0話、2055年9月1日
「ふあぁ。
もうこんな時間?」
欠伸を一つして、数字の並ぶ画面から天井へと目を向け、体を椅子へ深く沈める。
「あと、もう少し…もう少しなんだけどな〜。
っつ〜か、もう少しだよな??」
「ああ、もう!」
とブツブツと文句を垂れながら、ヨイセッ!と声をかけてまた元の態勢に戻る。
ポーと仄白く輝くパソコンの画面には、上から下までびっしりと数字が羅列している。
もう、かれこれ8時間以上は羅列数字と向き合っていた。
その羅列を見て、これが何かを判断できる人間はいないだろうが、何のためのものかは多くの人が知っている。
これは、新しい開発プロジェクトに必要不可欠なプログラミングだ。
その調整は、最終段階ではあったが、あともうちょっと。
後少しで完成するという段階になって、エラーがあることが発見された。
つい昨日のことだ。
製作チームの責任者として、そりゃぁ連日徹夜なんてことはザラだったが、
「だからって、こりゃ無いだろう。」
最初の頃のあのサクサク感と、今のこのダメダメ感。
連日の働き過ぎで肩は凝るし、腰は痛いし、目はシパシパするし……
「もう、寝たい。」
「放り出したい。」
「布団が恋しい…」
と一人さびしく愚痴りたくもなる!
「あ〜〜〜ぁ」
画面と向きあう度に、「こんな厄介な仕事引き受けなきゃよかった…」とすっごく思うが、今さらだ。
コンソールに手を乗せ、高速で画面を上下させる。
並んでいるのは、数時・図面・数字・図面・時たま文字に数字数字数字…!
幾ら確認してもエラー箇所が見つからない。
完璧なはずのプログラムは、最後に自動チェックすると、赤い点滅を画面いっぱいに広げる。
全く、忌々しいことこの上ない。
「ふぅ。」
椅子から離れて、背伸び。
目についた冷めきったコーヒーをガブリと一口して、再び画面と睨めっこ。
さっきから、この繰り返しばっかりだ。
集中力なんてものは、とっくの昔に切れていた。
プログラムの開発製作室と化している研究所の一室には、特別室なるものがある。
高名な研究員のための部屋で、一流ホテルのスイート並みに豪勢で、最新機器が勢ぞろい。内線一つで何でも揃うという、素っっ晴らしい部屋になっている。
一般研究室が、雑魚寝上等!掃除はちゃちゃっと掃除機かければいいんじゃない?最新鋭の機器なんて、成果が上がってから言え!みたいな感じで殺伐としているだけあって、この部屋を使える研究員は、涙を流して喜ぶものだ。
初めて入室許可が下りた研究員なんて、あまりの喜びで仕事が手に付かないという弊害まであるぐらいに。
田辺優斗は、現在この部屋、一流ホテルのスイートルームと言わしめる特別室にいた。
使い慣れた生活空間のように、何の違和感もなくそこを自由に使う。
優斗にとっては、誰もが涙を流して喜ぶ空間も、すでに単なる研究スペースの一つであり、また慣れ親しんだ生活空間の一つとしての認識しかなかった。
「くそっ!!」
苛立ち混じりに舌打ちし、目を手で覆い上を向く。
眠いわけではない。
眠気のピークはとうに過ぎ、逆にハイになっているが、如何せん。肉体的疲労が限界にきつつあった。
目に当てた手が重く、もう片方のだらりと下げた手が重しのように負荷をかけ、ともすれば体が床に引っ張られている錯覚に陥る。
機械の重低音と、時計のカチコチと一定のリズムを刻む音がその錯覚を深くする。
「あ〜、ダメだ……」
その後の言葉は無理やり呑み込み、頑張るぞ〜!!となんとも気合の入らない掛け声を出して、また画面とにらめっこを始める。
「あと少しだ!」という言葉を何度も頭の中で往復させ、先と同様かそれ以上の速さで画面をスクロールさせ、キーボードを打ちつけること暫し。
「……あった?――ーあった!!」
途中の記述の違和感に目を眇め、次いで前後の記述と照会していくことで見つけたのは小さな齟齬。極小のエラー。
見つけた齟齬は些細な間違いだったが、その前後がまずかったのか!
優斗は見つけたエラー箇所を一心不乱に解析し、小さなエラー箇所が齎したシステムの改変を高速で直していく。
たかが一か所のエラーだが、それが重要な部分に引っ掛かっていることも問題だな。などと唸りながら、それでもこれなら―――
「終わった!!」
何とかならないレベルではなかった。
「長かった。めちゃくちゃ長かった……」
ほぅと息を吐き、首を回す。胸は何やらジンと痺れたように熱くなり、目尻にうっすらと涙が浮かんでいた。
――これで、心おきなく眠れるかも?
