チューター大沼の日常
大沼さんが私の肩をポンと叩く。
「北見、夏期講習の募集の企画出しミーティングは再来週だって」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
「いくつか企画の提案用意してミーティングのぞみなさいよ。聞いてるだけじゃダメだから」
「はい」
そう言われていたのに、ミーティングはその次の日だった。何の用意もしていない。当然のように「北見は?何か企画案用意してきたんだろ?」と校舎長から振られ、しどろもどろになる。葵ちゃんが心配そうに見つめている。
「ふうう」とため息をつき、首を振ってから、大沼さんが「すみませぇん、校舎長ぉ。だいぶ前から言っておいたんですけど、北見、思いつかない思いつかないってそればっかりでぇ」と高くて甘い声を出す。
「北見、新人だからこそ出せる案もあるんだぞ」
「はい」
「今回は大目に見るけど、今後これが続くようなら怠慢だと見なされても仕方ない。これからは気負わずに考えてみろ。ミーティングの途中でも何か思いついたら出していいから」
「はい」
大沼さんはひと呼吸置いてから校舎長に向かって挙手し、すらすらと考えてきた企画を説明する。
「いいね大沼。北見、大沼を見習えよ」
「はい」
満足げな大沼さんの視線。もう消えてしまいたい。泣きそうになりながら会議を終えると、葵ちゃんが話しかけてきた。
「企画なしはさすがにひどいよ、北見ちゃん」
「違うの…」
大沼さんに嘘の日程を教えられていたことを告げると、葵ちゃんの顔色が変わる。
「なんでそれ、さっき言わなかったの」
「言ったらまた何されるかわからないし。大沼さんはどうせ"私はちゃんと伝えた"って言うと思うし」
「北見ちゃん、弱すぎだって」
そう言われても、私は葵ちゃんみたいに強くはなれない。どうやったらそうなれるのか、教えてほしい。なれるものなら。ひどい顔で黙り込んだ私に、葵ちゃんは自販機のコーヒーを奢ってくれた。
次の日、大沼さんは休みだ。今日はいびられないと安心して仕事していると、講師室から野々ちゃんが早足でやってきた。
「北見さん、助けてください」
「どうしたの」
「山崎先生が…採点するはずの小論文の答案が講師ボックスに入ってないっておっしゃってて。担当は大沼さんなんですけど、今日休みなので」
「かなりお怒りです」と囁かれて、急いで山崎先生のもとへ向かって謝る。大沼さんは最近忙しそうだったから、うっかりボックスに入れるのを忘れたのかもしれない。山崎先生は目に見えてイライラしている。
「謝られても仕方ないのよ。とにかく答案持ってきてもらわないと」
「はい」
「私来週までここの校舎来ないの。だから今日もらって帰らないと採点できないわ。今だって休み時間に少し見ておこうと思ったのに」
「はい、申し訳ありません。授業が終わるまでには必ず」
「頼むわよ、まったく」
ごめんなさいと手を合わせて大沼さんのデスクを探り、過去の答案を綴じてあるファイル、今受付中の答案ボックスも確認する。ない、ない、ない。
たまりかねて、お休みの大沼さんに電話する。会社のルールで休み中の人に電話するのはよほどのことがない限り禁止されているのだが、もう仕方ない。
「はい」
「大沼さん、お休みのところ申し訳ありません。北見です」
「なに?北見、ルール知ってるよね?」
「はい。でも山崎先生用の小論の答案が講師ボックスに入ってなくて。ありそうなところは探したんですが見つからなくて、先生もかなりお怒りで」
そこまで言うと、大沼さんが息をのむ音が気配がする。沈黙。きっと、必死に考えを巡らせている。
「場所、ご存知ありませんか?」
電話の向こうで、「咲子、どうしたの?」と男性の声がする。きっと彼氏だろう。「後輩が答案の置き場所忘れちゃったみたいでぇ、私に頼ってきてるのぉ」とマイクを塞ぎながら彼氏に説明する大沼さん。忘れたのは私ではない、断じてない。声を大にして彼氏にそう言いたいが、今はそれどころではない。
「北見ちゃん!講師室カウンターにあるクリアファイルの中だよっ。いつもそうでしょ?忘れないでねっ」
大沼さんは可愛い声で言い切り、電話を切った。講師室カウンターのクリアファイルなんて、他の書類と簡単に一緒になってしまうような場所になんで。仮置きしたまま忘れたのか。とにかく答案を無事探し出し、山崎先生に平謝りして事なきを得た。
「北見さん、ありがとうございました」
「ううん。山崎先生怖かったでしょ。怖い思いさせてごめんね」
「北見さんのせいじゃないです。謝らないでください」
翌日出勤した大沼さんは、私にお礼のひとつでも言うのかと思いきや、「あんたの探し方が悪いのよ」とドスの効いた声をくれた。