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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

君はどんどん美味しくなる

作者: Deino

 目を覚ますと、薄暗い天井。湿った空気に、わずかな金属の匂い。

 おかしい。なぜ目が覚めるのだろうと彼女──苦土詩絵美にがつちしえみは疑問に思う。自分は既に──死んでいるはずなのに。まさか病院にでも搬送されたか?

 しかしそんな彼女の懸念は別の驚愕に打ち消される。


「……ん?」


 詩絵美は上体を起こそうとして、その動きがままならないことに気づいた。体の感覚が鈍く、頭が若干もうろうとする。天井から視線を移すと、自分の身体が鉄の檻の中に横たえられているのが見えた。起き上がろうとするが重心がうまく取れない。彼女は体を傾け、下を見る。



「……足、が……無い?」



 両膝から下が、なかった。

 正確に言えば、太腿の途中でスパッと切り取られたようになっている。

 治療された痕跡がある。包帯が丁寧に巻かれており、痛みも驚くほど少ない。混乱と疑問を抱えたまま、彼女はさらに周囲を見回す。



 ガチャリ──、と音がして、視線を上げると檻の外に男が立っていた。



「おはよう、詩絵美ちゃん。目、覚めたんだね。いやぁよかったよかった。これでやっとおしゃべりできるよ。あ、君が今いるのは僕の自宅の地下室ね」



 笑顔。詩絵美がまず印象に残ったのは彼の表情だった。心から嬉しそうな顔をしている。

 中肉中背で眼鏡をかけた優しげな雰囲気の男性。年の頃は三十代半ばだろうか。白いシャツの袖を肘までまくっていて、清潔感のある印象だ。

 テーブルの上には白い皿があり、湯気の立つ肉料理。その隣に、生々しい――切断された人間の脚が置かれていた。



 詩絵美は言葉を失う。



 男はテーブルの椅子に腰を下ろし、ナイフとフォークを取り上げた。

 香ばしい音とともに、肉の表面が切り取られる。


「ん〜、やっぱり焼きすぎない方がいいね。中心がレアなのが一番おいしい」


 ナイフとフォークを上品に使い、皿の上の肉料理を口に運ぶ。


「はぁぁ……この柔らかさ。繊維のきめ細やかさ。うん、文句なし!」


 彼は本当に嬉しそうに微笑んだ。



「自己紹介が遅れたね。僕は茶畑英雄ちゃばたけひでお。この近くで開業医をやってる。君が自殺しようとした、樹海の近くでね」


 男はテーブルの上に置いてあった封筒を持ち上げる。それは詩絵美が残した遺書であった。あぁだからこの男は自分の名前を知っていたのか、と詩絵美は思う。



「これでも一応ちゃんとした医者だよ。内科医をしてるけど外科的手術も一応出来る。でも、まぁ……本業の他に、ちょっとした趣味があってさ」


 ナイフを皿に置く音が響く。室内が静寂に包まれているから音が良く通るのだろう。


「僕ね、人間の肉が大好きなんだ。……びっくりするよね。でもさ、法的にはダメなんだよ、こういうの。人肉を合法的に手に入れる手段なんて、この国にはない。だから僕は──自殺者を探すのさ」



 彼はフォークを皿に置き、身を乗り出して続けた。



「まだ“食べられる”状態の遺体。それを見つけるのは本っ当に難しい。大体はすぐ腐っちゃうからね。樹海をはじめ自殺名所めぐりは僕の休日の習慣だ。でもたまに、本当にたまに、君みたいなまだ死んでない子に出会うこともあるんだ」


 言葉を失う詩絵美の視線に、英雄はあくまで柔らかい微笑みを返す。


「君の遺書、読ませてもらったよ。丁寧に書かれてたね。ご家族を亡くして、自分も彼らのところへ行きたいと。ふむふむ。でもまだまだ情報が足りないな」


 詩絵美は、わずかに眉を動かした。情報? 相手を知ったうえで痛めつける快楽殺人鬼みたいなものか? しかし目の前の男の様子は、興味の対象を見つけた子供の様だった。



「……君の脚、とても美味しいよ。特に太ももは絶品だった。脂と筋肉のバランスが最高でね」


 そう言って、英雄はまるでワインの風味を語るように、うっとりとした表情を見せた。


「僕さ、見ての通り人肉が大好きなんだ。とっても美味しいんだよ、人って。……でもその味をもっと良くする方法がある」


 彼は手元の肉を口に運びながら続ける。食べながら話しているにも関わらず、不快な咀嚼音が聞こえない事が、英雄の育ちの良さを表していた。



「食べる相手を知る事。そうするともっと肉の味が良くなるんだ! 豚や牛にももちろん、どんな牧場で育ってどういう加工をされたかってバックグラウンドはあるけどさ……人間には敵わないよ」

「……」


 詩絵美は英雄の話を聞くことしか出来ない。下手に彼の話を妨害すると何が起こるか解ったものでは無いから。別に助かりたいと思っているわけでは無いが、一応念のため。



「どういう人生を歩んできたのか、なぜ死のうとしたのか。そういう“ストーリー”を知ってから食べると、味が変わるんだ。不思議だよね。でも、ほんとに美味くなるんだ。だから、できるだけ知るようにしてる」