ふっと見やったパソコンの画面上では、プログラムの確認作業が目まぐるしいスピードで行われていた。その流れは人間の目では追えないほど速い。
待つこと5分。画面上には
『 O K 』
でかでかとグリーンで表示されたのは夢にまで見た終了のサインだった。
「終わった!これでやっと終わったよ―――」
イヤッホウ!とガバリと椅子を蹴倒して立ち上がり、いそいそと優斗はパソコンからLRICD(自己学習集積回路デバイス記憶装置=通称エル)を取り出した。
直径5センチ、厚さ2ミリのLRICDは、2050年に優斗が開発した新型記憶装置であり、2055年の現在では従来のCD-ROMやMOといった記憶装置は、優斗が開発した新型に押されて市場から姿を消した。
それは、ただ記憶容量が大きかったという理由は勿論のこと、その用途が画期的だったからだ。
初めに組むシステムに必要な情報をインプットしておけば、インターネット回線に繋いでおくだけで勝手に必要なプログラムを組み、常に新しい情報を蓄えてくれる。そればかりか、単純なミスなら自己修復し、使用者が間違っていることも示唆する。
使用方法も簡単。かつウィルスにかかりにくく、強度、処理速度は群を抜き、情報整理の美しさなどもあり、企業だけでなく、一般社会に流布するのは速かった。
今や、一般家庭にある家事用ロボットやテレビ、電話、セキュリティーシステムには勿論のこと、企業のデータベース、国家、軍事のシークレット回線にまで使用され、LRICDなしには社会が成り立たないというレベルにまで浸透してしまっていた。
『田辺優斗』
この名が世界中に広まる一因になったシステムだ。
そして、今、優斗が手にしているLRICDは、世間一般で出回っているそれとは一線を画するモノ。
優斗が苦心の末に完成させた、第二世代型LRICDである。
世界何十カ国が提携し、始動した一大プロジェクト。
その中心的役割を果たすプログラムの中枢に据えられるプログラムが、今、優斗の手の中には納まっていた。
「長かった。ああ、本当に長かった。」
思い出すのは今までの2年。
開発当初の歓迎ムードが、半年過ぎれば「これからですよ」と何もしない外野から温い視線を向けられ、
1年過ぎれば「これだから」と、訳知り顔で話しだす野次馬が開発の「か」の意味も知らないくせに論評をあれやこれやと始め、2年過ぎれば別機関の研究員から揶揄嘲笑。
気づけば「ふふふっ」と、ひたすらに黒い笑いがあふれてたが、優斗は気づきもしなかった。
ざま〜見やがれ!
この俺様に膝まづいて許しを乞うがいい!
心の中で浮かべる黒い感情に、一層笑みを深めたその時、
「チーフ!!!!」
ドアを勢いよく開け、歓喜を露わに現れたのは、苦労の末に白髪が目立つようになった男。
「水原センセ!」
水原誠。優斗が指揮するチームの最年長者であり、チームリーダーとして辣腕を揮ってもらっていた優斗の片腕だった。
ずんずんと部屋に入っていくる水原に、優斗も喜びの笑顔で迎える。
もうすぐ還暦を迎えるというのに、あまり節くれだっていない若々しい手を、優斗は差し出されるままに力強く握った。
「――ついに!
ついに、完成しましたね!!!」
優斗が握った手を、優しく労わるように包む水原の目には涙が浮かんでいた。
「良かったです。本当によかった……」
感慨深げに水原に云われると、優斗の目も水原につられるように視界がぼやけた。
「……」
「……」
二人は、声も出せずに暫し喜びを噛みしめ、涙を流し、手を握りしめていた。
それは、歴史を変える技術の完成を喜ぶ感動的な一幕。
しかし、
「ぷはぁっ!」
感動的な場面に我慢できない!
と言わんばかりに思わずといった感じで、噴き出した優斗のせいで壊れてしまった。
それにつられて笑いだした水原にしても、男二人での涙の一幕は面映ゆさを感じたのか、笑い出していた。
「どうです?
