デートだった
今日は滝川先生とA寺の最寄り駅の改札で待ち合わせだ。男性と二人きりで出かけるなんて、最初で最後だった彼氏と別れてから三年ぶり。「デートじゃない。期待はしていない」と自分に言い聞かせてはいたものの、久々すぎて緊張して、三十分も早くついてしまった。
この駅からA寺までは、かなり歩く。歩きやすいように、フィールドワークのお供だったスニーカーを履いている。これまた大学時代からの愛用品のハット、リュック、パーカーにデニム。髪型だけは大学時代と違う。ただのひっつめ髪ではなくて、葵ちゃんに教えてもらった「不器用でもできるおしゃれヘアアレンジ」をしている。ゴムでひとつくくりにして、くるりと髪を回すだけなので本当に簡単だ。
滝川先生は待ち合わせ時間の二十分前に来たので、意外に待たなかった。
「北見さん!?待たせたら悪いと思って早く来たのに」
「あの…早く起きたので」
「そっか」
そんなことよりも、先生の服装と自分の服装の差に愕然とする。先生もカジュアルで歩きやすそうな服装なのは確かだけど、ちゃんとおしゃれだ。アウトドアブランドのナイロンジャケットの色合いも、ブランド物っぽいデニムもリュックも。私みたいなゆるゆるの服ではない。「仕事服だけじゃなくて、休日用の服も葵ちゃんに選んでもらっておけば良かった」と激しく後悔する。
「行こうか」
「はい」
ヨレヨレの服の私にも、先生は優しい口調。絶対呆れてるはずなのに。
「北見さんの卒論読んだ」
「えっ!?」
「下の名前、よつばっていうんだな」
「あ、え、あ、はい」
美桜をはじめとする友人だけではなくて、家族にすら「よっつん」と呼ばれているので、「よつば」と言われてくすぐったい。けれどそれ以上に、あの卒論を読まれたなんて恥ずかしすぎる。そのときは一生懸命、これ以上ないほど頑張って書いたけれど、今となっては読み返したくない代物だ。製本したものを燃やしてしまいたい。
「良かったよ」
「嘘…」
「そりゃ学部生だし粗さはあったけど、あれだけ資料読み込んでて…研究好きなんだなって伝わってきた。テーマへの熱量も。目名先生がピカイチだって言ってた理由がわかった」
「…嬉しいです」
「本当に戻る気ないの、大学」
「今の仕事もやりがいがありますから」
嘘ではない。やりがいはある。どんなに大沼さんに怒られても、生徒たちの「模試でいい結果出たよ」と嬉しそうに報告してくれる顔を見たら、また頑張ろうと思える。
「そっか。毎日夜遅くまで頑張ってるもんな」
「それは…要領悪くて、どうしても時間がかかっちゃうので」
「あんまり根つめるなよ」
「はい…」
そう言ったあと、涙がみるみる溢れてきた。止めようと思うのに止められない。
「すみません」
「どうした?」
緑豊かな景色の中に伸びていく長閑な道で立ち止まり、私は涙を拭く。拭いても拭いても涙は出てくる。
「俺、泣かせるようなこと言った?」
「いいえ…あの…気遣っていただけたのが嬉しくて。すみません。ほんとすみません」
「私本当にダメダメで、みんなに…大沼さんにもすごい迷惑かけて。こんなのでやっていけるのか、全然自信なくて」と声にならない声で続ける。
「入社したときは希望に溢れてたんです。でも思ってたのとは違くて。仕事と家の往復だけだし、仕事は難しいし、何だか逃げ場もなくて追い詰められちゃって」
「同期の子…名前なんだっけ…池田さんに相談しないの?」
「葵ちゃんは…池田さんは…仕事できるし先輩とも仲良いし、私とは違いすぎて、全部は言えないって感じて。私のこと心配してくれてるのに何でか…そんな自分も嫌で…もっとみじめになっちゃって」
滝川先生は、話しているうちに涙のビックウェーブ第二波が来てまた泣きじゃくりだした私をベンチに座らせ、隣に座る。
「元気出せ」
そういって背中を叩いてくれる。
「はい、ありがとうございます」
そう答えたら、もう片方の腕が体の前から頭に回された。「えっ」と思った瞬間に引き寄せられて、先生に抱きしめられるような格好になる。先生の心臓のあたりに耳が当たって鼓動が聞こえて、「笑顔のほうがいいから」と頭の上で先生の声がする。
「はい…え…というか滝川先生、あの…」
狼狽している私の声を聞いて、先生はパッと体を離した。
「ごめん、つい」
「あ、え、あの、いいえ」
「涙止まったなら行こうか。まず顔拭いて。歩ける?」
「はい、すみませんでした」
私たちは何事もなかったかのように歩きだし、先生の研究内容について聞きながら、A寺、資料館、付近を一望できる丘にも立ち寄って歴史を満喫した。とはいえ、久々に大好きな場所に来たのに、抱きしめられたことが気になって仕方なくて、堪能できない。先生が説明してくれる研究内容もあまり頭に入ってこない。
