【第12話】『怪人討伐計画──黒と紅の決戦前夜』
かつて工業都市として栄えた湾岸スラム・第七区画──今では鉄錆の匂いと腐臭にまみれた“死にかけの街”である。
その夜、薄暗い路地裏を静かに蠢く影があった。
ゲロス──ネメシスの逸脱兵器、怪人にして災厄。
彼は処分命令を受ける前、収容施設の腐蝕を意図的に進め、自らを「廃棄対象」とした人類に対し、恐るべき報復を開始していた。
誰にも気づかれぬまま、施設の警戒網をすり抜け、逃げ出した先がこの第七区画だった。
そして今、彼は「喰って」いた。
建物の陰にいた初老の男は、黒く濡れた触手に貫かれ、脳髄を根こそぎ吸われた。
子どもを抱えて逃げようとした母親は、背後から巻き付いた腐蝕鞭で身体を引き裂かれ、赤子ごと地に叩きつけられる。
苦しみながらうごめく住人たちの肉体は、ゲロスの触手により徐々に液状化し、地面に溶けていった。
「……音が、足りない」
ゲロスは低く、地を這うような声で呟いた。
「悲鳴が、もっと……必要だ。俺を、覚えてもらうには……」
目の前にあった教会跡地に逃げ込んだ避難民数十名に向かって、ゲロスは一歩、また一歩と進んだ。
腐蝕性の霧が這い、ステンドグラスがパリンと砕ける。
「神はいない。おまえたちを救う者は──もうどこにもいない」
そして、地獄の幕が上がった。
教会の扉が触手に破られ、内部にいた者たちは次々に叫び声を上げたが、その声すら喉ごと潰された。
血と腐蝕液が混じり合い、礼拝堂の床を赤黒く染める。
信仰の場が、絶望の処刑場へと変わっていった。
その異様な光景に、上空を監視していたネメシスのドローンは映像を基地へ送信した。
映し出されたのは、肉片の山の上に立つ異形の存在──ゲロス。
“再び暴走を始めた怪人、湾岸第七区画で住人およそ124名を虐殺”
その報せは、ネメシス本部を戦慄させるに十分だった。
「──もう手遅れかもしれん」
監視室の幹部のひとりが呻く。
ゲロスはもはや兵器ではない。
意思を持ち、残酷さを楽しむ“進化した災厄”だった。
翌朝、湾岸第七区画に陽が差したとき、その地に立ちこめていたのは、潮風ではなく、焦げた肉と金属の腐蝕臭だった。
しかし、テレビも新聞も、その一夜の惨劇を一切報じなかった。
報道各社は沈黙し、SNSで現地住民が「第七区画が燃えている」「人が死んだ」と叫んでも、次の瞬間には投稿が凍結され、アカウントが“無効”と表示される。
都市の広報塔では、セイガンの広報官・如月マリアが冷ややかな笑みを浮かべ、宣言していた。
「昨夜、第七区画で起きた火災は老朽化した配電網によるものであり、人的被害は一切確認されておりません。以上です」
その姿は、感情の欠片すら見えないマネキンのようだった。
一方、セイガン本部の情報処理局では、何十人もの職員たちが徹夜で「目撃証言の削除」や「映像の改竄」、「捏造火災映像の拡散」に追われていた。
「自分の娘が行方不明なんです! お願いです、探してください!」
市民課の窓口に詰めかけた住人たちの叫びは、警備兵によって“秩序維持”の名のもと、排除される。
暴れる者は即時拘束、連行先は“心理矯正センター”。
そこは、真実を語ろうとする者たちが“正しい市民意識”を叩き込まれる施設だった。
市民放送局では、早朝番組のキャスターが明るく言った。
「今朝も清々しい朝ですね! 第七区画は防災点検のために一時的に封鎖中とのこと。代わりに、近郊の海浜公園が無料開放されていますよ♪」
その背後で、政府と癒着したディープステートの代表者たちは、ガラス張りの会議室で嘲笑していた。
「制圧作戦に失敗したネメシスが、暴走兵器を放ってくれたおかげで、ますます市民の不安は高まったな」
「不安が増せば、秩序を保つ“正義”の力を求める声も増す……セイガンの支持率も回復させよう。来週には新型武装兵のデモンストレーションを組むか」
「死体は処理班が片づけたか?」
「ああ。“使えそうな部品”は別ルートで再利用だ。再生技術ってのは、本当にありがたいねぇ」
笑い声が、地の底から響いていた。
彼の名前は三谷亮太。
湾岸第七区画で小さな修理工場を営んでいた、どこにでもいる中年の市民だった。
あの夜、息子を探して深夜の港湾倉庫に向かった彼は、たまたま目にしてしまった。
燃え盛るスラムの裏路地で、奇怪な触手に貫かれ、叫びも上げられぬまま崩れていく人々の姿を。