完成祝いに一杯?」
クイッと酒を飲む仕草で茶目っけたっぷりに言う水原に、優斗も笑顔で頷く。
二人が向かった先には、上等なテーブルの上に、堂々と極上のワインが置いてあった。
おや?と首を傾げた水原に、しまった!と優斗は焦ったが、聞かないでおいてあげましょうとばかりに意味深に水原に笑われれば、誤魔化し笑いをするしかなかった。
こぽこぽこぽっ。とワイングラスに注がれる赤い液体。
綺麗な赤が照明に照らされて、なおいっそうルビーのように輝いている。
二つのグラスに注ぎ終え、
「まぁ、今日は何も言いませんよ。」
と朗らかに笑って水原は優斗にワイングラスを渡す。
「もう、18歳でしょ。そのころには、私も飲んでましたからね。」
孫を見るような、悪戯小僧を笑って許してあげようとでも言いたげな水原のニンマリと細められた目線に、口を尖らせながら、でも嬉しそうに優斗はグラスを受け取った。
「プログラム完成に!」
「2年間の戦いへの勝利に!」
「「乾杯!!」」
チン!と軽やかな音が静かな部屋に鳴り、笑顔で二人は杯を乾した。
口に広がる豊潤な香りは、さすがは最高級のワインといったところか。
舌を楽しませ、喉を鳴らした赤い液体は、食道をすんなり通り過ぎて空っぽの胃の内部をじんわりと熱くさせる。
その感覚に優斗は酔いしれていた。
「ところで、あれはどこに?」
きょろきょろと視線を投げかけ、呆けた表情を見せる水原に、
「あれは、ここ。」
ぽんぽんと、胸ポケットを叩きながら、優斗は先ほど完成したプログラムをテーブルの上にそっと置いた。
「おお!」
感嘆のため息を吐き、宝石を扱うように水原はそれを手にする。
その眼には妖しい光が鈍くチラッと瞬き、すぐに喜びの明るい輝きに隠した。
「ええ、そうなん――ー」
突然、優斗の息が切れた。
体中を電気が這いまわり、痺れで息が乱れ、空気を吸うことができない。
ガクリと力が抜け、たまらず優斗は崩れた。
横向きになり見上げた視界の中で、水原が狡猾な笑みを零していた。
「……な、に、を?」
吐き出すばかりの息の間から切れ切れに優斗は口にした。
頭は満足に酸素が送り込まれていないせいで、すでに重たい霧が立ち込め、思考が定まらなくなってきている。
痺れる体は、凍るように冷たくなり始めていたが、それすらも認識できず、目の前に迫る危機を優斗はどうすることもできない。
「君が悪いんだよ。」
ちかちかと赤く、黒くなる視界に、水原の冷酷な表情が映る。
その目に残虐な青白い炎が揺れていた。
「私は、努力を重ねてきた。まぁ、秀才でね。
ここまで来るのは、本当に大変だったんだよ。」
昔を懐かしむように、青春時代を語るように水原の目が細くなり、
「君には到底、分かりえないことだろうけどね!」
次の瞬間には、憎悪の視線でもって優斗を睨みつけた。
「邪魔だったんだよ。君は!
秀才の私には決して追いつけない!
君の天性の才能が!
その非凡な神に愛された頭脳がね!」
容赦なく叩きつけられるその罵詈雑言に、しかし優斗は何の反応も返せない。
水原の憎悪の視線も、悪態も優斗にはすでに理解できるだけの余裕がなかったからだ。
ただ、水原が愛しむように
「これは。このLRICDは、私のものだよ。」
とせせら笑うように言われて、反射的に
「か、……え……せ」
と口にしたが、その視界はすでに水原の方は向いておらず、伸ばしたと思った腕もぴくりとも動いてはいなかった。
「貴方の遺体は、私のLRICDで機動した船で送ってあげよう。
いつか、貴方が言ったように」
虫の息の優斗を無遠慮に見つめる水原は、視線をそらさずにただ待っていた。
「……」
急速に光を失うガラス玉。
田辺優斗の最期の息は、静かな室内に吐き出され、消えた。
西暦2055年9月1日。午前4時。
田辺優斗、死亡。
このセンセーショナルな通知は世界を瞬くまに広がり、死因として発表された心筋梗塞は、様々な意見が飛びかった。
同日、死亡解剖を終え、その結果から改めて死亡原因が発表されてもそれは収まらなかった。
世界中が若き天才科学者の夭折に嘆き、研究所には世界各地から著名人から一般人までがつめかけ騒動にまで発展し、連日、優斗の訃報が何度もテレビやインターネットに流れた。
若き天才科学者、田辺優斗氏(18)は、心筋梗塞のため9月1日午前4時未明、死亡。
一昨年から取り組まれていた、宇宙船の新たな基盤にLRICDを用いる計画を推進していた田辺氏の開発は、最終段階まで迎えていた模様。開発チームの面々は、完成を間近にした訃報に悲しみの涙を流し、田辺氏の無念を嘆いている。チームリーダーの水原誠氏は、田辺氏の意志を継ぎ、開発成功へと萬進することを声明し、成功のあかつきには田辺氏が生前望まれていた通り、宇宙へと遺体を葬ることを涙ながらに語っていた。
――― ××新聞一面記事より
2055年10月10日。
第二世代型LRICD完成の報が世界中を席捲。
『水原誠』の名は歴史に名を刻み、一躍時の人となった。
2056年9月1日。
水原誠の第二世代型LRICDを基盤とした宇宙船2-11型は、冷凍カプセルで永遠に眠る田辺優斗の遺体を乗せて、宇宙へと上がった。
このニュースはライブで大々的に放映され、水原の功績を讃えたのか、それとも夭折した優斗の冥福を祈ってか、後『ライムライト』、“名声”の名を冠する名で呼ばれる。
優斗を乗せた宇宙船『ライムライト』が、その後地球へと帰還を果たしたかどうかは定かではない。