【第19話】『蠢く歯車──裏切り者たちの共謀』
──セイガン医療棟・第七隔離観察室。
それは“彼女”のために用意された、ひとつだけの病室だった。
薄く霧がかったガラスの中で、彼女──サクラは、静かに目を開いた。
視界はぼやけていた。光がまぶしく、空気が肌に馴染まない。
だが、何よりも“自分の身体が、自分のものではない”という感覚が、彼女を包んでいた。
「っ……は……?」
かすれた声が、口から漏れる。
その声すら、どこか他人のようだった。
手を伸ばす。指が見える。知らない、細く長い指。
爪の形も、肌の色も、触れたベッドの感触さえ“他人のもの”だ。
「……わたし……?」
誰かの声がする気がした。
だが、何も返ってこない。自分の心が、自分にすら反応しない。
気がつけば、涙が頬を伝っていた。
そのときだった。
病室のドアが、ゆっくりと開く。
「……サクラ……!」
レンだった。制服の袖はボロボロで、腕には包帯が巻かれている。
だが、顔は泣きそうなほど安堵に満ちていた。
サクラは彼を見つめた。
口を開き、言葉を出そうとした──が、出ない。
代わりに、彼女の瞳が震えた。
そして、絞り出すように一言。
「……わたし……サクラ、なの……?」
レンは立ち尽くした。
傷だらけの彼の手が、迷いながらサクラの肩に触れる。
「そうだ。君は……サクラだよ。俺たちの仲間で、俺の──」
言葉が、続かない。
サクラの顔が歪み、静かに泣き始める。
「わかんない……。この手も、声も、胸の重さも……全部、違うの……!」
「……ごめん……助けたくて……俺は……」
レンの声も震えていた。
サクラは、わずかに目を閉じ、ベッドのシーツを握りしめた。
「ねえ、レン……わたし、本当に“生きてる”の……?」
その問いに、彼は即答できなかった。
やがて──
「……わからない。でも、もし“生きてる”ってことが、誰かを想えることだとしたら……君は、生きてる」
その言葉に、サクラの涙がこぼれる。
──それは、再生という名の罪だった。
救った命の代わりに、奪ったものの重さを抱えながら、
彼女はもう一度“サクラ”という名を受け取るしかなかった。
──第七観察室、夜。
誰もいない病室に、サクラは一人座っていた。
照明は最低限に絞られ、外の月光だけが、彼女の輪郭を柔らかく照らしている。
白く細長い指が、胸元をなぞる。知らない体温。知らない皮膚の感触。
サクラは唇を噛み、震えながらつぶやいた。
「この身体……わたしじゃない……」
指先を見つめる。爪の下に、乾きかけた赤黒い痕。
自分が、さっきまで何をしていたのか──彼女には理解できていた。
「飢えてた……どうして……どうして、あんなこと……」
喉の奥が焼けるように渇いていた。
それを癒したのは──人体から直接吸い出した、“血”だった。
搬送途中だった昏睡状態の兵士の頸動脈に、彼女は自らの牙を突き立てていた。
意識が朦朧とする中で、脳は理性を叫んだが、体は従わなかった。
それは本能だった。
いや、それは──“注入された何か”の命令だった。
「ドクター・九頭……あの人、何かを隠してた……。きっと……」
サクラは膝を抱える。だが、自分の体はもう柔らかくも、温かくもなかった。
体内を巡るエネルギーが、どこか違う。血流ではない、もっと“獣的なもの”だ。
ふいに、扉の前に気配を感じた。
静かにノブが動く音。
サクラは動けず、ただその場にうずくまる。
扉は開かない。だが、外に人がいる気配は消えない。
監視されているのだ。もうずっと。
──それも当然だろう。
彼女は今や、“ネメシスの怪人と同じ”なのだから。
サクラは感じていた。
自分の中にあるゲロスの亡霊を……。
「ゲロス……あの化け物……私の体に……その、DNAを?」
それが本当ならば。
サクラはもはや“サクラ”ではなく、“再構築された何か”だ。
人間ではない。
血を糧とし、生体の制御すら利かない、未知の存在。
「……レン……わたし……ごめん……」
涙が頬を伝う。だが、それすらどこか人工的だった。
内側から泣くというより、“涙を流す機能”が作動しているような、奇妙な感覚。
その違和感が、彼女を深く追い詰めていった。
「これが、生きるってこと……? 本当に……」
言葉は途中で途切れた。
彼女の中で、もはや人間としての価値観は崩れ始めていた。
それは“生き残った”のではなく、“怪物として作り変えられた”だけ。
いつかこの身体が完全に“あちら側”に染まり、自我を失う日が来るかもしれない。
そのとき、レンの前で、彼女はどんな顔をすればいいのか。
いや、レンに牙を剥くことさえ──ないとは言えないのだ。
「わたしは……何になったの……」
問いに答える者はいなかった。
ただ、己の内で静かに蠢く渇きだけが、“もっと血を”と囁いていた。
──セイガン本部・地下第五倉庫。
最初の変死体が発見されたのは、未使用倉庫の中だった。
被害者は若い男性整備員。全身の血液が抜かれたように皮膚は干からび、まるでミイラのような変色と萎縮を見せていた。口元には苦悶の痕、そして……首元には“わずかな穿刺痕”が残されていた。
