まれている。
そして彼の視線の先には──黒く重厚な砲身が据えられていた。
「もう一度、やられるわけにはいかない。今度は、俺が撃つ番だ」
それは復讐か、覚悟か。
あるいは、自分をまだ“正義”と信じるための呪文だったのかもしれない。
──数日後、作戦前夜。
基地の屋上に立つマコトのもとへ、ピンク──サクラがそっと近づいてきた。
「風、冷たいね。……眠れなかった?」
マコトは答えず、義手の砲身に手を置いた。
真夜中に見るには重すぎる黒光りの機械。
それはかつて仲間だったイツキの力を逆用して生まれた、禁忌の武器だった。
「サクラ。お前、正義って信じてるか?」
突然の問いに、サクラは一瞬だけ言葉を探し、それから小さく首を横に振った。
「信じたいとは思うよ。でも、たまに怖くなる。私たち、本当に誰かを守ってるのかなって」
「……あいつはさ、俺の腕を奪った後、笑ってたんだよ。“お前の正義ってその程度か”って顔でさ」
握る砲口に、かすかに震えが走る。
「だから今度は、俺が“正義”で奴を撃つ。
それが間違いでも、偽物でも、今の俺にはこれしかないんだ」
サクラは黙ってマコトの背に寄り添い、小さく囁いた。
「マコト。あなたがどんなに壊れても、私はあなたの“痛み”だけは信じる」
それ以上は何も言わず、ただ、風だけが砲口を撫でた。
──作戦当日。
出撃前のマコトは格納庫にて静かに義手の砲身に触れていた。
弾倉は装填済み。標準機能以外に、試験段階の炸裂弾も搭載されている。
深く息を吐き、独り言のように呟く。
「……行くぞ。これは、俺が選んだ正義の形だ」
その目には、過去への怒りでも、未来への希望でもない──
ただ“今”という戦場を生き抜くための、覚悟だけが灯っていた。
■
マコトは構えた。
義腕がぎゅるりと変形し、銃口がせり出す。砲身には光が収束し始めていた。
「準備できたぞ。あとは──撃つだけだ」
「時間を稼ぐ!」
レッドの叫びと同時に、サクラが触手に囲まれながら槍を構え、ぐるりと旋回。あえて囮となり、ゲロスの注意を引きつける。
「こっち向きなさいよ、グロ触手野郎!」
数本の触手がサクラに集中し、その隙にレイが地を滑るように移動。ゲロスの死角へ潜り込み、脇腹に連撃を叩き込んだ。
ゲロスが苦悶の声を上げ、上体をひねる。その一瞬の隙を、グリーンのハンマーが突き上げる。
「ここまで来たら──力押しだッ!」
ガンッッ!!!
ゲロスの体が仰け反った瞬間。
マコトは、義腕を構えた。
「お前の正義が腐ってようが、こっちには譲れねぇ“正義”があるんだよ」
その声は、かつて右腕を失った戦場で自分を救ってくれた、仲間の声と重なっていた。
「ぶち抜けえええええええええええッッ!!!!!」
光の奔流が砲口から解き放たれた。
音が消えたかと思うほどの爆音が一瞬遅れて響き、ジャッジ・キャノンの弾丸が一直線にゲロスの腹部を貫通した。
閃光、衝撃、爆風。
轟音。義腕から放たれた炸裂弾がゲロスの胸部に直撃し、肉片が飛び散る。
触手が千切れ飛び、黒い粘液が四方に飛び散る。
ゲロスの体がくの字に折れ、吹き飛ばされ、コンビナートのタンクに激突する。
「……やった、か……?」
マコトが膝をつき、義腕の砲身が煙を上げて沈黙する。もう二度と、撃てない。
だがそのとき、タンクの瓦礫の中から、異音が響き始めた。
「んふふふふふ……そやつ、効くのう。だが、わしの再生は……進化を呼ぶんじゃ」
潰れたはずの胸腔が、蠢く肉と触手で膨れ上がり、再び形を成す。
マコトの瞳がわずかに震えた。
これが、自分が引き金を引いた結果だというのか。
腐蝕する大地、伸びる触手。
そして、正義の名の下に繰り返される“破壊”。
バチ……ッ、バチバチ……ジジ……
煙の中で、ゲロスの体が不気味に膨張していた。
皮膚が裂け、新たな触手が無数に生え、背中から昆虫のような羽根状の器官が突き出す。
「貴様らの戦い……見事だった。だが──この“進化”は止まらない……!」
声が、低く濁ったものに変わっていた。下顎が裂け、内側にもう一つの口が出現する。
レッドが呟く。
「……第二形態、だと……」
「第二形態、移行完了──愉しませてもらうぞ、イエロー、いやセイガン戦隊達よ」
冷たい風が吹き抜けた。戦いは、まだ終わっていなかった。
セイガン戦隊が再び集結し、ゲロス第二形態との全面戦闘が始まろうとしていた。
夜はまだ終わらない。