表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

犬になる

作者: 古数母守

 ヘラヘラ笑って課長のご機嫌を取っている杉本の姿が目に入った。能力とか実績とか関係なしに好き嫌いで昇進が決まるというのは、皆、うすうすは感じている。でもそんな連中のあざとい駆け引きに巻き込まれるのは心底嫌だった。だがそのヘラヘラ笑っている連中を羨ましいと思っている自分がいることにも気付いていた。もっと認められたい。もっと権限がほしい。そう思っている自分がいることはごまかしようがなかった。なんだあいつ? 杉本は揉み手をしながら全身全霊でへつらっていた。みっともない。やっぱり俺には無理だ。出世のために会社や上司の犬になりきるなんてできない。そう思って仕事に集中することにする。モニタを見ながら、キーボードを叩く。なんだか打ちづらい。打ち込もうとするキーに指が届かない。キーとキーの間隔が広がっているような気がする。いや、そうではない。私の指が短くなっている。それだけではない。手が毛むくじゃらになっている。それにモニタがよく見えない。いや、どうにも背丈が足りない。そして私は椅子から転がり落ちた。気付けば四つ足で歩いている。

「何でこんなところに犬がいるんだ?」

そう叫ぶ同僚の声が聞こえる。

「古井はどこに行った?」

私を呼ぶ声がする。私はここにいる。そう言ったつもりだった。

「うるさい犬だな。早くつまみ出せ」

私の声は犬の鳴き声にしか聞こえないようだった。しばらくすると紺色の制服を着た守衛がやって来た。守衛は棒で私を威嚇した。そしてまだ就業時間なのに私は会社の外につまみ出されてしまった。


 会社を追い出されて、私はとぼとぼ歩いていた。これからどうやって生きて行けばいいのだろうと思った。

「犬だ」

「犬が歩いている」

「飼い主はいないの?」

人々は好奇の目で私を見ていた。私は人混みを避けて、とぼとぼ歩いていた。しばらく歩くと公園があった。日陰で休んでいたら、唸り声が聞こえた。正面に犬がいた。彼は盛んに威嚇して来た。開いた口元からは涎がたれていた。どうやら私は彼の縄張りに侵入してしまったようだった。私は剥き出しの野生にすっかりびびってしまっていたが、本能のなせる業なのか同じような攻撃姿勢を取っていた。私は唸り声を上げながら、牙の間から涎をたらしていた。やがて戦いが始まったが、私は前足を噛まれてあえなく撃退されてしまった。噛まれた足をかばいながら、三本の足でぎこちなく敗走していた。どうしてこんなことになってしまったのだろう? どうして私が犬にならねばならなかったのだろう? 私よりもずっと犬に近い人間が何人もいたはずだ。こんな理不尽が許されていい訳がない。そう考えた私は天に唾した。唾は私の顔面に落下した。惨めだった。

「これこれ、そんなに落ち込むことはない」

声がするので振り向くとそこには神様がいた。どう考えても神様だった。このタイミングで犬に話しかけるのは神様に違いなかった。普通、人間は犬に話しかけたりはしない。

「あなたですか? 私をこんな目にあわせているのは?」

「いかにも」

老人は言った。

「おぬしには犬の気持ちをわかってもらいたいのじゃ。犬には犬なりの苦労というものがある。そのことをよくわかってもらいたいのじゃ」

老人は言った。よしわかった。そうまで言うなら犬の気持ちとやらをわかるまで努力しよう。私はそう誓った。露骨な忖度ではなく、心からの忠義。それこそが心からの感動を呼び起こすものなのだ。あいつは犬だ。そうやって誰かを批判していた自分を少し恥じてもいた。私は犬として過酷なまでの修練を積んだ。三遍回ってワンと言えと飼い主に言われる。くるくる回って元気よくワンと言う。よしよしえらいぞと幼い子供に頭を撫でられながら、ようやく食べ物にありつくことができる。こんな生活を毎日続けるのはとてもつらいと思ったが、私は耐え抜いた。一生懸命芸を覚え、道化てみせた。主人が投げたフリスビーを全力で追いかけ、ジャンプして口でキャッチした。私の身体には犬の特性がすっかり叩きこまれた。それは、強者の支配する世界で弱者としてのみ生きることを許された動物の性ともいうべきものだった。よしこれで犬の気持ちをすっかり理解したぞと思った。


 翌日、目覚めると私は人間に戻っていた。そして久しぶりに出社した。杉本は相変わらずヘラヘラ笑って課長のご機嫌を取っていた。あいつも苦労しているのだなと思った。それにひきかえ、山田は相変わらずマイペースで勝手気ままに振舞っていた。高度な専門知識があるということで一目置かれているが、いつも単独行動ばかりしている。なんだか猫みたいな奴だなと思った。そう思った瞬間、私の身体はみるみるうちに小さくなって行った。指は短くなり、肉球が見えた。毛がびっしり生えていた。

「何でこんなところに猫がいるんだ?」

そう叫ぶ同僚の声が聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