 男は興奮気味に続ける。


「遺書を読んだり、遺品からSNS何かを調べて生前どういう生活を送ってた人だったのかを調べたり。でもそれにも限度があってさ。知れる情報って、限られてるだよねー」


 そう語った後、男は詩絵美をまっすぐ捉えて


「でもさ、生きてる人を捕まえられたのなら、これ以上嬉しいことは無い。なんてったって本人と直接話せるしね」


 ──と、笑顔を見せる。

 詩絵美は、無言で彼の言葉を聞いていた。恐怖や怒りといった感情は不思議と湧いてこない。ただ黙って、彼の言葉を受け止めていた。



「だから君のことを知りたいんだ! もっとたくさん! 遺書にも気になる事結構書いてあったしさ! あぁ怖がらなくていいよ、僕は医者だ。君に痛い思いはさせない。足を切ったときだって、ちゃんと麻酔もして、止血も完璧にしたし……今、痛くないでしょ?」


 英雄は引き続き、まるで子どもが秘密の宝物を披露するような調子で語る。



「──君は本来、もう死んでるはずだったんだ。だから、その命、その肉、僕にちょうだい?」



 その言葉に、詩絵美の胸が小さく鳴る。死んでいるはずだった──彼の言葉は、確かに真実だった。


 2か月前、詩絵美は夫である栄治えいじの家族と自分の家族、総勢7名で家族旅行をしていた。いわゆるバスツアーで、他の乗客と一緒に観光名所を周るプチ旅行。楽しかった。自分も含め皆それぞれ忙しく、なかなか一緒に行動なんて出来ないから。

 栄治とは幼馴染であり、彼のご両親とも古くからの付き合いだ。栄治と結婚して3年経つが、いまだに近所のおじさんおばさんという感覚が抜けていない。「お義父さん」と呼ぶと「前みたいにおじさんでいいよー」とよく返されたものだ。

 自分の家族仲も良好だ。栄治は同じように詩絵美の家族を好いてくれており、楽しい時間が過ぎた。妹の亜瑠美あるびだけは少し不満ぎみだったけど。


 ──「お前といると、ホント毎日退屈しなくて済むから楽しいよ」

 ──「ボクも栄治の事好きだったんだけどなー、え? そりゃいつまでたっても愚痴言うよ。一生文句言い続けてやる」


 最愛の夫と仲の良い妹の言葉がよみがえる。そこに双方の両親、家族だんらんを味わいながらの旅行は──突如終わりを告げた。


 対向車との衝突だったか。バスが半壊して──ウチ以外の家族は全員、もう、この世にはいなかった。

 他の乗客が連絡したのだろう、救急車はほどなくしてやってきた。ウチはずっと、動きもしないと解りきっていた夫と妹の心臓マッサージを続けて……もう下半身が無い夫と、頭の潰れた妹の……


 葬儀はすぐに執り行われた。詩絵美もすぐに後を追いたかったが、日本の宗教感では死後四十九日は魂が現世にとどまっていると聞く。彼らの魂を安らかに送りだ出すためにも遺族である自分はしっかりとしなければと、詩絵美は自分を奮い立たせた。


 そして四十九日が過ぎ、納骨を終えた詩絵美は──その後の人生を生きる事に耐えられなかった。



 喪失の痛みに、空白の孤独に、詩絵美は耐えることができなかった。会いたい、会いたい、皆にまた、会いたい。

 死ねばまた会えるかもしれない。天国があるのなら、死後自分もそこへ行けるのなら、会えるかも。

 無かったとしてもかまわない。死後の世界なんて無くて、死の先がただの“無”だとしても……彼らは無になったのだから、自分も同じ状態になりたかった。


 そう思って、富士の樹海に足を運び、首を吊った。しかし──



 目の前にいるこの男は、それを終わらせてくれなかった。



 だが、今こうして話す彼の言葉を聞きながら、詩絵美の中に奇妙な安堵が芽生える。


(……そうか、これは“自殺”じゃない)


 あのとき、確かに詩絵美は自分で命を絶とうとした。しかし今、彼女は“誰かに殺される”側にいる。食べられて、殺されるのだ。

 もし本当に死後の世界があるとして──自殺したら自分はどこに行くのだろう。詩絵美はずっと不安だった。目を背けていたがどうしてもぬぐえない不安。

 多くの宗教では自殺は悪とみなされ、その魂は地獄に落ちると聞く。栄治たちは事故で亡くなったから皆天国にいるだろうが、自殺する自分はどうだろうか。

 もし死んでも彼らにあえず、ただ一人、長い時間を地獄で過ごすのだとしたら──怖い。そんな最悪の結果は考えたくない。でも今は? 自分を食べようと──殺そうとしている男のいる状況は?



