古瀬先生のゼミ
いつもより早く起きて、美容部員さんと葵ちゃんに教えてもらった通りにメイクする。葵ちゃんは「美容部員さんの言ったとおりやるとキメキメになっちゃうんだよ。ところどころ抜いて軽めにしないと。北見ちゃんは唇を重点的に、目は軽めでいいと思う」と言っていた。軽めの加減がわかりにくいけれど、とりあえず言われたとおりにやってみる。
アイラインに四苦八苦したメイクが何とか終わり、葵ちゃんに選んでもらった服を着て出勤する。早番で出てきていた竹浦さんが「北見ちゃん、どうしたの?」と声をかけてきた。
「いつもと全然違うじゃん」
「池田さんに見立ててもらったんです。メイクも教えてもらって…似合ってませんか?」
「いや、すごくいいよ。ねえ大沼ちゃん」
竹浦さんに声をかけられた大沼さんは「そうですね」と竹浦さんには笑顔で返し、表情を硬くして私に「感謝しなよ」と小声で囁く。
「はい、ありがとうございます」
「それでよし」
大沼さんのいう通りに服やコスメに気を使うようにしたのに、彼女は機嫌が悪そうだ。虫の居所が悪いのか、何か気に入らないのか。とにかく逆鱗に触れないようにビクビクしながら過ごしていると、私大文系クラスの生徒が「きたちゅー、いい?」と相談にやってきた。「きたちゅー」は私の渾名。「北見チューター」の略だ。
「私、首都圏の大学を受けたいんだけど、あっちって、ちょっと問題が特殊じゃん。学部によっても違うし」
「確かにそうだね」
「今の授業と、過去問を自分でやるだけで対応できるのかなって不安で」
「わかった。他にもそういう子いると思うから、特別ゼミやってもらえるよう掛け合ってみるね」
「まじで!ありがとう」
クラス内でアンケートをとり、首都圏の大学を受験したい生徒のニーズを探ると、英語と現代文の記述に不安を持っている子が多いことがわかった。特に志望者が多いA大に絞って、特別ゼミを開講したいと副校舎長に相談する。
「いいね。二コマ分なら予算もあるし。古瀬先生がA大出身だから、英語は古瀬先生にお願いしよう。現文は山崎先生でいいかな」
「はい」
「じゃあ生徒のアンケートの要点と模試の分析結果をまとめて、重点的にお願いしたい部分を先生たちに伝えておいて。報酬の処理はこっちでやるから」
「ありがとうございます」
古瀬先生に時間をとってもらい、特別ゼミについて相談する。レザージャケットにデニム、やや長めの茶髪の古瀬先生は、人との距離が近い。男性に慣れていない私の心臓に悪いから、やめてほしい。
「どこの学部を志望してる子が多いの?」
「今は法学部が多いですけど、実際あの子たちの成績では厳しいです。本気で狙える子はこの子と…あとこの子、二人くらいで。実際のメインターゲットは商学部になるかと」
「ああ、A大あるあるだよね」
「ただ彼らのやる気というかプライドも大事にしてあげたいので…前半は法学部で、商学部を後半でやっていただくというのは時間的に厳しいですか」
「大丈夫、できるよ。分野をかなり絞ればだけど」
「北見さん、ちゃんと生徒のこと把握してるんだね」と古瀬先生に褒められて赤くなる。こんな格好いい男の人に面と向かって褒められるなんて、初めてだ。
「ありがとうございます」
「それにさ、何か雰囲気変わった?綺麗になったじゃん」
「いや、そんな…」
「綺麗」なんて言われたのも初めてだ。ドキドキして、持っていた資料で顔を隠すと「初心すぎ」と笑われ、頭をポンを叩かれた。先生の手の感触が残って、頭にいつまでも何か乗ってるみたいに感じる。赤い顔のままで古瀬先生にお礼を言って席に戻る途中、いつになく険しい顔の滝川先生と目が合った。
「滝川先生、どうかされましたか。すみません、もしかしてうるさかったですか」と小声で聞くと、先生は硬い表情で首を振る。古瀬先生が冗談を言いながら話してくれるから笑っていたのが、本当はうるさかったのかもしれない。うるさいチューターだと思われたかも。
ちょっと落ち込みながら席に戻ると、「ふふん」と大沼さんが近寄ってきた。
「滝川先生、意外にチューターに厳しいんだよ。態度が悪いチューターには注意してるもん」
「そうですか」
「北見、嫌われたかもね」
「はあ…」
「いい気になって古瀬先生と喋ってるからだよ。仲のいい先生とも、節度を持って接するのが基本だよ」と言い残して、大沼さんは去っていった。