瓦礫の中から引きちぎられた腕が投げ出され、赤黒く濡れた鉄骨の柱に、少女の頭部が突き刺さっていた。
──その中心にいた、あの“化け物”を。
彼は息子を見つけることはできなかった。ただただ、口を塞ぎ、息を潜め、死体の山に紛れて一夜を生き延びた。
数日後、彼は市民告発フォームに証拠写真とともに通報を試みた。
しかし画面には「アクセス権限がありません」「不正な情報です」と赤い文字が浮かび、再起動後にはすでに端末そのものが使用不能になっていた。
焦った彼は、民間ジャーナルサイトへ連絡をとった。
その日の夜、彼の修理工場には黒服の男たちが現れた。
「……三谷亮太さんですね? セイガン情報保安局です。少し、お時間を」
腕章に見覚えのある“正義”の紋章。
だがその笑顔に、亮太は本能的な恐怖を覚えた。
その後、彼の姿を見た者はいない。
彼の妻は「夫は仕事で出たまま戻らない」と泣き、息子はすでに“行方不明者”として処理されていた。
修理工場は翌週には閉鎖され、「違法電力使用の摘発」として報道された。
──そして、ネメシス情報班の会議室。
「三谷の処理、完了しました。例の映像は回収済み。自宅の端末も焼却済みです」
「誤差範囲だな。問題ない。報道に漏れた形跡もなし」
「遺族は?」
「標準手順で精神安定剤を投与済み。記憶干渉は明日施術予定です」
「よろしい。次は“流言”の拡散元を調査しろ。ネットで『第七区画はおかしい』と騒いでいる市民を数人、例の“啓蒙施設”に送れ」
誰かが机を叩いて笑った。
「まったく、告発ごっこが流行ってるとはな。あいつらの“正義”ほど、安っぽいもんはねえな」
一方、スラムの壁にひっそりと貼られた手書きのメモ。
《私は見た。第七区画は“化け物”に食われた。息子もいた。あれは事故じゃない。──三谷亮太》
誰が残したか分からないその一文も、やがてセイガンの清掃部隊によって回収され、記録の海に沈んでいった。
正義の名のもとに、またひとつ、真実は闇に消えた。
こうして第七区画の惨劇は、まるで“最初から無かった”こととして処理された。
市民は平穏を装う街で、見えない恐怖に晒されながら、今日も“何も知らず”に生きていく。
──ネメシス日本支部・作戦管制室。
冷たい蛍光灯の下、金属製の作戦卓には、ゲロスの最新行動記録がホログラフィで映し出されていた。
荒廃した街の一角、破壊された高層ビル群の中で、腐食と再生を繰り返す異形の怪人の映像。
「……第二形態から、進化が止まっていない。第三段階への移行が近いと見ていい」
バイオ技師の一人が、緊張を隠しきれない声で呟く。
「このままでは“討伐”ではなく“封印”しか手がないわ」
隣で肩をすくめるのは、戦術計画主任の女幹部カレン。
「その必要はない」
暗がりから一歩、現れた黒い影が言った。
幹部候補・イツキ。その顔には一片の揺らぎもなかった。
「殺る。それだけだ」
「……本気なのね、あんた」
軽口を叩くように笑う声。
ラミアだった。艶やかな鱗を持つその肌は、まるで今夜の血を予感しているかのように艶めいていた。
「“姉妹”の仇は、きっちり取らせてもらうわ」
作戦名が読み上げられる。
『特別任務:ゲロス討伐計画』
討伐対象:怪人ゲロス(逸脱個体/第二形態)
作戦責任者:幹部候補イツキ、戦術怪人ラミア
支援:戦闘員隊“シャドウスーツ隊α・β”
「地点は湾岸第七スラム区域。現在ゲロスが再生を繰り返して潜伏している区域だ」
「さっさと燃やしましょ、再生できないくらいね」
ラミアが軽く舌を出すと、イツキは無言で作戦卓のホロ投影に目をやった。
破壊された街、その中心に脈動する有機生命体の姿。まるで悪夢の胎動のように、その触手は今も何かを求めて蠢いていた。
「イツキ」
ラミアが横目で彼を見た。
「躊躇しないでね。あれは“怪物”よ。私たちとは違う」
イツキは短く答える。
「……分かってる。あれは俺の知ってる“正義”じゃない」
かつて“正義の味方”と呼ばれた男が、今、“正義”を喰らう怪物を討つ。
皮肉にもその戦いは、最も異端な存在たちに託された。
装備と支援部隊の編成が即座に開始される。
ラミアは自らの鱗を調整し、毒性の調整を確認する。
一方、イツキはかつてのセイガン時代のブーツを履きなおし、深く息を吐いた。
(……これが、俺の歩む“正義”の道なら)
黒き戦闘服の裾を翻し、イツキは出撃ゲートへと向かっていった。