 それはある意味、救いなのかもしれない。だから──



「──いいですよ」



 詩絵美はにこやかに答える。鉄の檻の中、両足のない女と、ナイフを手にした男の間に流れる、不思議な沈黙。


 こうして、二人の、奇妙で静かな共同生活が始まった。



   * * *



 それから、1週間が経った。


 詩絵美はもう檻の中にはいない。早いものだなと、彼女は思う。

 彼女は英雄の家の居間で、ソファに寄りかかりながらくつろいでいた。清潔な一軒家。木造だろうか、温かみも感じる家だ。

 詩絵美が檻に閉じ込められていたのは最初の2日だけ。暴れない事を男──英雄は悟ったのか、詩絵美への拘束はあっさりと無くなった。

 英雄は想像以上に人懐っこい性格で、詩絵美も警戒は自然と解かれ、今では互いにため口で話し合う間柄に。まぁ英雄は初日からそうだったが。


 少し肌寒い春の夜、詩絵美の体には毛布がかけられ、傍らには温かいハーブティー。まるで普通の生活の一幕のよう。──彼女の両足が膝上から無いことを除けば。


 リモコンでテレビの音量を少し下げながら、詩絵美はぽつりと口を開いた。



「……なぁ、英雄。そろそろウチの別の部位を食べてくれないか?」


 その言葉に、キッチンから顔を出した英雄が首をかしげた。


「え? もう?」

「もうって……なんだよ。ウチの脚食べ始めて一週間だろ。そろそろ頃合いじゃないのか? ウチは早く死にたいんだが?」

「うーん……詩絵美ちゃん。僕、あんまり食べるペース早くないんだよ」


 ポリポリと頭をかきながら返答する英雄。彼はエプロン姿でキッチンに立っていた。フライパンの中では肉がじゅうじゅうと音を立てて焼かれている。時刻は20時を過ぎたあたり。夕食の準備には遅い時間だが、英雄の仕事の都合、どうしても夜は遅くなる。

 彼はごく自然な動作で、香草を散らしながら言葉を続けた。



「昼は仕事の都合で外食だし、夜は日によって疲れてるし……自宅と僕の職場の病院、ちょっと遠いんだよね」

「ほーん」

「興味薄いなー。んで脚2本分って、けっこうボリュームあるんだよ? まだまだ残ってるからね。大切に味わいたいし」

「……なるほどなぁ」


 詩絵美は頬を膨らませ、少しだけむくれたような表情を見せた。まるで恋人に予定をドタキャンされた彼女のようだ。

 その様子を見て、英雄は笑う。



「でも、こんなふうに食べられたがる人は初めてだよ。詩絵美ちゃんみたい人、ほんと珍しい」

「へー、前にも同じような人見つけたことあるのか?」

「詩絵美ちゃんの前には4人、生きたまま持ち帰った事があるけど……全然違うよ。いままで見つけた“自殺志願者”の中で、君みたいに落ち着いてる人なんていなかった。正直びっくりしてる」


 詩絵美はソファの背にもたれかかりながら、興味ありげに眉を上げる。



「どんな人たちだったの?」

「うーん……たとえばね。詩絵美ちゃんの前に見つけた中年のおじさんなんか、すっごく暴れた。目が覚めたあと、僕が同じように説明してたら話遮って殴りかかってきたんだよ。両足無いのに」

「抵抗されたのか? 何で?」


 死にたいはずなのに、あれかな? 今すぐ死にたいのに時間がかかるからとかそんな理由か。と詩絵美は考察するが、



「わかんない。遺書もあったし確実に自殺志願者だったんだけどねー。死にたくないーとか喚いてたよ」


 意外と違う理由だった。詩絵美は続いて聞く。



「……それでどうしたんだ?」

「仕方ないから、暴れない様に両腕も切っちゃった。あーほんと不本意だったよ。肉の鮮度が落ちるからさぁ」


 英雄は心底残念そうに肩をすくめる。

 一方で詩絵美は、視線を落とした。一瞬曇った彼女の表情を、英雄は見落とす。


「他の人も怒ったり泣いたり、自殺しようとした割には皆嫌がるんだよねー。僕に食べられるの」

「ほーん。しかし鮮度が落ちるって言う割には、ウチの両足を切ったのは何故だ? 食べきれてないってことはまだ残ってるんだろう?」


 詩絵美はやや強引に話題を変える。


「そりゃ脱走防止のためだよ。まぁ詩絵美ちゃんは全然逃げる気配が無いから切らなきゃ良かったって後悔してるけど……んでさ」


 そう言いながら、英雄はフライパンを傾け、香ばしいソースを皿に流し込んだ。

 皿の中央には分厚く焼かれたステーキ。その脇には彩りの良い温野菜と小さなパン。まるで高級レストランの一皿のようだ。



「出来たよ。今夜はね、詩絵美ちゃんの外腿部分。厚切りにして、しっかり寝かせてから焼いてみた。たぶん、過去一の仕上がり!」

「ほー」

「興味薄っすいなぁ」


 詩絵美は元々、食に興味が薄い人間だった。英雄の料理の腕は相当なものなのだろうが──実際今日までの1週間、詩絵美は世間では美味しいと言われるであろう食事を与えられているが──詩絵美にはどうでも良い事だ。それが例え自分の肉だとしても。



(……ん? 自分の肉?)



