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きたちゅー!  作者: こじまき
一年目
9/26

大沼のスキャンダル

遅番で出勤すると、青い顔の竹浦さんが「北見ちゃん、すぐ第一ゼミ室行って。校舎長が待ってる」と言う。何か大きな問題が起こっていると察し「何の件ですか」と聞くと、「行って聞いて」と急かされた。「自分がとんでもないミスをしたんじゃありませんように」と祈りながらノックしてゼミ室に入ると、校舎長が硬い表情で待っている。


「校舎長、何でしょうか」


校舎長が説明してくれた問題の内容に、「自分のミスじゃなかった」と安心するのも忘れて、驚愕する。「大沼さんが生徒とキスしていた」という目撃情報が、複数の生徒から寄せられたというのだ。大沼さんは否定しているが、何人もの生徒が同じ証言をしており、確認のためスタッフからも話を聞いているのだという。


「大沼が生徒と必要以上に親しくしていると感じたことはあるかな。大沼は北見の指導係だし、近くで見ていたと思うんだけど」

「あの…」

「言いにくいことかもしれないけど、正直に話してほしい」


生徒から告白されたと言っていたことを告げると、校舎長は「ふう」と息を吐いた。「大沼がこんなことになるなんてなぁ。確かに男性に対しては過度にかまってちゃんではあったけど」と小さな声で言う。校舎長、大沼さんに「頼りにしてるよ」とか「大沼の提案はみんなのお手本だ」と褒めて持ち上げていたけれど、そんな風に思っていたなんて。


「正直に話してくれてありがとう。戻っていいよ」

「あの、大沼さんはどうなるんでしょうか」

「事実だと確認されれば、解雇だろうな。でもその前に自分から辞めるんじゃないかな。こんなことになって居づらいだろうし」


そして校舎長はふっと表情を緩めた。


「北見も少し気楽になるんじゃないか。正直」

「え?」

「大沼にかなり絞られてただろ。私も何度かやりすぎだと大沼に注意したんだけどな。新人だし失敗するのは当然だって」

「そうだったんですか…」


校舎長、今まで私には一言もそんなこと言ってくれなかったのに。


「とりあえずお疲れ。仕事に戻れ」

「はい」


結局、大沼さんは処分が出る前に退職した。当然送別会なども何もなく、ひっそりと。大沼さんの彼氏がいる地区教務本部と同じ自社ビルに入っている営業部勤務の同期によると、結婚は破談になったらしい。


ロッカールームで靴を履き替えていると、葵ちゃんがいかにも楽しそうに「大沼さんの結婚、破談だって。当然だよねえ」と話しかけてくる。


「そうだね。でも私、まだ大沼さんが生徒とキスしたなんて信じられない。いくら大沼さんでもそんなことするかな」

「へえ…北見ちゃんが大沼さんをかばうなんて意外」

「だってそんなことしたら終わりだって誰でもわかるし、結婚も間近だったんだし」


ハワイでの結婚式、本当に楽しみにしてたのに…と思いながら言うと、葵ちゃんはこともなげに「だってキスしたなんてガセだもん」と笑う。


「私が生徒に頼んで噂を流してもらったんだ。思ったより広まったね」

「どうして…」


思考が停止してしまった私を、葵ちゃんは「北見ちゃんのためだよ」と抱きしめる。葵ちゃんの香水が鼻について、体が震える。葵ちゃんは、大沼さんが私をいびるのを腹に据えかねたのだという。


「一回あまりにひどいって直談判したんだけど、やめてくれてなくてさ。強硬手段に出たんだ」

「それで噂を?」

「そう。これで彼女はめでたく退場だね。北見ちゃん、私に感謝してよ」

「感謝…」


こんなことをしてくれなんて頼んでいないし、思ってもいない。確かにひどい先輩だったし、いなくなってくれたら楽だと思ったことは一度や二度ではなかったけれど、退職させるなんて。生徒に嘘までつかせて。それで、彼女は結婚まで破談になって。


「その顔…北見ちゃん、もしかして罪悪感?そんなの感じる必要ないよ」


噂が広まって大沼さんが退職せざるを得なかったのは、それだけ彼女を憎んでいる人が多かったせいでもあると葵ちゃんは言う。


「いくら生徒が嘘を言ったところで、信じる人がいなかったらこんなことにはならなかったんだよ。大沼さんならやりかねないとか、この噂に乗じて大沼さんを追い詰めようって思う人が多かったから、こういう結果になったの。社員も契約社員もバイトも含めてだよ」


「私はきっかけをあげただけ…北見ちゃん、間違っても私のこと校舎長に報告したりしないでね。私、北見ちゃんのためにやったんだよ」と言って、葵ちゃんはロッカールームを出て行った。あとには震えが止まらない私だけが残された。葵ちゃんの言い方だと、みんながグルになって大沼さんを辞めさせたみたいだ。


キス騒動があってからの数週間は、保護者への対応と生徒のケアに追われた。大事な時期に生徒を動揺させるなんてもってのほかだ。けれど噂はもう全生徒に広まり、それを聞いた保護者から「生徒に手を出すチューターがいるところには、子どもを預けられない」と苦情の電話が鳴り止まなかったのだ。噂が本当なら苦情を言われても仕方ないと思うが、嘘の噂だと知りながら謝り続けるのは辛い。納得してもらえる生徒はこの校舎に残り、どうしてもという人は近隣の校舎に転校してもらい、ようやく騒動は終息に向かった。


騒動の間中、張本人の葵ちゃんは平然と仕事を続けていた。「常識のないチューターが申し訳ありません」と電話で保護者に謝りながら。彼女は本当は、本当に、怖ろしい人だ。けれど私は噂が葵ちゃんの嘘だったことを、どうしても、誰にも、言えなかった。だって、葵ちゃんは私のためにあんなことをしたのだから。

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