夜の湾岸に、不気味な風が吹いていた。
■
ネメシス日本支部・生体改造研究棟の最奥。深夜の静寂を破ることなく、ドクトル・メディアスは独房のような個室の中でひとり、古ぼけた手帳にペンを走らせていた。
蛍光灯のちらつきが影を揺らし、硝子の向こうで培養液に浮かぶ数本の脊髄サンプルが、ぼんやりと赤く光っている。蒸気の立ちこめる部屋には、薬品と金属と腐肉の混じった鼻を刺す臭いが漂っていた。
メディアスは震える手でページをめくり、何かを吐き出すように記した。
【記録番号:0-β22/実験対象:ゲロス】
「あれは失敗ではない。
成功だったが、我々がその定義に追いつけなかった──それだけの話だ。
ゲロスは第二形態に到達した時点で、計画の“枠”を壊し始めた。だが、それもまた創造物として当然の進化。
問題は、制御できなかった我々にある」
「ネメシスは“正義”に代わる力を掲げてきた。だが、ゲロスは“正義”をもはや必要としない。
彼は自己目的化した“捕食する正義”だ。
ドクトリンを必要とせず、命令に従わず、本能で“最も弱き者”から栄養を摂る」
メディアスの手は一瞬止まった。
古傷が疼く。
まだ若き日、最初の改造個体を創った夜──患者は叫び、彼の手を掴んで懇願した。
「どうか元に戻してください……先生」
その声が今も耳の奥に残る。
だが、医術では救えぬ者たちを救うために、彼は“進化”を選んだのだ。
「私は神を否定して、神に成ろうとした。
だが神は、被造物に見放されるものらしい。
ゲロスの眼は私を見ていなかった。
親を食い殺した蛇は、再び外に出る。
あれが、“怪人”ではない“怪物”となる日も近い」
ページの端に赤く染みたインクのようなものが滲んでいた。
それは血か、それとも──自らの創造物の体液か。判別はつかない。
最後の一文を記すと、メディアスはゆっくりと立ち上がった。
扉を開け、廊下を抜け、焼却室へと向かう。
誰にも見られぬように、暗証コードで隔離炉を起動し、報告書をその炉の口に落とす。
赤熱した炎が瞬く間に紙片を焼き尽くしていく。
“真実”は灰と化し、記憶にのみ残る。
その時、背後から高いヒールの音が近づいてきた。妖艶な香りとともに、ラミアが現れた。
「お疲れさま、ドクター。ずいぶん長いこと何か燃やしてたわね」
メディアスは無表情のまま言った。
「記録は……不要だ。感情が混ざる」
「ふぅん。じゃあ、あたしが記録してあげる。
“お前の罪は、燃やしても消えない”ってね」
ラミアの視線は冷たかったが、怒気ではなかった。どこか、哀れむようでもあった。
メディアスは何も言わず、そのまま焼却炉の蓋を閉じた。
煙が立ちのぼる天井を見上げながら、小さく呟いた。
「神は、火で焼けるか……」
その問いに、答える者はいなかった。
灰の山の中に、奇跡的に燃え残った一枚の紙があった。
炉のわずかな隙間に張り付いたそれは、ページの端が黒く焦げていたが、中央の文章だけははっきりと残っていた。
あと数秒で完全に焼却されたはずの、ドクトル・メディアスの“本音”とも言える記述だった。
【極秘実験報告書/補遺:分類不能個体-G】
【記述者:Dr.メディアス】
「私がゲロスを“怪人”として分類できなくなったのは、コンビナート制圧作戦の前夜だ。
異常な自己再生──それだけなら、既存の生体兵器と大差はない。
だが、問題は“夢”だ。
奴は、寝言をしゃべったのだ。
脳活動パターンから確認された、明確な【言語構成型REM睡眠】。
その内容は……繰り返された2語のみ:
『やめて』
『いたい』
誰が誰に訴えていた?
奴の中に、まだ“神宮寺創一”が残っているとでも言うのか。
あるいは──
“脳”そのものが人格を再生しようと、あらがっていたのかもしれない。
これは進化ではなく、遺影なのだ。
生きながらにして死者の姿を借りた、生体の幽霊。
……私は恐れている。
奴はやがて、我々の理解を超えた存在になる。
いや、もうなっている。
我々が創ったのではない。
奴が──“自分を創り変えた”のだ」
その1枚は、後日、バイオ研究室の新人技師が炉の清掃中に偶然発見した。
破棄するように指示されていたはずだったが、彼女は言葉にならぬ違和感に突き動かされ、こっそりと白衣の胸ポケットに忍ばせた。
──それが後に、ネメシス崩壊の引き金となるとは、まだ誰も知らない。