 詩絵美はひらめく。彼に早く自分を食べてもらう──殺してもらう方法を。


「……なぁその肉、ウチも食っていいか?」


 英雄の手が止まった。振り返り、まじまじと詩絵美の顔を見つめる。



「え、詩絵美ちゃんも食べるの?」

「ダメか? まぁお前が食べたいからウチを拉致監禁してるワケだもんな。そりゃそうか」


 英雄は口をパクパクさせたまま、言葉が出ない。


「ダメじゃないけど……人肉を、自分の肉を……普通、食べようと思う?」

「お前がそれ言う?」


 詩絵美は突っ込むと同時にどこか面白がっているような、挑発するような笑みを浮かべた。

 一拍遅れて、英雄は頬をほころばせた。



「うわぁ……ほんとにすごい人だね詩絵美ちゃんって。僕、ずっと一緒に人肉食べてくれる人を探してたんだ……まさか出会えるなんて……!」


 心の底から嬉しそうな笑顔。それはサイコパスのそれというより、ただの“推しと夢を語るオタク”のような表情だった。

 その無邪気さに、詩絵美はつい吹き出した。


「なんだその顔。アホみたいだぞ」

「いやぁ、だってほんとに嬉しいんだもん! よし、じゃあ今日はふたりで、詩絵美ちゃんの脚肉パーティーだ!」

「命名センス酷いなー」


 ものすごくうれしそうにしている英雄を見て、少しほほえましく思う詩絵美。自分が誰かを幸せにしてあげられるってのは良い事だ。それが例え食人鬼サイコパスであったとしても。


 テーブルに運ばれたステーキは、英雄の言葉どおり絶妙な焼き加減だった。

 ナイフを入れるとじゅわりと肉汁があふれ、香草とバターの香りがふわりと立ち昇る。



「はい、どうぞ。詩絵美ちゃんスペシャル、厚切りレアステーキ!」

「どれどれ」


 詩絵美はフォークを手に取り、ひと口、肉を口に含んだ。

 ──味がどうこう、とは思わなかった。牛肉っぽいような、豚肉っぽいような、でもどれでもないような。とにかく「哺乳類の肉」だった。



「どう? 美味しい?」

「うーん……正直、ウチは食にこだわり無いからなぁ。牛と豚の違いもあんまわかんないし。肉の味、以上でも以下でもないっつーか」

「えええええ!? そんな、人肉のすばらしさが解らないなんて……せっかく食べることに抵抗ない人に巡り合えたのに……」


 がっくりと肩を落とす英雄。



「そもそもお前、人肉の何がそんなに良いんだ? 食っても味の違い分からんウチからしたら、正直よくわからん」


 その質問に、英雄の表情が一変した。瞳が輝き、声に熱がこもる。



「味がどうこうじゃないんだよ! いや味も良いけどさ! 人肉って、特別なんだ。まず珍味って意味での“レアさ”! 普通の人は食べられない、禁断の食材。それを手にできるってだけで、価値がある!」

「……中二病かお前は」


 突然の早口に気圧される詩絵美。熱量が……熱量が凄い。



「あとね、背徳感! 食べちゃいけないものを食べてるって感覚が、ゾクゾクするんだよ。心の中で“これヤバい”って思いながら、口に入れてる……そのギャップがたまらないんだよぉ」

「うん、やっぱ中二病だな」

「まだあるよ!? 最後は“ストーリー”!」

「ストーリー?」


 聞き返す詩絵美に対し、英雄はさらにヒートアップした熱弁で応じる。というかこの話は初日も聞いた気がするが、そんな突っ込みを挟む暇もない。



「そう。どうやって生まれて、何を考えて生きて、なぜ死を選んだのか。そういうストーリーごと、肉を噛みしめて飲み込む。その深みが、味を変えるんだ。心で味わうってやつ!」

「お、おぉ……なるほどな」


 詩絵美は、英雄が語る言葉に気圧されつつ、静かにうなずいた。



「本当にお前は、人肉が好きなんだな。何かそういう“信念”を持ってるやつって好きだわ。共感出来なくても」

「どゆこと?」

「人肉の良さに関して、共感は出来なくても理解は出来るって事。つまり、お前の言ってる事解るぞって事」

「ほんと!?」

「だから最初に会った時、ウチの事を知ればより肉の味が変わるとか言ってたんだな」


 初日の彼を思い出す。自分の事を色々と聞きたがっていたのもこのためかと、詩絵美は納得した。



「そう! ほら、今の説明を聞いたら目の前の肉が美味しく感じるでしょ!?」

「いやだから共感は出来んて。つかこれウチの肉だから。ストーリーも全部知ってるから」

「あちゃー、解ってもらえないかー」


 英雄の言う感動を、自分の肉で味わえというのは無茶な話である。ただ、禁断の食材やストーリーという部分に関しては解らなくもない気がした。



「いや、理解は出来るよ。共感は出来ないけど。そう言ってるだろ」

「?」


 英雄は詩絵美の言っている意味が良くわからないらしい。やれやれ、具体例を交えてしっかり説明してやらんとな。グラスに注がれたワインをグイと飲み干し、詩絵美は続ける。

 ここからは詩絵美のターン。



「ウチ、虫食べるのが好きなんだよな」


 英雄の動きが止まった。



「……え、虫?」

「そう、虫。コオロギとかセミとか。サクラケムシとか、結構おいしいよ?」

「きっっっも……!」

「おいお前今“きも”って言ったか!? ぶっ殺すぞ!!」


 詩絵美はグラスを置くと、真面目な顔になった。



「ウチが虫を食うのは、好きやからだよ」


 唐突な告白に、英雄は一瞬だけ真顔になる。

 だがそれ以上に彼が困惑していたのは、彼女の“真剣な目”だった。



「見た目がグロいとか、動きが面白いとか、色が毒々しいとか……そういうの全部ひっくるめて、ウチは虫が好きなんだ。だから食べる時はその姿をちゃんと見て、思い出しながら食べる」

