かっこいい主婦
今面談しているのは、今年の国理Bクラスで…というか校舎全体で最も異色といえる経歴の持ち主、浜中さんだ。彼女は四十二歳の主婦。子育てが一段落し、昔からの夢だった薬剤師になりたいと入学してきた。去年一年間は自分で勉強していたのだが、思うように成績が上がらなかったらしい。開講して一ヶ月くらいしたときに調子を尋ねたら、「予備校に入ってからは、すごくよくわかるようになりました。やっぱり予備校の先生たちってすごいですね」と笑顔で返してくれた。
その言葉通り、彼女の成績はぐんぐん伸びている。ブランクがあるのに、やる気と根性と覚悟でここまで伸ばしてきたのは本当にすごい。きっと地頭もいいのだろう。正直、何の問題もないから面談もすぐ終わる。こちらから伝えたいのは「これまで通り頑張ってください。問題があったら教えてください」だけだ。
時間が余って、彼女も息抜きに話したいというので、少しだけ雑談をする。
「昔薬剤師になるための学校に進まなかったのは、どんな理由があったのか聞いてもいいですか」
「経済的にというのもあったし、子どもができて結婚することになって。その時は子どもを選んだんだ」
「そうでしたか」
「後悔はしてないけどね。思う存分子育てして、子どもも元気に良い子に育ってくれたと思ってるし。遅くなったけど、何歳からでもチャレンジはできるしね」
そういわれたら「そうですね」というしかないけれど、実際にそうやってチャレンジに踏み切れる人は多くない。
「確かにね。性格もあるんだろうけどね。昔は何はなくとも子どもが最優先だったけど、今は自分のことも考えられるようになったから挑戦してるの。その時その時、自分が一番やりたいこと、やらなきゃいけないことに取り組んだらこうなった感じかな」
重そうな大きなリュックをかつぎ、ゆさゆさと自習室へ向かう浜中さんの背中はかっこよかった。
でもその数日後、浜中さんがカウンターにやってきた。受験できなくなったので、予備校を辞めたいという。
「夫が事故にあってね。命に関わるほどではないんだけど、しばらく仕事ができなくなって。うち自営業だから、商売続けるなら私が代わりに仕事しないと」
「なんとか…ならないんですか。こんなに頑張ってきたのに」
「両親も年だし、任せっきりってわけにもいかなくてね。合格できたとしても、今の状況じゃ通えないし」
「…残念です、とても」
家事と育児と両立しながら、あんなに頑張っていたのに。成績も伸びていて、このままだったらきっと薬学部に合格できたはずなのに。悔しい。どうしてこんなに頑張っている人が諦めないといけないの。
「北見さん、泣かないで」
「ごめんなさい…浜中さんの方が辛いのに」
「私は大丈夫。残念だけどもう切り替えた。だてに年取ってないよ」
そう言って浜中さんは私の腕を軽く叩く。私の方が励まされるなんて。
「今まで勉強したことは絶対無駄にならない。落ち着いたらまた受験考える。そしたら、夏季講習とか冬季講習とかだけ来るかもしれない」
「待ってます。本当に、待ってますから」
浜中さんは年間の授業料を一括で払っていたので、通わない分の返金など退校の手続きをする。三十分ほどで全ての書類を書き終え、押印して、浜中さんは帰っていった。拍子抜けするほどあっけなかった。
浜中さんは国理Bクラスの生徒にもメッセージを送って退校を知らせていたらしい。浜中さんを姉のように母のように慕っていた女子生徒たちは寂しそうだ。
「きたちゅー、浜中さんってかっこいい人だったよね」
「…そうだね。もしも受験しなくても、たぶん浜中さんはずっとかっこいいよ」
「うん。私ね、浜中さんのためにも頑張る。合格して浜中さんに良い報告できるように」
浜中さんならきっと「誰かのためじゃなく自分のために頑張りなさい」と言うだろう。けれど、どんなモチベーションであれ、勉強の意欲が高まるのはいいことだ。私は何も言わずに彼女に向けて頷いた。
浜中さんのことを考えながら家にたどり着く。ポストを確認すると切手のない封筒が入っていた。開けてみると。
「滝川樹と別れろ」
定規を使って描いたようなカクカクの字で書いた紙が出てきて、ゾクリとする。気持ち悪い。誰がこんなこと。誰?まさか職場の誰か?手紙の写真を撮って樹に送ると、タクシーで飛んできてくれた。
「怖い。これ書いた人、私たちが付き合ってることも、私のマンションも部屋も知ってるってことだし」
「よつば、荷物まとめろ。しばらく俺の家に来い」
樹に説得され、当面の荷物をまとめて、待ってくれていたタクシーに乗り込む。樹はタクシーの中でもずっと手を握ってくれている。
樹の家に着いて、ようやく一息つく。
「樹」
呼びかけて腕を伸ばす。安心させてほしい。樹は抱きしめてくれる。彼の胸で息を吸い込んで「ここにいれば大丈夫」と自分に言い聞かせる。
「よつばのこと守る」
「うん」