「自然死じゃ、ねぇな……これは」
検視官のつぶやきに、現場は騒然となった。
だが、隊内の誰もが“口にしなかった”事実があった。
変死体が発見された場所には、必ず“彼女”の痕跡があった。
──セイガンピンク、サクラ。
ゲロスとの戦いの末に改造手術を受け、奇跡的に生還したはずの彼女。
その体には今、生体を糧にせねば維持できぬ“怪人としての本能”が眠っていた。
──セイガン医療棟・深夜。
執刀医・九頭博士は、報告書を前に黙っていた。
“サクラの口元に血液痕”
“指先に遺体のDNA反応”
“体内に確認された未知の酵素物質──血中エネルギー還元反応の活性化”
証拠は、揃っている。
だが、誰にも告げてはいけなかった。
サクラは今や“実験の証”であり、“成果”だった。
それは、彼女の命を救うために自らが下した“最終決断”の代償でもある。
「……サクラ。お前は、あの夜からもう“人”じゃないんだ」
モニターの奥に映る、眠るような横顔。
美しく、痛々しい“人間の姿をした怪人”。
彼女の中には、確実に**ゲロス由来の“吸血本能”が根を下ろしていた。
九頭は机上の資料をそっと閉じた。
そして誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「黙っている。俺が、すべてを背負う……お前が、英雄のままでいられるように」
──それから数日後、
第三の変死体が見つかった。
今度は医療スタッフの若い女性。
やはり“血液がすべて抜かれた状態”で倒れていた。
報告を受けた九頭は、ただ一言だけ言った。
「……事故処理として処理を。サクラには、知らせるな」
その声には、決意とも、諦めともつかない、重い沈黙が宿っていた。
──セイガンの内部で、静かに始まっていた“喰われる側”の恐怖。
そして、サクラ自身がまだ気づいていない──
自らが“怪人の証”として歩み始めた現実に、誰よりも早く気づいていたのは、
彼女を救ったはずの男、九頭だけだった。
──ネメシス本部・第八幹部会議室。
重厚な黒檀の円卓を囲む幹部たちは、沈黙の中で互いの呼吸さえも探り合っていた。空気は重く、張り詰めている。
その均衡を破ったのは、統括官ゼクスの一言だった。
「L-Disasterの第二体、完成の報告を受けた」
一瞬、静寂が破られた。ざわつく幹部たちの中で、ただ一人イツキは真っ直ぐに顔を上げる。
「まだやるのか? あれ以上、何を作る……何を壊すつもりだ?」
ゼクスは冷ややかに微笑むと、短く答えた。
「お前は“壊す”ことしか知らないと誤解しているようだな。これは“秩序の再構築”だ」
イツキはそれ以上言葉を重ねなかった。今はまだ動く時ではない。ラミアと共に、慎重に準備を進めるべき時。
彼は心の奥で言い聞かせた──これは、戦わずして奪う“裏の正義”だと。
──同時刻、ネメシス本部・地下観測室。
巨大な培養槽の中で、第二体のL-Disasterが蠢いていた。銀の外殻に包まれたその躯体は、機械とも生物ともつかない。
「第一体を凌駕する神経伝達速度……これぞ、究極の兵器」
ドクトル・メディアスがモニター越しに呟いた。
「人格は不要。感情もいらぬ。貴様には命令だけがあればいい。ゲロスは……感情を得たことで失敗したのだ」
培養液の中、白く淡く輝くその瞳が開かれた瞬間、室内の温度が一瞬で下がったような錯覚すら起きた。
──その夜、セイガン本部・旧医療棟。
静かな病室。サクラはベッドの上で、目を閉じていた。だが眠ってはいない。
彼女の内側では、何かが静かに変質していた。血の匂いに鋭く反応し、夜になると皮膚の下でうごめく熱。
「……もう戻れないのかな、普通の身体に」
ぽつりと漏れた声。その時、病室の扉が静かに開いた。
「サクラ……」
現れたのは、セイガンブルー――レンだった。
彼は黙ってサクラの枕元に花を置くと、震える手でその手を取る。
「お前の命を……救いたかった。それだけだったんだ。でも……こんな身体にしてしまって、本当に……俺、最低だよな」
サクラの瞳から、静かに涙が零れた。
「レン……ありがとう。でも、私……自分が何なのか、わからないの」
レンはその言葉に耐えきれず、俯いたまま唇を噛んだ。
──翌朝、ネメシス本部・第六警備棟。
幹部室に呼び出されたイツキは、ゼクスの前に立っていた。
「情報中枢の制圧任務だ。セイガンの通信網への介入が目的」
「……表向きは、ってことか?」
ゼクスはわずかに笑った。
「裏では、“処理”対象の粛清も含まれる。お前はその監視役だ」
鋭い視線。試すような言葉。それでもイツキは、微動だにしなかった。
「了解。任務に従う」
その返答の裏で、心の奥に火がともる。
(……通信網を手に入れれば、繋がれる。外の誰かと。まだ、希望はある)
イツキは静かに立ち上がり、任務へと歩き出す。
その背にあるのは、確かな決意だった。
──反逆の刃は、内側から静かに鋭さを増していた。