「思い出すって……なにを?」


 英雄は恐る恐る聞き返す。



「そいつらが生きてた時の事。地面を飛び跳ねたり、交尾してたり、群れで蠢いていたり……そーゆー姿を想像して、噛み潰す。そうすることで“虫を食ってる”っていう実感が持てる」

「ええぇぇ……」

「味は正直どーでも良い。美味しいかどうかなんてウチには関係ない。ウチが“好き”な対象を食べたいっていう欲求。それが満たされるだけで良いんだよ」


 英雄は絶句した。

 ワインのグラスを握りしめたまま、言葉を探すように口を開け閉めする。



「……でも、それって……やっぱちょっと変わって──」

「お前が言うか? それ。人を監禁して食べようっていう異常カニバリストが。“変わってる”とか“キモい”とか、全部お前へのブーメランになるぞ」


 詩絵美の口調に、少しだけ棘が混じった。



「ウチはお前の趣味、ちゃんと“理解”しようとしてるんだぞ? 共感は全く出来無いけど、理解は出来る。お前の“人肉を食べる”って行為に、そういう理由があるって知って納得した。なのにお前はどうだ?」

「……ごめん」

「否定の言葉で遮られたら、対話はそこで終わりだ。そもそも人間同士、100%の共感なんか無理だってウチは思ってる。だからこそ“理解”ってもんを大事にしたいんだよ。これがさっきウチが言った、共感は出来なくても理解は出来るって事。虫食に共感はしなくていい。でも理解は出来るだろ。お前だって特殊な食癖を持ってるんだから」


 沈黙が落ちる。

 英雄は静かに視線を落とし、自分の指先をじっと見つめた。



「……うん。そうだね。僕、今のはほんとにごめん。虫の話……ちゃんと聞かせてほしい」

「はぁ、しょうがないな。じゃあ今度“見た目そのまま”のコオロギ、一緒に食べようぜ? amazonとかに売ってるから。それ食いながらじっくり教えてやる」

「わっ、それはハードル高いなぁ……」

「なにビビってんだ、“特別感”あるだろ? 普通食べないものを食べてるって背徳感あるだろ?」

「うわぁぁぁ言い返せない……!」


 そんなやり取りに、詩絵美はくすくすと笑った。

 英雄も少し照れくさそうに笑い返す。


 その晩、二人は脚肉のステーキをほぼ平らげた。

 血の繋がりも、恋愛感情も、ましてや倫理すら無いこの関係の中で、唯一確かなのは、“互いの奇妙さを受け入れ合った”ということだった。



   * * *



 食事を終えた二人は、ソファに並んで座っていた。

 食器はシンクにまとめられ、テーブルにはティーカップとワインの残りだけが置かれている。部屋の灯りは少しだけ落とされて、空気に静けさが満ちていた。



「ふぅ……なんか、久しぶりにゆっくり食べた気がする」


 詩絵美がソファの背に体を預けながら、ぽつりと漏らした。



「ほんと? 僕の料理のおかげかな」

「味とかは相変わらずよくわからないけど……でも、今日の食事はちゃんと“美味しかった”って思えた。たぶん雰囲気が良かったんだと思う」

「へへっ、そっか。うれしい」


 英雄はティーカップを両手で包みながら、笑った。

 詩絵美も笑っていたが、その視線はぼんやりと宙をさまよっていた。


 少しの沈黙が落ちる。


 詩絵美が、ぽつりと口を開いた。



「……ウチさ、死にたかったんだよね。つーか今も死にたいよ」


 英雄の手が止まる。


「っていうより……“あの世”に行きいが正解か。栄治と……あー夫の事な? 一緒に事故で死んだ家族に会いたい。ずっとそう思ってる」

「……うん」

「でもな、ウチ、首を吊ったときちょっとだけ不安になったんだよ。もしあの世があったとしたら──それは天国と地獄に分かれてるって事だろ?」


 声は淡々としていたが、その奥に滲むものは確かだった。



「自殺した人間はさ、地獄に落ちるって言われてるだろ? 死んだあとに何も無いなら、それでもいい。でももし“ある”んだったら──」


 詩絵美は、自分の両腿に目を落とす。かつて脚があった場所を、毛布の下からなぞるように手を這わせた。



「もし死後の世界があって、ウチだけ別の場所に行かされたら……栄治たちに会えなかったら……って思うと、すごく怖かった。だから──」


 詩絵美は遺書を指さす。それはこの一週間、テーブルの上に大事そうに、常に置かれていたものだ。英雄は初日に「相手を知りたい」と言っていたが、これはその大事な資料なのだろう。

 その遺書の中に少し不可思議な文言が記載されている。



 “私は生きている間、様々な命を食べてきました。だから、次は私が自然の糧になれたら嬉しい。動物や、虫や、微生物の”