あれは先生にとっては何でもないことなのかどうなのか、ずっと、一言も触れてくれない。モヤモヤしたまま帰りたくないなと思いながら、駅のベンチに先生と並んで座って、一時間に一本しかない帰りの電車を待っていたとき。
「さっきのこと謝る」
「あの…はい」
「怒ってる?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
先生は「良かった」と息を吐いた。「でも先生、好きな人がいるんですよね。なのにあんなこと…」と、「真面目そうに見えて実は軽い人なんですか」「それとも好きな人がいるというのは嘘ですか」という思いを込めて聞く。好きな人がいるのに誰にでもあんなことをする軽い人なら、「地味女のくせに」「ときめいてたくせに」と言われても、こっちから願い下げだ。
「好きな人って、北見さんのことなんだ」
「え」
「だから泣いてるの見て、つい」
美桜の言ったとおりの展開に、それ以上言葉が出ない。
「北見さんの卒論読んだのも、実はずっと前。名刺も…ずっと連絡先書いて持ってて、いつ渡せるかなって。でも北見さんいつも忙しそうだったし、校舎でそういう話するのも気が引けたし」
「こないだ、かなり勇気必要だった」と少し恥ずかしそうに言う先生に、どう反応したらいいのかわからない。先生が私に対して恥ずかしがってるなんて、意味がわからない。こんな素敵な、頭が良くて、見た目も良くて、生徒にも人気がある先生が。
「急に雰囲気変わって、古瀬先生にちょっかい出されてるの見てちょっと焦ったのもあって、言わなきゃって。雰囲気変わったよね?」
「あの…あお…池田さんに服を選んでもらって、メイクも教えてもらったんです」
「でも今日は何か…服はあれだけど」
「しっ…仕事用の服しか選んでもらわなかったので…すみませんこんな格好で来てしまって」
「そっか。こっちのほうが、なんか安心する」
「綺麗になったけど、他の男が北見さんのことを気にしだすのは正直嫌だから。俺はずっと前から北見さんの良さに気づいてたし…好きだったから」と先生は言葉を切った。そして少し間を置いて。
「講師とチューターだからあんまり大っぴらにはできないけど、付き合ってほしい」
先生の言葉に、顔を真っ赤にしながら頷く。こんなの夢みたい。憧れの人に優しくされたと思ったら、「付き合ってほしい」なんて。先生は「良かった」とほっとしたような笑顔を見せて、私の手を握る。私の手から、一気に手汗が噴き出る。
「でもなんで…こんな…地味な…」
「目名先生から聞いて気になって、目で追ってるうちに何か。生徒に自分の考え押し付けないのもいいなって思ったし、大沼さんに怒られても彼女のことちゃんと立てて」
「考えがすぐにまとまらなくて主張できないだけです」と小さく言うと、「北見さんはもっと自信持っていい」と言ってくれる。
「見てる人はちゃんと見てるから。一番カウンター出てるのも、電話とってるのも」
「それは…基本ですから」
「でもそれができてない人もいるでしょ。だんだん自分の作業の方を大事にしちゃって、電話出るのとか面倒くさがってさ」
「俺は普通の企業とかに勤めたことないからわかんないとこもあるけど、基本を確実にやるって絶対大事だよ。そういうとこ、見てる人はちゃんと見てるから。俺もだし、生徒もバイトも」
「ありがとうございます」
「あのね、その笑顔もすごい好き」
真っ赤になった時、電車がホームに入ってきた。立ち上がろうとする先生の手を握り返して引きとめる。
「先生、あの…もう一本あとの電車にしませんか。その…お時間が大丈夫でしたら」
「何時まででも大丈夫」と言って、先生はベンチに座り直し、A寺までの道沿いにあったベンチでしたのと同じように、私をそっと抱き寄せた。
「あと、二人の時は先生って呼ぶのなし。敬語もなし」
「じゃあ何て」
「樹」
「はい…」
「うん、だよ」
「うん」
「俺はよつばって呼ぶ」
「は…うん」
「よつば」
名前を呼ばれて先生の顔を見ると、そっと顎を持ち上げられてキスされた。
一本後の電車に乗り、先生は私の家の最寄り駅まで送ってくれた。先生を見送ってから美桜にメッセージを送ると、すぐ返事が来る。
”やったじゃん 言った通りだったでしょ”
”うん 驚きすぎた 美桜様予言者だったの”
”この幸せ者めが”
”えへへ”
”来週そっちで研修あるしご飯しよ 詳しく聞かせろ”
”久々だね 嬉しい”
”ああ肉食いてえ 彼氏持ちが奢れ”
”はいはい”