 死んだ家族に会いたいという動機とは少し離れた一文。英雄はこの事について何度も問いただして来たが、詩絵美は今日まであまり話す気になれなかった。

 この一文の真意は少し後ろめたい動機から来ている。いわば語るのは少し恥ずかしい内容だった。詩絵美の目的は天国に行くことだし、それは英雄に殺してもらえれば達成できるだろう。だから黙ったまま旅立てれば良いやと思っていたのだが……今日の会話を経て、少し話しても良いかなという気持ちになった。

 早い話が打ち解けたのだ。



「この文章、僕ずっと気になってたんだけど……自然信仰? ってワケでも無いよね、詩絵美ちゃん。食事に興味無いし」

「これはな、ウチの言い訳なんだよ」

「言い訳?」


 英雄はぽかんとする。その表情も、なんだが愛らしい。



「自殺をしたら地獄に落ちるんだろ? でも『これは自殺じゃないですよー。ウチを自然に返して、皆のご飯になってもらうんですよー』って言い訳」

「あー!」


 ぽん! と手を叩く英雄。ここ一週間の疑問がようやく腑に落ちたようだ。

 詩絵美は視線を上げ、少し笑った。



「でも何でそれを隠してたの?」

「……いや、恥ずかしかったからだよ。別にウチ、自然信仰でもないのにスピリチュアルな文章書いちまったなって」

「え、顔赤くなってる! 詩絵美ちゃん可愛いー!!」

「うるせー!!!」


 恥ずかしさを紛らわすように手を振る詩絵美。そのまま勢いに任せて話題を変える。



「はぁ、でもお前に食べられるって、殺されるって知った時、ホッとしたんだよね。これは言い訳しなくても地獄行かなくて済むぞって。自分で命を絶たなくて良いワケだからな」

「そっか。だから君は逃げないし、積極的に食べてもらいたがるんだね」

「そう。少しでも早く天国に行きたいからね。あればだけど」


 天国がある確証なんて無い。でもこの世で生きるには、詩絵美の心はもう持たなくなっていたのだ。今こうやって談笑出来ていること自体、奇跡に等しい。英雄には感謝だなと、詩絵美は思う。



「別に宗教を信じてるわけじゃないけど。でも人間って勝手なもんだから、怖いときはそういうものにすがりたくなる」


 英雄は、カップをテーブルに置いた。そして、ほんの少しだけ詩絵美に身体を寄せた。



「……僕さ。詩絵美ちゃんの話を聞いて、今ちょっとだけ“幸せ”って思ったよ」

「……変わってるな、お前」

「そうかもね。でも、君みたいに自分の気持ちをちゃんと話してくれる人、初めてだから」


 照れたように笑う英雄に、詩絵美は肩をすくめて言う。



「そのうち殺す相手にもトーク力を求め出したら、もう末期だよ」

「それもそうか……はは」


 二人は顔を見合わせ、くすっと笑った。

 それは“普通の幸せ”とは、きっと程遠い。けれど、どこかあたたかい、夜の空気に溶けるような笑いだった。



「なぁ英雄、一つ約束して」

「何?」

「ちゃんと、ウチを食べきってな」

「解ってる。君はどんどん美味しくなってる。言われなくても、残さず食べるよ」

「……ありがと」


 二人にしか解らない、おぞましくも甘い約束が取り交わされる。



   * * *



 半年が経った。


 詩絵美は──両腕も失っていた。けれどそれを、彼女は“不便”とは思っても“悲しい”とは思わなかった。だって英雄が幸せそうに食べてくれたから。

 この半年、彼女は――驚くほど楽しく過ごしていたのだ。


 両足を失ってから始まった奇妙な共同生活は、気づけば日常になっていた。

 最初こそ恐る恐るだった英雄も、今では虫を調理することすら日常の一部になっている。


「最近はね、イナゴの甘露煮が一番うまくいったよ。でもやっぱ、詩絵美ちゃん好みの“そのまま形が残ってるやつ”って難しいんだよね……見た目が、さ……」

「いや甘露煮は良い線行ってる方だろ。お前の料理への拘りどんだけだよ」

「出来るだけ直視しないように調理しちゃってるから、ちょっと出来が納得いかないんだよね」


 そう言いながらも、英雄は工夫を重ねていた。

 虫の原型が消えることに詩絵美が不満を漏らせば、次はなるべく揚げにしてみようかと笑いながら試行錯誤する。

 人肉料理と虫料理の融合に夢中になるその姿は、かつての“食人鬼”というより、ちょっと凝り性な変わり者の料理オタクにしか見えなかった。


 だが、だからこそ――詩絵美は、ふと不安になることがあった。


 彼は、いつになったら自分を“食べきってくれる”のだろうか。



「なぁ、英雄」


 ある夜、詩絵美はぽつりと口を開いた。

 テレビの音が小さく流れる中、彼女はソファの上で、ブランケットに包まれながら静かに言った。


「ウチ、両腕が無くなってからもう2ヶ月経ったよ」


 英雄の手が止まる。

 彼は、詩絵美の顔を見なかった。まるで、聞こえなかったふりをしているように。


「なぁ英雄、なんでウチを食べてくれないの?」


 今度は、はっきりと問うた。

 英雄はゆっくりと、呼吸を整えるようにして口を開く。



「……ごめん。まだ、無理なんだ」

「理由を聞いても?」

「……君と話すのが、楽しいから。……一緒にいるのが、居心地いいから」

「……ウチを殺さない理由が“居心地”?」


 詩絵美の声には、わずかに怒りがにじんでいた。



「ウチさ。樹海に入ったのは自殺するためなんだよ。でもあの日お前がウチを拾ってくれて、“他人に殺してもらえる”って状況になったから、救われた気がしたんだ。……でもさ、今は違う。今のウチは、生き続けることを“選ばされてる”」

「……君を大切にしたいだけなんだ」

「お前が手放したくないだけだろ? 独りよがりだよ、それは」


 静かに、けれど確かな言葉だった。



「お前がウチを好きになったのって、ウチが“お前を理解しようとした”からだよな? それはウチも同じだよ。虫食いの話、共感はされなくてもちゃんと耳を傾けてくれた。お前の“ストーリーごと味わう”って思想も、ウチは理解したよ。おかげで、自分が食べられることにも意味も感じられた」


 遺書に記した気恥ずかしい文言も、英雄に“食べられる”のなら悪い気持ちはしないなと、詩絵美は感じていた。しかし──食べてくれないなら話が違う。

 英雄は、押し黙ったままだった。



「じゃあ、今度はお前の番だろ。ウチの“死にたい”って気持ちを理解して。共感しなくていいから、実行して」

「……実行」


 英雄の目が泳ぐ。



「なぁ英雄、お前今でも“人肉が好き”って思ってる?」

「……それは……うん、好きだよ。でも……」

「ならさ。ウチの今の体って、“最高の状態”なんじゃない? ウチはお前にすべてを話した。過去も、生きてきた道も、死にたい理由も。お前の言葉を借りれば、“ストーリーの濃さ”は十分。ここまで知ったウチを食べたら、どんな味なんだろうね?」


 半年前、「君はどんどん美味しくなってる」と言った英雄。彼の言葉を借りるのなら今の詩絵美の美味しさは凄いものだろう。

 しかし──


「……もう、食材として見れないんだよ」


 英雄の言葉は、詩絵美の期待とは違った。



「ならウチは、お前を嫌うよ」


 英雄が顔を上げた。詩絵美の瞳が、真っ直ぐに刺さる。



「ウチは信念を曲げるやつ、約束を守らないヤツが嫌いだ。約束したよな? ウチを食べきるって」

「そう、だけど……!」

「このままウチを生かし続けても、ウチはお前の事を嫌いになるだけだぞ? それでいいのか?」


 英雄の目から、涙がひとすじ流れた。



「君に、嫌われたくない……」

「ならウチの望みを叶えて。お願いだ、英雄」


 英雄は駄々をこねる子供の様に首を振る。この半年で知ったが、彼は34歳らしい。子供っぽいなーと詩絵美は思う。でも不思議とそれは軽蔑などでは無く、どちらかというと暖かい意味で。

 彼の続く言葉は、詩絵美の心に深く刺さる。



「食べきっちゃったら、もう会えない! 詩絵美ちゃんと話が出来ない! 笑いあえない! そんなの、やだよ……」



 思わず詩絵美も泣きそうになった。その気持ちは痛いほどわかる。でもダメなんだ。今目の前で泣いている子供に手を──無い手を差し伸べる事よりも、自分の目的の方が詩絵美にとっては重要だ。

 なんて自分勝手なんだろうと、詩絵美は思う。でもそれが、詩絵美という人間なのだ。


「失う悲しみは、ウチも嫌という程知ってるよ。自殺したいくらいにはね。その喪失をお前に強いるのは、正直残酷な事だとも思う」

「じゃあ──」

「でもダメだ。ダメ。約束は守り切ってもらわないと。それに──お前にはちょっとお仕置きも必要だしね」

「おしおき?」


 少しずるいかな、とも思う。初めて一緒に自分の肉を食べたあの日、感じたかすかな怒り。詩絵美はそれを盾に使う。



「ウチの前に捕まえた四人、その話を聞いた時、実はウチちょっと腹を立ててたんだ。そりゃ自殺するつもりだった人たちだ。お前の言うようにその命をお前が食べてもいいのかもしれない。でもな、人間てのは状況によって意思がコロコロ変わるんだ。ウチはあんまそういうの好きじゃないけど──ともかく、前の四人は死にたくないって言ってたんだろう?」

「……そうだね」


 英雄の目は怯えている。別にそんなに怒ってる訳じゃないんだけどな。


「死にたくない人を殺すのはただの殺人だろ。ウチみたいに死にたいやつを殺す嘱託殺人とは訳が違う。お前の所業は世の中には出ないだろうが、ある程度罰は受けるべきだとウチは思うよ」

「その罰が、詩絵美ちゃんとの別れ?」

「結果的にね。お前がウチとの別れを嫌がらなかったらそもそも罰にも何にもならないけど……ウチが旅立つ事で“お前を一人にする”っていう事実へのウチの罪悪感は、いい感じに帳消しになってくれてるな」


 英雄はうなだれていた。完全に怒られた後の子供だ。ちょっとやりすぎたかなと詩絵美は思う。


「なんてな、今のも遺書に書いたのと同じ、“言い訳”だよ。お前に決断してもらうための、さ」

「決断……」


 しばらくの沈黙のあと、英雄は立ち上がった。

 涙を拭い、言葉少なに頷く。


 静かに準備を始める彼を見て、詩絵美はそっと微笑んだ。

 半年間という奇妙な時間が、ゆっくりと終わりを迎えようとしていた。



   * * *



 その夜、英雄は一睡もできなかった。処置は翌日の朝に行う。今日が、二人最後の夜。


 彼はベッドの脇で膝を抱え、明かりもテレビもつけず、ただ闇の中で息を潜めるように過ごした。

 詩絵美は隣の部屋で、静かに眠っていた。かすかに寝息が聞こえる。ここ半年聞き続けた、愛おしい音。


 あれから決断を下すまで、何度も躊躇した。ついさっきの事だと言うのに、何度も何度も。

 心のどこかでは、まだ引き留められる言い訳を探している。

 でも──それはすべて、彼女の願いを踏みにじるだけの“自己満足”だと、英雄はもう分かっていた。


 明け方。わずかに空が白み始めたころ、英雄は立ち上がった。

 医療器具の準備は、ずっと前から整っている。これまで何度も使ってきた手順だ。何も迷う必要などないはずだった。


 だけど今回は、手が震えた。



    * * *



 処置室は静かだった。


 白い布が敷かれた台の上に、詩絵美は横たわっている。

 両腕も両足も失った体は、皮膚の下の骨格が浮かぶほどに軽くなっていたが、それでも彼女の瞳には、半年間の濃密な時間が宿っていた。


「準備、できたよ」


 英雄の声はかすれていた。

 その手には、透明な薬剤の入った注射器。かつて何度も扱ってきたはずの器具なのに、今は重く感じた。


 詩絵美は微笑んだ。


「ありがとう。……ちゃんと、食べてね?」

「うん……必ず」


 英雄は彼女の腕の付け根にある点滴ラインを探し、慎重に針を差し込む。

 細くなった血管を傷つけないように。最後の瞬間まで、痛みがないように。


「……ねぇ、詩絵美ちゃん」

「ん?」

「君は……天国に行くんだよね?」

「あれば、だけどね。あるんなら、お前に殺してもらえるから、たぶん行けるよ」


 詩絵美は軽く笑った。

 その笑顔は、まるでいつもの冗談のように穏やかだった。


「……僕が死んだら、また会えるかな」

「お前は殺人犯だもんね。地獄行き確定なんじゃない?」

「……だよね」


 英雄は目を伏せた。

 昨晩の様子を見て、ついついからかいたくなってしまう詩絵美。彼女は英雄の子供っぽさを、可愛いと感じていた。



「でも大丈夫だよ。地獄で罪を償えば天国に行けるって、どこかの宗教が言ってた。ウチは待っててあげる。ずっと、栄治や家族と一緒にいるならいつまででも待てる、何年でも、何十年でも」


 英雄の手が震えた。


「……そっか」

「だから、お前はゆっくり来なよ。慌てて死ぬなよ?」

「……うん」

「約束だぞ」

「……うん、約束する」


 英雄が、注射器のプランジャーを静かに押し始める。

 薬剤が体内に流れ込み、詩絵美の意識が少しずつ遠のいていく。


「……半年間、楽しかったよ。こんな形になるとは思わなかったけど、結構、悪くなかった」

「僕も……本当に、楽しかった。君に会えてよかった」


 視界がぼやけていく。音が遠のく。


「じゃあね、英雄」

「……またね、詩絵美ちゃん」



「栄治、亜瑠美……」


 詩絵美の最期の言葉は、愛する家族の名前だった。詩絵美の口が、呼吸が、体液の循環が、止まる。



 しばらくして、室内には静寂だけが残った。

 英雄は泣きながら、最後の“解体”を始める。

 それはいつもと同じ手順のはずだった。

 けれど今日だけは、何一つ“いつも通り”にはできなかった。

 詩絵美の身体に触れるたび、彼女の笑顔や声が、脳裏に浮かぶ。どうか彼女が天国へ行けてますように。どうか、幸せになっていますように。


 それは、彼にとって初めての“祈り”だった。


 この手が奪う命に、心から感謝しながら。

 この人を食べることが、ただの快楽や背徳ではなく、“供養”になるように。


 この世で一番美しい“最後の一食”になるように。



「あぁ、どんな虫と一緒に、食べようかな……?」


本作はディズニープラスで見られる映画「フレッシュ」にインスパイアされて作成したものです。

フレッシュ名作だから皆是非見て。だけど、だけどね??


フレッシュの悪役めっっっっっちゃ腹立つんですよ!!!!


いや作品のテーマ的には腹立つように描画されて当然だし、そこがフレッシュの魅力でもあるんですが……

ウチは純粋にカニバリズム系の作品が好きなので、あの悪役の持つ悲哀をもっと強調してほしかったなと……!

ん? じゃあウチが書けば良くない?? となって今作が出来ました。


まぁそんなことは置いておいて皆フレッシュ見て。

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